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第三章 少年と傭兵と魔女と(Ⅲ)

「また明日ねー」

「はい、おやすみなさい」


 エルディアと別れの挨拶を交わし、ウイルもまた、ギルド会館を後にする。

 本来ならば真っ暗な闇に包まれる時間帯。

 にも関わらず、イダンリネア王国は人間の作り出した光に満ちている。大通りは昼間のように明るく、そこを歩く国民もどこか浮足立っている。

 予定を立て終え、夕食も食べ終わった。ならば、今日という一日に別れを告げるため、我が家に帰り、支度を済ませ、最後は眠るだけだ。


(どうしよう……)


 家を飛び出した元貴族に、帰る場所などあるはずもない。

 手続き上はエヴィ家から勘当されたという扱いになっているのだが、どちらにせよ、この少年は自宅以外のどこかで夜を明かす必要がある。


(お金はあるし、宿屋かな)


 立ったまま、人の往来を眺めていても無意味だ。ウイルは寝床を定め、歩き始める。

 父のおかげで所持金には困っておらず、ならば宿を利用することでこの問題は解決する。

 満腹だ。豪勢な食事ではなかったが、空腹というスパイスのおかげでどの料理も美味しく感じられた。

 それでも疲労が消え去ったわけではなく、背負っているマジックバッグすら重く感じてしまう。


(こんな時間に、独りで……。自分が自分じゃないみたいで、やっぱり不思議)


 エヴィという姓を捨て、これからは単なる庶民として生きていく。ならば、食事のタイミングも、どこで寝るかも、全て自由だ。

 家のルール通りに規則正しく日々を過ごしてきたことと比べれば、現状はどこかふんわりとしており、少年の思考を鈍らせる。

 露店は当然ながら、多くの施設が閉店しており、道行く人々もそのほとんどが自宅を目指して歩いている。

 ゆえに、人の流れも自然と出来上がる。住宅街を目指す人々がそちらを目指すのだから、その光景は群衆による行進のようだ。

 そんな中を、ウイルは流れに逆らって歩く。目指すは宿屋であり、ギルド会館からだと必然的にそうなってしまう。

 だからなのか。そういった人間は目立つ存在だ。帰宅する人々とは真逆の方向へ歩いているだけなのだが、少年およびその少し先を歩く二人組は、異物のように自己を主張してしまう。


「お姉ちゃん。あの人、本当に病気なのかな? 肌の色、まだ変わってないんだよね?」

「症状の進行は遅いらしい。もう少し監視を続けてみないと。それよりも助手が心配」

(……え?)


 聴覚とは不思議だ。周囲の雑音から、それだけに絞って拾うことが出来てしまう。ウイルもまさに今それを体験し、その結果、驚きと共に唖然とする。

 前方を、少年と同じ方角へ歩いている二人の女。後ろ姿しか見えないが、それでもわかることはある。

 右の女性は背が高く、それこそエルディアに匹敵しそうなほどの長身だ。黒色の髪は彼女より少しだけ長いが、首付近で横一線に揃っている。フード付きのローブはグレー一色の素気ないものだが、太めのベルトを締めることで体のラインを見せており、スマートに着飾っている。

 対照的に、左の女の子はウイルよりは年上のようだが大人にはほど遠い。黒いロングヘアーは左耳の後方で束ねられており、俗に言うサイドテールという髪型だ。傭兵なのか、革製の軽鎧を赤い服の上に重ね着している。一方、ズボンは非常に短く、細い脚がほぼ露出している。

 二人は親子なのか、年の離れた姉妹なのか、はたまた友人なのか。後ろから見てるだけでは判断出来ない。手を繋いでいるため仲は良いのだろうが、その程度の推測が限界だ。

 だが、そんなことはどうでもよい。重要なことは会話の中身に他ならない。


(病気……? 色が変わる……? この人達、母様の病気について話してる?)


 断言は出来ないが、その可能性は高い。どうやら何かを知っており、監視という不気味な単語まで口にした。

 つまりは、この件に足を突っ込んでいる。そう思わずにはいられない。

 変色病。三百年前にイダンリネア王国を襲った謎の流行り病。女性だけを襲い、高熱、失明、肌の変色とステップを踏み、最終的には死に追いやる。

 謎に包まれた、そして情報が残されていないこの病気に、ウイルの母親は感染してしまった。

 この事実は口止めされており、知っている者は非常に限られる。

 エヴィ家とメイド二人。

 ウイル。

 医者のライノル・ドクトゥル。

 そして、彼の助手だ。

 ライノルは助手と共に変色病について調べ上げ、成果をエヴィ家にもたらす。

 その結果、ウイルは薬を求め、迷いの森を目指す運びとなったのだが、本件と関わりのある人物に、眼前の二人は含まれていない。

 だが、ウイルは聞き逃さなかった。

 助手が心配、と。

 意味まではわからないが、この助手がライノルの関係者である可能性は高く、だからこそ、前を歩く女性二人が変色病について知っているのだと推測すると、少年としても矛盾は感じない。

 監視という物騒な単語には眉をひそめるが、ウイルは歩調を早め、すっと二人に追いつく。


「あ、あのう……。変色病について、何かご存じなんですか?」


 勇気を出して、問いかける。何を知っているのか、何をしようとしているのか、息子として確認せざるをえない。

 冷静に考えれば、この行為は非常に愚かで危険なのだが、そしてそのことを身をもって知ることになるのだが、十二歳の子供にはそこまでわかるはずもなかった。


「へ~、まじぃ? お姉ちゃん、こいつって……」

「髪の色が一緒。汚いけど貴族の子供に見えなくもない。手間が省けた……かも」


 背の低い女の子が驚きながら、そして、長身の女性は瞳を閉じたまま、足を止め、ゆっくりと振り返る。

 そこには何も知らぬ子供、ウイルが立っており、三人は向き合いながらも一瞬固まる。


「あんた、名前は?」

「あ、えっと、ウイルです。教えてください。あなた達はなぜ、変色病のことを知っているんですか?」


 高圧的な女の子に怯むことなく、少年は食い下がる。

 帰宅者で溢れる大通りに、ポツンと立ち止まる三者。誰の目から見ても目立つ存在だ。

 それを嫌ったのか、二人組は顔を見合わせた後、返答もせずに歩き始める。


「あ、あの……」

「ついて来なさい。ここじゃ目立つから」


 うろたえるウイルとは対照的に、女の子は振り向きもせずに言い放つ。

 こうなってしまっては従う他ない。少年は情報を得るため、二人の後を追いかける。

 路地裏への移動は三人をあっという間に人混みから遠ざけ、その後の急停止は話し合いの再開を意味する。


「ここでいいでしょ。ね、お姉ちゃん」

「絵に描いたような裏道。まあ、周囲には誰もいないようだし、ネイに任せる。私は……、これで警戒」

「あぁん、頼もしい~。でも、いいの? 魔眼披露しちゃって」

「うん。減るもんじゃないし」


 人で賑わう大通りから一歩脇道に踏み込めば、そこは薄気味悪い夜道。街灯もなく、通行人も見当たらない。道幅は狭くないが、普段は誰も通らないのか、もしくは日中だけ活用されているのか、どちらにせよ、夜間の利用は想定されていないのではと疑いたくなるほど、三人は暗闇に覆われている。

 それでも、月明かりや周囲の建物からこぼれる光によって、それぞれの顔程度なら判別可能だ。

 だからこそ、ウイルは驚嘆の声を漏らす。


「そ……、その、目……」


 なぜ、先ほどからずっと瞳を閉じていたのか。不思議だったが追及するつもりもなかった。

 母がそうなってしまったように、この人も経緯は異なるだろうが視力を失ったのだろう、そう思っていた。

 だが、真実は異なる。


「まぁ、知ってるよね? お姉ちゃんの、この眼。あんた達、王国民は大層嫌ってるみたいだけど、私からしたら無知なあんた達こそ気持ち悪い。吐き気さえする」


 姉と妹。今までのやり取りからウイルも二人の関係については把握済みだが、この状況には言葉を失う。

 長身の女性が目を見開くとそこには当然眼球があるのだが、彼女のそれは普通ではなかった。

 瞳の内側に存在する赤色の線で描かれた円。白い眼球部分ではなく、瞳孔を内包する茶色の虹彩の外周付近に、赤線の円がぐるっと走っている。

 魔眼だ。魔女だけが持ちうる特異な瞳であり、人間か魔女かを識別出来る唯一の外見的差異がこれになる。

 ウイルもこの程度のことはアーカム学校で習っていた。教科書に絵で描かれていたため、イメージも掴めていた。それでも実物は見たことがなく、今は驚きを隠せない。

 魔女は魔物だ。この国の常識であり、人間の言葉を話すが、それはこちら側を油断させるための擬態でしかなく、知っている単語をつらつらと一方的に発するだけの拙い真似事ゆえ、会話は成り立たないと教わってきた。

 だが、白紙大典との邂逅がその考えを改めさせ、実物との出会いが現実感をより一層強めてくれる。

 魔女は人間だ。もはやそのことを疑いはせず、同時にウイルの頭の中で二つの謎が湧き上がる。

 なぜ、イダンリネア王国は魔女を魔物だと吹聴し続けてきたのか?

 なぜ、魔女が母の病気に関わっているのか?

 どちらもわからない。わかるはずがない。

 だが、二つ目については相手が目の前にいてくれるのだから、問いただすチャンスだ。

 その前に、率直な第一印象を伝えることから始める。


「それが、魔眼……?」

「ええ、そうよ。どう? 不気味?」

「いえ、とても……、綺麗です」


 これがウイルの純粋な感想だ。彼女自身の美しさに引っ張られているのかもしれないが、十二歳の少年にはその両眼がとても魅力的に映る。

 魔眼という見慣れない瞳。

 エルディアに匹敵するほどの長身。

 闇に溶け込みそうな灰色のローブ。

 胸の膨らみも含めた体のライン。

 目を見張るほどの美しさだ。隣の少女と比べれば、表情の変化は乏しいものの、そんなことは減点材料にならぬほど、幻想的な雰囲気をまとっている。

 妹の眼球が魔眼ではなく普通ということも、姉の魅力を引き立てているのかもしれない。姉妹でなぜ差異があるのか、そこまでは少年にもわからないが、今は長身の女性に見惚れてしまう。


「はん! 思ってもないこと言って何がしたいの⁉ さては、身の危険を感じて逃げ出す算段でも……、え、お姉ちゃん⁉」


 女の子が鼻で笑い、少年を罵倒し始めるも、姉の変化にはさらなる大声をあげてしまう。顔を赤らめ、乙女のように恥じらっているからだ。


「そんなこと言われたの初めて……」

「ま、惑わされないで! このチビ、親の看病もしないでほっつきまわってるんだよ? 絶対おかしいって!」


 本気で照れている姉と、全力で慌てている妹。

 そんな二人のやり取りを眺めながら、ウイルは急激に冷静さを取り戻す。


「親の……看病? やっぱり、母様の病気を……、いや、僕のことも知っている、と。あなた達は何者ですか?」

「う、うっさい! 今はそれどころじゃ……」

「私達はあの人……、君のお母さんを監視している」

「お、お姉ちゃん⁉」


 まだ頬は少し赤いが、長身の魔女が受け答えを開始する。

 対照的に、妹は狼狽したままだ。


「エヴィ家の一人息子の名前がウイル。つまり、君のこと。私の名前はサタリーナ。この子は妹のネイ」

「ば、ばらしちゃうの⁉」

「うん。名前くらい別に。禁止されてるわけでもないし」


 姉の名はサタリーナ。

 小さな少女がネイ。小さいと言っても、ウイルよりはわずかに長身だ。

 簡単な自己紹介が済んだのだから、ここからは互いに情報を持ち出しながら腹の探り合いを開始する。


「なぜ、魔女のあなたが……、いや、魔女? 魔女……、そういうこと? す、すみません。ちょっとだけ……」


 ウイルは発言を自ら遮り、俯くように考え込む。


(白紙大典が言っていた。魔女の方から接触してくるかも、と。この人達がそうなの? だとしたら全部話しちゃった方が? いや、聞くべきことを聞いてからだ)


 ハクアに会うため、迷いの森を目指さなければならない。だが、魔女の方から現れてくれた。相手は違うが、この状況はうれしい誤算に他ならない。


「こっちも聞きたいことがあるんだけど。あんた、なんで母親ほっぽって出歩いてるの? 家にも帰らず」


 黒色のサイドポニーを揺らしながら、ネイが刺々しく問いただす。この疑問はごく当たり前だ。事情を知らない者なら、奇妙に思えてしまう。


「あ、僕は……、家を出ました。傭兵になるために……」

「ふーん。意味がわからないんだけど」

「貴族はそのままだと傭兵になれないんです、そういう決まりで……。だから、僕は地位を手放したんです。あの家には、もう帰れません」


 過去のとある事件がきっかけで、イダンリネア王国は貴族以上にある制限を課した。その縛りにより、貴族は一部を除いてギルド会館に足を踏み入れることすら禁止されている。

 傭兵になるためには、エヴィ家から除外される必要があり、ウイルはそうすることを望んだ。


「君はなぜ傭兵に?」

「母様……、母の病を治すための……、薬を手に入れるためです」


 サタリーナの問いに、少年は力を込めて返答する。

 嘘ではないが本当でもない。真の理由は学校を退学するため。つまりは、いじめから逃げるためだ。そのことに気づいていながらも、自分に言い聞かせるように建前を前面に押し出す。


「薬? 話が全然見えないんだけど……。というか、あんたって呪恨病について何か知ってるの?」

「じゅこん……? 変色病ではなくて?」


 ネイの口から飛び出した単語に、少年は首を傾げる。医者からは変色病と聞いており、肌の色が変わるという理由からそう名付けられたと教わった。


「正しくは呪恨病。まぁ、そんなことはどうでもいいわ。薬がどこにあるのか知ってるの?」

「はい。あ、いえ、作ってもらえるらしいとしか……」


 その瞬間、二人組の態度がスッと変わる。ピリッとした圧力が周囲に漂い、空気の質が音もなく入れ替わる。


「お姉ちゃん」

「まさかの非常事態。魔眼で周囲を警戒してたのに。ううん、今だって姿は見当たらない」


 妹は露出した両脚をがに股のように開き、姿勢を低く下げながら短剣を抜刀する。臨戦態勢へ移行だ。

 姉は姿勢を正したままが、特異な瞳できょろきょろと何かを探し続ける。索敵は彼女の得意分野なのだが、今回に関しては何も見つけらない。


「きゅ、急にどうしたんですか……?」


 ウイルだけが状況を飲み込めない。正確には、眼前の二人もそれは同様なのだが、第三者の接近にすら気づけていない点で、はるかに劣る。


「さては……、このチビデブ! 私達をはめたわね!」

「ネイ、落ち着いて。今はとにかく集中」

「う、うん……」


 姉妹だけが自分達の境遇を理解し、警戒心を高めていく。

 ここはイダンリネア王国の領土内だ。安全ゆえに、戦う力のない国民でさえ、日々をやすらかに過ごせている。

 だからこそ、ウイルは理解できない。二人が何に対しうろたえているのか、微塵も予想出来ずにいる。


「いったい……?」


 少年の問いかけは独り言に終わる。二人はそれどころではなく、返答など後回しだからだ。


「お姉ちゃん、これ……。間違いなく、魔物だよね?」

「ええ。でも、姿が見えない。すぐ近くにいるはずなのに……。気配はしないけど、鋭い殺気だけが、私達を捕捉してる」


 ネイとサタリーナは気づけている。

 魔物がどこかに潜んでおり、自分達を狙っている、と。

 本来ならばありえない。夜中とは言え、ここは街中だ。外からの侵入は門番の監視により起こりえず、壁を越えられたのなら話は別だが、それなら被害はそこで発生するはずだ。

 三人が今いる場所は領土のやや内側に位置し、そもそもの前提として、なぜ魔女の二人組が狙われるのか、本人達は誰よりもその謎に直面しており、それゆえに困惑している。

 魔物の標的は彼女らだ。高圧的な殺気が二人にだけ向けられており、居合わせたウイルはそれを感知できずにいる。

 指向性が高く、純度の高い殺意。それがこの場を支配する正体なのだが、では、発生源はどこなのか、それがわからないため、焦らずにはいられない。


(この魔物、やばい。もしかして、これがハクア様の言っていた? だとしたら……)


 姉は額の汗を拭うことさえ出来ずに硬直している。相手の正体はわからないが、可能性の一つには気づく。

 もし、それが正解だった場合、どうすればよいのか。それについては事前に忠告をもらっているため、愚直に実行したいのだが、場所の特定が出来ないことにはチャンスを見いだせない。


「ここにいるのは私とお姉ちゃんと……、こいつだけ。なら、もうやるしかないよ」


 鋭い眼光をウイルに向けながら、ネイが正当防衛を訴えるように、姉へ許可を求める。

 つまりは、この少年は人間に化けた魔物だと主張したいのだ。消去法でいけばその理屈は通る。


(ち、違う……。これは炎の魔物……。くぅ、ハクア様、恨みますよ!)


 そう。サタリーナだけは真実に辿り着けている。だが、次の一手が見いだせず、寒気すらする殺意に縛られ、硬直中だ。


「違うかもだから、命まではとらないであげる」


 少女は小さな体にため込んだエネルギーを爆発させ、次の瞬間には標的への移動を完了させる。


「え?」

「ネ、ネイ!」


 ウイルは反応すら出来ない。気づけば、そこから二人組の片割れがいなくなり、眼下で今まさに左腕を打ち込まれようとしているのだが、その認識すら不可能だ。


「ぐ、あ……」


 ドスンと腹部を殴られ、少年は強烈な痛みに苛まれながら崩れ落ちる。

 内臓の破裂を疑うほどの激痛だ。声すら出せず、両腕で患部を抑えながら必死の形相で悶え苦しむ。


「なんで消えないの⁉ やっぱり違った⁉」


 殴り終えると同時に一歩下がり、ネイは状況が改善されなかったことに戸惑う。

 二人に向けられた殺意。それは未だに継続中だ。つまりは、犯人はウイルではなかったことを意味する。


(この子じゃないことはわかっていた。じゃあ、どこ? わからない……。いや、まさか……、まさか……⁉)


 消去法で導き出す。死角はその方角にしかないのだから、もっと早く気付くべきだった。

 サタリーナはおかっぱ頭を揺らしながら、ぐっと頭上を見上げる。

 その方向には吸い込まれるような夜空が広がるだけだ。

 そのはずだった。

 魔眼はその瞬間を捉えてみせた。視界の隅へ逃げていく、赤色の残像を。

 ふわっとした尻尾のようにも見えたが、あまりに一瞬ゆえ、そう思い込んでしまっただけなのかもしれない。


(いや……、いた! そして今は……)

「お、お姉ちゃん! 後ろ!」


 殺意の発生個所がやっとわかった。そして、妹の発言から答え合わせも完了だ。

 サタリーナの背後で、ゆらゆらと燃える真っ赤な炎。それは人間と同程度のサイズだが、ネイからは姉に隠れて全容を捉えられない。

 だが、そこにいる。それは二人にもわかっている。


(ふ、振り向けない……)


 サタリーナは悟る。不意に動こうものなら、背後の何かに先手を取られる、と。

 ここは薄暗い裏道だが、魔物の登場によって周囲が明るく照らされた。大きな火の玉を持ち運んでいるのか、それ自体がそうなのか。正解はわからずとも、彼女達と石造りの道や壁はその輪郭をはっきりとさせる。


「ぐ……、うぅ」


 沈黙は小さな声によって破られる。うつ伏せで倒れこみ、腹部を抑えているウイルだが、涎を垂らしながら今なお悶絶中だ。

 命に別状はない。だが、この痛みは前日の骨折を上回っている。耐え続けることなど不可能ゆえ、意識が朦朧とし始めた。

 そんな中、硬い地面の上でもがくように顔だけを彼女らに向ける。

 自分を殴った小さな少女。

 その向こうには、長身の魔女。

 そして、最後尾には燃えたぎる光源。

 三人を、正しくは二人と一体を視認したタイミングで、ウイルは力なくまぶたを閉じる。限界だ。意識は途絶え、眠るように脱力する。


「これ以上、関わるなら……、殺すヨ」


 少年の気絶を合図に、新たな声がこの場を駆ける。ささやくような、つぶやくようなそれは、間違いなく女の声質だ。


「走って!」

「う、うん!」


 背筋が凍り付いたが、それでもなお、サタリーナは己を鼓舞するように駆け出す。

 声の正体はもちろん魔物だ。人間の言葉を話す個体など見たことも聞いたこともないが、今はそんなことを気にしている状況ではない。

 ネイと共に、全力で逃げることを選択する。

 そのための猶予が、理由は不明だが魔物から提示されたのだから、大人しく従う他ない。

 背後のそれから逃げるため、二人は全力疾走と驚異的な跳躍でこの場からあっという間に立ち去る。

 一方、残されたそれは邪魔者に見向きもせず、前方の人間だけをじっと見つめる。

 倒れたまま、ピクリとも動かない子供。ただただ情けない姿だが、この魔物にとっては舞台上の演者であり、この光景も大事な演目の一つだ。


「楽しませてネ。今は待っててあげるかラ」


 その言葉を最後に、赤い炎もまた、燃え尽きるようにその場からいなくなる。

 訪れた静寂は、もはや誰にも邪魔されない。

 少年は指一つ動かすことが出来ず、今は死体のように倒れている。

 誰も通らない裏道の宿命なのか、足音一つ聞こえない。

 魔女とその妹が去り、謎の魔物もいなくなったのだから、ウイルは今日という一日を乗り切れたと言えよう。

 エヴィの名を捨て、まだたったの二日だ。目の回るような事件が続いたが、傭兵なのだからこれが普通なのかもしれない。

 少年は傭兵だ。等級一の駆け出しだが、明日はイダンリネア王国を飛び出し、生まれて初めて遠征する。

 母の病を治すため。

 そのためには乗り越える壁があまりに多すぎる。

 それでも一つ一つ突破するしかない。先ずは昇級のため、ルルーブ森林を目指すことから始める。

 意識を失ったことで痛みから解放されたからか、ウイルは小さく寝息をたてる。無情なほどにベッドは硬いが、贅沢は言えない。宿屋にたどり着けず、無賃の一泊なのだから、言い換えれば単なる野宿に他ならない。

 疲労は限界を超えていた。ゆえに過程はどうあれ、明朝までは起きることはないだろう。

 二人組がこの国で何をしているのか?

 突如として割り込んできた魔物の目的は?

 わからないことだらけだが、そんなことは明日考えればよい。

 白紙大典と出会い、エルディアに助けられ、少年はついに手に入れた。

 傭兵としての人生を。

 そして、過酷な日々を。

 ウイル・ヴィエン。十二歳。

 出発は、明日だ。

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