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第一章 絶望の淵にてあなたと出会う(Ⅰ)

 この物語は、僕が道を踏み外す軌跡だ。

 正常から異常へ。

 普通から異端へ。

 守られる側から守る側へ。

 どちらが正しいかなんて、人それぞれだろう。少なくとも僕はそう思っているし、そう思わないと前へ進めない。

 己を呪うことはもう止めた。

 間違っていたと気づけたのだから、別の道を選択する。

 その先に何が待っているのか。

 今はわからない。

 わかるはずもない。

 だけど進むしかない。

 もう選んでしまったのだから。

 その選択肢しか、見つけられなかったのだから。

 全てを投げだし、全てから逃げるように、僕は新たな一歩を踏み出す。

 今までの日常は思い出の中へ。

 地獄のような時間は記憶の彼方へ。

 ここは線の上だ。越えたら最後、二度と戻れない。

 今なら引き返せる?

 もう遅い。右足は既に向こう側へ踏み出している。

 僕は歩き出す。

 生きるために。

 僕は駆ける。

 逃げるために。

 僕は手を差し伸べる。

 守るために。

 これは僕の物語。

 あなたと会えた、僕の物語。

 君と出会えた、僕の物語。

 皆と巡り会えた、僕の物語。

 愛を知った、僕達の物語。



 ◆



 走る。

 少年は苦痛に顔を歪めながら、よろめくように走り続ける。


(そ、そんな……、何も出来ないなんて……)


 草原を撫でる山風が、少年の足音を洗い流す。

 これは一人ぼっちの徒競走ではない。生きるか死ぬかの瀬戸際だ。


「ハッ! ハッ! ハッ!」


 決して速くはない全力疾走。それでもスタミナはすり減り、呼吸はどんどん荒くなる。

 痛い。

 痛いどころではない。

 左腕はあっさりと折られてしまった。大きく腫れあがり、出血も酷い。

 ゆえに右手だけを精一杯前後させ、体を前へ前へ進ませる。

 想定外だ。

 否、見通しが甘すぎた。ただそれだけのことだ。

 少年は逃げる。薄い灰色の髪は綺麗に整っていた。今は右へ左へ、激しく暴れている。

 右手が握る短剣。玩具でもなければ飾りでもない。魔物を倒すための武器なのだが、刃こぼれ一つしておらず、それどころか汚れてすらいない。つまりは新品だ。まだ一度も使われていない。

 少年の名はウイル。十二歳の小さな子供だ。

 年齢の割には背が低く、一方で体格はふっくらと丸みを帯びている。小奇麗な衣服には見た目通り高級生地が使われており、裕福な家庭の子だと一目瞭然だ。


(痛い! 痛い!)


 折れた左腕からの鈍痛に耐えられない。気の弱そうな顔は苦痛に歪んでおり、左目の下にある泣きぼくろが、涙でそっと濡れてしまう。

 両脚も既に限界だ。たいした距離を走ったわけではないのだが、全力疾走を継続している以上、無理もない。

 心臓に至っては破裂寸前だ。その脈動は過去最大に達しており、呼吸音が聞こえぬほどにやかましい。

 それでも走らなければならない。立ち止まったら最後、背後から迫る小柄な魔物に追いつかれ、瞬く間に殺されてしまう。

 草原ウサギ。この地域に生息する、文字通りうさぎの魔物だ。体毛は茶色く、長い耳やクリっとした瞳はまさしくうさぎのそれだ。

 一方で似ていない部位も存在する。鼻は大きく発達しており、何よりサイズ感が小動物と呼ぶには少々大きい。全長、この場合うさぎの耳が少年の腰付近にまで達している。

 小さくはないこの魔物が、自分よりも大きな人間を狩り殺そうとしている。鋭い眼光は獲物を捉え、後ろ足だけでぴょんぴょんと跳ねながらその機会をうかがっている。

 草原ウサギは移動に前足を使わない。本来ならば四本足の利用が最適なはずだが、魔物はあくまで魔物であり、うさぎに類似しているものの生き物としては完全に別種だ。

 ウイルはひ弱な子供にも関わらず、かろうじて生き延びられている。草原ウサギが鈍足なため、首の皮一枚繋がっている状況だ。


(何が魔法だ! なんの役にも立たないじゃないか!)


 心の中で愚痴りながら、一生懸命ひた走る。

 追い込まれた状況で、無力な自分を棚に上げて原因を他者のせいにする。単なる八つ当たりだがもはやそうするしかなく、この行為に意味などなかろうと焦る気持ちがそうさせてしまった。

 恐怖。

 絶望。

 失望。

 苛立ち。

 負の感情が少年を蝕む。

 この少年は頭の回転だけは人一倍速い。足がもつれ、体勢を大きく崩した瞬間、全てを察し、己を悔やむ。

 この状況を作り出した要因は何だ?

 草原ウサギから逃げきれない自分。

 勝てなかった自分。

 そもそも勝てるなどと思い上がってしまった自分。

 そう、ウイル本人だ。十二歳の子供だから仕方ない、などという甘さはこの世界では通用せず、魔物相手に後れをとったのなら、その先には死以外ありえない。

 一瞬の浮遊の後、前のめりの状態で地面に叩きつけられる。受け身もとれずに転んでしまった結果だ。

 もはや声も出ない。心臓は焼き切れ、両脚は痙攣するだけで微塵も動いてはくれない。

 打ち付けた顔面、激しく擦れた右腕と胸部、じん帯が切れかかっている足。

 体中、痛いに決まっている。

 鼻血の生暖かさが気持ち悪く、口の中も鉄の味でいっぱいだ。

 もっとも、そんなことはどうでもよい。最悪の事態はこれから訪れるのだから。

 近づく小さな足音。

 追いつかれてしまった。うさぎと呼ぶには二回り以上は大きなそれが、人間を攻撃可能距離に捉える。

 草原ウサギの動きはシンプルだ。飛び跳ね、体を捻った後に自慢の後ろ足で蹴り飛ばす。

 たったこれだけの動作だが、その威力をウイルは体験済みだ。受け止めた左腕はあっさりとへし折られ、激しい痛みに苛まれた。

 見た目に騙されてはならない。魔物はその内側に十分な破壊力を秘めている。人間をこの世界から駆逐するための存在なのだから、そうでなければおかしい。


(意気揚々と飛び出して、これか……)


 己を罵ることしか出来ない。

 一度は死ぬことを選ぶも、その直後に訪れた転機を言い訳に取り下げた。

 そんな自分がただただ惨めで、涙すらこぼれ始める。

 目の前には地面しかなく、鼻からの出血が理由で土の匂いすらわからない。ゆらゆらと歪む茶色い世界を眺めながら、少年はついに諦める。

 逃げることを。

 生きることを。

 そして、守ることを。

 仕方がない。力という名の資格がなかったのだから、夢など叶えられるはずがない。


(ごめんなさい……)


 その謝罪は、両親に向けての別れの言葉だ。

 情けないほどの無駄死に。この事実を受け止めながら、ウイルはあっけなく殺される。

 そのはずだった。


「君ー、大丈夫ー?」


 澄んだ声と突風のような圧力がこの場を駆ける。

 だからなのか、魔物の追撃は未だ成されず、されど気配は健在だ。

 わからない。

 何が起きているのか、理解が追い付かない。

 ただ一つ、はっきりしていることは、誰かがすぐそばに立っているということだ。


「や、やめてよー。こんな小さな子の死体なんて見たくないんだけど……。い、生きてるよね?」


 はい。そう返答したいが声が出ない。地面に伏している状況下で出来る仕草は、余力を振り絞って顔をゆっくりと左に向けること程度だ。


「お、よかったよかった。元気そう……には見えないけど、まぁ、無事でなによりだ」


 溢れ出る涙が視界を歪ませるが、それでもその顔だけはきちんと認識出来た。

 満面の笑み。

 その女性は茶色い髪を揺らしながら、中腰の姿勢へ移行する。そのまま前かがみになり、ウイルの顔をやさしく覗き込む。

 この一連の動作中も、そしてそれ以前から、魔物は突然の部外者に攻撃を続けている。

 ぴょんと跳ねては後ろ蹴り。

 着地と共に、再度飛び蹴り。

 だが、通用しない。痛そうな素振りすら見せない。

 この女性は上半身に軽鎧を着用している。灰色の胸部用アーマーが首元からみぞおちまでを守っており、両腕の肘から手首にかけても同種の腕用防具が備わっている。

 黒い服の上からそれを身に着ける一方、腰から下は単なるロングスカートで済ませている。褐色のそれは膝下までと長く、左足付近の長い切れ込みは、彼女の動きを阻害しないための工夫だ。


「立てるー?」


 その問いかけに、ウイルはまたも沈黙で返す。

 立てる立てない以前に、呼吸が整っておらず、まだ喋ることすら出来ない。涙を浮かべながら、情けない表情を向けることが精一杯だ。

 実はこの時、少年の瞳には白い生地が映り込んでいた。長いスカートを履いていようと、折らずにかがんでしまえば、中身は丸見えになってしまう。

 ウイルとは比較にならないほど、膨れ上がった太もも。その付け根に視線を向ければ、合流地点に下着が出現する。

 だが、この時は瀕死だったゆえ、見てしまったという事実を黙って受け入れながら、それ以上の感情を抱くことはなかった。


「あぁ、これが邪魔か」


 その女性は立ち上がる。背中には鞄以外に太い剣がぶら下がっているのだが、その重みを感じさせない機敏さで直立へ移行する。

 傭兵だ。今のウイルにもその程度のことはわかる。

 未だ執拗に攻撃を続ける草原ウサギ。なぜこの人間を殺せないのかわかっておらず、それを解明しうるだけの知能は持ち合わせていない以上、本能の赴くまま、いつまでも蹴り続ける。


「とぉ」


 右手の拳を握り、それで殴るのではなく叩きつける。トンカチで杭を打つように、魔物の頭部にドゴンと振り下ろす。

 草原ウサギは地面にぶつかり、ウイルのように動かなくなる。邪魔者排除はこれにて終了だ。


「君の名前は? あ、私はエルディア。知り合いからはエルさんって呼ばれることが多いかなー」


 魔物を倒した余韻に浸ることなく、立ったまま、そして微笑みながら女は語りかける。

 エルディア・リンゼー。通りすがりの単なる傭兵。魔物を狩った帰り道にこの場に出くわしただけなのだが、ウイルの命はそのおかげで助かった。

 この草原は、西からの吹きおろし風と東からの塩辛い風が交互に吹く。そのどちらかが悪さをして、エルディアの茶色い髪がぱっと舞ってしまう。

 彼女の髪型は俗に言うミディアムボブだ。肩には届かず、終わり部分が自然と内側へ曲がっている。ウイルの前髪ほどではないが、整った長さだ。


「ウイル・エ……、ウイル・ヴィエン、です……」


 消え去りそうな声で、そしてやっとの思いで、少年も己の名前を口にする。未だギリギリの状態だが、魔物の脅威が去ったのなら命に別状はない。体力は枯れ果て、立つことすら出来ないものの、痛みに耐えられるのなら意識は保てる。


「ウイル君ね、よろしくー。で、お姉さんにして欲しいことってある? というか、こんなところで何してたの? そうやって寝そべってるってことは、地質調査か! あ、違うかー」


 傭兵特有の冗談を交えながら、エルディアは仁王立ちのまま笑う。魔物の排除および少年の救出に成功したのだから、彼女としても一安心だ。


「傭兵に……なりたくて……」


 ウイルの目的は魔物退治だ。指定されたそれを規定数討伐することで、傭兵という職業に就くことが出来る。

 傭兵。魔物という驚異を討伐し、それで生計を立てる荒くれ者達。れっきとした仕事であり、子供にも人気はあるのだが、なり手は非常に少ない。

 当然だろう。人間が魔物に勝てるはずもなく、一度は夢見た子供達も現実を知るにつれ、皆諦めてしまう。

 もっとも、それこそが最善の選択だ。立ち向かおうとも早死にするだけなのだから、安全な場所でまっとうな人生を歩めばよい。


「あー、試験でこいつらを倒しに来たってことね。そっかー、返り討ちにあっちゃったか」

「は……い……」


 エルディアに悪気はない。把握出来た事実を口にしただけなのだが、ウイルは己の不甲斐なさを再認識し、さらに大粒の涙をこぼす。


「確か……、ノルマは三体だっけ? そこのやっちゃっていいよ」

(……え?)


 傭兵の言葉を、少年は即座に理解出来なかった。

 冷静に考えれば簡単なことだ。

 彼女の足元に転がる魔物。実はまだ生きており、小さく震えながらも必死に立ち上がろうとしている。

 それにとどめを刺せば、ウイルの試験は一歩前進だ。

 その機会をエルディアが与えてくれた。


(この子はどっちかなー)


 傭兵は見守る。同時に考える。

 この少年はどちら側の人間なのだろう、と。


(こんな……、倒しちゃっても、いいの? 卑怯じゃ……ない?)


 ウイルに課せられた試験。それは、草原ウサギ三体の討伐だ。それ以上でもそれ以下でもなく、期間や方法までは問われていない。

 つまりは、今回のような漁夫の利であっても全く問題ない。


「う……、く……」


 少年は痛みやだるさに耐えながら、ゆっくりと体を起こす。左腕は使えず、右手だけで地面を押し込み、座るように上体を持ち上げたが、ここまでが限界だ。

 左前方にはエルディア。

 左手側に瀕死の魔物。

 そして、ウイル。

 緑色と茶色の草原に、二人と一体がポツンと集まっている。

 少年は確認する。

 草原ウサギは自分以上に瀕死だ。たった一回、素手で頭を殴られただけなのだが、その一撃は命を奪えるほどの威力だったのだろう。

 それでも、何かに突き動かされるように、起き上がろうとしている。

 その姿が自身と重なってしまう。そう自覚してしまったら最後、もはや何も出来ない。

 周囲に静寂が訪れる。聞こえる音はそよ風の音色くらいだ。

 見守るエルディア。

 魔物を見つめるウイル。


(この子はダメかー。まぁ、仕方ない)


 傭兵がそう結論づけた矢先のことだ。

 少年は地面に落ちていた短剣を逆手のまま手早く拾いあげ、うさぎの胴体にグッと突き入れる。その一連の動作に迷いはなく、先ほどは躊躇してしまったが、この世の理を身をもって理解したのだから、当然のように前へ進む。

 この世界のルールは弱肉強食だ。

 同時に、狩るか狩られるか、のどちらかだ。

 魔物に殺されかけたことで、少年は自分の立ち位置を冷静に受け止めることが出来た。

 だから殺す。とどめを刺す。

 そのための機会を与えられたのだから、有効活用する。

 卑怯かもしれないが構わない。傭兵になるためには、草原ウサギを三体狩る必要がある。

 これはそのための一歩だ。

 もうためらわない。

 同情もしない。

 生きていくためには、そうするしかないのだから。


(おおー。やっちゃった)


 エルディアは驚く。このような状況において、傭兵志願者の行動は次の二つだ。

 情けをかけて、もしくは殺すという行為に臆して、とどめを刺せない。

 何かを原動力に、殺しきる。

 通常は、このどちらかに当てはまる。

 魔物と言えども、目の前のそれは大きなうさぎだ。見た目だけならかわいらしく、ましてや身動きが取れない状態。それに刃を突き刺せる者は多くない。

 もし、実行に移せるとしたら、復讐に身を委ねるか、経験者か、残虐な殺人鬼のどれかだ。

 ウイルがどれに当てはまるのか、彼女にはわからない。

 実はどれも不正解だ。

 生きていくために。

 そして、守るために。

 自身の置かれた状況を冷静に分析した上で、唯一の選択肢を選び取っただけだ。


「ふ~……」


 大きく息を吐きながら、ウイルはその刃を引き抜く。皮や肉、内臓を貫く手ごたえを右手が覚えてしまったが、後悔はない。これから先、数え切れぬほど繰り返す行為だ。

 そういう生き方を掴み取ってしまったのだから、今は静かに覚悟を決める。

 二人の人間に見守られながら、魔物は静かに息を引き取る。一つの命が散り、一つの命が生き残る。ただそれだけのことだ。


「よーし、もう二体! 探さないとねー」

「……え?」


 無理に決まっている。そう言い返したいが、言葉に詰まる。


「あー、でも……。その前に傷の手当かな? というか、君って戦えないんだよね? う~ん……」


 傭兵が一人で悩みだす。少年に問いかけておきながら、意見を聞かずズンズン突き進む。


「とりあえず戻ろう。門に回復魔法使える人がいるから、治してもらって……。先ずはそれからだねー」

「あ、はい……」


 ギリギリの少年を見かね、彼女は方針を修正する。左腕の骨折と全身の擦り傷。当然と言えば当然の方針転換だ。

 とは言え、ここからの移動すらも今は難しい。もう少し休めば可能かもしれないが、歩くことはおろか立ち上がることすら出来ないからだ。それほどまでに疲弊しており、なにより全身から届く痛みが意識を朦朧とさせる。


「さーて、帰りましょー」


 エルディアは威勢よく声をあげ、帰り道の方へ向き直す。

 対照的に、ウイルはひとまず短剣をしまい始める。短い刃は赤く汚れ、命を奪ったという事実がこういった形で再度のしかかる。

 だが、怯まない。そのまま左腰の鞘に納め、立ち上がることを試みる。

 ぐらり。その試みは失敗だ。中腰には移行できたが、足に力が入らず踏み込めないのだから、体勢を崩して横へ倒れ込む。


「おっと。ちょっと待ってね」


 差し伸べられた手が、そっと受け止めてくれる。鍛えられているにも関わらず、柔らかく、なにより温かい。


「おんぶしてあげる。そしたらダッシュで一瞬だ」


 エルディアは笑顔を向けながら、その準備をせっせと進める。

 背中には鞘に収まった両手用の剣。そしてもう一つ、その上に飴色の鞄。それらがそこにあっては、いかに子供と言えども背負えない。重量オーバーなのではなく、満員だ。

 ひょいと鞄を左手に持ち替え、次いで鞘を背面から体の前面にずらす。そして鞄も抱っこのようにぶら下げれば完了だ。


「ほい、どうぞ」

「あ……」


 少年の目の前で、屈んで背中を向ける。

 彼女のスチールアーマーは背中までは守っておらず、魔物の皮がベルトのように二本、それぞれの肩から脇に沿ってぐるっとかかっているだけだ。ゆえに黒い服とそれらだけのシンプルな背中だが、少年にはどこまでも頼もしく映る。


「……ありがとう、ございます」


 ウイルは汚れを払うことすら出来ず、大きな背中へ崩れ落ちるようにもたれかかる。左腕はもはや動かせない。痛みがそれを阻害するからだ。ゆえに最後の力を振り絞って右腕を動かし、エルディアの右肩をそっと掴む。


「よし。それじゃ、いいかな?」


 両手を後ろにまわし、受け止めてあげれば準備完了だ。少年を気遣い、ゆっくりと立ち上がる。


「飛ばしちゃうゼ」


 太い足が一歩を踏み出す。最初はゆっくりと、しかし、加速を続け、ついには風のように草原を突き進む。


(なっ……、すごい……)


 突風だ。ウイルは顔をずらし、その風圧をズシリと受け止める。

 人間にこんな速度が出せるのか。少年の常識が音を立てて崩れだす。彼女の速さと比べたら、少年の全速力などヨチヨチ歩きのようだ。


「がんばったがんばった。王国まで無事帰れるねー」

「……はい」


 その慰めが、惨めさを一層際立てる。もちろん、エルディアに悪気はないのだが、ウイルは揺られながら涙をこらえる。

 王国。そこはこの大陸唯一の国であり、人間にとって最大規模の安全地帯だ。小規模の村なら南方にいくつかあるのだが、国と呼べる規模となると一つに限られる。

 イダンリネア王国。魔物がひしめくこの世界にて、千年の歴史を紡ぐ大国だ。今なお滅ぼされることなく、繁栄を続けている。

 その名が示すように、この国の統治者は王族だ。先の王が一年前に病死したため、現在はその長女が後を継ぎ、女王として治めている。

 領土は非常に広く、丘を大々的に切り開いて建国された。王族が住まう城は最奥、つまりは最も高い場所に位置している。東側を海に面しており、対して西には軍に用意された様々な施設が連なる。

 軍隊。王国は傭兵以外に軍人という戦力を有する。魔物に立ち向かうという意味ではどちらも同じだが、その在り方は全くの別だ。

 軍人は国のために魔物と戦う。

 傭兵は己の信念に従い、魔物を討伐する。

 結果だけを切り取れば同じだが、目的や行動理念は別種だ。

 だからなのか、軍人の一部は傭兵をひどく嫌っている。

 身勝手な立ち振る舞いが鼻につくのか。

 戦えるだけの実力や才能を持っているにも関わらず、国に尽くさないことが腹立たしいのか。

 理由はよりけりなのだろうが、傭兵という職業は後ろ指を指されやすい。

 もっとも、当人達はそのことを気にも留めず、そういった図太い精神の持ち主でなければ務まらないのか、影でこっそりと軍の悪口を言っているのか、それは一人ひとり異なるのだろう。

 エルディアに関しては少々特殊だ。

 傭兵も軍人も仲よくすればよいのに。

 常々そう思っているのだが、現実はそうもいかず、とは言え架け橋になるつもりもないのだから、叶うはずはない。


「もうすぐだよー。ほら、見えてきた」

(本当だ……)


 走り始めてまだ数分たらず。ウイルが何十分もかけて移動した距離を、彼女はあっという間に駆け抜けてしまう。

 眼前に広がる草原地帯。

 その遥か前方には、灰色の壁が立ちはだかるように君臨している。領土を囲うそれは右へは海岸手前まで、左にはどこまでも続いている。

 二人が進む正面、つまりは壁の中心付近には小さな切れ込みが存在する。

 イダンリネア王国の入り口、つまりは門だ。

 エルディア達はそこを目指す。

 目的地が見えたことで、少年はさらに安堵する。彼女が魔物を倒してくれた時点で錯乱状態から立ち直れたが、ストレスから解放されたわけではない。

 ウイルは苦痛に耐えながら、小刻みな揺れに身を委ねる。

 エルディアはおもちゃを買ってもらった子供のように、笑顔で走る。

 そんな二人の接近を、門番の片方が早々に視認する。

 灰色の装甲を基調としながらも、黄色い装飾があしらわれた鎧。

 腰には片手剣をぶら下げ、ドシリとそこに立っている。

 軍人だ。王国の出入り口に立ち、訪れる者、去る者を見守っている。


「あれは……、傭兵か。相も変わらず走ってやがる」


 黒髪の男がぼやく。この光景、実は日常的だ。


「んんん? あ、ほんとですね。おや、何か背負ってる? 子供?」


 もう一人も彼女らの接近に気づき、腹から声を出して返答する。二人は大きな門の左右に立っているため、距離がいささか離れている。小声では単なる独り言になってしまい、会話は成立しない。


「寝てるのか? いや、違うな……。やれやれ、俺の出番か」


 的中だ。黒髪の軍人は姿勢を崩し、面倒そうに息を吐く。


「先輩それって……。あぁ、あの子、負傷してるのか。大丈夫なのかな? ちょっと心配ですね」


 反対側の軍人が、赤い前髪をどかしながらじっと見つめる。迫り来る女はどこか楽しそうだが、荷物の子供は苦しそうだ。


「だから急いでるんだろう。ほんと、俺達を何だと思ってやがる。いっそ金とりたいぜ」

「これも軍務ですよ、軍務。僕も回復魔法使いたいなぁ」


 二人はこの事態に戸惑わない。頻発に出くわすことではないのだが、珍しいわけでもなく、魔物が攻めてきたわけではないのだから冷静に対処するまでだ。


「すーみーまーせーん! この子にキュアくださーい!」


 到着だ。傭兵は大声をあげながら、説明を省いて要件だけを伝える。


「おらよ。で、どんな感じなんだ?」


 言われるまでもない。そんな態度で、黒髪の軍人が目の前の女、正確にはおぶられている子供に右腕をかざす。

 その刹那、男の体から一瞬だが泡のような光が漏れ始め、次いでウイルが白く発光する。

 キュア。回復魔法の一つだ。傷を治すことが出来るのだから、誰もが憧れる魔法と言えよう。

 イダンリネア王国の門番は、外敵の早期発見ないしそれの阻止が主たる仕事だ。しかし、このように怪我人の早期手当も含まれており、ローテーションで配属される二人の内の一人には、必ず回復魔法の習得者が選ばれる。


「うさぎに殺されかけてたところを助けたって感じかなー」

「ふむ、それはなにより。坊主、具合いはどうだ?」


 傭兵の返答が想定の範囲内だったのか、軍人は眉一つ動かさない。


「これがキュア……、すごい。あ、ありがとうございます。痛みが引きました」

「念のため、もう一回してやろう。かなりの傷だったようだしな、キュア」


 全身から痛みが消え去り、ウイルの表情は自然とほぐれる。骨折のせいで腫れ上がっていた左腕もすっかり細まり、最も酷かった激痛も今では過去のものだ。

 ダメ押しの回復魔法によって再度光に包まれながら、少年は眼前の軍人達に笑顔を向ける。


「お、顔色も良くなったね。少年、何があったのか知らないけど、草原ウサギには気を付けるんだよ。近づかなければ無害な連中だから」

「はい。おかげさまで助かりました」

「もう大丈夫そうだね。降ろすよー」

「あ、ありがとうございました」


 ウイルは大地の硬さを実感しながら、大人達に頭を下げる。今出来ることはこれくらいしかなく、ばつの悪さからさらに縮こまっていく。


(やはり)

(さっきの子供か)


 二人の軍人は気づく。一時間ほど前にここを通ってマリアーヌ段丘へ歩いて行った少年のことを、門番として眺めていた。その時から気になっていたのだが、このような事態になるとは夢にも思わなかった。

 ウイルが改めて三人に頭を下げる。

 それを合図にしたわけでもないのだが、エルディアは門とは別方向へ少年を誘導する。


「ここだと邪魔になっちゃいそうだから、あっち行こ」

(え……? 帰らないの?)


 ヘトヘトだ。心と体を休めるため、ウイルとしては一旦町に戻りたいのだが、傭兵にその気はないのか、今来たルートとはまた別の方角へ、ズンズンと歩みを進める。

 またもマリアーヌ段丘を闊歩し始めた二人。

 その後ろ姿を見ながら、軍人は目を細め推測する。


(あの坊主……、貴族だな。だとしたら何をしてやがる? この時間だと学校でお勉強のはずだが……)


 貴族。イダンリネア王国において特権階級に位置する家柄を指す。国営に関わることはないが、国が国として機能するための重要な仕事は、彼らの長が受け持っている。

 その全てが裕福な家柄であり、本来ならば貴族の子供らが国の領土外へ出るようなことはない。

 軍人がウイルをそう判断した理由はシンプルだ。

 身に着けている衣服が、平民のそれとはかけ離れている。血液や土で汚れてもなお、その品位や高級感は色あせない。

 整えられた髪型も絵に描いたような貴族のそれだ。食事にも困らないのだろう、ふっくらと肥えている。


(十、いや、八歳くらいか? あんなチビが一人で魔物に挑む理由……、ふん、わかるはずがない。貴族様には貴族様の事情があるのだろう、せいぜいがんばりな、坊主)


 黒髪をかきながら、男は傭兵と少年を眺め続ける。

 ウイルの年齢は十二歳なのだが、あまりに低い身長が他者に勘違いさせる。どちらにせよ、小さな体で魔物と戦うことには変わりなく、進路は険しいだろうと容易に想像可能だ。

 二人の後ろ姿は離れるにつれ、だんだんと小さくなる。

 そのまま何処かへいなくなるのかと彼らは予想していたが、二人はそれほど遠くない場所で立ち止まると、そこを陣取るように座ってしまった。

 何やら話し合っている。その内容まではわからないが、軍人達はもはや干渉しない。命を一つ救えたことを喜びながら、門番として、祖国を背にマリアーヌ段丘を見続ける。

 この地は平たんではなく、どちらかと言えばでこぼこだ。小さな丘があちこちにあり、ほんの少しずつだが、東から西へ、門から見た場合、左から右へ少しずつ傾斜が出来ている。東側は海に面しており、西には巨大な岩山がそびえ立つ。そういった地理的事情から、ここは防衛という観点から優れており、だからこそ、王国がここに建国された。

 海面から運ばれてきた風が吹き込む。雑草のような草達が楽しそうに揺れるも、でっぱりのような二人を脅かすほどではなかった。


「ここでいいかな」


 エルディアはどしりと座る。草の絨毯は座り心地がよく、スカートが多少なりとも汚れるはずだが気にする素振りすら見せない。


「あの~、一体何を?」

「作戦会議しよう! あと二体。私が手伝ってさくっと倒しちゃってもいいんだけど……、その前に……」


 ウイルもちょこんと座り込む。衣服は既にあちこちが汚れている。さらに土がつこうと、もはや気にも留めない。


「君って魔物と戦ったことある?」


 その問いかけは状況把握において適格だ。

 傭兵志願者が草原ウサギに戦いを挑み、あっさりと返り討ちにあった。たまにある話ではあるのだが、だからといって見て見ぬふりはできない。


「い、いえ……。今日が初めて、です」


 ウイルは眼前の女性を見ることが出来ず、視線を地面に向ける。無謀なことをしてしまったと自覚できており、後ろめたさを感じている。

 なにより、恥ずかしい。

 そして、情けない。

 マリアーヌ段丘に生息する魔物、草原ウサギ。この種族は確認されている範囲において、最も弱い魔物だ。ゆえに傭兵となるための試験相手に選ばれているのだが、それにすら勝てないということは、夢を諦めるしかない。

 それもそうだろう。そのための資格がないのだから、他の生き方を選択し、天寿を全うするべきだ。


「そっかー、勇気あるねー。あ、ということは、もしかして……、短剣握ったのも初めて?」

「……そうです」


 事情聴取のような雰囲気が、少年をさらに縮こませる。一瞬褒められたと錯覚してしまったが、そんなことはないとすぐに頭を切り替える。


「君の戦系って何かな?」

「せん・・・けい? あ、戦闘系統のこと、ですね。えっと……、まだわからないと言うか、ちょっと不思議なことになってて、自分でもよくわからないんです」


 エルディアの傭兵としては至極当然な質問に、ウイルはまたも口ごもる。

 戦闘系統。傭兵や軍人、より正確に言えば全ての人間が属するカテゴリーだ。ウイルもエルディアも、必ずその内のどれかに当てはまる。それぞれが異なる能力を持ち、その種類が戦い方そのものに結び付く


「あー、まだ戦技も魔法も使えないのかな? だとしたら、これからが楽しみだねー」

「い、いえ……。そういうわけでもなくて……。魔法なら、一つだけ使えます」


 戦技と魔法。どちらもが、この世界の根幹に由来する神秘といえよう。

 魔法は魔源というエネルギーを消費し、無から有を生み出す現象だ。ウイルの傷も、この一つである回復魔法によってたちまちに治療された。

 戦技は部分的には魔法に近いのだが、似て非なる。この神秘は発現の際に何かを消耗することはなく、言い換えるなら何度でも使用可能だ。制限そのものは存在しており、その点が魔法とは区別されている。

 戦技と魔法。これらは戦闘系統によって何を習得出来るかが決まっている。裏を返すと鍛錬を積まなければ、どれだけ年齢を重ねようと使うことは出来ない。ウイルのような単なる子供なら、なおさらだ。


「ほー、お姉さんが当ててあげよう。フレイムかスリップペインかな?」


 エルディアはニヤリと笑い、消去法で候補を二つに絞る。

 戦闘系統は、その全てが決まった順番で戦技や魔法を習得する。

 魔法だけを一つ使えるというウイルの発言は、ヒントとしてはあまりに有効だ。なぜならその発言だけで、可能性は二つに絞れてしまう。

 魔法から身につくという意味では三種類が候補に挙がるが、自身で傷を癒せなかったという事情から、その内の一つは自動的に除外され、そうである以上、エルディアの回答は正解するはずだった。


「コールオブフレイム、です……」


 途端、この空間が静寂に包まれる。耳をすませば、さわさわとやさしい音色が耳に届くが、二人の話声と比べれば沈黙に等しい。


「こ、こーる……、あ、え? ほんとに?」


 コールオブフレイム。これ自体はさほど珍しい魔法でもない。使える者は少ないが、それは戦闘系統の多さに起因するのであって、役立つ魔法ではあるが強力なわけでもなく、とは言え、エルディアが驚くのも当然だ。

 ありえない。なぜなら、順番が完全に狂っている。


「はい。実は昨日使えるようになりました。だから、魔物にも勝てると思って……。いや、早合点、かな。結果は、このざまです……」


 ウイルは事情を説明しつつ、またも落ち込み始める。

 魔物討伐、正しくは傭兵試験の合格は目的達成に必須の第一歩だ。にもかかわらず、そこで躓いてしまった。あまりに早い挫折に、肩を落とすしかない。

 一方、エルディアは未だに目を丸くしている。目の前の少年を慰めることすら出来ず、座り込んだまま、呆けてしまう。


「コールオブフレイムが使えるってことは、戦系は支援系……でいいのかな? うん、そのはずなんだけど……、お姉さん、自信なくなってきちゃった」


 戦闘系統の数は、全部で十二個。

 戦術系。

 加速系。

 強化系。

 守護系。

 魔防系。

 技能系。

 探知系。

 魔攻系。

 魔療系。

 支援系。

 召喚系。

 魔導系。

 ただし、最後の二つは存在しないものとしてカウントせず、結果、戦闘系統は十個という認識が広まっている。

 その理由は召喚系と魔導系、両者については当てはまる人間が存在しないからだ。

 ゼロではない。この大陸にはいないだけで、別に地に赴けば、一人くらいは見つかるかもしれない。

 それほどまでに希少であり、少なくともイダンリネア王国では出会えない。


「僕がチビでデブで頭が悪くても……、これに出会えたことで、もしかしたらやれるんじゃないか、そう思えたんです。少なくとも、前を向くことは出来ました。それに、偶然なのか、僕の目的には必要なものらしくて、だから……」


 諦めない。

 諦めたくない。

 ウイルは立ち上がる。もう一人の協力者をエルディアに披露するためだ。

左手を突き出し、手のひらを天に向ける。たったそれだけの動作だが、観客を喜ばすには十分だ。

 まるで手品のように、否、本来ならば予備動作すら必要ないのだから、それ以上の芸当だろう。年季を感じさせる、されど新品のような古書が、眼前にボンと出現する。真っ白なそれは分厚く、表紙も裏表紙も、そこに挟まるページ達も色が抜け落ちたように白一色だ。

 少年の手のひらよりも大きな本。それはふよふよと浮いたまま、まるで意思があるかのようにひとりでに一ページ目を開く。


「……それは?」

「白紙大典です。本の名前と、こうして呼び出せること以上のことはまだわかってないんですけど」

「びゃくし、たいてん……?」

「これが僕に魔法を……、新たな生き方を示してくれました」


 その第一歩は失敗に終わった。目の前の女性が助けてくれなかったら、彼の生涯は十二年で幕を閉じていた。

 挫折には違いない。それでもまだ投げ出さない。

 既に一度、生きることを諦めてしまった。

 誰かのために、なにより己のために考えを改め、別の道を選んだのだから、今は意地でもしがみつく。

 かっこ悪くても構わない。

 そもそも本来の居場所から逃げ出してしまったのだから、今がウイル・ヴィエンにとっての基底状態だ。

 誓うように、少年は紡ぎ始める。


「色褪せぬ赤は、永久不変の心を顕す」


 白紙大典がぱらぱらと騒ぎ出す。ひとりでに、身勝手に、目当てのページを探している。


「守るために巡り、縛るために記されし言霊達……」


 それを通して、少年の周囲に魔力の気流が発生する。


「我らの旅路を指し示し、絢爛の花を咲かせたまえ」


 力がなかろうと、進むしかない。今はそれ以外の方法が思いつかないのだから。


「在りし日の思い出と共に、色褪せぬ幻影を抱きし者よ……」


 これは守るための力。


「揺蕩う理想郷で、色褪せぬ想いに寄り添う者よ……」


 そして、滅ぼすための力。


「祝福されし幼子達を、見守りたまえ。蔑みたまえ!」


 純白の本がぴしゃりと静止する。準備が整った瞬間だ。

 

「コールオブ……フレイム!」


 言い終えると同時に、少年の右手が炎を帯びる。轟と赤く燃える拳。それはまるで、神から与えられた祝福、もしくは呪いのようだ。

 コールオブフレイム。魔法という枠組みにおいて、強化魔法に分類される一種だ。己の拳や武器に炎を灯し、殺傷力を高めることで戦いを有利に運ぶことが出来る。

 この魔法はエルディアが言った通り、支援系という戦闘系統にて習得可能だ。

 しかし、順番がありえない。その系統では他の魔法から覚え始め、コールオブフレイムに至るまでには五個の魔法を身につけていなければならない。

 飛び級などありえない。この世界における絶対的な仕組みの一つだ。


「ほーほー?」


 間の抜けた反応だが、仕方ない。それほどまでに、この状況がありえない。

 本を呼び出し、それを介して魔法を発動させる。傭兵歴の長いエルディアでさえ、見たことも聞いたこともない事象だ。

 だが事実である以上、受け入れる。仕組みも理由もわからないが、目の前の子供が実演してくれたのだから、口は半開きだが、作戦の立案には役立てられる。


「これで魔物をばったばったと倒せるかな、と思ったんですが、考えが甘かったようです。まさか一日目にして死にかけるとは……、あはは……」


 ウイルは右手をシュッと走らせ、魔法の炎を鎮火する。同時に白色の本もボスンといなくなり、この場は二人っきりに逆戻りだ。


(キュアかフレイムあたりを使えれば、この子でもうさぎくらいは倒せただろうけど……、コールオブフレイムだけじゃ何とも心もとないなー。となると……)


 パシン。

 エルディアはロングスカート越しに自身の太ももを叩くと、勢いそのままにすっと立ち上がる。

 考えがまとまった。

 つまりは、今後の方針が決まった。


「その短剣で、うさぎを倒せるようになろう! ちょっくら素振りしてみせて」

「は、はい」


 ウイルの戦闘スタイルが明らかになったのなら、何を伸ばすかも必然的に決まる。

 腰の短剣は飾りではない。魔物を倒し、道を切り開くための凶器だ。

 コールオブフレイムは、相手に打撃ないし斬撃を当てる必要がある。この魔法は殺傷力に炎によるやけどを上乗せするだけの効果しかなく、つまりは攻撃を命中させられなければ、宝の持ち腐れだ。

 しかし、それが出来なかった。草原ウサギは小柄ゆえ、戦いづらい相手とも言えるが、それに関しては問題ない。ウイルも相当に小さいゆえ、相性は悪くないはずだ。

 敗因はただただ単純に、俊敏性で後れを取った。それ以上でもそれ以下でもない。

 少年は右手で武器を抜き、刃を眺める。

 茶色いはずのそれはまだ赤く汚れており、命を奪った感触がじんわりと蘇る。

 だが、怯まない。正面のエルディアに刃先が当たらないよう、体の向きを少しずらし、ブンと背一杯振り下ろす。


「なるほどー。軍学校で赤点しかとれなかった私が言うのもあれだけど……、ゼロ点!」

「う、そうですよね……。ん? 軍学校?」


 辛口の採点に肩を落とすも、予想外の単語が飛び出したため、素振りは一回で中断される。


「うん。こう見えて傭兵になる前は軍属だったの。たったの一年だけどねー。まぁ、それはさておき……、あれだね、先ずは構えからだ」


 エルディアは口を動かしながら、ウイルの背後へ移動する。予想は出来ていたのだが、やはり完全な素人だと判明した以上、基礎の基礎から着手する。

 前後に並ぶと、二人の身長差がより一層浮き彫りになる。それゆえにエルディアはぐっと腰を落とし、まるで操るように少年の右腕をそっと掴む。


「構える時は、脇を開き過ぎない」

「ひゃ……はい……」


 彼女の声が、すぐ後ろからささやきかけるように辿り着く。たったそれだけのことで、ウイルの顔は赤く染まる。


「あと、少しでいいから重心を下にずらすというか、膝をちょっとだけ曲げる感じで。君は背が小さいから、それを活かすと良いと思うよ」

「い、活かす?」

「低い位置からの攻撃って、どうにも対処しづらいんだよねー。まぁ、魔物もそうなのかはわからないけど!」


 なるほど、そう納得しながら、少年は新たな構えで静止を続ける。

 言われた通り、さらに体を低くし、右腕も体に近づけた。たったそれだけのことながら、らしくなったと少しだけ自画自賛だ。


(焦ってもダメなんだ。ちゃんとステップを踏まないと。掛け算すら出来ないのに、物理学を学ぼうとしていた……。それくらい愚かだったんだ)


 ウイルは正面だけを見据えながら、背後のエルディアが離れたタイミングで再び短剣を振り下ろす。

 一度目よりは空気を綺麗に切り裂けた。思い込みかもしれないが、今はそう思うことで己を鼓舞する。


「とりあえずこれを千回くらいかなー? 疲れたら左手でやるのもオススメ」

「え⁉ せ、千回……?」


 傭兵からのアドバイスが、少年の顔を引きつらせる。


「夜までには終わるでしょー。ちなみに左手も鍛えたい理由は、短剣だと二刀流がやっぱり便利そうなのよねー。私はこれ一本だけど!」


 背中の大剣をパンパンと叩きながら、彼女は楽しそうに言い切る。少年の体力や筋力を一切考慮していないのだが、傭兵ゆえ、価値観や基準が他者とはずれている。こればかりは職業病のようなものだ。


(夜まで……。これが……傭兵の生き方……)


 ウイルが握っている武器の名はブロンズダガー。刃は黄色寄りの茶色をしており、握る部分は緑色だ。短剣としては最も安く、殺傷能力も低い。包丁よりは重く、分厚い刃はそのまま頑丈さに繋がっている。

 二度の素振りで、草原ウサギの血液がいくらか払われたためか、刃を覗き込むと幼い顔が映り込む。

 魔物を倒すためには、今よりも強くならなければならない。そのための方法が提示されたのだから、愚直に実行するだけだ。


「じゃー、私は帰るね。このあたりに魔物はいないけど、気を付けてねー」


 この発言が、少年を再び驚かせる。

 急いで振り返ると、エルディアは既に背を向け歩き始めていた。

 別れの時間だ。彼女は通りかかった傭兵であり、ウイルとは赤の他人なのだから、むしろここまで面倒を見てもらえただけでも感謝すべきなのだろう。

 それでも、突然のことに心が大きく揺さぶられてしまう。

 甘えたいわけではない。

 見守られたいわけでもない。

 ただただ心細い。十二歳の子供として、至極当然の感情だ。

 門に向かって歩き始めた彼女と、残された自分。ここからは一人で歩き始めなければならないと改めて認識したことで、少年の瞳に涙が浮かぶ。

 だが、泣かない。泣きぼくろが取れそうなほど目元を擦り、すぅと息を整える。


「ありがとう、ございました!」


 最大限の感謝をこめて、力一杯叫ぶ。

 振り向かず、右手をひらひらさせるエルディア。その姿は頼もしく、それでいてどこか蠱惑的だ。

 言動は少年のように無邪気だったが、その中に別の何かを感じられた。その正体まではわからずとも、彼女のやさしさは本物だ。

 ならば、今はアドバイスに従って鍛錬に励む。

 それをわかっているからこそ、すっと反転し、教わった構えへ移行する。

 短剣を握り直せば準備完了。右手を振り上げ、勢いそのままに降下させる。


(これじゃダメだ。単に振るだけじゃ……)


 もう一度だ。今度は斬るように、二度、三度、ブロンズダガーを振りきる。


(うん……。多分だけど、これで良いはず)


 手ごたえとしては悪くない。何かを斬ったわけではないが、一連の動作という意味で、体が何かを感じ取ってくれた。

 今の感覚を忘れないよう、ウイルは素振りを続ける。


(くっ……、案外疲れる。しかも、だんだんと雑になっちゃってるような……)


 この短剣は子供向けの玩具ではない。魔物の討伐用というよりは、護身用のそれだ。もちろん、マリアーヌ段丘の魔物程度なら問題なく斬り殺せるものの、ウイルの小さな体には荷が重い。

 そのせいか、振りぬく際、右腕だけでなく体もわずかに引っ張られてしまう。

 ノルマをがむしゃらにこなそうとすれば、なおさらだ。


「ふ~……」


 一旦座り、息を整える。

 青い空には綿菓子のような雲が浮いており、ゆっくりと美味しそうに流れている。行きたい方向へ進めているのか、逆らおうとしているのか、少年にはわからないものの、今はこの大地から見上げることしか出来ない。

 日はまだ沈まない。太陽は後方、すなわち西側へ大きく傾いているが、地平線よりは上に浮かんでいる。

 時間はある。それをわかっているからこそ、焦らずゆっくりと息を整える。


(時間はかかりそうだけど……、一振り一振り、丁寧にやろう。近道なんてないんだ、僕には)


 一刻も早く、傭兵になりたい。この目標は単なる通過点でしかないのだから、早々に足踏みなどしてはいられない。

 だからといって駆け抜けることも許されず、ならば教わった通りに己を鍛えることから始める。

 視界良好だ。悩む必要はなく、怖気づく理由もない。

 立ち上がり、ブロンズダガーを握る。

 少しだけ腰を落とす。

 脇をしめて構える。

 視線を前へ向ければ再開だ。

 上から下へ、武器を走らせる。

 体がわずかに引っ張られたが、姿勢を戻し、再度構え直す。

 ゆっくりと、確かめながら、今は愚直に繰り返す。

 課せられた千回はまだ遠い。

 だが、くじけない。

 そもそもの前提としてこの回数がゴールではなく、草原ウサギの討伐、ひいては試験の合格が一歩目の目的地だ。

 そして、そこが終わりではない。真の行き先はさらにずっと向こうにある。

 斬る。

 斬る。

 斬り続ける。

 単なる素振りであろうと、少年は恥ずかしがらずに継続する。

 エルディアにそう教わったのだから、今はそのアドバイスに従う。

 強くなるために。

 守るために。

 逃げた自分を裏切らないために。

 ウイルはついに数えることすら止める。

 ただひたすらに、されど丁寧に、疲れ果て意識を失うその瞬間まで、教わった通りに短剣を振り続ける。

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