最低
いつからだっただろうか。自分に失望しなくなったのは。
仕事をやめ、先も見えず、薬と酒に頼りながら千鳥足で人生を歩く。
スマホのバイブ音もたしか4ヶ月ほどで鳴らなくなり、そこでなぜか貯金が尽き始めていたのを思い出して生活保護の申請をした。
入る金は病院と酒と家賃に消え、ミリで残った金で死なない程度に飯を食った。
健康ではなく文化的とお世辞にも言えない最低限度の生活。
そんな生活を始めてから、気がつけば一年が経っていた。
はじめこそ、周りに比べ、こんな生活をしている自分を情けなく思い、何度も後悔をして、自殺未遂をしながら自分を責めた。
しかし、人間案外丈夫で、なかなか死ねない。
するとそんな生活にも慣れてくる。慣れとはすごいもので、だんだんとこの生活が当たり前で正しい姿かのように思えてくる。
よくよく考えれば、仕事もせずに金が降ってくるなんて素晴らしいことじゃないかと思えてくるのだ。
そこまで行けば、あとは落ちるだけである。
少し湿った臭いのするこの部屋で、俺はゆっくりと腐り落ちてゆくのだ。
コンコンコン・・・ガチャガチャ。ガチャッ
鍵が開く音がする。タバコに火をつけたのと同時だった。
「こんにちはー・・・うわっひっどい」
第一声にかなり失礼な言葉を呟きながら部屋に入ってくる。
多少の幼さが残る顔の、背の低い女。知っている顔だった。
「なんでお前がここの鍵持ってんだよ」
「もらったの。あんたのお母さんから」
「クソッ、来るなっつったらお前をよこしたわけかよ」
心療内科での診断を受け仕事を辞めたとき、それをどこで知ったのか、実家から鬼のように電話がかかってきたのだ。
俺を心配してのことだったのはわかっていたが、あまりにもうざかったのと、当時は相当イライラしていたので『勝手に来たらその場で死んでやる」と脅してしまった。
それ以来、定期的に連絡は来るが、生きてるかどうかしか伝えてない。
たまに来るみたいな話をするが、強い口調で断った。
そうして長々と逃げ続け、果によこして来たのは、これまたちょこちょこLINEを送ってきていた小学校からの幼馴染だった。
一年も経ったので、そろそろ見限ってくれても良かったのだが・・・
逆に時間が経ったおかげで、俺が落ち着いたとでも思ったのだろうか。
「母さんは?」
「まだ心配だから今日は来ないって。あんた、流石に親に向かってあの脅し方はないわ。人として本当に最低」
大きなお世話だと思いながら、あえて黙ってタバコを軽く吸った。
だがまあ、自分が悪いのもわかっているし、ついにここまで突入してきてしまったので、取り敢えず言い訳を晒すことにする。
「・・・あのときに会っても、もっとひどくなるだけだった。
「今は?」
「んー、まあ、ある程度自分の中で見切りつけれたっぽいしいいんじゃね?」
「自分のことなのになんで疑問系なのよ」
「知らん。けど、お前と普通に話せてるんだから大丈夫だろ」
「意味わかんない」
そりゃそうだ。
一年、コンビニの店員と宅配の人と事務的な言葉のキャッチボールしかしていない。
人というより、機械と決められた台本の台詞を読むような生活を続けていた。
故に、自分が今、こうして声で会話できていることにすら驚いている。
自分にまだ過去の自分のような人間らしさが残っていることに驚きだ。
落ち着いたことをなんとなく感じてはいたが、理解するのとは違うわけだ。
「んで?、お前は今日、何しに来たんだよ。ちゃんと生きてるか確認しに来たん?、LINE返せてるんだからよくね?」
「そういう問題じゃないの。生きてて返信できるからって、必ずしも無事とはかぎらないでしょ」
「なるほど、それはそれはご苦労さまです。で、今お前から見て俺は無事?」
「無事じゃないわね」
「あらら、頑張って生きてるのにな」
生きる。生きてるだけ。頑張ってはいる。必要最低限だが
「あんた、昔はそんな喋り方じゃなかった。それに、勝手にヤケになって人生諦めて、周りに心配かけながら引き篭もって、それの何が頑張ってるのよ」
ごもっともであった。
だが、生憎俺は誰かのために生きているのではない。俺が生きていたところで役に立ったり、誰かに利益を与えることなどないのだ。
人が汗水垂らして働き稼いだ金から引かれる税金を、我が物顔で使い倒して生きているこの生命に、客観的な、社会的な価値がどれほどあるのか。
聞けるものなら街中アンケートでも何でもいいから聞いてみたいものである。
だから、俺は返すのだ
「頑張ってるさ。白い目で見られ、後ろ指をさされ、生きる価値などないと自覚しながらも、その命に縋りついてるんだから」
隠れて燃える火で、自然と灰の部分が増えてしまっていたタバコを再び咥えて、少ない煙を吸った。
悪あがきをしていることを頑張っていると表現するのは少々不適切かとも思ったが、あまり深く考えるものでもあるまい。
生きて呼吸しているだけでも偉いのだと、昔誰かが言っていた。
生きていることの対価が生きていることだなんて、なかなか笑えない無意味さだが。
「あんた自身が価値を見いだせなくたって、周りの人があんたに価値があるって思ってるのよ。今みたいに落ちぶれたあんたにだってね」
「それこそ勝手じゃねぇか。俺は価値を見出してくれなんて言った覚えはねぇし、その思いにわざわざ答える道理なんてねぇだろ」
この手の口喧嘩は平行線だ。同じような主張を互いに繰り返して、口論とも言えない、とても見るに耐えない争いが待っていることを俺もあいつもわかっていた。
だから、互いに先を言えぬよう、そして言わせぬように口をつぐんで黙り込んだ
だが、不思議と気まずいという感想は出てこない。
きっとこんなふうになってしまっても、彼女の俺に対する対応がほとんど変わっていないからだろう。
自分が変わっていしまったのは自覚していた。なんせ自分で変えたのだから。
だがそれでも、自分が変わってしまうことに耐えきれなくて、俺が俺である証明をどこかで求めていたのかもしれない。
こいつが来て、変わらぬ姿を見て、それと話す自分を見て、どこかで安心したのだろう。
「・・・あんた、本当にこのままでいいの?」
「まあ、いいかなって」
「本当に?」
「なんだよ、もういいって。別に生きてたって人の金使うだけだし、死んで悲しむやつも・・・いたらいいとは思うが、俺にどうしても生きてほしいなんて思うやつなんかこの世に存在しねぇよ」
ここまで汚れて、生と死の価値が限りなく等しくなってしまった人間に、生きてほしいなんて願う人間なんていない。いるはずがない
いては困るのだ。
「本当に見たの?あんたの周りの人間全員に聞いて、全員口を揃えてそう言ってたの?」
なんだよこいつ。今日はやけに突っかかってくるな。
段々とイライラしてきたが、声を荒げたところで疲れるし、虚しいだけだ。
「それはやってなかったわ。聞いたところで建前くらいしか帰ってこねぇと思うが、そんなに言うならまず第一号で聞いてやるよ。どうだ?お前は俺にそこまでして生きていてほしいか?、俺がこれから生きていく先々で感じ、受ける苦痛に対して責任とれるのかよ」
ここまで言えば大丈夫だろう。こんなのを承諾すればプロポーズも同然だ。わざとそうしたわけだが。
俺は、ここで彼女に拒絶されることを望んでいた。ここで長く学生時代をともにしてきた大切な友人とも言えるこいつが、俺のことを少しでも捨ててくれれば、俺もやっと自分を諦めて死ねる気がしていた。
別に、異性として好きだとか、そいういうわけではない。
出会って三十年弱、俺の人生の殆どを知っていると言っても過言ではないこいつが、俺に価値がないと言ってくれれば、それでよかった。
彼女は天井を見て、少し悩むような素振りをする。
そして顔をそむけながら口を開く。
「・・・責任でも何でもとってあげるから、生きて」
これでやっと諦めが・・・え?
「ま、待て今なんつって」
「生きろっつったのよ。部屋の中と同じで耳の穴まで汚いわけ?」
頭の中が真っ白とはこのこと。理解が追いつかない。
「・・・しね?」
「生きろっつったのよこのバカ!!頭の仲間で腐り落ちたの!?」
とんでもない暴言だった。俺じゃなかったら泣いてるし、到底生きてほしい相手に投げる言葉ではない。
「なあ、お前、わかって言ってんのか?冗談にしては面白くないし、建前にしては無責任すぎるぞ」
「誰が受け狙いであんたみたいな最底辺クソ野郎にプロポーズじみたこと言わなくちゃいけないのよ。酒の飲みすぎじゃない?」
年甲斐もなく顔を赤くしてまくしたてる姿に、学生時代に照れ隠しに俺を怒鳴りつける彼女の姿が重なり、記憶が蘇る。
「苦しいなら支えてあげるし、一人が寂しいならそばにいいてあげる。だからあんたも私に同じ物を同じだけ返して」
高校生のとき。誰かに等価交換の話をしたのを思い出した。
人間、それぞれ価値観は違うが、百のものに対して相手は必ず百だと思うものを提示し、その価値観が近い、または合えば、交換が成立する・・・みたいな話だ。
世間話の一つだが、この話をしたのはこいつだったか
もしそうなら覚えていたのか?
「俺じゃなんも返せねぇよ。見りゃ分かんだろ。俺には何もないんだ」
時間が経ちすぎて、もう咥える場所すらなくなりかけたタバコを灰皿において力なく答える。
俺は人間としての最底辺に落ちた。それを自分でも受け入れていた。
「だから、あんたが返せるようになるまで支えてあげるの。今のあんたになんか一ミリも期待してないわ」
「ねえ、本当にお前俺のこと支える気ある?」
疑いたくなる言い草だった。
「返事は聞かない」
「なんで」
「わかってるもの」
なんとも傲慢な答えだ。今日俺は何度、この大切な耳を疑えばいいのだろうか。
昔から強引だとは思っていたが、本気で牙を向くとここまでとは・・・
「取り敢えず部屋の掃除からだね。あ、3日後から私ことに住むから」
「ちょ、まてまて。家主の許可が要るラインを全力で飛び越えてくるやん」
「最底辺の社会のゴミに発言権ないから。3日も猶予をあげた慈悲に感謝しなさい」
「最底辺の社会のゴミは否定できないけど家主としての発言権くらいは認めてくれないかな!?」
俺を無視して掃除を始めるこいつを放っておくわけにもいかず、しかたなく俺も床や机の上に散乱した酒の缶などなどのゴミに手を伸ばした。
どれだけ考えても、何を言われても、俺は俺自身に意味や価値を見出すことはできない。
だが、こういうやつがいるということは、価値が存在しないわけでもないということをいやでも見せつけられた。
死ぬほど汚い部屋を鼻歌交じりに、やけに楽しげに掃除する彼女を見て息をつく。
こうなった経緯や、彼女の詳しい気持ちなどは後でゆっくりと聞くとしよう。
まずは最底辺から底辺辺りまで這い上がるところから始めよう。
ぬるま湯の中で腐り落ちることは、もうこいつが許してくれなさそうだからな。