存在を殺された人間は、悔しい思いすらできない。
「お、遅いですね。もしかして迷ってるのかも。私、探してきます」
「……俺も一緒に行くよ」
せっかく二人きりになったのに。もしかしたらキスされたかもしれなかったのに。わざわざ賢人を探すなんて、どうして言ってしまったんだろう。
なんでチャンスを潰すような愚かな行動をとってしまったのか。自分でもわけがわからなかった。だがどうしても違和感が拭えない。何かがおかしかった。
「ねぇ、どこにいるの」
トイレをノックするが返事がない。扉には鍵がかかっていない。中を開けても、賢人の姿はなかった。
「どこ行っちゃったんだろう」
先輩の部屋と同じような扉が、廊下にはいくつか並んでいる。違う部屋に入ってしまったのだろうか。
「どこー、返事しなさいよ」
「ここだ」
声がしたのは、奥の部屋だった。先輩が慌てた様子で、扉を開けて中に入る。
「ここはお兄さんの部屋みたいだね」
そう言った賢人は、壁の棚から本を取り出して眺めていた。本棚にはホラー系の小説や漫画がずらりと並んでいる。
「ちょっと何を勝手に」
先輩は賢人から本を取り上げて、本棚に戻した。
「それ、最近噂になっているリア充襲撃事件と、そっくりなシーンがあるみたいだね」
「さぁ……俺はこういうのは、あまり読まないので」
「そうだよね。君が好きなのは、甘ったるい恋愛ものだっけ。こんなグロいだけで、下品で汚らしいクソ作品なんて、嫌いだよね」
「クソなんかじゃないっ」
そう叫んだ先輩は、ハッとしたように口をつぐんだ。
「おや、こういうのは、あまり読まないんじゃなかったのかな」
賢人はニッコリと笑った。暗黒微笑というやつだ。また賢人の圧迫面接が始まってしまったのだろうか。
また賢人は勝手に、部屋をうろうろし始める。壁に貼られた額縁には、見覚えのある絵が飾られていた。
さきほど先輩の部屋で見た、小説の表紙となっていたイラストに、タッチが似ている。
「さっきのイラストは、君のお兄さんが描いたものだったのかな」
「……そうですけど」
額縁の前をうろうろして、イラストをいろんな角度から眺めてから、賢人は言った。
「味はあるとは思うが、とても商業レベルだとは思えないな」
「ちょっと、やめなよ。失礼だよ」
私は慌てて止めようとするが、賢人はまた部屋をうろうろし始める。
「ど素人の絵を使うより、ちゃんとしたイラストレーターに、頼んだほうが良いんじゃないか」
「誰がど素人やねん……」
先輩が睨んでいる。こんな怖い顔をしている先輩を見たのは、初めてだった。
家にいるときは、関西弁をしゃべっていると聞いたことはあったが、実際に先輩の方言を聞いたのはこれが初だ。
「どうして君が怒るんだ。まるで、自分がけなされたみたいに」
ハッとしたように、先輩は賢人を見る。慌てて取り繕うように、曖昧な笑みを浮かべた。
「それは……兄弟だし。けなされたら、怒るのは当然でしょ。兄弟愛ってやつですよ」
「ふーん。兄弟愛……ね」
賢人は本棚の下段から、卒業アルバムを抜き出して、勝手に中身を見始めた。転校する前に住んでいた、関西地方の中学校のもののようだ。
「よく似ているね。一卵性双生児なのかな」
「そう……ですけど」
「君たちは見た目はそっくりなのに、中身は全然違うようだね」
「それはまぁ、別の人間ですし」
「なるほど。人間誰しも、毎日細胞が入れ替わっていることを考えたら、厳密に言えば自分の体ですら、昨日の自分とは違っているとも言える。なら、同じDNAであろうが、中身が違っても当然だということだね」
「何が言いたいんですか」
要領を得ない賢人の会話に、先輩はイラついているようだ。
賢人は先輩に近づいて、顔をじっと見つめながら言った。
「彼は今どこにいるのかな」
「彼って」
「わかってるくせに。『赤ずきん』という童話で、狼はどうなったか、知ってるかい」
「だから何のことですか」
「誰かになりすましたせいで、狼はハサミで腹を割かれて、石を入れられちゃうって話のことだよ。君には、その覚悟はあるのかな」
そう言ってニヤリと笑った賢人の顔は、恐ろしいほどに美しくて怖かった。
突然、机の上に置かれていたスマートフォンが振動した。画面には『朝倉直都』と表示されている。
賢人はスマートフォンを手に取り、先輩に差し出した。
「出ないのかい。『君』から電話だよ」
先輩は賢人からスマートフォンを受け取った。顔は青ざめている。そのうち振動はおさまった。
「どうしてここにいるはずの、朝倉直都くんから、電話があるんだろうね」
「和樹が……間違って、俺のやつを持って行ったんじゃないかな」
「なら証明してもらえるかな。このスマートフォンが、君のものではないということを。幸いこのスマートフォンは、指紋で認証する少し古いタイプのようだし。もちろんできるだろ。君が朝倉直都くんなら」
賢人は先輩の腕を掴んで、強引にスマートフォンに親指を押し付けた。指紋認証でロックが解除される。
「不思議だね。和樹くんのスマートフォンが、どうして君の指紋で反応するのかな。いくらそっくりな双子とはいえ、指紋は違うはずだけど」
「それは……」
賢人はそのスマートフォンを取り上げると、画面をタップし、ブラウザを立ち上げた。朝倉、野球部、少女漫画といった、いくつかの単語で検索した結果を、先輩に見せている。
「これ、君たちの記事だよね」
そのネットニュースは、双子のバッテリーのいるチームが、全国大会で優勝したという記事だった。
選手説明の中に、投手の兄はホラー映画が好きで絵が得意、捕手をしている弟は少女小説や少女漫画が好きで、小説を書くのが趣味と書かれている。
「全国大会で優勝するほどの選手が、野球部すらない学校に転校するなんて、よっぽどのことだ。怪我じゃないなら理由は絞られてくる」
賢人はさらに別のネット記事を見せた。日付は最初の記事から一年後。夏の全国大会の少し前だ。
双子のバッテリーがいる野球部で、万引き行為が発覚し、半年間の対外試合禁止処分を受けたと書かれている。
「転校までしたということは、君たち双子のどちらかが、原因だと考えるのが妥当だろうね。今現在、直都君が嫌がらせをされているということを考えると、だいたい予想はつくが」
賢人は、机の上からスケッチブックを手に取ると、ペラペラとめくっては眺めていたが、突然イラストの描かれた画用紙を破り捨てた。
「ちょっと、何をっ!」
「ご心配なく。破ったのは、何も書いてないほうだから」
賢人の手からこぼれ落ちたのは、真っ白い画用紙だった。いつの前にすりかえたのだろう。
小さい頃にテレビでやっている手品に感心していたら、「あのぐらいなら僕にもできる」と目の前で見せられたことがある。やはりこれも手品みたいなものなのだろうか。
「自分が作ったものを、誰かに踏みにじられるという気持ちが、これで少しはわかったかい」
先輩の顔を見る、賢人の表情は冷徹だった。
「君は理解しているのか。これまで君がやってきたことが、そして、これから君がやろうとしていることが、いかに罪深いことであるか」
まるでゴミを見るような、敬意のかけらもない、鋭い視線を投げつけている。
「存在を殺された人間は、悔しい思いすらできない。あたりまえだ、存在すらしてはいけないことにされるんだから」
スケッチブックを投げ飛ばすと、バサリと床に落ちた。
「本当なら彼が感じるはずだった、デビューの喜びも感じられない。喜んではいけないのだから。存在してはいけない人間は、思考していないのと同じになる。思考できるからこそ人間なのに」
賢人は乾いた笑い声をあげた。
「まぁ、わかるわけがないか。理解できる頭があれば、こんなことをするはずがないだろうし」
先輩がイラついたような表情で、賢人を睨みつけている。こんな怖い顔をした先輩は見たことがない。
「作品を盗むだけじゃなく、彼をこの世から消そうとするなんて、どこまで卑怯になれば、そんなことができるんだろうね。君は彼がいずれ作るはずだった作品をも、殺したかもしれない。彼から未来の思考を奪った君は、どんな罰を受けたら許されるんだろうね」
賢人は先輩の手を掴んだ。
「爪を一枚ずつ剥ごうか。指を一本ずつ折ろうか」
先輩の喉が、ゴクリと鳴る音が聞こえた気がした。賢人はもう片方の手で、先輩の目を指差した。
「虹彩の枠に沿って、まち針をたくさん刺してみようか」
さらにその指先を、頬や首筋、胸をなぞるように動かしながら言う。
「ナイフを使って身体中を切り刻んで、人間がどのぐらい、体に傷をつけられると死ぬのか、実験してみるのもいいかもしれない。それとも全てを、同時にやってみるかい」
口角を上げるように、賢人はニッコリと笑った。
「きっと君が今生きて、存在しているというありがたみが、よーくわかると思うよ」
先輩は何も答えなかった。いや、賢人の敵意に気圧されて、答えられなかったのかもしれない。
再びスマートフォンが振動する。賢人が画面をタップして、スピーカー状態にした。
『ごめん、和樹……やっぱり俺、死ねないよ』
電話の向こう側で、すすり泣いているような声がする。聞き覚えのある声だった。目の前にいる先輩とよく似ている。
だが声から伝わる優しさや気弱なところが、やはりかすかに違っていた。私がずっと感じていた違和感は、正しかったようだ。
「やぁ、狼少年くん。まだ生きているかい」
『えっ……だ、誰』
賢人は、先輩に目線をやってから、ニヤリと笑う。
「どうやら、まだ無事のようだね、直都くん。君が死ぬ必要はないよ。裁かれるべきは、ここにいる和樹くんのほうだ。こんなことになるまで、ほっておくなんて。君が悪いんだよ。さっさと警察に相談しろと言っておいたのに」
『すみません……でも全部、俺の責任だから』
「きっと和樹くんには、自殺しろとでも恐喝されていたのかもしれないが、君に死なれると悲しむ人がいるんでね」
『ダメなんです。俺が消えないと、八神が……』
「大丈夫だよ。僕がなんとかする。だから、そろそろ戻ってきてくれないかな、直都くん。きっとここにいる君のお兄さんも、本当は……」
すべてを言い終わる前に、ものすごい音がして、賢人が吹き飛んだ。
先輩だったはずの人の手には、金属バットが握られている。偽物の先輩は、私を見た。
「ごちゃごちゃ、ぬかしくさって。もうええわ。お前ら、まとめてやったる」
殺される。そう思ったが、足が震えて動けない。どうしよう。どうすれば。警察に電話を。
「直都のせいや。悪いんは、全部あいつやのに。あいつが万引きなんかしくさったせいで、俺の人生はめちゃくちゃや。誰やってプレッシャーなんか感じとるわ。やのになんで万引きやねん。あほか」
吹っ飛ばされた賢人が、動かない。
必死にスマートフォンをポケットから取り出そうとしたが、あわてたせいで、手から滑り落ちる。
「やったんは俺やないのに。同じ顔してるからって、俺もいじめられて。人の目がこわなって、もう学校に行かれへんようになって。俺はずっと……ずっと」
床に落ちたスマートフォンの画面に、蜘蛛の巣のようなヒビが入った。新しく買ってもらったばっかりなのに。
そうじゃない。そんなことを、心配している場合じゃないのだ。わかってる。そんなのわかってる。
「こんなに俺が苦しんでんのに、あいつは普通に新しい学校に行って、彼女ができただの、作家としてデビューするだの。ふざけるんもたいがいにせぇよ」
必死に逃げようと、足を動かしているはずなのに、全然動かない。膝がガクガク震えて、どうしようもなかった。このまま死んじゃうのか、私はここで。
「直都だけが、ええ思いするやなんて、ほんなあほなことが、なんで許されるんや。全部こわしたる。何もかも全部や!」
偽物の先輩が、大きく金属バットを振り上げる。私はとっさに目をつぶった。そんなことしたって意味ないのに。
だが痛みは、いつまで経っても襲ってこなかった。私の目の前に立ちはだかり、金属バットを左腕で受け止めていたのは、賢人だった。金属バットはへこんで、少し折れ曲がっている。
偽物の先輩は、怯えた目で賢人を見ている。
「なんや……お前」
「先に生まれたからって、何でも好き勝手にしていいわけじゃないんだよ。先に生まれたからこそ、やるべきことというのが、あるんじゃないのかな」
賢人が左腕の袖をめくると、人工皮膚の部分が少し破れて、下から機械仕掛けの金属が覗いていた。
「君の口から兄弟愛なんて言葉が出たときは、耳を疑ったよ。君みたいな卑劣な人間に、兄を名乗る資格は一ミリもないね」
賢人は、左の義手で偽物の先輩の胸ぐらをつかんだ。
「あと知らないみたいだから、教えてあげようか。さっきから君がごちゃごちゃ言ってたようなことは、世間では八つ当たりっていう、実に幼稚な行為なんだ」
偽物の先輩は、首を締め上げられ、苦しみながら、低いうめき声をあげた。
「やり直せるチャンスなんて、いくらでもあったはずだ。それを選択しなかったのは、君だろう。自分は可哀想。それを言い訳にして、閉じこもっているほうが楽だからな。だからって、上に登るものを引きずりおろしたって、君の居場所が高くなるわけじゃない。そんな簡単な理屈、いくらガキでもわかるだろう」
体が宙に浮いて、もがき苦しんでいた偽物の先輩は、金属バットを床に落とした。バットが跳ねるようにして何度も床を打ち、音を立てる。
「ば、化け……物」
「失敬な。僕は人間だよ。ただ少しだけ、人と違っている部分があるだけだ。弟の直都くんだって、家では眼鏡をかけているだろう。それと一緒だよ」
賢人は私を見て、にっこりと笑った。
「泣いてる顔は結構ブサイクに見えるから、笑ったほうがいいぞ、真名」
あの日と同じだ。
事故で意識を取り戻した直後に、ほっとして泣き出した私を見て、笑ったあの笑顔。
体も動かせない状態で、ベッドの中から、こちらを見上げているくせに、やたらと上目線の相手を見下した、高慢ちきな笑い方。
いつものように余計な一言がムカつくけど、死ぬほど格好良い笑顔だった。