先輩の顔色が、どんどん悪くなっていく。
年をまたいでいるとはいえ、私たちは、出来立てホヤホヤのカップルだ。
今日が正式に彼氏彼女になってからの、初デートとなるはずだったのに。どうしてこうなった。
「朝倉くんだっけ、下の名前はなんと言うんだ」
賢人は、私と先輩の間に割り込むようにして、階段を登りながら、刑事が尋問するレベルで次から次へと質問を続けていた。
「直都です」
「やっぱり」
なにがやっぱりなのかわからないが、賢人はニヤリと笑ってから、質問を続ける。
「普段はメガネをかけてるんじゃないか」
「家ではそうですけど」
まさかの条件コンプリート。大柄だけだと思っていたら、メガネ男子だったとは。そんなばかな。
「八神……さんにも言ってないのに、どうしてわかったんですか」
「痕が残ってる」
賢人は先輩の鼻を指差した。かすかに赤いへこみがある。
「顔がむくんでいると、痕が消えにくかったんだろう。どこかの誰かさんと同じように、年末年始だからって、暴飲暴食をしてたんじゃないのか」
誰かさんというのは、私のことか。海老天ぷらを一つ取り上げたことを、まだ根に持っているのだろうか。隙あらば嫌味を言うのは、どうにかしてほしい。
「朝倉くんは、昔は野球をしていたそうだが、どうして今は、文芸部なんてやってるんだい」
「別に……転校した学校に、野球部がなかったので。元々小説は読むのも書くのも、好きだったから。どうせもう野球ができないなら、心機一転、文芸部に入ってみようかなって」
階段を登りきり、境内に入っても、まだ質問は続いていた。もうそろそろ黙ってほしい。
先輩の顔色が、どんどん悪くなっていく。先輩だって、あまりの質問連打にドン引いているではないか。
下手をすると、このまま倒れてしまいそうなほどに、精神力を消耗していそうだ。
「もしかして君にも、お兄さんがいるとか」
「います……けど」
「そのお兄さんの事情で、転校することになった口かな」
「……別に、そんなわけじゃ」
「じゃあ転校の理由はなんだい。大きな怪我をしたとか。それとも学校にいられなくなるようなことをしたとか」
「ただの……父の仕事の都合です」
賢人はさっきから、何を知りたがっているのだろう。
これでは神社にお参りに来たのか、賢人による圧迫面接に、立会いに来たのかわからない。
いやわからなくはない。お参りに来たのだ。危うく本来の目的を、忘れそうになった。
手水舎で手や口を清めて、賽銭箱に小銭を入れる。鈴緒を鳴らし、二拝二拍手一拝をした。
先輩が受験に成功しますように。心の中で念じてから、最後に軽くお辞儀をしてから離れる。
さすがの賢人も、お参りをするまでは黙っていたが、すべてを終えると、間髪入れずに、先輩への質問攻撃が再開された。
「文芸部では、副部長をやっているそうだが、どんな本を読むんだ」
「どんなって……普通なやつです」
「人生で一番影響を受けたと思う本を、いくつか教えてくれないか」
先輩は、付き合っている彼女の義兄に話しても、差し支えのなさそうな、いわゆるお行儀の良い文学青年が、読んでいそうなタイプの作品をいくつか答えた。
実際に先輩が好きな作品は、私が読んでいるのと同じような、甘ったるい恋愛小説や漫画だったはずだが、兄の手前ということで、空気を読んだということだろうか。
「それはおかしいな。今、君が書いている恋愛小説の内容と合致しない」
先輩が密かに、新しい恋愛小説を書いているというのは、前に聞いたことがあった。だが今回に限っては恥ずかしいからと、どうしても見せてくれなかったのだ。
私ですら、どんな恋愛小説を書いているか知らないのに、どうして賢人が知っているのだろう。
先輩は怪訝な表情を浮かべている。
「すみません。言っている意味が」
「最近話題になっているネット小説、あれを書いたのは君じゃないのか。『青菜と桜』というペンネームは、君の名前のアナグラムになっているようだが」
賢人が教えてくれた小説をスマートフォンで確認した。『青菜と桜』『あおなとさくら』『あさくらなおと』『朝倉直都』、確かに先輩の名前のアナグラムになっているようだ。
「まさか、これって」
私がネット小説を見せると、先輩はしばらく内容を読んでから、驚いたような表情をした。何度も首を横に振って答えた。
「違う、これは……俺のじゃない」
「だろうね。朝倉くんが実際に書いたのは、きっとこちらだ」
賢人はスマートフォンをいじって、別のサイトに掲載されているネット小説を表示した。本文を読むと、二つとも内容がよく似ていた。
タイトルは『青い春と白い雨』、ペンネームは『荒草大人』となっている。
そのペンネームは、お雑煮を食べているときに、賢人が私に確認した名前と同じだ。なぜここにその名前が。
「どういうことですか、これ」
私の質問に、先輩は答えない。ただ困惑した表情を浮かべていた。
賢人が、スマートフォンの画面を操作しながら言う。
「実は僕が、大学の研究室で作った『小説ルーツ検索くん』ってアプリがあるんだけど、それを使えば、小説を書く際に、作者が影響を受けたであろう小説の系譜がわかるんだ」
「系譜?」
「調べたい小説のデータを落とし込めば、その小説がどんな小説に影響を受けて書かれたのかを、AIで解析できるんだよ。ほら、こんな風に影響度が%で表示されるようになってる」
賢人はスマートフォンをタップして、アプリの画面を見せた。先輩が書いたという小説の解析結果のリストが表示されている。
「君はさっき影響を受けた本を、いくつか挙げたが、このリストとは一致していない。つまりさっきのアレは、きっと僕に向かって少しばかり格好をつけるためにでっちあげた、いわゆる余所行き用のラインナップだったんだろう。実際には、このあたりに影響を受けてるんじゃないのか」
賢人が指差したリストには、先輩が以前に好きだと言っていた、恋愛小説がずらりと表示されていた。どうやら賢人は、すべてお見通しのようだ。
「しかも不思議なことに、君が書いたと思われる作品と、今話題になっている作品は、80%の割合で合致している。キャラの名前や地名といった固有名詞、物語の結末が若干変更されてはいるが、本文のほとんどは、コピペされてそのまま使われているようだ」
「じゃあ先輩の書いた小説を、誰かがパクったってことなの」
「ってことになる。で、いいんだよな、朝倉くん」
念を押すように、賢人は先輩を見た。先輩が否定しないということは事実なのだろう。
「ただし、君が書いたのは、普通の恋愛小説だったはず。高校生の恋愛模様を短編にして、連作形式でまとめたものだ。なのにコピーされた作品では、ホラー小説になっている」
「恋愛をホラーにって、どういうこと」
「クライマックスで、登場人物たちが抱きしめる、キスをするという行為で、恋愛が成就するはずの場面が、パクリ小説のほうでは、殴り殺すといった、殺害行為に置き換えられているようだ。被害者にされた、登場人物の特徴も変更されているようだね。それが最近起こっている暴行事件の、被害者の特徴に合致しているみたいだけど」
「……なんでそんなこと」
「それはパクった本人に聞いてみないと。朝倉くんには、心当たりがあるんじゃないのか」
賢人が先輩をじっと見る。先輩は目を逸らした。
「……いえ」
「信じたくない気持ちもわかる。こんなことをされるなんて、よっぽどだからね。嫌がらせをされても、仕方がないようなことでもしたのかい」
先輩は驚いたように、賢人を見た。
「例えば……誰かの人生を台無しにしたとか」
先輩は顔をしかめた。吐き出す息は真っ白なのに、先輩の額には汗が浮かんでいる。ずっと降り続けていた雪が泣いているかのように、みぞれ混じりに変わり始めていた。
「どんな理由があろうとも、人の作ったものを勝手に拝借するのはいけないことだし、ましてや悪用するなんていうのは、許されないことだと思うけどね」
「いいんです。全部……俺のせいだから」
先輩は目を伏せると、何もかも諦めた人のように、うっすらと笑みを浮かべた。
「良くはないだろう。このままだと大変なことになるかもしれない。きちんと抗議をしたほうがいいだろう。むしろ今すぐ、警察に相談したほうが良いかもしれない」
「ほっといてください! 何も知らないくせに」
「もちろん君たちの事情なんて知らないさ。たった一つの出来事で、人生が台無しになるなんてことは誰にでもある。よくあることだ」
賢人の言葉に私の胸はチクリと痛んだ。
あの日、賢人の人生は、私の些細な気まぐれで一変したのだ。あれから一度も、賢人は私を責めるようなことを言ったことはない。だからこそ、胸に刺さった棘は抜けないままだ。
誰の人生にも、不条理というものは降りかかってくる可能性がある。だからこそ、「後から嘆いてもどうしようもないことに、時間を割くのは無駄である」というのが賢人の持論だった。
賢人が私を責めることはない。それがわかっていても、正しいからこそ、時にその優しさが鉛のように、腹の底にずっと重くのしかかってくることもあるのだ。
「君の場合は自業自得かもしれない。でも今回の件は、君が悪いわけじゃないだろう。罪悪感を感じて、すべてを放棄するのは、明らかに間違っている」
「罪悪感なんて……」
先輩は何かを言いかけてやめた。
「すみません。用事を思い出したので。ごめん八神、またな」
そう言い残すと先輩は立ち去った。
「ちょ、先輩、待って」
私の初デートが、木っ端微塵に消滅した。すべて悪いのは賢人だ。
「何してくれてんのよ、もう」
「良かったな。若くして、無駄死にする羽目にならずに済んで」
「無駄死にってなんのこと」
「これで、死亡フラグが一つ消えた。お前の死ぬ確率が、少しは減ったはずだ。別の死亡フラグが立っている可能性もあるが、そちらに関しては、僕の領域じゃない」
「だから死亡フラグって、なんの話よ」
「二人の写真は消しておくよ。もう必要ないだろうから」
賢人は踵を返して帰っていく。
「ちょ、ちょっと待って」
あとを追うように私が走り出した瞬間、濡れた石畳に足を取られて滑った。
「大丈夫か」
尻餅をつく直前に、賢人に腕を掴まれた。私を心配そうに見下ろす表情が、なぜだか征士郎さんに見えた。
前にもこんなことがあった気がする。不注意で転びそうになった時に、征士郎さんに助けてもらったのだ。
まだ幼かった当時の私は、どうしてこんなに、心臓が激しく動くのかわかっていなかった。恋というものを知らなかったからだ。
きっと人間の体というものは、心よりは正直にできているのかもしれない。心がわかっていなくても、ちゃんと反応するからだ。
「……どうした」
「な、なんでもない」
征士郎さんは死んだのだ。こんなところにいるわけがないのに。これでは姉と同じではないか。
死んだ人の面影を重ねて、目の前にいる人を、いないかのように扱うのは、あまりにも自分勝手で失礼だ。
「大丈夫だから、離して」
私は賢人の手を払った。賢人は征士郎さんではない。
わかっているのに。ドキドキしているのを知られたくなくて、私は必要以上に不機嫌なふりをしてしまった。
こういうところが、どうしようもなく子供だなと思う。
だがしょうがない。私はまだ子供なのだから。子供は自分勝手で、聞き分けが悪いものなのだ。
「先輩のこと、どういうことなのか、ちゃんと説明して」
「知らぬが仏って言葉を、辞書で調べたほうがいい」
いくら質問しても、賢人は何も教えてくれないまま、東京へ帰ってしまった。