妥協もまた、乙女の武器である。
路地裏を抜けると、神社が見えた。
こじんまりとした鳥居と社があるだけだが、それなりに歴史のある神社らしい。
有名な作家がこの付近を舞台に小説を書いた、なんて逸話もあるそうだ。授業で聞いた気がするが、詳しくは覚えていない。テストに出ない部分でも記憶できるほど、私の頭は良くできてはいないのだ。
きっと賢人なら一度聞いた話は、すべて記憶していることだろう。
記憶力には絶対の自信のあった賢人が、事故のせいで記憶の一部を失ったというのは、どれほどの苦痛だったのだろうか。普段からいろんなことを忘れるのが普通で、ポンコツすぎる私には想像できない。
朝倉先輩の姿が見えた。黒いダウンジャケットとダメージジーンズ、スポーツブランドのロゴが大きく入った黒いエナメルバッグを肩にかけている。学校の制服姿と違って、少し大人びて見えた。
手を振ろうとした瞬間、ママチャリがものすごい勢いで、私の隣を抜き去った。ドリフトするように急停止して、自転車を降りたのは賢人だった。
「ちょ、なんで……」
「お前の足が短くて、助かったよ」
出会い頭にディスってくるとは何事だ。私の鬼の形相にもビクともせず、ニッコリと悪魔の微笑を浮かべている。
こんなことなら、近所の神社なんて選ばなければ良かった。もっと遠くの神社なら混雑に紛れて、賢人を振り切ることもできたかもしれないのに。後悔してもしきれない。
私と一緒に現れた賢人を見た瞬間、朝倉先輩の表情は、実に目まぐるしく変化した。喜び、驚き、落胆、困惑、恐怖、様々な感情がだだ漏れだ。
気持ちは痛いほどよくわかる。私だって感情が爆発している。主に悪い方に。
そんな私の気持ちを知ってかしらずか、賢人はママチャリを、近くの駐車場に置きに行ったようだ。
その隙に私は、朝倉先輩の元に駆け寄った。賢人に聞こえないように、コソコソと耳打ちをする。
「遅くなってすみません」
「さっきのイケメンって、もしかして……」
「……義理の兄です。今実家に帰省してて」
今さら後悔しても遅いが、友達と初詣に行くなんて言わなければ良かった。賢人や藤堂の手前、何人かの友達と一緒にと言ってしまったが、実際には先輩と二人きりで、会う予定になっていたのだ。
「なんで……連れてきちゃったの」
「知らないですよ。勝手についてきたんだから」
文芸部の副部長をしている先輩は、大きなクマみたいな人だった。父親が有名な野球選手ということで、小さい頃は野球部でキャッチャーをやっていたらしい。
文学少年には見えない立派な体格をしているが、中身は少女小説や少女漫画が好きな乙女っぽいところがある優しい人だ。
見た目と中身にギャップがありすぎて、先輩が文芸部だと言っても誰も信じない。私が初めて部室に行った時も、うっかり入る部屋を間違ったかと思ったぐらいだ。
入部当初から、お互いに好きな作品が似ていたこともあり、何かと可愛がってもらってはいたが、冬休み前の終業式に告白されて、付き合うことになった。
先輩のことは、特別好きなわけではなかったが、嫌いでもなかった。
生まれて初めて他人から「好きです。付き合ってください」と言われて舞い上がってしまい、うっかりその場で「はい、よろこんで」と居酒屋の店員並みに、軽く返事をしてしまったのだ。
きっといつまでも実る可能性のない恋の幻想を追いかけて、不毛な学生生活を送るよりは、それなりに嫌いではない人と付き合ったほうが、マシかもしれないという打算が、心の奥底にあったのは否めない。
だが妥協もまた、乙女の武器である。楽しい青春を送るには、必要な能力だ。
「なぁ八神、まさかお前のお兄さん、今日ずっとついてくる気なんじゃ」
先輩は泣きそうな表情で、賢人をチラ見している。体が大きい割に気が小さいほうなのだ。
文化祭のお化け屋敷で、いちいち悲鳴を上げている姿は、なんだかキュウリを見て飛び跳ねる猫みたいで、あまりに気の毒になったぐらいだ。
「本当にごめんなさい。内緒にしてたら、余計に疑われちゃったみたいで。シスコンだから……ちょっと面倒臭いことになるかも」
「そう……なんだ」
先輩はまるで、大事に取っておいたパンが、実はカビていたことに気づいた瞬間みたいに、嫌そうな顔をした。
物事には、避けがたいアクシデントというのはつきものである。初めてのことならなおさらだ。とはいえ申し訳ない気持ちで、いっぱいになった。
賢人の変態っぷりを、甘く見ていたわけではないが、待ち合わせ場所を、わざわざ自分から話したのは、自分のミスだ。
お雑煮を食べ過ぎて、口が軽くなっていた、少し前の自分をたしなめたい。
私が先輩と付き合い始めたことを知っているのは、姉だけだった。賢人と藤堂には秘密にしていたのには、きちんと理由がある。
数ヶ月前、ばったり街中で出会ったクラスメイトの男子と、ただ歩いて帰っているだけなのに、賢人と藤堂は結託し、こっそりと尾行をしていた前歴があるのだ。
それ以来、色恋沙汰は絶対に二人に漏れないようにしていたのに。やはり、うっかり初詣の話をしてしまったのは、まずかったようだ。
周りを見回しながら、戻ってきた賢人が言った。
「ほかの友達は、まだなのか」
「……なんか予定が入っちゃって、こられないみたいだね」
私は白々しくスマートフォンを見ながら答える。賢人が画面を覗き込もうとしてきた。慌ててポケットにしまう。
「なら、さっさとお参りを済ませて帰ろう。こんな寒い日に、外に出てるやつは、頭がおかしい」
やけに寒いと思ったら、雪が降り始めていた。吐く息も白くなる。体を震わせた賢人は、小さなくしゃみをした。
「だったら自分だけ家に帰ればいいのに」
鼻をすすった賢人が、足を止めて振り返ると、私達をじっと見た。
「僕がいたら、何かまずいことでもあるのか」
「別に……そういうことじゃないけど」
「なら問題ないだろ」
賢人はスマートフォンを取り出すと、私と先輩に向けた。カメラのシャッター音が鳴る。二人を撮影したようだ。
「何してるの」
「藤堂さんに、報告しておこうと思って」
「報告って何を」
「大人を騙して、二人きりでデートしようとしてるやつらの顔を」
「ちょ、ちょっと違うから」
賢人はスマートフォンを操作しながら、ニヤリと笑う。
「藤堂さん怒るだろうな。大事にしている真名お嬢様とやらが、自分に嘘をついてたと知ったら……スマホ使わせてくれなくなるかもな」
「お願いだから、やめてよもう」
賢人のスマートフォンを取り上げようとしたが、背の高い賢人が手を挙げると、小柄な私は手の出しようがなかった。
まるで猫じゃらしに振り回される猫のように、スマートフォンを追いかけていると、賢人が堪えきれないように吹き出した。
「冗談だよ。まだ送ってない。今のところは、な」
賢人はニッコリと笑う。いつもの暗黒微笑というやつだ。絶対に私が困るのをわかっていて、わざとからかっている。とんでもないイケメン悪魔だ。
「心配しなくても、僕の質問にきちんと答えてくれたら、この画像は消去してやるから」
「質問って何のこと」
「とても簡単な質問だ。彼が真実を話してくれれば、すぐにすむよ」
先輩を見る賢人の目は笑っていない。
一度死にかけて地獄を見てきたせいか、賢人の悪魔っぷりは、余計に磨きがかかっているような気がする。
「ほら、雪が積もる前に、早くお参りして帰るぞ」
賢人は、社殿への長い石段を登り始めた。