5 黒きモノ
「うおっえ!?」
朝早く、いつもの通りにクリューは用を足しにトイレに向かうと、小さな叫び声を上げた。もはや、コレはクリューの日課になりつつある。
しかし、今回扉を開けて驚いたのは、いつもの様にいる愛娘のミクリが座っていたからではない。
トイレの角にカサカサと動くーー
ーー【黒い物体】がいたからだ。
それは"ゴ" から始まり、"リ" で終わる生き物。
大抵の人間は叫び、ブルブルと怯える……黒光りした生き物。
そう【ゴキブリ】様の御登場である。
ワタシハナニモミナカッタ。
クリューはパタリと、扉を閉めた。
うん、どうしよう。
予告もなくいた先客に、クリューは色んな意味でチビリそうである。いや、明日行きますよと宣告されても嫌だけど。
え?
仮にも竜やワイバーンを討伐してきた、元冒険者だろう? 何に怯えてるんだ?
イヤイヤイヤ。アレとコレとを同じにしてもらっては困る。クリューからしたら、竜に出遭うよりコッチの方が数百倍は恐怖だ。
そうだ、いっその事トイレを爆破させてしまうか?
イヤいやイヤいやイヤいや。
冷静になれ自分。
ゴキブリ如きに、トイレを爆破?
先週、トイレを修理したばかりなのに、また破壊するのは不味い。しかも、爆破はアウトだろう。
そんな事を考えながら、ウロウロしていると背後にミクリがいた。
「パパ、なにしてるの? トイレにおじいちゃんいるの?」
「いないよ」
何処のお爺さんだよ。お婆ちゃんはどうしたのさ。
イヤイヤ、どちらでも怖いけど。
クリューがトイレの前で、固まっているのをミクリは不審に思ったらしい。
言い方からしてトイレに先客がいて、並んで待っているとでも思ったのかもしれない。
「ミクリ、いろんなものがデル」
「え? あっ、うん、ハイ」
イロンナモノ?
そりゃあ、朝だもんね。用を足したいよね。
「えっと、少し待ってもらえるかな?」
ゴキちゃんを退治しない事には入れないし。
クリューは慌ててゴキブリを退治する物を探した。この世界に、ゴキブリ退治用のスプレーなんてないし。虫網はないし、紙を筒状に丸めて叩くかと紙を探しているとーー
ーーパタン。
と扉の閉まる音がした。
「え?」
やっと見つけた紙を丸めようとしたクリューは、音の方向に顔を向けた。
マジですか? ミクリさん。
我慢出来なくなった彼女は、トイレに入ってしまった様だった。
こうなってしまうと、クリューはどうする事も出来なくなり、静かに様子を伺うしかない。
女性のトイレに耳を傾けるのは、もの凄く失礼で気は引けるけど、致し方がないと言い聞かせる。
数分では出て来るとは思うが、1年の様に長かった。
しばらくして、ガタゴトと少しした後、扉がガチャリとゆっくり開いた。
「パパ」
ミクリがキョトンとして出て来た。
ゴキブリには遭遇しなかったのか、悲鳴も慌てる声もしなかった。
クリューはとりあえず、ホッと胸を撫で下ろした。
ーーが、それは一瞬だった。
「トイレに "コオロギ" がいた」
そう言って、ミクリは満面の笑みで手に持ったモノをクリューに見せた。
ミクリサン、ソレ【ゴキブリ】デス。
◇◇◇
結局、ゴキブリはトイレに流しました。
ミクリはゴキブリを触ったので、石鹸で良く洗ってあげたよ。一応、浄化魔法も掛けた。
コオロギと間違えていたとは言え、あのゴキブリを素手で触れるミクリには、言葉がなかった。
怖さを知らない子供って、最強だよね?
トイレで用を足し、着替えてから2人はいつもの食堂に向かう事にした。
「パパ、アレもゴキブリ?」
地面に転がる黒い物体を見つけ、指を差したミクリ。
「いや、あれはカブトムシだよ」
確かに同じ様なフォルムだし、黒く光ってはいるけど角がある。
似てはいるけど、何故こんなにも扱いが対照的なんだろう。クリューは踏まれると可哀想だからと、指で摘んで近くの街路樹に掴まらせた。
「カブトムシはさわれるの?」
ミクリからしたら、どちらも同じ虫扱いである。
クリューの基準が理解出来ないらしい。
「カブトムシは角があって何かカッコいいしね」
「おなじなのに?」
「全然同じじゃないよ」
カブトムシとゴキブリを一緒にしないでくれるかな?
「アレは?」
ミクリは、さらに地面を指で差した。
そこには、灰色のコソコソ動く虫がいる。
「ダンゴムシはちょっと」
「まるくなるから、かわいいよ?」
とミクリが屈むものだから、クリューは慌てて手を引いた。
絶対に今、拾おうとしたに違いない。
「これからご飯だからヤメて」
だけど、触るなとは強くは言えない。
だって、自分はさっきカブトムシを触ったし。
「ダンゴムシたべるの?」
「食べないよ」
なんでだよ。
ミリーナさ〜ん。早く帰って来て下さ〜い。
◇◇◇
朝食を摂ったクリューは、託児所にミクリを預けて冒険者稼業に戻る事にした。
ランクは勿論、1番下のEである。
ランク上げには興味がないから、地道に稼げれば良いだろう。
なにせ、Aランクになると色々面倒くさく断れない仕事に携わる事になるし、万が一にでもSランクになった日にはお偉い方から勅命まで下されちゃうからね。
だから、今回は上げる予定はない。前回は事情があってSランクに上げたけど。まっ、逆に今は上げたくても、歳だし無理だろう。
サクッと冒険者の手続きをした後、依頼の板を見に行く。まぁ、初心者みたいなものだし、今日は簡単な【採取】にしておいた。
薬草と痺れ草。見習いの子供でも出来る依頼である。
でも、近場は子供達に残しておきたいから、少し離れた所で採取したけど。彼等の仕事を奪ったら可哀想だからね。
人にミクリを預けるのは初めてだから、2時間程度にして済ませて帰る事にした。
ミクリも1人では不安だろうと、思ったからだ。
「あれ、クリューさん早かったですね?」
ミクリを迎えに託児所に来たら、保育士のナナが迎えてくれた。
「恥ずかしいけど【採取】の依頼しか受けてないから、すぐ終えられたんだよ」
元Sランクだからって、無茶はしないよ。
身の程知らずではないからね。
「ミクリは大人しくしてましたか?」
何をするのか全く予測が出来ないのが、ミリーナの娘ミクリである。
迷惑は掛けないとは思いたいけど、分からない。
「工作したりして、大人しくしてましたよ?」
とナナが奥をチラッと見れば、ミクリが嬉しそうに走って来た。
「パパおかえり!!」
「ただいま。可愛いミクリ」
クリューは走り寄って来たミクリを、優しく抱き上げた。
その手には工作をしていたと言う証拠に、何やら紙を持っていた。
「何を作ってたのかな?」
「カブトムシの "ツノ" !!」
ミクリは嬉しそうに、色取り取りの角をクリューに見せてくれた。うん、角だ……と言うか、角だけだ。
胴体や頭はどうしたのかな、コレ。
「え? なんで?」
なんで、カブトムシじゃなくて角だけなの?
私がカッコいいなんて言ったから?
「カブトムシのツノがカッコいいっていったから」
「うん?」
でも、角だけって何かな?
クリューも保育士達も、首を傾げていたのは云うまでもなかった。
◇◇◇
ーーその日の真夜中。
クリューは耳障りで、奇妙な音で目が覚めた。
カサカサとした嫌な音が寝室からする。
布団を被ってはみたけれど、1度気になるとどうにもダメだった。
「何の音だ?」
幽霊はカサカサ音は立てない。
ミクリは隣でスヤスヤ寝ている気配が……ない。
ミクリはトイレ? それとも音の原因を作っている?
「ライト」
クリューは奇妙で異様な音と、ミクリがベッドにいない事が気になり、丸い小さな光魔法を部屋に放った。
途端に寝室が一面明るくなり、見渡せた。
ーー光に少しビックリしたミクリが、目の前の床にちょんと座っていた。
「ミクリ? 何をーー」
やってるんだ? と口に出す前に、クリューは何かに気付き絶句した。
ミクリの周りや壁、部屋のいたる所でカサカサした何かが走り回っている。
音の原因が、そこかしこと走り回っていたのだ。
カブトムシ?
いや、カブトムシにしては速過ぎるし、角が赤青黄とカラフル過ぎる。
なんだコレ!?
その瞬間、1匹の何かがクリューに向かって飛んで来た。
「!?!?」
言葉にならない奇声を発して、ソレを叩き落とした。
その衝撃で叩き落としたソレの頭から、角がポロッと落ちた。
良く見なくてもソレは、昼間ミクリが一生懸命に作った色紙の角である。
本来なら角など持たない黒光りした生き物。ソレにカラフルな色紙の角を付けていた様だ。
だが、角を付けても付けなくても、間違いなどなくーー。
「ゴキーーッ!?」
クリューは深夜なのに気付き、慌てて口を手で押さえたが、悲鳴が漏れてしまった。
角を生やしたゴキブリが、部屋中を走り回っている。
クリューの頭は、大パニックである。
奇妙な音で目が覚めたら、何十もの仮装したゴキブリが、寝室で大運動会を繰り広げているのだ。走る、飛ぶ、壁を駆け上がる。もはや恐怖でしかない。
「…………」
どうも出来ないクリューがベッドの上で固まっている中、ミクリは楽しそうに笑っていた。
「パパ、カブトムシがカッコいいっていったから、ゴキブリもカブトムシにしてみた」
ミクリは悪びれた様子もなく、天使の様な可愛い笑顔を見せてくれた。
どうやら、嫌いなゴキブリでも角を付ければカッコいいと、クリューが褒めてくれると思ったらしい。だから、何処からかゴキブリ様を集めて来たのだと、後から聞いた。
カラフルな角を生やした、ゴキブリ。
右往左往に走り回っているゴキブリ。
飛ぶゴキブリ。
ああぁぁぁァァーーっ!!
ゴキブリは何をしても、ゴキブリだからーーっ!!
クリューに1つ、トラウマが出来たのは言うまでもなかった。