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カタカタとパソコンのキーボードを叩く。
ディスプレイには、今日中にまとめておくように営業から指示された、会議に提出するための資料が表示されている。最終的に営業が目を通すとはいえ、失敗は許されない。完璧なものを作成できるように、奮闘中だ。
「よ、お疲れさん」
声と同時に、コーヒーの匂いが鼻をくすぐった。仕事を中断する。デスクには販売機で買ったコーヒーが置かれ、側には同期の立花雅樹が立っていた。
「三時だし、休憩すれば?」
もうそんな時間だったのか。大体目処もついてきたので、ありがたくコーヒーをいただくことにする。
「ありがとう。いつ戻ってきたの?」
「ついさっき」
立花は営業に配属されている。今はまだ先輩についているが、頭の回転も速いし愛嬌もあり何事もそつなくこなしている。将来有望な営業マンだ。
「聞いたぞ。お前、倉敷さんにお茶ぶっかけたんだってな」
にやり、と笑われ、朱莉は、ウッと詰まった。
倉敷とは、昨日、来社した取引先の営業マンだ。お茶を出そうとして、なにもないところで朱莉は躓いた。そして中身を倉敷のスーツに見事ぶっかけたのだ。
幸いにして、倉敷は海のように心が広い人間だった。今日は直帰の予定だから、大丈夫だよ、気にしないで、と、青ざめる朱莉を気遣う余裕さえみせた。危うく惚れそうになった。父親より歳上の五十代の既婚者だけど。
だがその場に居合わせた我が社の営業の口は軽かったらしい。
「……反省してオリマス」
うなだれる朱莉の肩を、立花はポンッと叩いた。
「まぁ、落ちこむなって。失敗なんて誰にでもあるんだから。でも、まぁ、愚痴くらい言いたくもなるだろ。なんなら、俺が聞いてやってもいいぞ?たとえば今日とか、飯でも食いながらーー」
「あ、ごめん。今日は無理」
スパッと断る。
「え?あ、そうなのか?じゃあ、明日とか」
「明日も無理。というか、当分は無理かも」
立花の顔が引きつった。どこか焦りさえ感じる。
「まさかお前、彼氏ができたとか……」
「違うけど、ちょっとしばらく予定入っちゃって」
「なんだよそれ、なにかあったのか?」
なにかあったのは確かだが、説明するわけにはいかない。偶然出会った外国人親子の中身が入れ替わったから、協力することになった、なんて言ったら、とうとう本当に頭がおかしくなったのかと思われかねない。
「なんでもないよ。コーヒーありがとね。よし!じゃあもう一踏ん張り!」
拳を突き上げ気合いを入れる。立花がまだなにか言いたげな顔をしていたが、集中した朱莉の目にはもはや入っていなかった。
「いらっしゃい、アカリ!待ってたよ!」
「うぐぅ!」
玄関を開けるなり熱い抱擁を受け、淑女からは程遠いうめき声をあげてしまった。
だが考えてもみてほしい。普通に生活していればお目にかかれないような金髪外国人イケメンが、満面の笑みで抱きしめてくるのだ。仕方ないと思う。中身は五歳児だけど。
「なにを照れてるんだ」
イケメンの足元から、呆れたような声がした。
天使が冷めた目で、わたわたする朱莉を見上げている。
「照れもしますよ!彼氏いない歴=年齢の乙女をなめないでください!刺激が強すぎます!」
中身は五歳児でも、朱莉を抱きしめる腕は男性なのだ。
身長はゆうに百八十センチを超えているし、細身の体型かと思えば、抱きしめられたことで密着した身体は硬くて、服越しでもしっかりと筋肉がついていることがわかる。おそらく、脱げばすごいんです的な身体をしているはずだ。
「アカリ、彼氏いないの?今まで一度も?じゃあ、誰もアカリに触ったことないんだ?」
「あ、改めて第三者から言われるといたたまれない……っ。そして言い方がなんかやらしいっ」
「アカリ、かわいい!」
「うぐぅ!」
さらに抱きこまれ、頭にすりすりと頬ずりまでされた。は、鼻血が……。
「サミュエル、いい加減離すんだ。俺の身体で勝手なことをしないように」
「はーい」
ノアからの注意を受け、サミュエルは素直にパッと身体を離すと、肩をすくめた。
助かった、と胸を撫で下ろしながら、二人の後を歩いてリビングへ向かう。
「あの、何度も言いますが、私、料理はあまり得意ではないんですが、いいですか」
尋ねる朱莉に、ノアは頷いた。
「構わない。ワガママを言える状態じゃないしな。サミュエルは料理ができないし、しばらく外食も控えたいから」
「そうですけど……」
朱莉が仕事帰りにこのマンションに来たのは、二人の晩ご飯を作るためだった。
ノアは一通り家事はできるらしく、日本滞在中も外食ばかりではなく自炊をしていたらしいのだ。だが、身体が五歳児になってしまった今、小さい身体で今までのように料理するのは難しく、また、サミュエルも当然料理ができない。
外食しようにも、二人とも、特にサミュエルだが、まだ身体の感覚が掴めないらしく、ぎこちない動きになるので、傍目からみたら色々と不自然な親子には違いないだろう。
この不可思議な状況は、極力周りにばれたくない。だったら家で食べるのが一番安全だ。そこで朱莉の出番となったわけなのだが。
「いいんだろうか」
朱莉はキッチンで息を吐いた。
高級マンションに似合いの、最新調理器具が揃った広々としたアイランドキッチン。そこから作りだされたのは、親子丼である。
食べやすいように、おかずがいらない単品料理にしたのだが、ノアの感想は一言、
「普通」
だった。
そりゃそうだろう。
就職するまでは実家暮らしで、座っていれば母親お手製のご飯が出てきて、家を出て一人暮らしをしてからは日々の仕事に追われ腹が満たされればなんでも良かったのだ。凝った隠し味とかそういったものはなにもない、単純明快な料理しか作れない。
我ながら女子力のなさにうんざりしつつ、出前を取ってもらったほうがいいのだろうかと考える。その場合、晩ご飯を作るという朱莉の役目はいらなくなるわけだから、ここに通う必要はなくなるのだろうか。だが、二人のことは気になるから様子は見に来たいし……。
「今日一日、色々と調べてみたんだが」
思案していると、ノアが切りだした。
「元に戻る方法ですか?」
問いかけると、ノアは頷いた。
中身が入れ替わった以外、身体自体には特に影響がないこともあり、とりあえず少し様子を見てみると昨日は言っていたが、やはりなにもせずにはいられなかったようだ。
朱莉は親子丼を食べていた箸を置いた。ちなみに食費はノア持ちでいいとのことなので、しばらくは節約できそうだと少し喜んでしまったのは内緒だ。
「やはりというか、期待したような答えは得られなかった」
そうだろうな、と朱莉も思った。こんな荒唐無稽なことを真面目に解説しているような医学書やサイトなんて存在しないだろう。探している立場でいうのもなんだが、あったとしても胡散臭すぎて信用できない。
「なので、俺たちで色々試してみた」
「試す?」
「たとえば、あのときと同じように頭に衝撃を与えたらどうかと考えた」
「え!そ、それはつまり」
「頭突きをした」
「そうそう!すごく痛かった」
不満そうに口を膨らませるサミュエルの額が、少し赤くなっている。確かに、ノアの額も赤い。
「か、かわいそうに……っ」
天使の額が傷モノに……!
「ぼくの心配はしてくれないの?」
思わず涙目になってノアを見ている朱莉にご機嫌斜めなサミュエルだが、見た目が子供なぶん、どうしてもノアの方が痛々しく見えてしまうのは許してほしい。
子供の身体のほうがダメージは大きいはずなのに、ノアは耐えたのだと思うと、いじらしいやら健気やら。じーん、と感動を覚える。
「サミュエルくん。きみのパパは男前だね」
感激する朱莉に、いきなりなんなんだ、と眉を寄せるノア。その隣で、サミュエルは顔を輝かせる。
「うん!パパは世界一格好良くて、自慢のパパなの!」
微笑ましくて、ふふ、と朱莉まで笑顔になる。
なんとも言えないほんわかとした空気感にいたたまれなくなったのか、直球の賛辞が恥ずかしかったのか。ノアの耳がほんのりと赤くなっているように見えたのは、きっと気のせいではない。
「褒めてもなにもでないぞ」
いえいえ。照れたことを隠すようにあえて表情を引き締めようとしているその姿だけで充分です。ご飯三杯はいけます。とは、もちろん口にはせず、ただにこにこと微笑んでいたら、今度こそ本当に嫌な顔をされてしまったので、朱莉は慌てて顔を引き締めた。