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大人になって社会に出れば、バリバリと働くできる女性になれるのだと思っていた。
颯爽とオフィスを歩き、部下ができたら尊敬の眼差しを送られたりするような。
間違っても、取引先の営業マンのスーツにお茶をこぼしたり、電話を取次つもりが保留ボタンを押し忘れて受話器を置いたりなんかしない。
「しないはずだったのに……」
佐々木朱莉、二十三歳。理想とは程遠い現実を前に、打ちのめされ中である。
「あ〜、なんで私はこんなドジに生まれてしまったんだ」
社会人一年目。現在の会社に営業事務として入社して半年近く経つというのに、未だに凡ミスを繰り返している。
幸いなことに、まだ損失を出すような大きなミスはしていない。だがそれは周りの環境に恵まれているからだと充分理解している。大丈夫、これからこれから、と笑ってフォローしてくれる上司や、まだ新人さんだから、と苦笑交じりに許してくれる取引先の人たち。優しい言葉をかけられるたび、申し訳なさでいっぱいになる。
だが、新人という免罪符も、そろそろ通用しなくなることはわかっているし、その立場に甘えるつもりもない。お給料をもらっているのだから会社にとって戦力にならなければいけないし、ミスなんて許されない。せめて足は引っ張らないようにと、日々、必死に仕事に取り組んでいるというのに……。
はぁー、と深いため息が、広い公園の中にひっそりと消えていった。
時間はお昼なので、朱莉以外にも外でランチを取っている人がちらほら見える。
この公園は割と静かな雰囲気が気に入って、落ち込んだときはよく訪れる。今日も、午前中の反省点を思い浮かべながら、持参したお弁当を食べていたのだが。
ーーん?
視界の端に、きらっ、となにかが煌めいた。
見ると、向かい側のベンチに、ぽつんと子供が一人で座っていた。ふわふわの金髪が太陽の光に輝いていて、とてもきれいだ。明らかに日本人ではない。ただベンチに座っているだけなのにポストカードのような雰囲気を醸し出していて、眼福には違いないのだが……。
朱莉は、あたりをキョロキョロと見回した。サラリーマンやOL、散歩している老夫婦の姿はちらほらみえるが、男の子と関わりのあるような人物がいない。
迷子だろうか。だとしたら、いくら日本は治安がいいとはいえ、子供を一人にしておくのはまずい気がする。
朱莉は弁当箱を素早く片付けた。立ち上がって、男の子に近づく。
「ねぇ」
話しかけると、男の子が顔をあげた。目が合い、朱莉はよろめいた。
ーーう!て、天使!
澄みきった蒼い瞳は地上に舞い降りた天使のようで、思わず崇めそうになる。だがもちろん人間だとわかっているのでそんなことはしない。それよりも、重大なことに気づいた。この子は日本語が話せるのだろうか、と。
「え〜、と。あの、オカアサンカオトウサンハ?」
それっぽい発音で聞いたところで、言ってることは日本語だ。なにいってんの、私、と自分の馬鹿さ加減に落ちこんでいると、天使が口を開いた。
「パパと一緒だったけど、はぐれたの」
「日本語!」
びっくりするくらい流暢な日本語だった。もしかしてこの子は日本人なのかと思ったが、こんな日本人がいたら遺伝子の突然変異が起こったと大騒ぎだろう。そんなニュースを聞いた覚えもないので、日本で暮らしているのかもしれない。なんにしろ、日本語が話せるのなら意思の疎通が図れると、朱莉はホッとした。
「パパと二人できたの?」
隣に座りながら問いかける。
「そう。小鳥を追いかけてたら、パパがいなくなってた」
はぐれた理由まで天使のようだ。
「きみ、名前は?」
「お姉さんが先に教えて?」
こてん、と首を傾げられ、ぐぬぬ、と言葉に詰まる。なんだろう、この可愛さは。先に名乗らないあたり子供らしくない聡明さを感じるが、あざとさをまるで感じないのはやはり容姿が天使だからか。
「私は、佐々木朱莉。この近くの会社で働いてるの」
そう言うと、天使はびっくりした顔で朱莉を見た。
「働いてるの?お姉さん、何歳?」
「二十三歳」
びっくりを通り越し、衝撃で固まっている。蒼い瞳がぽろんとこぼれ落ちそうで、思わず手のひらで受け皿を作ってしまったくらいだ。
「……お姉さん、とっても若いんだね。まだ十代に見えるよ」
「……ありがとう」
素直に喜べない。
外国人から見て日本人は若く見えるというけれど、朱莉の場合、同じ日本人から見ても若く見られる。つまり、童顔なのだ。いまだに未成年だと間違えられるので身分証明書は常に持ち歩いているし、年齢を言えばほぼ百パーセント驚かれる。
身長は百五十センチと小柄な方だし、黒髪ストレートのボブが幼さを強調しているのかもしれない。あまり長いのは苦手なのだが、ここはいっそロングにしてゆるくパーマでもかけてみるか。そしたら少しは大人の色気が加味されるかもしれない。
まぁ、それは追い追い考えるとして。
「きみの名前も教えてくれる?」
「……サミュエルだよ。五歳」
最近の五歳はこんなに落ち着いているのか。それとも外国人だからか。いや、サミュエルだからなのか。
「なんか、しっかりしてるね」
感心して言うと、サミュエルは首を傾げた。
「そうかな?普通だよ」
「いやいや。そこはかとなく漂う風格が五歳とは思えなくて、きみの将来が私は怖いよ」
天使が成長した姿を想像してみるが、行き着く先はもはや神様しかない。
はぁ、とため息をつく。
「私なんてさ、なにしても上手くいかなくて。小さいころから要領が悪くて、一つのことしか集中できないの。他のこと頼まれると、もうダメ」
たとえばお茶だしを頼まれたとする。戻ってきたころには直前までしていた仕事を忘れて、他のことに取りかかってしまう。しばらくしてから思い出し、ひぃーっと青ざめるのだ。
「なにか対策をとるとか」
五歳児がアドバイスをくれる。
「私もそう思って、メモを貼ったりするんだけど、貼ったことすら忘れちゃうの!だからね、家でいるときに忘れたくないことは、顔にかいてるんだけど」
「顔!?」
「あ、大丈夫、フェイスペイント用のを使うようにしてるから!」
殊の外びっくりされたので、慌てて補足する。
「ほら、顔なら、鏡に映るとすぐに目に入るし、一人暮らしだから誰にも迷惑かけないし」
「そういう問題じゃないと思うんだけど……」
天使が顔を引きつらせている。しかしすぐに、プッと吹きだした。
「アカリは面白いね」
「私は真剣なんだけど」
「うん。真剣だから面白いんだよ。ねぇ、もっとお話しようよ。まだアカリと一緒にいたいな」
最近の外国の五歳児は、ナンパじみたことまで言うらしい。朱莉としてもまだまだ天使と戯れたいところだが、残念ながらお昼休憩には制限がある。かと言って、このままこの子を一人置いていくのはとても心配だ。どうしようかと思っていると、大通りを挟んだ向かい側の交番が目に入った。そうだ。交番があったのだ。ここで一人にするよりは、交番の方が安全だろう。
「ごめんね。私、もう行かなきゃいけないの。だから、あそこでパパのこと待っててくれる?」
交番を指差すと、サミュエルは少し落胆した顔で頷いた。
「オッケー。仕方ないね。パパもぼくが見つからなかったら、そのうちあそこに来るだろうし」
サミュエルはぴょんっとベンチから飛び降りた。
「アカリ」
まるでエスコートするみたいにごく自然に手を差しだされる。さすが外国人、レディに対する振る舞いが遺伝子に組み込まれているようだと妙な感心をしながら、小さな手を握る。
「気をつけてね、アカリ」
大通りに行くには階段を降りなければならない。今まで子供扱いをされたことはあっても女性扱いをされたことがなかったので、階段を降りる際の優しい言葉に不覚にもときめいてしまう。五歳児相手に。
「あ、パパだ!」
あまりの不毛さに嘆いていると、階段の途中で、不意にサミュエルの声が弾んだ。
階段の下には、今まさにこちらにあがってこようとする男性がいた。
軽く後ろに流した金髪に碧眼。おしゃれな雑誌から飛びだしてきたような、サミュエルが大人になればこうなるんだろうなと思われる、直視できないほどの輝きを放つ美形だった。
「サミュエル!」
「パパ!」
親子が互いの名前を呼び合う。感動の再会だ。
サミュエルが朱莉の手を離し、嬉しそうに階段を降りていく。歳の割に大人びて見えたが、こんな姿を見るとやっぱりまだ五歳なんだなと思えてなんだか安心した。
だが段々、早足になっていく。階段を走り降りるのは危ない。そんなに長い階段ではないが、踏み外したら大変だ。
「サミュエルくん!足元気をつけ、ーーあぁ!」
ハラハラしながら注意を促したが、遅かった。朱莉の目の前で、サミュエルは躓いた。小さな身体が宙に浮く。
「サミュエル!」
男性の切羽詰まった声が響く。朱莉は咄嗟に目を瞑った。