四
約束通り一週間後には刺繡が入った匂い袋は完成した。
棘を持つ葉の特徴を活かし、大ぶりに双葉が刺繍され真ん中に小さくて可憐な白い花が施されている。
袋は赤い色を選んでより白色が目立つように工夫されている。自慢の一品に出来上がった。
ところが昼近くになってもパラムは現れない。
蒼穹の中で、からかわれたのではないかと言う気持ちが芽生え始めた。本人が用事で来られないのなら、使いの者を寄こすことだって出来るはずだ。
蒼穹は張り切って刺してくれた母親に申し訳ない気持ちになってしまう。
昼時になると隣に店を出す者の元にお弁当を運んで来た小さな子どもの声がする。風呂敷袋を大事そうに抱える姿を見ると兄弟のいない蒼穹はちょっぴりだけ羨ましくなる。まだ五つにもならない子が家族のために役に立とうとお使いを買って出て、自分の役目を果たしている。家族でお互いを認め合い、必要とされる喜びを分かち合っている姿は、ひとりで何もかもを背負う蒼穹には眩しく映る。
兄がお弁当を食べ終われば空の器を持って帰っていく。それまでの間暫し店番をするのも小さな弟の役目だ。見ると今日は心なしか元気がない気がする。
「どうしたの。元気がないね。顔色が悪いよ」
「お姉ちゃん、お腹が痛いの」
栄養が足りない子供たちは度々腹を壊して痛みを訴える。
まともに食べられない腹を満たすために拾い食いをするのは日常茶飯事だ。こんな暑い時期に腐った物を食べれば流石の丈夫な胃も音を上げてしまう。
「こうして手をかざして温めてあげようね。少し楽になるよ。おまじないもしておこうか」
子供の頃から母がしてくれた呪文がある。
ーーー痛いの痛いの飛んでいけ。
そう言いながら子供の腹に手をかざす。
蒼穹の掌から熱が伝わって、じんわりとお腹の奥が暖かくなると、やがて子供の痛みは引いていくようだった。
「もう痛くないよ。ありがとうお姉ちゃん」
こんなことが何度となく起きて蒼穹は己の力が特別なものではないかと思うようになった。
母親の真似をして、『痛いの痛いの飛んでいけ』のおまじないと患部に手を当てる事を覚えた幼い日。母親が針仕事でチクリと刺した指先に触れると滲んだ血がいつの間にか消えていく。転んで擦りむいた傷は一晩の間に治ってしまった。そういうものだと思っていたが外で働くようになってそれはとんでもないことだと気が付いた。
蒼穹には命を癒す力が備わっていたのだ。
それは人間の身体的傷ばかりとは限らなかった。枯れた花が蘇ったり、傷を負った小鳥が飛べるようになったり、万物の命を癒す力だった。
苦労をして来た分、蒼穹の母親も用心深い性格で、そんな娘の能力にいち早く気が付くと蒼穹に言って聞かせた。
「このことは誰にも知られては駄目よ。知られれば蒼穹はお母さんと一緒にいられなくなる。離れ離れになって二度と会えなくなってしまうわ」
それは耐え難い恐怖として蒼穹の潜在意識に植え付けられた。
蒼穹は用心深く力を使い、人前で披露することは極力避けた。
大きくなるにつれて能力を自在に操る術も覚え、己の力を封印して冬眠状態にすることも可能だ。救える数には限りがある。あの人もこの人もと欲張っては限がない。医者に掛かれる余裕があるなら蒼穹の手は必要ないだろう。それでも痛みに苦しむ貧しい子どもたちを見過ごすことは出来ず、こうしてこっそりと力を使っては助けている。癒しの力がこんな風に困った人の手助けになるなら、悪いものでもないと感じている。
ただし、利用されるのはまっぴら御免だ。
特別な力を持つ者が巫女として名乗り出る定めはない。どんなに貧しくとも民には平等に税を課すくせに、特別なものは王に差し出せと言う。差し出し、正しいことに使われるのなら喜ばしいが、私利私欲に取りつかれた愚か者が官僚の中にも大勢いる。本当に困っている人々の力になれるのか怪しい限りだ。必要なのは特異な力で、蒼穹を必要としてはいないのだ。仮に宿る箱物として蒼穹は大切にされるかもしれない。けれど王家の人々のように蒼穹の家族、即ち、母親まで守ってくれるかと聞けば答えは否だろう。
人知を超える大きな力は人を恐怖に陥れる。
理解できない出来事に未来を予測することは不可能だ。
死と同じく想像でしか語れない絵空事は、やがて神の領域を犯す罪深い行為だと弾圧される。
罪人に自由など与えられない。
いつ暴走するか分からない力なら閉じ込めた方が安全だと妄信が囁かれ、異端児は密かに集められて、やがて歴史の闇に葬られていく。
大勢の平凡なる民のために、一握りの非凡なる民は消えていく。そして神に身を捧げ、王に忠誠を誓う者だけが生き残ることを許される。それは自由のない奴隷と同じだ。
誰がそんなものになりたいと望むだろう。
傅かれ、崇められても自由の翼を奪われるかわいそうな巫女様。
ユクと言った少女は王宮のどこかで今日も神に祈りを捧げているに違いない。
「今、この子に何をした」
いつの間に現れたのか、注文をくれたパラムが蒼穹の目の前に立っていた。
「え……」
「そなたは一体何者だ」
「……」
答えを蒼穹が知るはずもなかった。父親の顔も知らず、何処の国の生まれなのかも分からない迷い人だ。
記憶の奥にわずかに残る薄茶色の瞳。どこかでこの瞳に見つめられた気がする。
それは決して心が浮き立つような感情ではなかったはずだ。
今も見つめられて足がすくみ動けない。
男は前世では蒼穹をいじめていた天敵かも知れない。
逃げなくては。
何故か蒼穹の心はざわついていた。