水面に浮かぶ月 その壱
神聖なその小部屋には何もなかった。
神を迎える祭場は、御供も、聖水も、灯さえも置いてない。
真っ白で無機質に切り取られた空間があるだけだった。
それなのに、ここには確かに神が存在すると魂が蒼穹に呼び掛けてくる。一歩足を踏み入れただけで蒼穹は泣きたい気持ちに襲われた。
神は語り掛けるでもなくただじっと人間の行いを見ている。
全てを見透かされ、蒼穹の全てが晒されて、心も、身体も、己の全てが無に返るようだ。
与えられた大きな力を蒼穹が正しいことに使ったとしてもそれが何だというのだろう。
愚かで浅ましい人間の行為に比べたら僅かな善行にしか値しない。
蒼穹とユクの違いなど取るに足らない小さな差だ。
ユクの本質が人間そのものなのだと神は知っている。
成す術もなく蒼穹は床に倒れ込み、己の無力さに絶望して慟哭し、人の弱さを嘆き続けた。
しばらくすると何かに縋りつきたい気持ちを堪えて、姿勢を正し、胸に手を当てて息を整える。そうして蒼穹は神とようやく向き合うのだった。
「……分かったことがあります。---あの子は私なのですね。私はあの子を見て己を知り、あの子もまた私を見て己を知るのでしょう。私が力を使えばあの子の中の欲は膨らみ、欲の分だけ苦しみが大きくなるのですね」
最初は些細な望みだっただろう。
美味しいものを食べたい。
綺麗な衣を着たい。
叶えるたびに満たされて幸せな気持ちでいたはずだ。
それなのに、同じ星の元に生まれた一方が大きな力を持ち、あらゆる幸福を手に入れてしまった。
そんなことが許される訳がない。
蒼穹もユクも同じ人なのだ。
神にすればおもちゃを与えたに過ぎない違いなのだ。幼い赤子が大人を真似て遊ぶ姿を微笑んで見ていただけ。そんな神の意志など知らぬ人は与えられた者だけが特別な存在だと嫉妬する。
悪が栄えれば善が施され、太平な世には天変地異が起きる。
世の中の均衡とは幸、不幸が重なりながら保たれているものだ。
蒼穹がかつて手を差し伸べたのは自分勝手な思い付きで、命を長らえたその者の人生が幸せであるとは限らない。
悲惨な現実を目の当たりにして黙っていることが出来なかったのは、見ていることが辛かったからだ。クルムが熱にうなされるパラムを放っておけないのと同じく、苦しむ姿をただ見ているのが辛いのだ。辛い自分を何とかしたくて、手を差し伸べているに過ぎない。
あの小さな弟はこの先地獄のような苦しみを味わうかもしれない。
道端で凍える老婆に暖を与えても、貧しいもう一人の老婆に衣を奪われる運命かも知れない。
身勝手な思いを押し付けて人助けだと思い上がっていたのは誰なのか。
「浅はかな私の考えなどご存知の大地に溢れる幾多の神様、どうかお許しください。愚かな私たちをどうか、お許しください」
蒼穹は神を前に平伏した。
これ以上の災いが起きないように祈るしかない。
無力な人間はただ神に縋るだけだ。
かつてこの神殿の主であった巫女たちも非力な己を知り、嘆き悲しみに暮れたことだろう。
謙虚に慎ましく暮らし、権力とは遠く離れて勤めを果たしたのはそんな経緯があったからに違いない。
ひたすらに自問自答を繰り返し、正しい力の使い方とは何か考える。
蒼穹に出来ることはそれだけだった。
※※※
「随分と熱心にお祈りを捧げていたのね」
どれだけの時間が過ぎたのか、気が付けばユクの姿が隣にあった。
「神様にお伝えしたいことが沢山あるのです」
「神様って意地悪よね」
「意地悪ですか?」
「そうよ。生まれた時から身分の差はあるし、容姿も、生まれてくる両親も選べない。男女の性別だって決められて生まれるんだもの。---私は男に生まれたかった。そうしたら父上は私をもっと大事にしてくれたでしょうね」
一族を継承するのは男子の性と決められている。
跡取りの男子が生まれなければ養子を迎えて後を継がせるのが習わしだ。
女子の地位は低く、名家に嫁ぎ男子を生むことが最大の親孝行と言われている。なまじ頭の良いユクには生き難い世の中なのかも知れない。
「義兄様は女の私を見下して威張り腐っていたのよ。自分だって次男で叔父上の家を追い出されたくせに。小学だって、中庸だって、私の方が先に修得したのに、男だと言う理由だけで後を継ぐのよ。私の生家なのに! 私のご先祖の財が全て奪われてしまうの」
「お辛い思いを為さったのですね」
「私が巫女に選ばれて一番に喜んでいるは義兄様よ。出て行って清々しているはずよ。兄妹の好も情もないんだから当然よね」
「そんなことはありません。きっと内心では心配なさっていますよ」
「賤民なのに、随分と世間知らずなのね。だから悪い連中に利用されるのよ。私が呼び止めなかったら今頃お前はあの世行きよ」
「私は自分の信じることをやっているだけです。決して利用などされません。私の心を誰にも渡したりはしません」
「面白いことを言う子ね。まあいいわ。お前が改心するように祈ってあげる。時間はいくらでもあるもの。市場に売っていた菓子よ。持って帰りなさい」
紙袋に包まれたそれを受け取るとほんのりと温もりが残っている。
約束通り、日の暮れる前に戻ったユクが蒼穹にお土産まで用意してくれた。その気持ちがうれしくて蒼穹は心が少しだけ軽くなった気がした。この単純でいい加減な性格を神はそれでも許してくれるだろうか。人の不幸を神が望んでいるわけではないと蒼穹は信じたかった。
「焼餅ではありませんか。大好きな菓子です。巫女様ありがとうございます」
「巫女の私に餅代を寄こせと言うのよ。私が巫女だと言っても誰も信じなかったわ。民に巫女の存在をもっと知らしめないといけないわね」
「はあ……」
もしかしたら、パラムの悩み事がまた一つ増えたかも知れない。
蒼穹はパラムを思い出して慌てて神殿を後にした。




