弐
王宮内はとても広く迷路のように複雑な作りになっている。
風水地理に基づき建てられた殿閣が正宮を含めて二百以上もある。敷地に数えれば十万坪以上の広さなので、全部の殿閣の位置を把握しているのは、王宮に住む者でも少ないだろう。
蒼穹など用があるのはパラムの住まいだけなのでそれ以外の場所を訪ねたことはない。
すたすたと前を歩くユクの後ろを付いていきながら帰りの道のりを間違えないか心配になってくる。
迷子になったら永久に王宮から出られそうにない。
蒼穹を逆賊と決めつけたユクが向かうのはおそらく神殿だろう。世の中の秩序より自分の都合を優先するユクのことだ。弱みに付け込んで利用しようと何かしら企んでいるに違いない。
それを承知で蒼穹はユクについて行く。
ユクに監禁まがいの扱いを受けようと王宮へ出向いた足跡は残してある。いつまで経っても姿を現さなければ不審に思ったパラムが探してくれるに違いない。だから安心してユクの言うとおりにしているが、気がかりなことが無いわけではない。
滅多なことでは平常心を失わない蒼穹でも神殿に向かうとなれば話は別だ。
神に選ばれながらその役目を放棄した負い目は常に感じている。神殿に足を踏み入れる資格がないことは蒼穹が一番よく分かっている。それなのにあっさりと連れて来たのはユクだ。これがパラムだったら絶対にうんと言わなかった。やはりユクとは何かしらの因縁を感じずにはいられない蒼穹だった。
護衛が付く一際重厚な門を潜ると先ずは立派な庭園が広がっている。
梅や牡丹、つつじなど馴染みの花が至る所に植えられその他に松の木、エノキ、楠木がすくすくと育っている。人の出入りを嫌うよな豊かな緑の園を抜けると、奥手には池が広がり池に続く石畳が真直ぐに伸びている。石畳を歩いた先の池の真ん中には二階建ての殿が見える。あれが神殿だと蒼穹は確信する。
天に向かって伸びるように建つ殿とは反対側、東の宮にユクは入っていく。
ここはユクが普段過ごしている寝所にあたる。
蒼穹を招き入れると、ユクはその姿をまじまじと見つめた。
「いいわね。うりふたつだわ」
「何のことでしょう」
「私たち似ていると思わない?」
「ええっ」
「ちょっと町まで出かけて来たいんだけど、その間あんたには私の代わりになって貰いたいの。後ろ姿なんてそっくりじゃない。これなら見つかりっこないわ」
「待ってください。私に巫女様の身代わりになれと言うのですか」
「そうよ」
「そうよって……」
本来影武者とはその姿形が瓜二つの者が成りすますものだ。二人は顔の造作などまるで別人だ。
蒼穹とユクの共通点と言えば背格好が近いことくらいだろう。周囲の者に直ぐばれてしまう影武者なんて聞いたことがない。
「無理です。絶対に知られます。私と巫女様は全然似ていません」
「白袖に袴履いて神殿でお祈りしていれば顔なんて分からないでしょう。後ろ姿しか見えないから誰も気付かないわよ。分かっているの? あんたに拒否権はないの。言うとおりにしなさい」
王妃の命を狙っておきながら図々しいとでも言いたげだ。
後ろに控えるお付きの女官は頭を垂れたまま微動だにしない。とんでもないことを言い出したのに助け舟を出してくれる者はいない。
聞こえていても聞こえぬし、見えているのに見えない振りをする。
女官が余計な口を挟めば命に関わる大事になってしまう。ここに正義など存在しない。力を持った者が正しく、それが王宮という場所だ。
本当なら蒼穹が為すべきことをユクが代わりに引き受けている。
窮屈な王宮を抜け出して町に出たい気持ちは蒼穹にもよく分かっていた。
「---お戻りは何時でしょうか」
「すぐ戻るわよ」
残念ながらその言葉は全く信用できない。
いそいそと楽し気に着替えを始めるユクの腕を掴んで蒼穹は癒しの力を込めて左手で引き寄せた。
「久しぶりに町に出たからといって無茶はいけませんよ。日が暮れるまでに必ずお戻りください。私がここで待っていることを忘れないでください。約束ですよ」
「---ええ、分かったわ。日が暮れる前に帰ります。約束です」
素直なユクは少女らしく実に礼儀正しい。しっかりと身につけてきた淑女としての教育が遺憾なく発揮される。猫の皮を被っていればユクも立派なお嬢さまだ。
ユクが無事に帰ることを願いながら出掛けて行く姿を見送る蒼穹だった。
※※※
背格好だけはよく似た二人だけあって巫女の衣装は蒼穹にぴったりだった。
袴に着替えただけで背筋が伸びて自然と厳かな気持ちになる。巫女たちはどんな気持ちで毎日神殿に出向いたのだろうか、蒼穹は神殿に向かいながら歴代の巫女たちに思いを馳せる。
先程見た池に続く石畳をゆっくりと進んで行けば池には蓮の葉が浮かび薄桃色の花を咲かせている。穏やかな水面の上をあめんぼが器用に泳いでいく。空は青く太陽が照り、地上の生きものに希望の光を届ける。
ありふれた何でもない一日のひと時。騒々しい市井と同じ世界だとは思えないほどだ。
とても静かで穏やかなその場所に蒼穹が一歩足を踏み入れた時、一瞬だけ風が吹き過ぎ去っていく。
二階建ての神殿は天井が高く吹き抜けになっている。蒼穹が天井を見上げるとまるで空に吸い込まれそうな錯覚を覚える。
そこから先の奥の間が、神に選ばれた巫女のみが入ることを許された祈りの部屋になっている。
外の世界と隔離された僅か三畳ほどの小さな部屋で神と向き合いひたすらに祈りを捧げる場所だ。
(さあ、神様にご挨拶申し上げなきゃ)
蒼穹は覚悟を決めて、その扉を開いた。




