第3話:使命の中で
来る日も来る日も、戦場で銃を撃ってきた。もう何十年此処に立ってきただろうか。幼い頃、軍に引き取られ銃を握ってきた。仲間や敵兵の血を浴びてきた。
数多の戦場を潜り抜け、ずっと殺しを教わってきた上官に先立たれ、いつの間にか軍を一つ動かすまでになった。
私はいつまで経ってもこの世界から逃げることはできない。何十年も握り締めている死への切符はきっと、もう既に期限切れなのだろう。
恋もしなかった、愛も知らないままだ。物語の中でしか、そんな言葉を聞いたことがない。本当はどんなものなのか、どんな形をしているのか、何も知らない。それを知って子を産み育ててしまっては、産んだ子供が可哀想だ。こんな世界に産み落とされた子供は、きっと私を憎むだろう。
……私も、母を憎んでいる。
今、私に家族はいない。確か、私が5歳の頃。私をこの地獄に置きっ放しにして、天国へと先だった。色んなことを教えてくれた両親は、最後は私を一人ぼっちにした。
私の一族は「邪教徒」と呼ばれていた。みんな捕まって、みんな逝った。
なのに、私は救われなかった。人を殺すことは、人を救うことである、と。ずっとそう教わり続け、人を殺し続けた家族はみんな、国軍に救われた。
最期の表情はみんな笑顔だった。使命を全うした、清々しい顔だった。
なのに、私は救われなかった。何故か生かされ、この地獄に取り残された。
そう思っていたけれど、神様は言っていた『人を救え』と。『人を救ったものにしか、死は与えられない』と。
人を救ったことのない者に、天国へ行く資格などある筈もなかったのだろう。
五歳で家族を失って、五歳で軍に入れられた。自由を握られた奴隷であれば女は娼館、男は奴隷船への売買が当たり前の時代だ。使命を果たせる軍に引き取られたのは不幸中の幸いだった。
子守唄は兵士の怒号。私の言葉を聞いてくれる友人は負傷兵だけだった。
配膳係、掃除係、色々やった。気付いた時には銃を握って人を殺していた。最初に殺したのは負傷兵だ。「死にたい」と言っていた。「戦争は辛い」と。「生きるのが苦しい」と。
だから私はその兵士を撃ち殺し、救った。その兵士は自殺する為の腕を失くしていた。だから、私が代わりに救ってあげた。
その時殺した兵士の顔は今でも忘れない。あんなに清々しい表情を、生まれて初めて見た。一族の教えは間違っていなかったと実感した。
兵士と同様に兵役についた、女の性は夜では戦士の休息所で重宝される。ストレスの多い戦場で女は宝だ。強くなるまで、昼は訓練、夜は輪姦を繰り返していた。だけど私は波の兵士なんかより、ずっと強くなった。
それから20年、私は戦場で死ぬことすら許されずに、のうのうとこの地獄を生き延びている。
これは悲劇だ。私が見知り触れ合った者たちは、次々と私を置いてあの世へ旅立って行く。こんな苦しい生き地獄に1人残して。
……まだ、足りない。私に託された畢生の使命を果たさなければ。
人を救うんだ。私が、救世主だ。
かの聖処女が庭先で聞いた神のお告げと同様に、私も聞いたことがあるような気がするのだ。
幻聴かもしれない、捏造かもしれない。
だけど、『人を救え』と。
『たくさんの人を、救え』
そう、声を聴いたのは、もう随分と前のような気がする。
⌘ ⌘ ⌘ ⌘
ふと、目を覚ます。
カタコト。と地面が揺れている。
ここはどこだと辺りを見回す前に、声が聞こえた。
「起きましたか、隊長。随分とうなされていましたが、体調は如何ですか?」
「いや、心配ない」
部下の男の声で我に帰る。たかが過去の回想にうなされていたとは、情けない。
確か今は国への帰路の道中だ。
あれからまた、村人全員を救った。
たくさんの血や体液を吸い込んだ軍服を川で洗い、少しばかり腹を満たした。村にはたくさん食糧があった。
すっかりと陽は落ちかけており、太陽は雲に覆われている。私は、大きく伸びをして欠伸を一つ置く。
数の少なくなった部下は私の荷台を囲むように陣を取っている。すっかり寝込んでしまったようだ、これでは中将の名が廃れる。
ふと、辺りに目を向ける。
私たちの部隊は国内に入り、ちょうど稲作地帯を通っていた。農繁期らしく稲刈りに勤しむ農民姿も疎らに見られる。
私は、荷台からその光景を眺めていた。彼らの耕す稲禾類を私たちは間接的に食し、その命を燃やしている。私が使命を全うする糧となっている。
果たして、その農民たちは救われるべきなのだろうか。ふと、そんなことを考える。
彼らを殺してしまうと、私はこの地獄で使命を全う出来なくなるのではないか。
そう考え出してしまうと、思考の帰着点は霞み、脳は混乱してしまう。時折、こんな事がある。疑念が疑念を呼び、矛盾の連鎖に堕ちていく。一人ぼっちの思考ゲームが、自分の使命感を濁すような気がして、いつも途中で思考が停止する。
答えの出ない論題に侵されながら、それでも自然の風景に目を向ければ少しだけその苦悩が薄らいだ。
風の刷毛が稲穂の群れを一凪すると、黄金色の大地は滑らかに艶出しされる。
すると大地は透明感のある白銀色に染まり、稲穂は風に揺られながらその色彩を変えてゆく。
風の行き先に目を向けてみれば、雲に覆われていた空は、いつの間にか切れ目を見せ、光が大地へ漏れていた。
――薄明光線だ。
意識して目にしたのは初めてだった。
光の筋が地上を照らし、神話や伝承の天使や神様が今にも降臨してきそうな。そんな、神秘的な光景だった。
部下たちも思わずその光景に見入っている。
稀薄な色合いに染められた、無垢な自然風景の題材に、私は思わず心を打たれた。
しかし感嘆と同時に、思わずにはいられなかった。
今すぐにでも、天使が私の所へ舞い降りて。この身体を天へと誘ってはくれまいだろうか、と。私を生の枷から解き放ってはくれないか、と。
そんな希死念慮に囚われながら、私は荷台から身を乗りだした。
すると、一人の部下と目があった。荷台を引く馬と並行して走っている部下だ。
さきほどの光景に見惚れていたようだが、何か意を決したように私の方へ身体を向けていた。
馬に揺られる偉丈夫は確か、最近私の部隊に配属された部下だ。
「隊長」
ポツリと、その男が私を呼んだ。
そして、長く溜め込んだ感情を吐露するように、重い口調で私に問うた。
「隊長は本当に、人を殺すことは救うことだと考えているのでしょうか?」
……重い声だ。
その言葉に、何故か空気が張り詰めた。長年親しんで来た部下の男は、私に声をかけた部下に目もくれず黙ったまま先頭を走る。
「当然だ。今更、何を言っている」
「いえ、隊長の命令ですから、あの村人を私たちは殺しました。全員、一人も残さずに。確かに、隊長の言葉が間違っているとは……、思いません。ただ……」
「ただ?」
一つ間を置いた。聞こえる音は、馬蹄音と烏の鳴き声だけである。
「どうしても、頭から離れないんです。殺した人たちの顔が。苦しそうな、表情が……。私たちは間違ったことをしていない……はず、なのに。手が震えて仕方がないんです」
「馴れないウチは皆そうだ。私も始めの頃は一発であの世へ送ってやることが出来なかった。急所を外せば、最後まで苦しみを与えてしまう。仕方のないことだ、たくさん人を救えば、そのうちに馴れるさ」
「隊長、そういうことでは、ないのです」
「なに?」
「本当に彼らは、死を望んでいたのでしょうか」
「当然だろう」
この部下は何を言っているのだろう。気でも触れているのか。
この世に死を望まない人間など、いるはずがないだろうに。
「……そうだな。では、一つ問おう。君は今、苦しいか?」
「……はい」
「そうだろう。なら”死ねば楽になる”と考えた事はないか?」
「それは……」
「簡単なことだ。自分で死ぬのは容易いが、どうしても人は自殺ができない。何故ならその人たちは、まだ人々を救っていないからだ。
人を救わず、自分だけ先にあの世へ逝くなどーーこの地獄を抜け出すなど、許されるはずがない。それは神が許さない。我々は死にたくても死ねない神の呪いに罹っている。
人を救わなければ天国の門も開かない。人を殺す勇気を持つ者だけが死ぬことを許される。
だが、彼らは人を殺す術を持たない。これは人間の差別が生み出した愚行だ。だから、我々が彼らの使命を代わりに背負い、救っている。
分かるか? これは残虐な殺戮ではなく、正義を背負った救済なんだよ」
部下はまだ呆けた顔をしている。だが、私はそれに構うことなく弁舌をふるう。
「これは誰かが一歩を踏み出さないといけない。誰かがやってくれるなんて人任せではダメなんだ。私たちは、その一歩を踏み出した勇気ある者だ。
君が殺した人間の苦しい表情は、この生き地獄を生き抜いた証だ。私たちは彼らの旅立ちを見届けたんだ。恐れることはない、誇れ」
部下は唇を強く引き結んだ。よく見れば血が滲んでいる。
手綱を握る手の震えは収まらず、視線を泳がせながらもどうにか私を見ている。
彼は、何かを考えあぐねた後、苦悶の表情で述懐した。震えた口を大きく開き、目を見開き、溜めた涙を零しながら。
「ですがやはり、私はどうしても納得出来ないのです! あの大量虐殺に何の意義があるのか!
確かに、死ねば苦しみはなくなるでしょう。しかし、生きることにも価値があるっ。その生の中で、苦しみの中で、大切なものを見つけて共にこの世界を生きていくのが人間なのです!
隊長の考えには、私は賛成出来ない。現に、あの村人たちは私たちが来るまで平和に暮らしていた、きっと笑顔で毎日を過ごしていた! 私たちは侵略者だ。人を救ってなどいない。私たちは、ただ――」
――パン。
硝煙が紅の空に伸びていく、薄明光線はすっかり消えていた。少し火照った銃身から、私は静かに手を離す。
「クドい」
私に額を撃ち抜かれた部下は、そのまま人形のように首を曲げ、関節を曲げ、血を撒き散らしながらズルリと馬から落ちた。黄金色の大地に、ベタリと赤い血液が塗りたくられる。
そのまま男は地面を転がって、少しすると見えなくなった。主を失った馬はそれでも、隊列を崩すことなく走っている。
「……可哀想に。あんなにもこの地獄を盲信してしまうなんて。やはり、人を救う使命を帯びた者は、ほんの一握りしかいないのか。
救世主の言葉に耳を傾けることすらできず、人が獄中の只中にいることさえ気がつかない。
良い部下だったのだがな。向こうの世界でも上手くやってほしいものだ。
……本当に、理不尽な世界だ、そうは思わないか?」
他の部下は何も言わない。
これまでに、何人も私は部下を救ってきた。共に人を救う使命を果たすと誓ったはずなのに、それを途中で放棄した。私に反発した。
私と、人を救うのに疲れたのだ。きっと彼らも本当は、早くこの生から抜け出したかったはずなのに。
だから手厚い最期だ。共に使命を果たしてきた部下への最高の労いだ。
だが一人、先頭を走る、ずっと連れ添ってきた部下の男が慇懃に口を開いた。
「その通りですよ、隊長。上官の言葉に耳を傾けない部下は先に逝くべきです。
貴女は貴女のやり方でこの世界を生き抜いてください。私たちはついていきます」
そう、強く言ってくれた。
そうだ、私には部下が……。いや、仲間がいる。
共に使命を全うするため、人々をその手にかける仲間がいる。
だから、不安になどならない。たくさんの人を救ったその先に、いつか私も報われる時が来る。
きっと――。