第2話:血溜まりの中で
……また、生き残ってしまった。
何度も、何度も。地獄を抜け出さんが為にこの命を捧げているというのに、神はまだ私を救ってはくださらない。27度も戦地に赴き、それでもまだ無様に生き延びている。
神は不平等だ。何故、此度初陣を飾った多くの部下が私より先にあの世へ逝ったのか。どうして私を死なせてはくれないのか。
生の地獄から死の天国へ向かう切符は等しく戦地で戦う者に与えられている。私は、その切符を握り締めたまま多くの人々を生から救った。
しかしどうだろう。私はまだ、生き地獄の渦中にある。
……きっと、まだ足りていないのだ。神への献身が。
私の信じる神は、どうやら貪欲でおられるらしい。
人を救えと、私の信じる神は言う。それは、私の人生をかけて成し遂げなければならない。
いつ来ても、スラム街の空気は酷い。
都市の路地裏のような、じめったい湿り気とは真逆で、乾涸びたここら一帯は居心地が悪い。
馬を繋ぎとめ少し歩くと、溝鼠が危機を察知したように蠢動する。生を諦観した人々は動くことすらままならず、飢え死ぬのを待つのみである。
この街にはそういった者がよく集まる。社会から捨てられた者、罪責から逃げたならず者、住む場所もなく死ぬまでこの溝の中で生きることを決定づけられた者。
そんなスラムに私のような上等な軍服を着た兵士が足を踏み入れれば当然、奇異と畏怖の眼差しが飛んで来るのも吝かではないが、生憎とそれには慣れている。
ショルダーホルスターから拳銃を取り出す。それから、ポーチから実包を装填する。流れるように、着々と準備を整えていく。
何をし出すのかと訝しみ始めたスラムの住人の一人が、私へと近づいた。
「そんなに、求めるか」
無垢な子供だ。キョトンとした顔で私を見上げている。まだ、この世の不条理も、何も知らないのだ。閻浮の塵を掃き溜めたこのスラムには、地獄を生き抜く術を持たず、救いを待つ哀れ人しかいない。
前世で何か酷いことでもしたのだろう。出なければ、こんな地獄に産み落とされることなどなかったろうに。
私は手に持った拳銃を構え、標準を子供の額に定めると、小さく呟いた。
「私が、救ってあげる」
……パンっ。
乾いた音が心地よく耳に届く。空薬莢が地面に落ちて、澄んだ音を鳴らす。
小さな子供はそのままパタリと倒れた。血の海は広がっていく。何が起こったのかを理解しないまま、子供は天国へと旅立った。
スラム街の人々に、何かの感情が伝播したのを感じた。そうだ、私が救いに来た。どう足掻いても逃れられない地獄から。
私は、歩き出した。目にとまる人間を次々と撃っていく。拳銃の作動はボルト・アクション式な為、一発撃つ度に右手でボルトを往復操作する。金属質な音と共に排出された空薬莢は血の海に沈んでいく。
銃弾が切れると着脱式の弾倉を替え、装填する。繰り返し繰り返し、撃っては替える。
洗ったはずの軍服は次第に本来の色を取り戻していく。
私が一人撃ち殺す度、一人生から解き放たれその地獄から救われる。
十人、二十人。救った人の数は増えていく。
スラム街は血の赤で満たされる。そこら中の地面や壁に張り付いた死体、飛沫した血液や肉片がへばり付いている。尊き徒花は絢爛に咲き、視界を美しく彩る。
……しかし、本当に妙だ。せっかく私が救いに来たと言うのにどうして身を隠す? どうして逃げる?
撃針が雷管を叩けば、踊るように弾丸が脳を飛ばす。慈悲深い弾薬に生者の皮膚は爆ぜ、肉は舞う。
私の救済姿に人々は甲高い声を上げている。上手く聞き取れないが、きっと私への感謝を伝えているのだろう。
国から隔離されたこの街に逃げ場所などない。それより、せっかく救われるチャンスが目の前にあるというのに、身を隠すとは。一体彼らは、何に怯えているというのか。
生きる活力を失った浮浪者達は、私へ救いの眼差しを向け顔を上げる。私は笑顔で引き金を引いていく。
彼らにはきっと、私が生の楔を解き放つ天使に見えていることだろう。
パン。パン。
静かなスラム街に弾薬の音がこだまする。
これでまた、何の罪もない人々を天国へ送ることができた。ただ、生まれが違うだけで、戦場に立つことのできない哀れな子供を。死ぬことすらままならず、この世に生きながらえてしまった老人を。社会の輪から外れ、生きる道を失った大人を――。
――たった17エテルノの弾丸で、救うことができる。
人の命とは皆、等しく平等なのだ。どんな階層の人間だろうが、その価値はこの鉄の玉一つで消えゆく等価な物だ。そこに差異などない、今、それが明確なまでに具現化されている。
多くの哲学者たちは命の価値について様々な見解を述べて来た。だが、私はどの批判に微塵も共感したりはしない。
17エテルノの弾丸は、産まれ落ちた肉体を土へと還し、魂を本来逝くはずだった天国へ返す。
スラムの人々はここで生きていても、いつか飢餓で死んでしまう。だから、その苦しみを一瞬で終わらせるために、私は引き金を引く。
どれだけの人を救えば、私も天国へと誘われるのだろうか。
そんな自問を繰り返しながら、私は救済を繰り返す。
⌘ ⌘ ⌘ ⌘
しばらく経つと、周りに人の気配が無くなっていることに気がついた。幼児の泣き声も、逃げ惑う喧騒もない。
そろそろ部下が来る頃だ。
血の海に足を浸しながら、ぼんやりと空を眺めていた。今頃彼らは天国で何をしているだろうか。
私を見下ろして感謝を唱えているだろう。家族がいる者は、できるだけまとめて救った。きっと笑顔でやっているに違いない。
すると突然、ガタ、と何か物音がした。
誰かいる――。
ひっそりと、息を潜めている――。
そう感じると、私は血眼になってあたりを探した。
私は歩き出す。場所は分からない、勘だ。
これがまた、私の勘はよくあたる。
「……ほら」
踏み入れた家屋の奥。廃棄箱の中にその少年はいた。10代にも満たない小さな子供だ。
蓋を開けた私を、涙を溜め込んだ瞳で見ている。その目に映っている感情は、どうしてだろう。
”期待”ではなく、”恐怖”であった。
「坊や、安心して」
少年はビクっ、と大袈裟に身を震わせる。
何かを言おうとしているが、身体の震えで声が出せないようだ。
しかし……、何故だ。何故、そんなに苦しそうな顔をする。この様子だと、私の様子を静かに見ていただろう。ちょうど廃棄箱にはそれなりの隙間もある。
真っ赤な服を着て、少し返り血を滴らせる私の姿は、救世主の姿に相違ないだろうに。天使の白い姿に汚染された教会の信徒であろうか。
しかしまあ、そんなことはどうだっていい。
何せ、今から死ねるのだ。もう、人生を終えることが出来る。この世界から、苦しみのない世界へ去ることが出来る。
「坊や。どうして君は笑わないの? 嬉しくはないの?」
私の問いかけに、喃語のような言葉を返す。何を言っているのかさっぱり分からない。だけど、肯定しているわけではないらしい。
「坊やにも家族はいるんだろう? きっと君を待ってる」
一つ間を置いて、家屋の隅に横たわる血みどろの死体から目を背けながら少年は細々と答えた。
「……ママと、パパが?」
「ああ、そうだ。さっき、私が救ってあげた。だから心配しなくていい、直ぐに会えるから」
そう言ってから、少年の頭を撫でた。柔らかい頭だ、茶色いサラサラの髪だ。
それも、この弾丸なら一息に粉砕してのけるだろう。
「……会えるの?」
少年が問うた。震えは、少しばかりか収まっている。
「ああ、会える。だから、笑って。これから天国へ行くんだ、パパとママにも笑顔で会いたいでしょう?」
「うん」
「君はもう、こんな世界で苦しまなくったっていいんだ、助かったんだ。さあ、目を瞑って。これから向かう世界を想って」
そして少年が静かに目を瞑る。
ーーパン。
少年が倒れた。少しばかり距離を置いて撃った。少年の胴体から臓物が吹き飛んだ。
少年の遺骸は、地面を這う血溜まりの中で、残った笑顔を私へ向けていた。
スラム街にはもう、人っ子1人いない。街から隔絶されたこの場所に、兵隊がやってくることはない。
ようやく彼らは解き放たれたのだ。私が生の枷を外した。
しばらくすると部下がやってきた。食糧もあり、私は腹拵えをした。
これから、近くの村に向かう。村の人たちも救ってあげなければならない。
村には抵抗する者もいるため、数十人で向かう。この地獄に居残ろうとする者もいる、そんな洗脳された者を救うためにも、手早く済ませなければいけない。
「隊長……」
「西の村落へ向かう」
「……分かりました。また、殲滅ですね」
「ええ、そう。弾はたくさんある、これをみんなで分けて」
部下の男に実包を渡すと、黙って他の部下に分配する。少しだけ手が震えているのは、高揚感が胸を満たしているからだろう。
「村には抵抗する人もいます。その人から順番に救いましょう」
「了解です」
部下の男はそう頷いた。
上官の命令は絶対遵守。そんな規則に縛られず、部下は私の言う通りにしてくれる。きっと、人を救うことの素晴らしさを分かってくれたのだ。この殺戮は放恣な逸楽行為ではなく、救済という機能を維持した正統行為である。
何度も語ってきたその使命は受け継がれて行く。私が死んでもきっと、部下の男は人々の救済を続けてくれる。
「さあ、行こう。村人全員、一人残さず皆殺しだ」
そして私たちは、颯爽と走り出した。
生きるということは、とても苦しくて。
死ぬということは、とても幸せなことだ。