第6話 捨てられた想い
音の流れ。軽やかで、ときには重く、ほがらかで、ときには悲しい。そんな音符の妖精たちを操ることができたら、どんなにステキだろうと、こどもの頃に思った。そして今、わたしの手のなかで、一本の横笛が、その夢を叶えてくれていた。
わたしは吹き口にくちびるを寄せて、自分の奏でる音に、耳を澄ませた。
「……結構です」
もうすこしだけ、吹いていたかった。でも、おとなしく演奏をやめた。
うっすらまぶたをあげると、そこには、ちょっと難しい顔をした音楽教師が、ひげを撫でつつ、ああでもない、こうでもないと、くびをかしげていた。
「ええ、なんと申しあげますか……たいへん、おじょうずです」
お世辞でないことは、相手の表情から察せた。うまいとは認めたくないけど、しょうがない。そんな感情のこもった言い方だった。
「ありがとう」
「ただ、わたくしが教えておりますところの、カマルの技法から、少々離れすぎな気がいたしますな。まずは、伝統を学ぶことこそ肝要。しかるのちに……」
わたしは適当に相づちを打って、それから笛を箱にもどした。宝石をちりばめた、あまりにも気取りすぎな入れ物だった。横笛も、吹きにくいくらい、ごてごてしていた。音楽教師は、あいかわらずなにか言っていたけれど、わたしは聞き流していた。
そして、ユーリがあいだに入った。
「ラバーブ先生、王女は、つぎのお努めがございますので」
「おっと、そうでしたか……次回は、もういちど基本から始めましょう」
わたしは、バレない程度に肩をすくめて、席を立った。
ユーリに連れられて部屋を出ると、そのまま王女の寝室にもどらされた。
パタンととびらが閉まり、ひと殺しとふたりきりになる。
「つぎのお努めっていうのは?」
わたしは、あくまでも気丈にふるまった。
「……」
「ようするに、嘘なわけね」
ユーリは腕組みをすると、入り口近くの衣装棚にもたれかかった。
「なかなか、うまくやったな。褒めてやる」
「ひと殺しに褒められても、うれしくないわ。遠慮しとく」
「出過ぎたマネはするな。譜面を見ないと言ったときは、どうしようかと思ったぞ。おまえのしごとは、王女の身代わりだ。笛吹きになられても困る」
わたしはベッドに飛び乗って、両足を組んだ。
「わたしが吹奏楽部じゃなかったら、どうするつもりだったわけ?」
「すいそう……なんだ?」
「わたしが横笛を吹けなかったら、どうするつもりだったって訊いてるの」
ユーリは、表情ひとつ変えずに、かるく鼻であしらった。
「そのあたりは、召喚の段階で条件づけしている。うぬぼれるな」
「うぬぼれてるのは、あなたでしょう。こんなの、そのうち絶対にバレるわよ。楽譜を見なかったのは、単純に読めなかったから。わたしの世界の記法と、全然違うんだもの。機転を利かせてあげたってわけ」
「自分の才能を、過信してるわけではない。つじつま合わせが必要なのは、カマルにいるあいだだけだ。シャムスに輿入れすれば、その手間もはぶける。有名であれ、ゼナがどういう女かは、だれも知らないのだからな」
室内が、しんと静まり返った。わたしは、あっけにとられていた。
「あなた……それ、本気で言ってるの?」
「ほんとうに物覚えが悪いな。ゼナ王女はマリク王子の許嫁だ」
「覚えてるに決まってるでしょ。でも、さっきの雰囲気は、なに? あのひとが王女に片思いしてただけなんじゃないの? 王女は、結婚を嫌がってたんでしょう?」
わたしの反論に、一瞬だけ、ユーリの顔色が変わった。
図星だったんだろう。わたしは、そう推測した。
「……王女は、結婚を嫌がってなどいない」
「ウソよ」
「本当だ」
「ウソ」
「疑うなら、そのあたりの召使いにでも訊いてみるんだな」
望むところだ。なんでこんな簡単なウソを吐くのか、理解できなかった。朝食を用意してくれたあの少女にでも確認してみよう。わたしは、ベッドから立ち上がった。
「いますぐに、とは言わなかったぞ」
ユーリは、とびらのまえに立ちはだかった。
わたしは、じっとにらみ返した。相手が、ひと殺しだと言うのに。ここに来て、気が大きくなったのだろうか。たぶん、違う。半分は、やぶれかぶれ。もう半分は、ユーリがわたしを殺さないだろうという、漠然とした確信からだった。
「そんなに怖い顔をするな。ゼナは、ひとをにらんだりしなかった」
「あなた、死体をどこに隠したの? 地下の倉庫? それとも墓所?」
わたしは、適当に思いつく場所を列挙した。ユーリの顔色は変わらない。
こうなったら、奥の手だ。わたしはくちびるに指を添えて、視線を横に流した。
「それとも……中庭の井戸かしら?」
ユーリは目を閉じると、フッとため息をもらした。
「あんなところに、死体を隠せるわけがない」
「ええ、死体は入らないかもしれないわね……でも、服なんかは?」
「王女の服なら、おまえがいま着ているだろう」
「じゃあ、指輪は?」
わたしは視線をもどして、ユーリの表情をうかがった。そして、拍子抜けした。
(……変化なし?)
いや、微妙に変化はあった。なんというか……突拍子もないことを言われて、思考が追いつかないときの反応。きょとんとする、というやつだ。
ユーリの人間的な表情を、はじめてかいま見た気がした。
「指輪……? なんの指輪だ?」
わたしは慌てた。とっさに、思いついたことを口走る。
「こ、婚約指輪よ。王女が許嫁なら、指輪くらいプレゼントされてるでしょ?」
ユーリは首を横に振って、わずかに顎を引いた。
「プレゼントか……それなら、ありうるだろうな。だが、この世界で婚約を決めるものは、指輪じゃない。おまえの耳についているイヤリングだ」
わたしは、左の耳朶にぶらさがった、三日月型のイヤリングに触れた。
「これが……? 婚約イヤリングだっていうの?」
「この世界では、婚約者はおたがいに、イヤリングを片方だけ送り合う。残りは、結婚式のときに、会場であいてにつけてやることになっている」
わたしは、マリク王子の右耳に、太陽のかたちをした金のイヤリングがあったことを思い出した。あのときは、緊張で気にもかけなかったけれど、あれがそうなのだろう。
「じゃあ、もう片方は? あなたが持ってるの?」
「もちろんだ。結婚式のときに困るからな」
わたしは、そんな質問をしながらも、べつのことを考えていた。
(わたしが持ってるこの指輪は、なに? ユーリは知らないみたいだけど……騙されてるのかしら?)
さっきの反応が演技なら……もう、お手上げだ。ユーリの心を見破る方法は、ないということになる。でも、今日のわずかなやり取りで、ちょっとだけ気づいたことがあった。冷静で無感情な少年を装っていても、どこか隠しきれない、感情のブレがあるのだ。
わたしは、自分の勘を信じることにした。
「そう……じゃあ、指輪みたいなものは、ないのね」
「なぜ指輪にこだわる? なにかあったのか?」
いえ、なにも。そう言いかけたところで、わたしはふと我に返った。
(ユーリが知らないとしたら、この指輪、だれが捨てたの……?)
召使いがどこかで見つけて、井戸に捨てた……わけがない。悪い召使いなら、そのまま自分のふところに仕舞うだろうし、善い召使いなら、上司に届け出るだろう。いずれにせよ、井戸に捨てる理由が見当たらなかった。
(王女が自分で捨てたなんて……ありうるわね。王女が、マリク王子のことを嫌っていたのなら、受け取ったフリをして、あとで井戸に捨てた可能性もあるわ)
この指輪は、王女の心情をあらわしている。私は、そう思った。
それと同時に、マリク王子のことが、すこしだけ可哀想になった。きっと、思いを込めて送ったんだろうけど、井戸に捨てられちゃうなんて。ゼナ王女のイメージが、わたしのなかで、急降下し始めていた。
「おまえがなんで指輪のことを言い出したのか分からないが……まあ、いい。ここまでは、よくやっている。マリクの印象は、どうだ? 気に入ったか?」
「王子様っていうより、お金持ちのおぼっちゃんって感じだわ」
わたしは思わず、本音を漏らしてしまった。
その瞬間、ユーリは、くすりと笑った……ほんとうに笑ったのだ。
「な、なにがおかしいのよ」
「いや、的を射ていると思ってな……なかなか、ひとをみる目がある」
「あなた、ほんとはマリク王子のこと、バカにしてるでしょ?」
わたしの指摘に、ユーリはムスッとした。
「そんなことはない。どうしてそう思った?」
「とてもじゃないけど、あなたの態度、王族に対するものとは思えないわ」
王族と家臣のあいだに、友情は存在しない。
あの晩餐の夜、ユーリはそう言っていた。それなのに、違和感がある。
もやもやとしたものが残るなか、ユーリはわたしに背をむけた。
「どこへ行くの? 次の仕事? ちょっとは休ませてくれない?」
「おまえには、カマルのことを、もっと勉強してもらう必要がある……ついてこい」