第3話 求められるもの
翌朝、目を覚ましたわたしは、やわらかな布団のうえにいた。お酒を飲んだわけでもないのに、あたまが痛かった。昨晩のできごとも、あまりうまく思い出せなかった。
わたしは、なにをしていたのだろうか? 踊りを眺めつつも、ユーリの存在がうとましくてしかたがなかった気がする。ユーリは、わたしのそばをけっして離れなかった。普段からそうしているのか、それとも、わたしの演技を監視していたのか、それは分からない。
ただひとつだけ覚えているのは、舞踏会が終わって、緊張がほどけると、一瞬にして疲れが押しよせてきたことだ。わたしはいちども踊らなかったから、すこし不審に思われたかもしれない。どうでもいいことだった。わたしは侍女に連れられて……軽く湯浴みして、そのまま……そのまま、寝てしまったのかしら? どこでユーリと分かれたのか、それすらも曖昧だった。
わたしはひたいに手をそえて、そっと目をつむった……思い出せない。
「……水が飲みたい」
わたしは、室内を見回した。いや、見回そうとした、と言ったほうがいいかもしれない。寝台は絹のレースに囲まれて、それを見透かすことしかできなかった。わたしがレースを上げると、薄暗い部屋の床に、一本のひかりの柱が走った。それは、窓から射し込んだ、陽のひかりだった。角度からして、日の出からまだ時間が経っていないように思えた。
わたしはベッドからおりると、履物をさがした。すると、ちょうどあしもとに、植物の枝で編んだサンダルがおいてあった。それにつまさきを通すと、今度は水瓶をさがした。どこにも姿がなかった。
自宅なら、部屋を出て台所にむかえばいいのだけれど……わたしは、声をあげた。
「だれか、いない?」
すぐに、扉のむこうから、若々しい女の声が返ってきた。
「なにか御用でございましょうか」
「えっと……水を持ってきてくださらないかしら」
「かしこまりました」
遠ざかる足音が聞こえた。
わたしは腕組みをして、窓辺へと歩み寄った。そして、喫驚をあげた。
「これは……なに?」
太陽は、どこにもみあたらなかった。ただ、空が、みずから輝いているかのように、青く青く澄み渡っていた。その澄み渡った空も、天頂へ進むにつれて、だんだんと暗くなり、すこし視線をあげると、そこは夜空だった。そう、地上だけが昼の輝きを帯び、空は、ぼやけながら夜の暗さをたもっていた。
どういう仕組みなのか、異世界人のわたしには、見当もつかなかった。でも……なんて、きれいなのかしら。そう感じた。わたしは、カマルが夜の王国と呼ばれていることに、今更ながら思いを馳せた。
青と黒のコントラストを眺めていると、ふいにとびらがノックされた。
「失礼いたします」
侍従の少女が入ってきた。わたしよりも、もっと若い。日本なら、中学生くらい。人懐っこそうな顔立ちで、くちもとには、隠しだてのない笑みを浮かべていた。髪は丁寧にうしろのほうでまとめられていたけど、すこしだけ抜けているたばがあった。それがどこかしら、おっちょこちょいな印象をわたしに与えた。
少女の手には、磁器土のコップがひとつ、にぎられていた。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
わたしがコップにくちをつけるやいなや、少女は話しかけてきた。
「そう言えば、ファーラビーさまが、お呼びでしたよ」
「ファーラビー? ……だれ?」
わたしは、うっかり名前をたずねてしまった。
あわててくちをつぐんだけど、あとの祭りだった。
少女は、ちょっと驚いたように、ぱちくりとした目を見開いた。
「天文館のファーラビーさまですよ、大魔術師の」
(てんもんかん? ……天文台のことかしら)
わたしは、おおざっぱにあたりをつけた。
「え、ええ、そうだったわね……寝起きで、あたまが回ってなかったわ」
わたしの適当なごまかしに、少女はほほえんだ。
どうやら、納得してくれらしかった。
「ゼナさまが寝ぼけるだなんて、めずらしいですね」
そんなことをいわれても……わたしは、コップを返して、その場をごまかした。
「どこで待ってるのかしら、その……ファーラビーさんは?」
「さあ、神出鬼没な方ですし……この時間帯なら、天文館にいらっしゃるのでは」
さて、まいった。わたしは、逃げ出したくなった。だけど、さっき窓からみた砂漠の風景が、わたしを踏みとどまらせた。のたれ死ぬのがオチだった。
わたしは、少女をもういちど観察した。
「……天文台って、どこにあるのかしら?」
「この部屋を出て、右をずっと進むと、となりの建物へ続くアーチに出ます。その奥に階段があるので、のぼったらそこが天文館です」
やっぱり……どうも、この子は、抜けているところがあるらしい。自分が住んでいる建物の構造をたずねているのに、それを奇妙だとは思わなかったようだ。性格を突いているようで悪い気はしたけど、瀬に腹は代えられなかった。わたしだって、命は惜しいのだ。
「ありがとう……じゃあ、今から会いにいくわ」
「あ、着替えを手伝わさせていただきます」
わたしは、少女の手を借りて、着替えを済ませた。ゆったりとした、白いワンピースのようなガウンに、右肩から赤いスカーフで色づけしたものだ。なかなかおしゃれだった。
髪を結んでもらい、部屋を出る。
「つき添いは、いかがいたしましょうか?」
「ひとりでいくわ」
わたしは寝室を出て、少女のいうとおりに廊下を歩いた。
途中で、侍女や役人らしきひとびととすれ違って、ひやひやした。
あしもとに気をつけながら、みすぼらしい階段をのぼると、古びた扉のまえに出た。星のかたちにくりぬかれた覗き穴からは、うっすらとやさしいひかりが漏れていた。
わたしがノックすると(ノックでよかったのかしら?)、奥から返事があった。
「だれじゃ?」
七海陽凪です。あやうく、本名を言いかけた。
「……ゼナです」
「おお、はいれ、はいれ」
とびらを開けると、小さな、それでいて風通しのよい部屋が広がった。壁には、大きな窓がうがたれ、そこから天球を窺うように、望遠鏡がすえられていた。そして、望遠鏡ののぞき口のしたに、だらしのない緑色の長衣をはおった、老人がすわっていた。猫背で、白い髭をなでながら、わたしに意味深なまなざしを送ってきた。
ほかにひとはいないし、いかにも魔法使いっぽいということで、ファーラビーというのはこの老人だろうと、わたしは見当をつけた。たぶん。
「そんなに緊張せんでも、よかろう。そこに座れ」
老人はそう言って、背もたれのない、丸椅子をすすめた。
わたしは、老人の言動に、不審なものを感じた。妙になれなれしい。
「失礼します」
わたしは、椅子にこしをおろした。なんとも、居心地が悪かった。
「あの……なにか……?」
「うまくやっとるのか?」
わたしは、まゆをひそめた。
「うまくやっている……というのは?」
「王女の代わりを、うまくやっているのか、と訊いておる」
わたしは、椅子から転げるように立ち上がった。
「どうした? 異世界人は、椅子にも座れんのか?」
「あ、あなた……どうして、そのことを……?」
老人は、わたしの質問を意外に思ったのか、ふむと声をもらした。
「なんじゃ、覚えておらんのか。召喚の儀式のときに、居合わせたんじゃがの」
「召喚の儀式……?」
わたしは、とびらのほうへ逃げかけていたからだを、老人へとむけた。ふかく皺の刻まれた顔立ちを、ねんいりに観察した。
「あなた……あのとき……」
「おお、思い出してくれたか。あのときは、あんたが暴れ回って大変じゃったな」
老人は……ファーラビーは、からかうように笑った。
わたしは、あのときの取り乱し方を思い出して、頬が熱くなるのを感じた。
「いきなり違う世界に飛ばされたら、だれでもパニックになるわよ」
「それも、そうじゃな。しかし、慣れるのも早い」
わたしは、首をよこに振った。
「慣れたんじゃなくて、脅迫されてるのよ、あのバンダナ男に」
「ユリディーズのことか?」
わたしは、こくりとうなずいた。
「おまえさんには、手出しせんよ」
「殺し屋なのに?」
「暗殺者だからこそ、な。プロは余計な仕事をしない」
わたしは、納得しなかった。ファーラビーの言葉に追いすがった。
「仕事の邪魔になれば、平気で殺すんじゃないの? プロなんでしょ?」
「おまえさんは、殺されたいのか、殺されたくないのか、どちらなんじゃ?」
「それは……」
わたしは、返答に詰まった。だけど、こんなのは詭弁だ、明らかに。
「で、わたしに、なんの用なの?」
ファーラビーは、いくつかの質問をぶつけてきた。体調は悪くないか。こちらに来てから変わったことはないか。鼻はむずむずしないか。目はちかちかしないか。
なんだか、定期健康診断を受けているみたいだった。
「ふむ……適応しておるようじゃな」
「適応なんかしたくないわ……ねえ、もとの世界にもどる方法を知らない?」
「知らん」
ファーラビーは、あっさりとそう答えた。わたしは驚愕した。
「知らないって……あなたが召喚したんじゃないの?」
「いかにも。この召喚の術を使えるのは、天文館の館長である、わしだけじゃ」
「だったら、もどす方法も知ってるでしょ?」
ファーラビーは、髭をなでながら、わざとらしくそっぽをむいた。
「さあな……もどす方法は、魔術書に書かれておらんからのお」
わたしは思わず、ファーラビーに詰め寄った。
「ウソよ」
「ウソじゃない」
「いいえ、その態度はウソをついてるわ」
「仮にウソだとして、どうする? おまえさんは、王女の身代わりなんじゃぞ。おうちが恋しいからと言って、はいそうですかと帰せるわけがなかろう」
埒の明かない会話に、わたしは苛立ちをおぼえた。
「要するに、もどす気がないのね。だったら、わたしもボイコットするわよ」
「命を賭けてまで?」
「もどれなきゃ、死んだも同然じゃないッ!」
わたしが大声を出すと、ファーラビーはふかくため息をついた。
「ひとつ質問なんじゃが、なにが気にくわん? 王女なんじゃぞ?」
「この世界の王族よりも、わたしの世界の一般人のほうが、よっぽどいい生活してるのよ。分かる? かってにそっちのものさしで測らないでちょうだい」
ファーラビーは、左目をしかめて、疑わしげにわたしをみやった。
「ほんとうか? たしかに、衣装は上質だったが……」
「暴露されたくなかったら、譲歩しなさい。もとの世界にもどすって」
「それはできんのお。わしは、ユリディーズの共犯というわけではない。いや、共犯には違いないが、殺しにはかかわっておらんし、おまえさんをここに召喚しただけじゃ」
「わたしがあなたも犯人だって言えばいいだけでしょ」
「だれが信じる? 異世界からやってきた女だぞ? それどころか、ユリディーズはこう言うじゃろうな。この女が女王を殺して変装した。自分はなにも知らない、とな」
「ッ!?」
わたしは、一歩引き下がった。あまりの仕打ちに、怒りで手がふるえていた。
「あなたたち……最初から、わたしを犯人にしたてるつもりだったのね……?」
「わしは共犯じゃないと言っとるだろうが。むしろ、アドバイスじゃよ。おまえさんは、自分を異世界人だと言う。ほかの世界から来た、とな。そして、ユリディーズがゼナ王女を殺したと訴える。じゃが、証拠はどこにある? 証拠は? おまえさんではなく、ユリディーズが、ゼナ王女から慕われていた親衛隊のユリディーズが犯人であると、どうやって信じさせる? ……不可能じゃな」
最後の一文を、ファーラビーは区切るように告げた。
わたしは、平手打ちをくらわせてやりたかった。その衝動を、ぎりぎり我慢した。
「……わかったわ。ご忠告、感謝します」
ファーラビーは、にやりと笑い、胸元に手をあてて会釈した。
「ご理解いただけて、感謝いたします、ゼナさま」
「ほかに用は? 健康診断だけ?」
ファーラビーは、両手を左右にひらいて、なにもないことを示した。
わたしはとびらを開け、うしろでにそれを閉めた。ぐっと歯を噛み締める。
(ほんとうに感謝するわ……証拠があればいいんでしょ、証拠が、ね)