第1話 婚約者と付き人
ひかえの間をあとにして、わたしは、涼やかな夕べの風に吹かれていた。
左右にアーチ状の窓を持つ、渡り廊下。ガラスは、はめられていなかった。そこから吹きこむ風のむこうがわに、遥かな地平線が浮かびあがった。砂丘と、ラベンダー色の空。天頂はみえなかったが、地平線からはなれるにつれて、闇は濃くなっていた。
わたしは、そのうつくしさに目をうばわれた。
「あまり風をみるな、砂にやられる」
ユーリは振り返ると、わたしのベールをおろした。
めのまえに、うっすらと白い幕がかかった。
ありがとうは、口にしなかった。ひと殺しに、そんな言葉はかけられない。
「どうした?」
「……なんでもないわ。急がなくて、いいの?」
ノリ気になったわけじゃない。
ただ、ユーリとふたりきりでいるのが、空恐ろしかったのだ。
「主役はおくれてやってくるのさ」
わたしは、くすりともしなかった。
だまってみつめ返していると、ユーリは無表情に視線をそらした。
怒っているのか、それとも、わたしに関心がないのか。その両方か。私がこの世界に召喚されたときから、ユーリはどこかしら不機嫌だった。あるいは……緊張していた。わたしが替え玉をうまくやらなければ、罪がバレてしまうから?
わたしはそんなことを考えながら、渡り廊下をぬけ、べつの建物に足を踏み入れた。さっきの場所よりも、ずっと清潔だった。石造りの壁には、あざやかなタペストリーが掛けられていた。そのひとつには、羽のはえた馬。ペガサスだろうか。どことなく、違っているように思えた。
一歩すすむごとに、廊下の奥がさわがしくなっていった。人の声。音楽。それは、砂漠のつかれを癒すような、静かな音色だった。わたしは、じっと耳を澄ませた。日本で聞いていた音楽よりも、透き通っていた。それをさえぎったのは、ユーリの声。
「ここだ」
ユーリは真剣なまなざしで、わたしをみつめた。
「ヘマはするなよ……打ち合わせどおりだ……」
殺されたくなければ……そのひとことを、ユーリはつけ加えなかった。
彼はドアノブをひいた。すでに薄暗くなった廊下へ、室内の灯りが漏れた。それは一筋の光になって、わたしの顔の正中線を照らし出す。
「ここが……舞踏会……?」
それは、わたしが予期していたものではなかった。男女がペアになっておどる、そういう光景を思い描いていた。けれども、とびらのむこうがわに現れたのは……少数の男女と、そばにひかえる召使いたち、あるいは、兵士たち。パーティーとすら呼べないような、つつましい空間だった。
私は、二の足を踏んだ。
「ゼナ様、どうなされました?」
人目に触れるからか、ユーリは敬語に変わっていた。
「さあ、どうぞ、奥へ……」
わたしは、一歩を踏み出した。とびらの横にひかえていた女性が、銀色の酒壷と杯をさし出してきた。
「今日は、飲みたい気分じゃないの」
打ち合わせどおりに振る舞う。部屋に入ったら、酒を出される。ことわれ。それが、ユーリの指示だった。高校生なのだから、わたしとしては願ったり叶ったりだ。
「水をさしあげろ」
ユーリは女性に命じて、水をもってこさせた。土でできた、素焼きのコップだった。わたしはそれを受け取ると、かるく礼を述べて、室内をみまわした。
ふと、ひとりの男性と目が合った。歳は……あてづらい。風貌が日本人と違い過ぎて、判然としなかった。ただ、若かった。それは、間違いない。わたしのように、魔法をかけられているのでなければ。
男は、周囲のひとびとと違い、明るい服装をしていた。白地のゆったりとしたローブに、同じ色のスカーフを巻いていた。ゴトラだ。テレビで、アラビアのひとびとがよくかぶっているものだった。おそらく。
ユーリと一緒で、彫りの深い顔をしていた。でも、違いは無数にある。まず、その優しげな瞳。ユーリが切れ長なのに対して、男のそれは半月の丸みを帯びていた。肌は、ユーリよりも白い。地なのか、それとも陽にあたっていないからなのかは、分からなかった。ゴトラからのぞく髪は、うすい銀色にみえた。光の加減だろうか。わたしは目をこらしてみたが、色合いは変わらなかった。
男はこちらに微笑んで、杯をかるくあげた。
わたしはどうしていいものか分からず、あいまいに微笑みかえした。
「あれがマリク王子だ」
ユーリは、わたしの耳元で囁いた。
わたしはさきほどの青年を、もういちど観察した。マリクは、口髭の立派な、恰幅のよい男性と話し込んでいた。家族だろうか。それとも、家臣だろうか。あるいは、ただの友人かもしれない。王族ならば、交友関係はひろいだろう。
「……やっぱりムリだわ」
わたしは、小声でつぶやいた。
「あのひと……王女の婚約者だったんでしょ? そんなのごまかせるわけない」
「そこをごまかすのが、おまえの仕事だ」
わたしはユーリをにらんだ。ユーリはあたりを気にするように、視線をながした。
「この場でする話じゃない。ゲームは始まってる」
「ひとをころしておいて、ゲームだなんて……」
銅鑼が鳴った。あたりは静まり、ひとびとは姿勢をただす。
奥のとびらから、ひとりの老人がすがたを現した。左に女のおともをつけ、杖をつきながら歩く。その光景は、なんとも頼りないものだった。
だれだろう。ユーリにたずねるには、室内が静かすぎた。
老人は中央の椅子に腰をおろすと、右手でなにやら合図をした。
周囲のひとびとは、右手をむねにあてて一礼した。わたしもマネをする。
「今宵は、わしの誕生日にあつまってもらい、光栄に思う」
老人の声は、よくとおった。その容姿とは、うらはらだった。そして、誕生日という単語から、彼こそが、ゼナ王女の養父、ハサラ王であることがわかった。パーティーの目的については、あらかじめユーリから聞かされていた。砂漠と夜の国、カマルの国王が六十になるのを祝うこと。
わたしはまるで、その生け贄のために連れてこられたみたいだ。そんなおそろしい空想がよぎるほど、緊張していた。両手を腰のまえであわせ、ギュッとにぎりしめた。
「まずは、遠路はるばる来てくださった、マリク殿下にお礼をもうしあげたい」
ハサラ王は、銀髪のマリクをみやった。
マリクは紳士的な笑みをうかべて、胸元に右手をあてた。
「次に、わが兄の娘、ゼナ王女にも、日頃の感謝の意を表したい」
わたしは、びくりと体をふるわせた。わたしの人格を乗っ取った、いまいましい名前に、心が拒否反応をしめした。
だけど、となりにはユーリがいる。王女を殺した少年。わたしは、小刻みにけいれんする手をおさえ、ムリヤリな笑顔をつくった。
「どうした、ゼナ? 具合でも悪いのか?」
「いえ……少々、緊張しておりまして……」
やっとのことで声がでた。
ハサラ王は、その細くなった歯をみせて笑った。
「ハハハ、おまえらしくもない。今日は親しい者しかおらぬというのに。それとも、気になる殿方をまえにして、のぼせているのではないか」
場内は、つられて笑う者と、笑わない者とに分かれた。笑ったのは、みな高位とおぼしきひとびとばかりで、召使いたちはくすりともしなかった。
わたしは、鏡に映したくないような、ひきつった笑いになっていた。
ハサラ王は、大臣や女官、シャムスの大使たちにも礼を述べた。
「最後に、ゼナのよき付き人、ユリディーズの忠勤を讃える」
わたしはおどろいて、ユーリの横顔をみあげた。
そこには、さきほどまでとは違う、凛々しいかれの面立ちがあった。
「おことばをおかけいただき、光栄にぞんじます」
ユーリは他のひとびとと同じようなポーズで、ふかく頭をさげた。
(このひとごろしが付き人……? 悪い冗談だわ)
ユーリはそんなことを、おくびにも出していなかった。
わたしが混乱するなか、ハサラ王は手をたたいた。
「今宵は、ぞんぶんに楽しんでいただきたい……ゼナ、マリク殿下のお相手を」