第10話 もうひとりの助っ人
静かな寝息をたてて、ユーリは眠っていた。一晩たったというのに、ユーリはまだ目を覚まさない。医者が言うには、ただの脳震盪らしいけど……わたしは、不安になる。だけど、その不安がなにに由来しているのかは、ぼんやりとしていた。ユーリが死んだら、わたしはこの世界でどうしたらいいのか、わからない。それが、ひとつ。個人的な事情が優先しているのは、わたしも感じていた。けれど……それとは、なにかべつの……。
「ゼナさま、一度、お部屋におもどりください」
水桶を替えてきたシスマが、わたしに声をかけた。わたしが振り返ると、シスマも心配そうな顔をしていた。その不安げな眼差しは、わたしだけでなく、ユーリにも向けられているようだった。彼女もまた、ユーリの容態を気遣っていた。
「昨晩は、お休みになられなかったのでは」
「テーブルで寝てたから、大丈夫よ」
「それでは、お体にさわります。寝室でお休みください」
シスマは、頼み込むように頭をさげた。
わたしも、すこしばかり疲れを覚えて、席を立った。
「またあとでくるわ。くれぐれも、よろしくね」
「かしこまりました」
わたしは看護室を出て、自分の部屋へと向かった。記憶をたよりに進むけど、だんだん行き先がおぼつかなくなってくる。どうも、違う廊下へ迷い込んでしまったようだ。ひとに尋ねるわけにもいかないので、ますます混乱してくる。
(あら……ここ、見覚えがあるわよ)
わたしは、周囲の風景を、よく観察してみた。古い石壁と、装飾のない窓。床は、あちこち汚れていて、掃除が行き届いていない感じ。
(天文台か……)
わたしは、角を曲がって、うえにのぼる階段を探した。なぜか、館長のファーラビーに会いたくなったのだ。いや、なぜか、じゃない。ユーリが目を覚まさない今、わたしの正体を知っているのは、ファーラビーしかいなかった。すくなくとも、王宮に限定すれば。
わたしは、最上段をあがりきって、目の前のとびらを叩いた。
「だれじゃ?」
「ゼナよ」
足音。がちゃりと、錠がおりた。ギィっと、蝶番のきしむ音がした。
ファーラビーは、するどい目つきで、とびらの隙間から、こちらを覗き込んだ。
「おひとりか?」
「ええ、もちろん」
ファーラビーは、わたしを部屋に入れると、ひとこともしゃべらなかった。
「ちょっと、相談したいことが……」
ファーラビーは、自分の口もとを手でおおった。
なんの動作か一瞬分からなかったけど、静かにしろということらしい。
「ゼナさま、このたびは天体観測におこしいただき、まことに光栄でございます」
「……はい?」
「今日は特別に、望遠鏡を屋上へあつらえておきました。さあ、こちらへ……」
ファーラビーは、右手で、さらなるのぼり階段を示した。どうやら、屋上へ通じているらしかった。わたしは、その場でポカンとする。約束した覚えなんか、なかった。
そうこうしていると、ファーラビーはしきりに、あごで合図した。あがれ。そう命じているようだ。わたしは、なにか異変があることに気づいた。
「……わかりました。お先に」
わたしは、狭い階段をのぼった。うしろに、ファーラビーがついてくる。この状況は、あまり楽しめたものじゃない。老人とはいえ、喧嘩でわたしが勝てる保証はなかった。伏兵が隠れていたら、それでおしまいだ。
ファーラビーが裏切っていないことに賭けるしかない。そう決心したとき、目の前が急に開けた。わたしはひたいを手で覆って、真昼の夜空を見上げた。
「ゼナさま、あちらに」
ファーラビーは、小さな望遠鏡と、ふたつの椅子を指し示した。
わたしはかるくうなずいて、椅子に腰掛けようとした。
「ゼナさまは、望遠鏡のほうへ」
ファーラビーは、わたしを望遠鏡のみえる位置に座らせた。そのあいだも、心臓がドキドキする。横からブスリとやられるのは、ほんとうにごめんだ。
わたしは、距離をとった。
「どうぞ、ごらんください」
「ファーラビー、そのまえに、ひとつ尋ねたいことが……」
「どうぞ、ごらんください」
ファーラビーは、丁寧な、それでいて、断固とした指示をくだした。目が、わたしになにかを訴えかけてきている。覗け。そうしないと、大変なことになる……そう言いたげ。
「では、失礼します」
わたしは、サイドが無防備にならないように、左腕でガードした。そして、のこりの右手で望遠鏡の筒をつかみ、おそるおそる覗き込む。視界が暗くなり、満天の星空が、小さなレンズの空間に浮かんだ。
「ユーリの件は、すでに聞いておる」
「ッ!?」
わたしは、望遠鏡から目を離そうとした。
「そのまま見ていろ。こっちを向くな」
わたしは、姿勢を戻した。
「なぜ、こんなところへ連れて来たの?」
「監視されとる」
二度目の驚き。わたしは、望遠鏡から目をそらしそうになった。
だけど、ぎりぎりのところで我慢した。
「監視されてる? だれに?」
「ヒナ、わしはユーリから、こういう事態に備えて、伝言を受け取っておる。今から話すことを、よく聞け」
わたしは、首を縦に振った。視界の夜空が、上下に動いた。
「ユーリの落馬は、ただの事故ではない……罠だ」
「罠?」
「王室御用達の馬が、あんな暴走などせん。あれは間違いなく、薬のせいだ」
薬物……興奮剤だろうか。わたしは、じっと耳をかたむけた。
「狙われたのは、だれ? マリク王子? それとも、わたし?」
「そこまでは分からん。馬は、マリクのものだったのか?」
わたしは、うなずきかえした。
「ならば、マリク王子の可能性が高いな」
「カマルとシャムスのあいだで、なにが起きているの? 戦争?」
「戦争ではない……政争だ」
「せいそう……政治闘争ってこと? マリク王子を暗殺する理由は?」
「それを、これから話さねばならん……夜の国カマルと、太陽の国シャムスは、もともとひとつの王国だった。もう、何百年もむかしの話じゃがな。あるとき、兄弟の争いから戦争が起こり、現在の国境が形作られた。したがって、カマル王家とシャムス王家は、もとをたどれば、家族ということになる。両家は、あるときは武器に、あるときは婚姻に頼って、関係を傷つけたり深めたりした……ここまでは、わかるか?」
「えっと……よくある国の関係、でいいのかしら?」
「そうだ……そして、ゼナ王女とマリク王子との婚姻は、後者のケースにあたる。もともと幼馴染だったふたりに目をつけて、親睦を深めようというわけじゃな。これには、いろいろと思惑があった」
「どういう?」
「まず、先王が亡くなり、弟のハサラさまが王位を継承なされた。ゼナは、先王の娘。したがって、おまえの……いや、おまえではないな。ゼナの子には、ハサラ王が亡くなられた場合、王位を継承する優先権が認められる」
「それは、おかしいでしょ? ゼナは、隣国へとつぐのに……」
「そこで、もうひとつの問題だ。実はな、カマルとシャムスとのあいだでは、お互いの王族が相手の王家を継承した事案、一、二度ならずある。つまり、養子ということだ。ゼナの子が男子で、ハサラ王の養子になれば、おそらくは皇太子に選ばれるじゃろう」
「それのなにが問題なの?」
「考えてみよ。その皇太子の父親は、次期シャムスの王……母親は王妃……両国の政治的なバランスが、シャムスに傾いても、おかしくはない。それを危惧する連中がいる」
わたしは、王様になったマリクを思い描こうとしてみた……けど、ムリ。
「あのマリクよ? そんな野心があるようには、みえないわ」
「マリク王子がお人好しなのは、わしも認める……だからこそ、危うい」
ファーラビーは、そこで言葉を切った。
訊きたいこと、知りたいことがたくさんある。でも、彼は先を続けなかった。
「して、ゼナさま、星はよく見えますかな?」
「え? ええ……よく見えるわ」
「昨日は、三日月……古来より、不吉なかたちとされております」
……だれかいる。わたしは、左斜めうしろに、ファーラビーと異なる気配を感じた。
ファーラビーが話題をすりかえた理由を、わたしは悟った。
「そうね……不吉ね……昨日は、もっと気をつけるんだったわ」
「王女さま」
聞き慣れない女の声に、わたしは振り返った。
シスマと同じ、だけどすこし着飾った服装のおばさんが立っていた。
「侍従長より、伝言をうけたまわっております」
「……なにかしら?」
「昼食は、陛下およびマリク王子ととっていただきたいとのことです」
「……遠慮させてもらえないかしら。お腹が空いてないの」
「陛下より、ぜひにと」
どうやら、断れないらしい。わたしは、腹をくくった。
「わかりました」
「それでは、沐浴と着替えのため、寝室におもどりください」
女性は、そこを動こうとしなかった。
どうやら、このまま連行するつもりのようだ。
わたしは、椅子から立ち上がって、ファーラビーにいとまを告げる。
「おもしろいものが観られました。ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ、足を運んでいただき、光栄に存じます」
ファーラビーは、腰に手をあてたまま、深々とおじぎをした。
わたしは、きびすを返す。
「ゼナさま」
急な呼び止め。わたしは、首だけで振り返った。
「なにかしら?」
「おひとりで悩みなさるな……マリク王子に、よろしくお伝えくださいませ」
わたしは、階段をおり、自室にもどって、水浴びを終えた。冷水シャワーを強要されてるみたいで、どうも慣れない。そして、いつもより着飾ったあと、部屋をあとにした。ひたいには、黄金のティアラ。気分は悪くない。
食堂へ入るまえに、ひとつ手前の小部屋へと案内された。待合室だろうか。
「少々お待ちください」
わたしはポツンと椅子に座って、入室の合図を待った。
コンコン
ノック……ではなかった。背後の壁から、音がしたような気がした。
コンコン
耳を澄ますと、タペストリーのうしろから音が聞こえた。わたしは、巨大な月と一角獣が描かれたタペストリーを、そっと動かしてみた。
「……マリク!」
「シーッ、静かに」
みれば、タペストリーのうしろに、直径十センチほどの穴が開いていた。周囲がギザギザで、あとから開けたものに違いなかった。
「ゼナさん、お体の具合は?」
「だ、大丈夫よ……あなたとユーリのおかげ」
あのとき、マリクはわたしを抱きしめて、クッションになってくれた。そして、そのマリクを助けるかのように、ユーリが馬から飛び出して……傷ついた。そのことは、ユーリを解放した医者から聞かされていた。
「ユーリのほうは?」
わたしのときと同じくらい真摯に、マリクは尋ねた。
「……あまり、よくないのですね」
マリクは、わたしの顔色から、そう察したらしい。
「頭を打ったショックだって……そう言ってたわ」
「ユーリは、あんなことで死ぬ男じゃありませんよ」
マリクは、笑顔になった。むりやり作っているのだろう。なんとなく分かる。
「あまり食事をする気にはなりませんが、陛下の御前です。明るくいきましょう」
「ええ、そうね……」
わたしは、軽くため息をついた。その瞬間、ファーラビーの声がこだまする。
おひとりで悩みなさるな……マリク王子に、よろしくお伝えくださいませ
わたしは、ハッとなった。
(別れの挨拶にしては、へんだわ……気取りすぎてる)
なにかのメッセージ……アドバイスではないか。わたしは、そう推測した。
「ねえ、マリク、出席者は、わたしたちと王様だけなの?」
「王様とは、ずいぶん他人行儀ですね」
わたしは、もどかしくなる。
「ごめんなさい……わたしと……陛下だけ?」
「いえ、ガシェさんもご同席とか」
「ッ!?」
わたしは、くちびるを噛み締めた。
(あの女、ガシェに言及しなかったじゃない……わざとね……)
なにか、薄暗い影を感じた。直感とでも、いうのだろうか。この昼食会、なにかがおかしい。ファーラビーは、監視されていると言った。だれに? それは、分からない。でも、そのひとりが、ガシェだとしたら……ユーリは、ガシェにはめられたの? 落馬直前、門が閉まっていたときのユーリの驚き方は、本物だった。
(馬に薬を打って……門が閉められていたとしたら? 城に詳しいひとなら、ユーリが門から逃げ出すことくらい、予見できたはず……犯人は……いや、でも……)
ガシェなのだろうか。だけど、ガシェがゼナやマリクを狙う理由は?
頭がこんがらがって、思考がまとまらない。
そこへ、ふたたび、ファーラビーの声がリフレインした。
マリク王子に、よろしくお伝えくださいませ
「そろそろですね。では……」
「マリク、お願いがあるの」
わたしの呼びかけに、マリクはきょとんとした。
「なんでしょうか?」
「もし食事の最中に……わたしが話を振ったり、詰まったりしたら……全力でサポートしてちょうだい……いいわね?」
「はぁ……気分がすぐれないのですか?」
「ええ、とても」
わたしの返事に、マリクの顔が引き締まった。
いい顔、できるじゃない。
「わかりました。頑張ります」
足音。わたしたちは、タペストリーを急いでもどした。
さきほどのおばさんが入ってくる。
「食事の支度がととのいました」
わたしは席を立ち、黙って食堂に案内された。まず目を引いたのは、テーブルのうえに並べられた銀食器の数々。まっしろなテーブルクロスのうえで、まばゆい光を放っていた。それから、左右の壁にかけられた、色とりどりのタペストリー。どれにも、見知らぬ動物、例えば、火を吐く猛禽類、双頭のライオンなどが描かれていた。
そして、最後に、ハサラ王と……宰相ガシェの姿。
「ゼナよ、よく参った。マリク殿も、ご同席に感謝いたす」
主賓席に座ったハサラ王は、老人特有の、くったくのない笑みを浮かべた。
わたしは、ハサラ王の向かって右側に、マリクは左側に、ガシェは、マリクの左隣を占めた。テーブルの一辺に、わたしは孤立した格好。心もとない。
「それでは、乾杯としよう。ぞんぶんに楽しんでいただきたい」
ハサラ王は、赤い液体の入ったグラスを持ち上げた。
わたしたちも、それに続く。
澄んだ赤の向こう側に揺れる、マリクの横顔……ゲームは、始まった。




