涙音は遠い
普段通りの携帯端末の振動に目を覚ました。
寝不足さは気にならない程には働き蜂。
癖で目許に手をやって濡れた感触にはっとした。
嫌な夢か、悲しかったか。
ブラウスに煙草と香水とアルコールの香り。
記憶に靄がかかっている。
来月号の入稿を終えた深夜に妙なテンションの同僚達が私を賑かな方角へ連れていった昨日。
帰宅して企画書を上げれば今すぐに自由の身だったけれど、一人きりの部屋に帰りたくなかった事に加えて私への祝いも含まれるから。
仕事柄、時間調節に長けた人間が多い訳で、直ぐに近場の居酒屋が予約されて完全無礼講の飲み会へ大人数で肩を並べて外気へ出た。
編集長である上司ですら浮いた様子で可笑しい。
来月号で私は連載の担当を持つ。
落ち着いた雰囲気の居酒屋に続いて入った。
活気はあれど馬鹿騒ぎには向かない店構えに安心感を覚えた。
私が気を遣う余裕を持っていられる。
アルコール人数を確認されてビールが流込んできた。
私の新連載と入稿終わりを祝して取り敢えず乾杯、の声に努めて笑んだ。
滅多に酔い潰れないのは呑み方に気を付けるなどではなくて家系が酒呑みだから。
都内のマンションで悠々自適に暮らす両親に暫く連絡すら取っていないと気付いた。
私が大人数の飲み会へ顔を出す事は珍しいと笑われた。
私は仕事では厳しく、他では甘やかされて職場に居るのだと改めて思い知る。
隈とヒールを磨り減りを心配されて何かと食事に誘われる。
今も私のデスクへは京都土産のチョコレートがあって頼りに終電を逃す日々を過ごした。
それでも尚、長女癖は抜けなくて数日内に会う相手には相談など出来ない。
結構溜め込んでいると自分でも思う。
無駄な事で。
たかが一つの嘘程度も許せる包容力すら持ち合わせていないと思うと情けないけれど、あの男へは割り切った付き合いというものに苦い笑みしか出て来ない。
仕事と離れてテーブルを囲むと誰もが額の皺を薄れさせて只のファッションが好きなだけの人達。
此方へは若手が、向こうへは中堅以上が並んだけれど入れ替わりの激しい呑みの席。
話題に上るのは新しく買ったバッグだとかショップ店員への文句だとか、恋人に浮気の兆候があるだとか。
薄く火照り胸が疼いた。
そういえば、と恋人は居ないのか問われるのも当然の流れだった。
彼等は私と上司の「仕事」の邪魔を恐れて昼休憩時に席を外すだけで私は悟られることはしていないから。
見え見えの嘘しか吐けないと悟って大人しく掠める方向へ向けた。
若手とはいえ此方も頼れる人ばかり。
強く溜め息を吐いた。
ぎこちなく笑みも浮かべて。
多分恋人だろうけれど中々信用の出来ない人なら居ますよ。
一言だけ言って、止めましょうと顔を覆った。
羞恥よりも上司の顔が視界に入る恐怖で。
離れたテーブルで声が届く訳ないのに。
視線は交わらなかった。
少し、グラスが揺れるのを遠目に見ただけで。
両側の女性陣から頭を撫でられた。
崖っぷちまで追い詰めたら縋って来て、と囲まれた。
謝罪しか口に出ない事を笑われた。
男性の先輩がアイス食うか、と。
父親の様だと笑いが起きた。
彼が楽な恋愛をしているのではないと知っているからと潤んだ目を強く閉じて勢いで顔を上げた。
私の許容範囲が狭くて独占欲が強いだけです。
本当に少しの事で、私が許せられればいいだけですから。
只、少しだけ好きになり過ぎたんですよ。
上司が向こう側で表情を変えて携帯端末を耳に席を立った。
飛び交う声に耳を傾けつつカクテルの赤を煽った。
赤、青、黄色、琥珀色。
どうやら壁を隔てたバーへも注文が可能なようで種類が豊富だ。
少し離れて呑みたい。
そっと席を立った。
ドアを一人出て、隣の重い扉を押した。
「度数の強い物を下さい」
畏まりました。
幾つもの種類を加えた液体が軽やかに鳴る。
音も立てずにグラスが滑った。
「ありがとうございます」
お疲れですか。
「自分でも分かりませんよ」
バーテンダーは同世代の男性だった。
人当たりが良くて気遣いの出来る。
穏やかな目鼻立ちに黒い服装が似合う。
隣の居酒屋とはオーナー同士が兄弟だそうこの店を私はすっかり気に入った。
逆チョコ、というやつです。
苦し気な女性を放ってはおけないので。
窺うように尋ねた口調と二つのチョコレートが私を引っ張り出した。
静かに纏まらない自分が出て来て苦しいけれど。
話してみませんか。
ぽつりと話せば頑として口を割らなかっただけに溢れ出すものが多過ぎて目許の熱さを鎮めようと息を吐いた。
初老のバーテンダーが冷えたタオルを奥から持って現れた。
堪えると目許を腫らします。
此方のバーテンダーは若いですが性格と腕は良いもので、頼ってやってください。
久し振りに芯まで暖まった気がした。
溢れ出た滴を見て二人がほっと息を吐いた。
「隣へ戻ります」
無理をせずとも貴方は魅力的なのだから。
頑張り過ぎないでください。
「また来ます」
少し肩が軽かった。
戻って朝の自室。
少し声を出して掠れ具合に焦った。
携帯端末のスケジュールは空欄。
喉が渇いた。
『起きたかい』
慌てて起き上がって後悔。
『君は低血圧を自覚しなさい』
自分の方へ凭れ掛からせる仕草が普通の恋人らしい。
一人きりの休日にはなれなかった。
見えてきた。
昨夜は君に任せる筈の仕事を忘れていたと言って帰ったのだ。
このご時世にアナログな、なんて会社に寄って資料を渡された。
終電を逃してタクシーを捕まえ先に降りた。
『やっぱり僕も降ります』と気紛れに着いてきて仕事をした。
未だに仕事とプライベートの境目を見付けられない私達だった。
何もなく眠りについた。
『昨日は自棄に呑んでいたって本当かい』
「一人途中で隣のバーへ移りましたよ」
だから悪酔いはしていません。
そう、と髪を撫でて立ち去った。
キッチンから軽い音が聴こえてフライパンが鳴った。
朝食はトマトのリゾット。
涙は嫌な夢でも悲しさでもなく、久々の安堵だった。




