雪道は恋人
世間が浮かれ菓子業界が浮かれる、そんな印象の一種近代的な行事。
製菓材料が並ぶ店内は単純に見つめるだけで幸福感に満ちる。
感情表現に乏しい顔を僅かに和らげると美人が喜び上司が視線を反らせた。
仕事合間のこの時間で社会人の休日に可能なレシピを脳内で捲った。
嗚呼、此処に住みたい。
笑わない。
私を表すのに最たるものはそれだと美人が言った。
上司にはマンションのドアの内側に私を縫い付けるまでは優秀で好感的な男、と揶揄した。
見合わせて苦い顔をするのを見た美人がからりと笑った。
この美人と上司が義理の兄妹だとは余り知られていない。
弟さんが一目惚れしたらしい、知らぬ間に。
私は未だ何をしているのだろう。
積み上がった資料を思い浮かべてデスクへの帰路へついた。
「随分な量ですね」
『そう言いながらも君は渡そうとはしないんだろう』
「これ以上を求める気ですか」
お昼時に帰ってしまった上司と私は僅かに気を抜きすぎる。
上司のデスク横に掛かった紙袋は他の男性より溢れ過ぎる。
仕事漬けの私は休日明けまで義理であれど渡すことはない訳で。
時間が無かろうと趣味だからと自分で作ると学生時代に決めた。
例年以上に手を抜かざるを得ないのは素直に忙しいと喜ぶべきところなのだろう。
加えて本命などを作る程世間には染まれない。
「休日明けに皆さんに渡しますけれど」
『言い忘れていたけれど、今日泊まりに行くからね』
「聞く気無いですよね」
『放っておいてくれて構わないよ。自分の仕事も持ち帰るから』
世間一般では恋人の日と呼ばれ、紆余曲折を経たのだろうか恐らくその様な所に落ち着いたような私達は会社に尽くす変わり無い日常を演じる。
何処か遠くを見るかのような目で書類を捲って、瞬間冷静に戻った上司は眉間に皺を寄せた。
全面的に信用は勿論出来ない。
職場でのみ、恋人の日ではなく大人の面倒な人付き合いの日として甘さを控えたチョコレート菓子を上司としての男へ渡そう。
『昼、食べないのかい』
「食欲がないので結構です」
『気温差が激しいのは君には酷だろうね』
「お陰様で仕事を増やされた私は更に貴方を殴りたいですよ」
『優秀な君に仕事が集まるのは分かりきったことだろう』
「有り難いことですし、仕事はさせてください」
噛み合っているような合わないような。
二人共に話を合わせる気が無い癖、会話を続けるのは何故。
少なくとも書類に判子を押す上司とメールを処理する部下には不釣り合いだ。
無機質な音が広がって進まない手先を停止して気怠く紅茶を求める。
立ち上がった気に入りの靴は疲れを見せない。
湯はまだ沸かない。
同僚達の好意的な嫌がらせは昼休みの終わり際まで帰らないこと。
マグカップに可愛らしい華奢なものを選んで置かせること。
形容しがたい関係性を説明出来る日が万が一起こった場合に笑い話になれば。
今は苦さがほろ苦さに変わったような。
窓から雨の雫が落ちた。
終電過ぎの都会は気持ち悪い高揚感で居心地の悪さを覚えて気紛れに紛れた。
少しだけ心が軽い。
雨傘を畳んだ。
上司は恋人になって、部下は恋人になりきれない私になる。
煌びやかに発光する新しい建造物群が人間を眠らせてくれない。
雪の下に飛び出して濡れた。
性に合う。
『酔ったかい』
「グラスワインで酔う程可愛らしくないですよ」
「何でもないです」
微かに声が掠れて、失敗したと。
背後から金属音がして同じように雪を被った恋人が肩を手繰り寄せていつの間にか近付いた自宅へ駆けた。
言葉も交わさず不器用に日常を過ごす。
「貴方も馬鹿ですね」
『君が笑わないだなんて嘘だね』
表情を緩め合うのは雪のせい。
水分を含んだ冷たさは体温で溶けた。
雫を滴らせて部屋に上がれば本格的に強まった白さが見えた。
「画になる辺りが気にくわない」
『此処へは濡れて来ることが多いからね』
雫も滴る良い男、容姿のみ。
湯で火照った肌を冷まさないようココアを渡す。
仕事柄、服と靴と雑誌なんかの多い部屋にキーボードを叩く音を響かせて夜が更けた。
携帯端末の振動で薄目を開ければ穏やか寝息に絡め取られて笑んだ。
私に上着掛けて寝落ちたなら意味ないじゃないか。
ヘッドホンで外部を遮断して歩く朝の都会は人恋しい。
朝に弱い私は薬が効くまで音楽に包まれてふらりと歩く。
隣の口元が馬鹿、と形付いた。
「何です」
『頼って来ないから心配になる』
「頼れません」
貴方の事を信用しないのは止めました。
お陰で編集部が安定して自由に動けていることも解っています。
私が一人で意地を張っているだけですから気にしないで。
素を出せば火照って仕方がない。
境界線がぼやけた。
まだ恋人の顔で頬に張り付いた髪を払ってくれる仕草が波立たす。
『やっぱり惚れ直したよ』
「冗談止めてください」
見馴れた会社が見えて境界線を引いた。
何よりまずは仕事。
雪道は危なげに穏和に包んだ。




