LIVED-MAN
0/
『あえて訊こう。悪魔と契約する気はないか?』
1/
「美紗さん、洗い物手伝いましょうか?」
「あら、手伝ってくれるの?」
この短髪の、いかにもお人好しでアホそうは少年支山大偉は居候である。
数年前に奴に両親を亡くし、天涯孤独となったところを、父の友人である小櫃寺教人氏の計らいで、こうして小櫃寺家に住まわせてもらっている。
「ダイ君ごめんなさいね、わざわざ手伝ってもらっちゃって」
教人氏の妻、美紗がおっとりと謝る。
「いえ。イソーローの身ッスから」
「それはそうと……大丈夫なの?」
「? 何がッスか?」
美紗は首を傾げる大偉にすっと時計を指した。
「学校。そろそろ行かないと遅刻しちゃうんじゃない?」
「…………………………ああああーーッ!」
もう八時を過ぎている。徒歩で行ける距離とはいえ、もう出ないと確実に遅刻する。
「マジかよッ…………じゃあメイ姉は!?」
「もう行っちゃったみたいねえ。あの子ったら」
大偉は慌ててゴム手袋を放り投げてカバンを背負い、小櫃寺家を飛び出す。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
美紗はふわふわとした笑顔で大偉を見送った。
「メイ姉! 置いてくこたないだろ!?」
「ああダイ君、今日は困っている人を見つけなかったのね」
全力で走っていると前方に見慣れたロングストレートの黒髪を見つけ、思わず呼び止めた。
「てっきり今日は日本語がわからない外国人に観光案内でもするのかと思ってたわ」
「メイ姉はオレをなんだと思ってるんだよ……」
「お人好しのお馬鹿さん。でしょ?」
小櫃寺夫妻の一人娘、小櫃寺迷は大偉の一つ上、高校三年生である。艶やかな黒髪、透き通る肌にぱっちりとした瞳。どこに出しても申し分ない美少女で、彼女と一つ屋根の下で同居している大偉はよくそのことで羨ましがられたり恨まれたりしていた。
(ビジンはビジンだけど、キツいことばっかり言うからなあ……)
友人からはからかいまじりに譲れだの寄越せだの言われるが、数分おきに嫌味を言われ白い目で見られる立場でいいなら譲ってやりたいくらいだった。
「私は優等生なの。ダイ君につきあって遅刻なんてしたら今まで積み上げてきた面目が台無しだわ」
「オレだって別に好きで遅刻してるわけじゃ……」
「ああそうね、急いでいるときに限って捨てられた子猫やら迷子の子供やら重い荷物を持ったお婆さんやらを見つけてしまうだけね。自分が被害をこうむる点以外は、素晴らしい才能だと思うわ」
「……メイ姉ってもしかして、オレのことが嫌いなわけ?」
「言わなきゃわからないの? どうしようもないお馬鹿さんなのね、あなた」
気が滅入る。自分から話しかけておいてなんだが、迷と会話するのは本当に疲れる。
(前はそんなでもなかったはずなんだけどなあ……)
以前はそれなりに仲良く話ができていたはずなのに、一体いつからこうなってしまったのか。
「………………まったく」
はあ、とため息をつき、「そうだ、ダイ君」と迷は大偉に話題を振った。
「今朝のニュースは見た?」
「えっ……いや、美紗さんの手伝いしてたから、見てないけど」
「もう高二なんだからニュースぐらいチェックしなさい」
再びのため息。メイ姉もオレと話してると疲れるのかな、などと呑気に考えていると、「昨夜、うちの近所で事件があったんですって」と話し始めた。
「……事件!? 近所で!? どこ!?」
「二丁目の廃工場。不審な物音がする、という通報を受けて現場に向かった警察官が、何体か遺体を見つけたそうよ」
「遺体……てことは、殺人事件?」
右手をスラックスのポケットに突っ込みながら大偉は訊ねた。
「おそらくそうでしょうね。その遺体、『加工』されてたそうだから」
「『加工』……?」
不吉な感じのする言い方だ。
「テレビでは詳しく報道されてなかったけど、かなりひどく損壊されてたんですって。胴を刻まれ、手足を切り取られ。あんまりにもしっちゃかめっちゃかだったから、遺体の身元どころかそもそも何人殺されたのかもあやふやな状態だって聞いたわ」
「へえ……誰から?」
テレビで報道されてないはずなのに、やけに詳しい。
「ツイッターのリツイートで回ってきたわ」
「ツイッター引用!?」
「知り合いの知り合いが現場にスネークして得た情報よ」
「どうあがいても信憑性が低すぎる!」
「スネークさんを馬鹿にしないで! あなたスネークさんの何を知ってるわけ!?」
「メイ姉こそスネークさんの何を知ってるんだよ!」
ここに来て迷の意外な一面を知ってしまった大偉だった。
「……まあ、とにかく。うちの近くでそういう物騒な事件が起こったのよ」
迷はこほん、と咳払いして話を戻した。
「そりゃ怖いなー」
「……もっと怖がりなさい。なんの為に話したのかわからなくなるでしょ」
「?」
首を傾げていると、迷はそっぽを向き、ぼそっと言った。
「…………気をつけなさいってこと。夜遊びをするのはいいけど、あんまり心配させないで」
「………………」
大偉はポケットの中の右手をぎゅっと握った。
「……メイ姉こそ用心しろよな。メイ姉はビジンなんだから」
「私は優等生なの。変な犯罪者に狙われるような隙なんて最初から作ってないわ」
「わー、サスガ」
迷は無愛想に答えた。しかしその頬は微かに紅潮していたが、大偉は気づかなかった。
2/
「ダイ。あの女が言っていたことを覚えているか」
「うおっ!?」
放課後。大偉が校舎の屋上でぼうっとしていると、彼の背後から魔法のように突如として青年が現れた。
「……ベルゼブブ。いきなり出てくんなよ、びっくりするだろ」
「能天気にボケっとしていた貴様が悪い。貴様、自分の立場をわかっているのか?」
ベルゼブブと呼ばれた青年は呆れたように嘆息した。玉虫色に輝く髪、彫像のように整った顔、瞳孔を見つけることの出来ない複眼めいた朱色の瞳。気品を漂わせ、中世の軍服に似た服を纏った彼の容貌は、まさしく『人間離れ』した美しさだった。
「明日をも知れぬ命でありながら……よくもまあ余裕があったものだ」
「別にいいだろ、ちょっとぐらい。久しぶりにちゃんと空が見たかったんだよ」
「口答えをするな」
ベルゼブブが指をぱちんと鳴らす。すると、突然大偉が右手をおさえて苦しみだした。
「いててててて!?」
「忘れてしまっているようだが……貴様の命の生殺与奪は私の手にかかっているのだぞ?」
大偉の右手の中指には魔法陣の描かれた黒ずんだ銀色の指輪がはまっていた。指輪がさしずめ孫悟空の緊箍児のごとく大偉の指を締めつけているのだった。
「わ、わかってる! わかってるから、痛いからやめろって!」
「ふん」
その答えに満足したのかどうなのか、指輪の締めつけがゆっくり緩んでいく。若干白くなった指先を見て、大偉はほっと一息ついた。
「空など生き残ってからたっぷり見ればいい。死に損ないの貴様に、空を見ている暇などないはずだ」
「わかってるって…………で、メイ姉の話がどうかしたって?」
ベルゼブブは「ふん」と再び嘆息し、指を鳴らした。大偉の眼前の中空に迷のバストアップを映した映像がモニターもなしに浮かぶ。
「うおっ」
『――――昨夜、うちの近所で事件があったんですって――――』
迷のビジョンが喋りだす。どうやらベルゼブブが魔法を使って今朝の迷との会話を再現しているらしい。
『――――かなりひどく損壊されてたんですって。胴を刻まれ、手足を切り取られ。あんまりにもしっちゃかめっちゃかだったから、遺体の身元どころかそもそも何人殺されたのかもあやふやな状態だって聞いたわ――――』
「……まさか、これも『ライヴド』絡みだって言うんじゃないだろうな?」
「ご名答と言ったところだ。貴様にしては珍しい」
ベルゼブブはビジョンを消し、大偉に近づいた。
「少なくとも、突然猟奇殺人犯が湧いて出たというわけはあるまい――よりにもよって、『シナゴーグ』の最中にな」
「……でも、それこそ意味わかんねえだろ。なんでライヴドがわざわざ人を殺すんだ?」
大偉が眉をひそめると、ベルゼブブは「私と貴様には関係のないことだが」と前置きして語った。
「契約した悪魔の力が弱いと、悪魔の魔力だけでは契約者の生命維持をするのが難しくなるのだ。魔法で心臓を動かし、血液を巡らすのはそれなりに魔力がかかるのでな。魔力以外のなんらかのエネルギー源――たとえば人間の魂やら生き血やらが――必要となるのだ」
「…………自分が生きるために、他の誰かを殺してるって言うのか?」
大偉は思わず絶句した。
「別に珍しいことでもあるまい。家畜が他人にすり替わっただけだ。貴様とて、契約したのが私ではなくその辺の三下悪魔であったなら、たった一日延命するために毎晩殺人せねばならん羽目になっていたかもしれんのだぞ?」
ベルゼブブは冷酷に言った。やはり、そうなのか。悪魔にとって、人間など家畜程度の価値しかないのだろうか。
「……でも、そんなの、おかしいだろ…………」
「おかしくなどあるものか。他人の命よりも自分の命を優先するのが当たり前だ。……とはいえ、己の力不足のために貴重な食糧を食い荒らされるのは不愉快だ」
呆然とする大偉の指輪をベルゼブブはまたしても魔法で締め上げた。
「いってぇーッ!?」
「ボケっとするなと言っているだろうが。おかしいと思うなら、さっさと止めるがいい」
ベルゼブブは大偉の指輪に手をかざした。すると、ベルゼブブの姿が指輪に吸い込まれるように消えていく。
『どちらにしろ、貴様も他のライヴドを殺さなければ死ぬ運命なのだからな』
「……わかってるよ…………」
指輪から響くベルゼブブの言葉に頷き、大偉は右手を握り締めた。
「でも……やっぱり間違ってるだろ……」
3/
およそ三ヶ月前。支山大偉は死んだ。
いつものように、取るに足らない善行をしている最中、いくつもの不運が重なり――この世から去る羽目となった。
(嘘だろ。そんな、死にたくない)
死とはこんなに恐ろしいものだったのか。生とはあんなに素晴らしいものだったのか。後悔と未練で満たされた大偉の魂が肉体から解放されようとした、そのとき。
彼は現れ、言った。
『あえて訊こう。悪魔と契約する気はないか?』
その悪魔――ベルゼブブは、大偉を蘇生させる条件として取引を持ちかけてきた。
悪魔たちの駒遊び、『シナゴーグ』。ベルゼブブと契約してシナゴーグに駒として参加し、他の参加者――悪魔との契約者、ライヴド――と最後の一人になるまで殺し合え、と。
他のライヴドに殺されれば、もちろん蘇れない。だがこの取引を突っぱねればそのまま死ぬだけだ。そしてシナゴーグのルールには一つだけ魅力的なものがあった。
最後の一人――つまり優勝者にはトロフィーの代わりに『ソロモンの指輪』が贈呈される。七十二柱の大悪魔との契約が施されたこの指輪は、いつでもどんな状況でも悪魔を呼び出し、使役することが出来るのだった。
使われる立場から使う立場へ。
『魔法のランプと思えばいい。どんな無茶な願いでも叶えることが出来るぞ。無論三度までなどとケチなことは言わんし、魂や寿命を奪ったりもせん。貴様が天寿を全うするまで、悪魔を呼び出して好き放題することが出来るのだ』
ソロモンの悪魔の一体であるベルゼブブはそう笑い、大偉に決断を迫った。
そして――大偉は悪魔ベルゼブブと契約を結び、右手の中指に契約の指輪をはめられた。
「でも……殺し合うって、どうやって」
「案ずるな。力はやる」
死への恐怖でほとんど考えずにベルゼブブと契約した大偉だったが、他のライヴドと戦っているうちに、自分の選択に疑問を持つようになった。
「戦わなければやられる。殺さなければ、オレが殺される」
「……でも、オレはそんなの嫌だ。自分が生き残るために、誰かを殺したくない」
「誰かを殺したくない……でも、死にたくない…………!」
シナゴーグが開始して早二ヶ月。大偉は地獄の宰相ベルゼブブとしていながら未だに誰一人として他のライヴドを倒せていなかった。
4/
「とりあえず、そのハイコージョーに行ってみるか」
学校から出て、大偉はくだんの廃工場に向かうことにした。
「ライヴドのシワザにしろそうでないにしろ、手がかりがないんじゃどうしようもないしな」
『ふん……安直な発想ではあるが、今のところそれが正道だろうな』
指輪の中に身を隠したベルゼブブが嫌味ったらしく言った。
『悪魔とは違い、人間が「知らない土地」で「知らない人間」を殺すことは普通有り得ない。通りかかったレストランで食事するようには人間は他人を殺せんからな』
「もうちょっと良いたとえはなかったのかよ……つまり、殺人犯にとってハイコージョーは行き慣れた場所だった可能性が高いってことか?」
『阿呆の貴様にわかるよう平たく言えばな』
ベルゼブブの言い方にむっとする大偉。オレってそんなにバカっぽく見えるかなあ、とよく迷から馬鹿馬鹿と連呼されることを思い出した。
「確か二丁目……だったよな。あんなとこにハイコージョーなんてあったのか……」
近所とはいえ、うろついたことのない地域だ。ちゃんと見つけられるだろうか?
しかし、そんな危惧はすぐに杞憂となった。
「……うおお、パトカーだらけじゃん」
『まあ、事件が起こったのだから、警察が来るのが当然だろうな。それが残酷な事件ならば、尚更』
辺りは騒然としていた。あちこちに停まったパトカー。不安そうに顔を見合わせる人々に聴き込みをする警察官。何も知らない人間でも、何かあったと察するには充分すぎる光景だった。
「……ハイコージョーはあっちにあるっぽいな。よし、行こう」
パトカーや警察官の位置で見当をつけ、歩き始める。
「…………どんな、ヤツなんだろうな。ライヴドがいたとしたら」
歩きながら、大偉はふと呟いた。
『ふん、さあな。だが、ライヴドが殺人するのを容認するようは悪魔には何体か、心当たりがないこともない』
「え、あるのか?」
『ああ。人殺しを是とする悪魔は、そうは存在しない』
意外だった。ベルゼブブはよく人間のことを『食糧』『家畜』と揶揄して軽視しており、契約している大偉のことすらも邪険に扱う節があったからだ。
『人間と同じだ。たとえ自分が食うものではなくとも、食糧を無駄にするのは気が引けるだろう。悪魔にとって人間は玩具だ。しかし食糧でもある。分別のついているものならわざわざ無駄に食糧を廃棄するような者はいない』
「『食糧』だからこそ、手荒には扱えない……ってことか」
『だが例外はいるし、先程言ったように力の弱い悪魔ならば殺さざるを得んだろうしな。あくまで多数派であって、悪魔全体の総意ではないのだ』
「じゃあ、必要以外で人を殺す悪魔ってのはなんなんだ?」
『それは――――』
話し込んでいるうちに、くだんの現場であろう廃工場の敷地の前まで辿り着いた。やはりパトカーが多く停まっていて、入り口には侵入禁止のテープがべたべたと貼られている。しかし、大偉はその光景に何が違和感を抱いた。
「……なんか、ヘンだな」
『ふん、何が変なのだ? 事件の現場にも関わらず、野次馬どころか警察官の姿も見えない程人気がないことか? 侵入を阻むためであろうテープが切り裂かれていることか? 廃工場と言うわりに、長年何者かが住んでいたように生け垣の手入れがされていることか? それとも――』
ベルゼブブは吐き捨てるように言った。
『――――工場の中から、新鮮な生き血の香りが漂ってきていることか』
「!? 生き血ッ……!?」
『大当たりだったようだな、ダイ。ライヴドの気配がするぞ。奴等も我々に気づいているだろうな』
大偉は身構え、敷地の中に入る。外からはわからなかったが、敷地には警察官や取材しに来たマスコミのものであろう手帳やカメラ、拳銃などが落ちていた。廃工場の入り口まで、点々と。まるでヘンゼルとグレーテルみたいだな、と大偉は場違いなことを連想した。
「もしかして……警察官や記者の人たちまで……!?」
『油断はするな。ここは奴等のテリトリーだ。どこかに罠がしかけてあるかもわからん』
ベルゼブブが注意を促す。しかし言うが早いか、突如工場の入り口から触手のようなものが伸び、大偉の胴体に巻きついた。
「ぐッ!?」
『ダイ!?』
「ぐああああッ…………!」
あまりに突然で防御や反撃する暇もないまま、大偉の身体は工場内部へと引きずりこまれていった。
5/
「ぐおッ!」
触手が解かれ、大偉は床に叩きつけられる。大偉の身体はべちゃりと水音を立てる不気味に柔らかいものに落ちた。
「ッ、ぐ…………」
大偉は思わずそれから顔を背けた。クッション代わりになったのは、まだ生暖かい血を垂れ流す肉片だということに気がついたからだ。金属じみた臭いが大偉の鼻を侵食する。
「くそっ、ここは……」
肉片を避けて床に手をつき立ち上がると、視界の端に何やらうねる物が見えた。考えるより先に身体が反応する。大偉はとっさに後ろへ飛び退いた。
「なッ――――!?」
それは、大偉を工場内へと引きずり込んだであろう触手だった。しかしよくよく見てみるとそれは、触手と呼ぶにはあまりにもおぞましすぎるグロテスクな外見をしていた。
血管だ。大偉は死ぬ間際、自らのそれを目の当たりにしていたためそうわかった。細長い血管がいく筋も絡み合い、まるで繊維が糸を形成するように触手のような外観になっていたのだ。先端からは血液が滴り落ち、灰色だった床をどんどん赤く染め上げていく。
触手を目で追うと、やがて本体らしき肉塊が見えた。触手よりもさらに醜悪な見た目をしたそれは、心臓のようにゆっくりと脈打っていた。大偉はそれが何で構成されているか気付いた瞬間、吐き気を催さずにはいられなかった。それはさながら、人の皮を剥がして作った野球ボールのようであった。いくつもの人体が溶け合うように合体し巨大な球状になっている。ところどころある隙間からはぎゅうぎゅうに詰め込まれた臓物らしき赤黒い物体が覗いている。
「なんだよッ…………あれ…………!?」
『惚けている場合か。避けろ!』
ベルゼブブの叱責と同時に触手が大偉へと飛んでくる。「うおおッ!」大偉は身を屈めてそれを避け、左手で右手の指輪に触れた。
「まさかあれがライヴドなわけねーよな……ライヴドはどこだッ!?」
「ここだよ」
「!」
声は肉塊の奥から聞こえた。変に甲高く、少しかすれた声だった。
「ようこそ小虫さん、僕のアトリエへ」
若い男だった。エプロンをつけ、筆とパレットを持つその姿はまるで美大生か何かのようだ。少なくともエプロンが血で真っ赤に染まり、パレットに絵の具の代わりに血がぶちまけられていなかったならそう見えただろう。
そして大偉は見逃さなかった。男の筆を持つ左手の中指に銀の指輪がはまっているのを。
「一応、自己紹介をしておこうか」
男が言った。
「僕は加々美順路。格好良い言い方で名乗ると、ディレッタントってところかな」
加々美が筆を振ると、肉塊が触手を引っ込め「待て」をくらった犬のように小さくなった。
「で、これが僕の作品。タイトルは『現代社会』にしようと思ってるんだけど、どうかな?」
「お前が……こんな物を? ケーサツの人も? 昨日の夜の殺人事件も、お前なのか?」
大偉はただただ驚いていた。こんな、街をうろつけばいくらでもいそうな男が、あんなおぞましい怪物を作ったのか? 何人もの人間を原型がわからなくなるほど切り刻んだのか?
「おいおい、人が名乗ったんだからそっちも名乗れよ。まあ、覚える気もなかったし、別にいいけどさ」
加々美は呆れたように言い、再び筆を振った。すると、肉塊から二本の触手が生え、ゆらゆらと不気味に揺らめかせた。
「ああ、もしかして君って殺人が悪だって思ってる人? 変わってるなー、こんなゲームに参加してる癖に。そんなんじゃ生き残れないんじゃない?」
「質問に答えろ!」
加々美の問いにかぶりを振り、大偉は叫んだ。
「はいはい。そーだよ、僕がやったのさ。作品を作るためにね。どう? 結構イカしてない? 僕的には自信作なんだけど」
「テメエ………………!」
会話がまるで成立しない。加々美はどうやら、殺人に対してまったく罪悪感を抱いていないらしかった。大偉はショックを受けた。
『……ふん。なかなか芸術的なネクロマンシーだ』
ベルゼブブが皮肉るように言い、加々美の指輪に語りかけた。
『芸術家で殺人狂――となれば奴しかおるまい。そうだろう? グラシャラボラスよ』
『……久しゅうございますな。サー・ベルゼブブ』
と、加々美の指輪から中年男性の声が答えた。
『相変わらずの悪食家でいらっしゃるようで。僭越ながら、もっとマシな人間がいたのでは?』
『貴様の悪趣味さには私もかなわん。なるほど、殺した人間を材料に作品を作るとは無駄がない。さしずめ「廃材アート」と言ったところか』
貶しあっているのか褒めあっているのかよくわからない会話が続く。加々美と契約した悪魔とベルゼブブはどうやら知り合いのようだった。
「……ベルゼブブ、こいつは一体…………」
たまりかねた大偉がベルゼブブに訊ねた。
『奴はグラシャラボラス。私と同じく過去にソロモンと契約した悪魔で、「例外」だ。地獄でも屈指の「殺し好き」でな、奴から学問の手ほどきを受けようと呼び出した人間をよく殺人狂に仕立て上げていたものだ』
『失敬ですな。わたくしはただ新たなる「知」への探究心を開拓したまでですぞ』
『「血」と「知」を間違えるとはグラシャラボラス、貴様も耄碌してきたか?』
グラシャラボラスの訂正を皮肉で塗り直し、ベルゼブブは大偉に言った。
『曲がりなりにも大悪魔だ。ネクロマンシーで怪物を作り、操れている辺りライヴドも熟練しているだろう。峰打ちで倒せる相手ではない。容赦はするな、文字通り殺すつもりで相手取れ』
「殺すつもりで…………」
大偉は迷った。自分に出来るだろうか? いくら相手が殺人鬼といえど、人を殺すことが出来るだろうか。
「ねえグラーシャ」
『なんですかな』
一方、加々美もグラシャラボラスに話しかけていた。
「シナゴーグって、ルールはないんだよね。出会ったら戦い、殺す。それだけでいいんだよね」
『そうですぞ』
「じゃあ――今から不意打ちしても、誰からも怒られないってわけだ」
加々美は筆を振り、『現代社会』の触手を操った。
「殺すつもりがないんならさあ――とっとと死んじゃいなよッ!」
「なッ――――」
気を緩めていた大偉の背中に、二本の触手が絡み合うように襲いかかった。
6/
「くっ――――!」
大偉は前転して触手をかわす。だが背中に触手がかすり、学ランと皮膚が切り裂かれた。痛みを堪えて体勢を整えると、加々美は左手を顔にかざし何か呟いていた。
「残虐者よ、大総裁グラシャラボラスよ。契約に基づき、我に姿を与え給え。LIVED!」
加々美の足元に光る魔法陣が現れた。そこから地獄の瘴気のように不浄な煙が湧き出したかと思うと、加々美の身体を包み込む。煙に包まれた加々美の身体は、羽を 生やし直立した犬のような、『怪人』とでも呼ぶべき姿に変貌した。
「死にたくないんならさあ、さっさとやろうよ」
「………………!」
『ダイ、やれ。死に損ないの貴様に、迷っている暇などないはずだ』
ベルゼブブは静かに言った。それに答えるように、大偉も右手を顔にかざした。
「……蝿の王よ、宰相ベルゼブブよ! 契約に基づき、我に姿を与え給え――LIVED!」
大偉の魔法陣から現れたのは無数の小さな羽蟲だった。それらは蝿が死骸や糞尿にたかるように大偉の肌を覆い、鎧のような外格を形成していく。大偉の姿は西洋風の全身鎧を模したようなものに変わっていった。
「……カクゴが決まらねー。でも、やるしかない!」
「あれ、知らないの? 人を殺すのに覚悟なんていらないんだよ」
加々美は杖のように長くなった筆を振り回し、『現代社会』を使役する。『現代社会』は形容しがたい唸り声をあげて触手を何本も生やし、それを脚にして大偉に向かってきた。
「フライッ……パアアアアンチ!」
大偉は飛び上がり、怪物の脚の一本に拳を叩きつけた。しかし脚は柔らかく、受け流されてあまりダメージを与えられない。
「クソッ……だったら!」
そのまま脚に捕まり、引き千切らんばかりに脚をねじ上げる。だがこれも駄目だった。脚が解け無数の血管に戻ったかと思うと、逆に大偉に絡みついてきた。慌てて大偉は脚から飛び退き、血管を振り払う。
『ダイ、貴様忘れたか』
と、ベルゼブブがアドバイスしてきた。
『今貴様は私の本体とリンクしている。貴様の欲望と私の魔力が枯渇するまで貴様はどんなものでも生み出すことが出来る。魔法を使え。欲望をさらけ出せ。例えばどんな肉でもなます切りにする剣でも欲してみろ』
「……! そうか!」
大偉は早速右手に力を込めてみた。すると、いつの間にかその手には鎧と同じく西洋風の長剣が握られていた。
「よし! 欲望ソードだ!」
『……前々から思っていたが、貴様、そのネーミングセンスはどうにかならんのか』
ベルゼブブがため息をつくのを尻目に、大偉は欲望ソードを『現代社会』の脚に振るった。ズバン! という小気味良い音とともに脚が半ばで切断される。
「よっしゃ!」
「へえ、結構やるんじゃん」
しかし加々美が筆を振ると、その脚はすぐさま再生してしまった。『末端を狙っていてもキリがない。核を狙え』とベルゼブブが言う。
「核?」
『魂だ。ネクロマンシーは死体を動かす術ではない。死体に魂を呼び戻し、その魂を服従させ下僕とすり術だ。魂を解放してしまえば、勝手に術が解け死体に戻るだろう』
「そんなのどうやって解放すれば――――うおおッ!」
話している間に触手がやってきて、大偉は慌てて触手を薙ぎ払った。悠長に話している暇はない。大偉は肉塊へと跳躍し、その身体にしがみついた。
「駄目駄目。そんなことさせるわけないでしょ」
肉塊からさらに触手が生え、大偉を振り落とさんと襲ってくる。触手を必死でかわしつつ、大偉は肉塊の上部へとよじ登った。
「とりあえず全部ぶった斬っとけばなんとかなるだろ!」
『貴様…………』
大偉は念じ、長剣をさらに大きくした。さながら斬馬刀のように巨大化した欲望ソードを振り上げ、『現代社会』の脳天(と思われる部位)に振り下ろした。
「おッりゃあああああああああ!」
欲望ソードが肉塊を貫通する。甲高い悲鳴をあげ、肉塊は触手をバタつかせた。そのまま剣を前後に引くと、肉塊は文字通り真っ二つになって倒れた。
「うおっ…………」
肉塊から飛び降りて断面を確認すると、中にぎっしり詰まっていた内臓が溢れ出ているのが見えた。思わず目を逸らしそうになるが耐えて観察してみたが、『核』がありそうは部位は見つからない。と、そのとき。
「あーあ、酷くやってくれたねえ」
加々美がまたも筆を振る。また触手攻撃かと身構えたが、肉塊から飛び出たのは触手ではなくテニスボール大の光球だった。光球は筆へと飛んでいき、筆先に染み込むように消えた。
「君は創作家の心ってやつがわかってない。あれを作るのにどれだけかかったと思ってるのさ」
「お前こそ、こんなものを作るためにどれだけの人間を殺したんだ!?」
「本当にわかってないんだなあ、君は…………」
加々美はため息をついて首を振り、大偉に近づいてくる。
「まあ、いいよわからなくて。わからなかったことを後悔するほど加工してあげるから」
加々美が筆を振り、次はどんな手で仕掛けてくるのか、大偉は欲望ソードを油断なく構えて見守った。
7/
「僕は絵を描くのは苦手なんだけどなあ……」
加々美は呟き、筆を血でべっとり染まったパレットに沈めた。
「好き嫌いなんて言ってられないからね」
血を絵の具代わりに、空中に図形を描きだした。まるで透明のガラスに描かれたように図形は宙に浮かび、淡い藍色の光を放つ。すると、床中に撒き散らされていた血が無数のシャボン玉になって浮かび上がり、加々美の周りに漂いだした。
「銃は剣より強しってね」
血の玉はクラシックな見た目の猟銃の形に変化し、銃口を大偉へと向けた。
「えい」
加々美筆を振ると、猟銃は一斉に弾丸を大偉へと放った。
「うおお!」
大偉は長剣を盾状に変形させ弾丸を防ごうと試みる。さしずめ欲望シールドといったところか。しかし弾丸は軌道を曲げ、盾を避けて大偉に着弾した。
「ぐうう…………!」
元は血であったはずのそれらは本物の弾丸と見まごうほど硬化しており、鎧を着ている偉の身体にもダメージを与えるには充分だった。
「あはは、効いてるみたいだね。ならもういっちょ、と」
加々美が追撃をかける。獲物を追いたてるスズメバチのような動きで襲ってくる弾丸に、大偉はただ逃げるしかなかった。
「クソ! このままじゃ……!」
『痛みに惑うな、ダイ』
ベルゼブブは冷静に言った。
『あの程度の弾丸を二、三発食らったところで貴様は死にはせん。先程の肉塊と同じだ。本体を叩け。今度はあのライヴドを狙えばいい』
「叩けっていわれても……」
弾丸の雨が大偉を襲う。避けるか盾で防御するのが精一杯で、とても加々美には近づけない。
『…………貴様は本体に馬鹿だな』
はあ、とベルゼブブがため息をついた。
『敵を攻撃するのに近づく必要などない。目の前で奴が体現しているだろう』
「……オレに『銃』を使えってのか」
どういうわけか大偉は渋い顔をした。
『それが嫌なら、馬鹿なりに考えればいい。馬鹿の考え休むに似たりとは言うが』
「うるせえ」
怒った顔で吐き捨てると、大偉は盾で弾丸を弾いた。
(とはいえ、このまま逃げ回ってるわけにはいかねえし……)
大偉はどうにか無い頭を振り絞って考える。せめてこの銃撃をどうにかすることが出来ればいいのだが……
「ああもうちょこまか鬱陶しいなあ。これでも食らって、止まってよ」
加々美は筆を振り、血の猟銃を集めて合体させた。巨大な砲台となった銃が大偉を威圧する。
「弾け飛んで骨までぐしゃぐしゃになればいーよーッ!」
凄まじい轟音とともに、砲台から直径二メートルはあろうかという巨大な弾が発射される。軌道を曲げ、変則的に動きながら大偉をミンチにすべく襲いかかる。これには大偉も一瞬ギョッとしたが、直後にこれがチャンスであることに気づいた。
「うおおおおおおおおおッ!」
「!」
次に大偉がとった行動は、弾を避けるのではなく逆に特攻するかのように弾へと突っ込むことだった。自殺にしか見えない行動に、加々美は思わず絶句する。
「……な、君は馬鹿なのかい……」
「見ての通りの、大バカだァ!」
欲望ソードを再び斬馬刀にし――――いや、長くなった欲望ソードの先端には、ドラム缶の五倍はある円筒形の重りがついていた。大偉は欲望ソードを巨大ハンマーに変成したのだ。
「これでも食らえええええええええッ‼」
あらん限りの力を振り絞り、ハンマーを弾に叩きつけた。弾は有無を言わさず床に叩きつけられ、惰性で床をえぐりながらも動きを止めた。
「…………嘘…………だろ?」
『力任せというか、その場しのぎというか……ここまで頭の悪い対処法は未だかつて見たことがありませんぞ』
加々美は呆然とし、グラシャラボラスは一周回って褒めているようなことを言い出した。
『ふん。まったくの大馬鹿なのだ、こいつは』
ベルゼブブはどこか誇らしげに言った後、『で、どうするグラシャラボラス』と訊ねる。
『まだ続けるか? いくら手品師の貴様と言えど、既にタネがなくなった状態で戦うのは好まないと思うのだが』
「………………!」
加々美はハッとして筆を見た。筆先に消えたはずの光球が浮かび上がり、空へと消えていこうとしていた。
「そうか……やっぱり髪の毛じゃいつまでもとどめてはおけないか……」
『双方痛み分け、ということですかな』
ハンマーを降ろし、満身創痍になって床に膝をついている大偉を見てグラシャラボラスが言った。
『今回は貴様の顔を立てそういうことにしてやろう』
『相変わらず宰相殿は魔王陛下に負けず劣らずの尊大さをお持ちで。それでは、お言葉に甘えるとしましょう。ジュンロ!』
装飾された皮肉で礼を言いながらグラシャラボラスは加々美を促す。
「……ちえ。ここに来てお預けかあ」
加々美はぶーたれた顔で、しかし素直に頷き、背中の翼をはためかせた。
「ダイ君、だったっけ? 次会うときはもっと良い作品を見せてあげるよ!」
「………………」
加々美が飛んで行くのを、大偉はなんともいえない顔で見送った。
『……安堵したか?』
加々美たちがいなくなったのを見計らい、ベルゼブブが言った。
『奴を殺さずに済んだのを。奴に殺されずに済んだのを』
「…………どっちかっつーと、ガッカリして、悔しい」
『……ほう?』
ベルゼブブは意外そうに相槌を打った。
「人を殺すのは間違ってると思うし、殺したくない。でも、あいつはきっと、オレが殺さなくちゃいけない人間以上に殺すんだ。ムカンケーの人を、沢山」
『殺すだろうな。グラシャラボラスと契約したのだから』
「殺したくないけど、オレが殺さなかったせいであいつがもっと殺すなら……殺そう、と思う。殺さなくちゃ、と思う」
『…………使命感か』
大偉は立ち上がり、変身を解いた。鎧の下にあった身体は傷だらけで、帰る前に魔法で見かけだけでも綺麗にしなければならなそうだった。
『一応忠告しておこう。根拠のない使命感に従うのは得策ではない。後悔するぞ』
「それでも、何もないよりはマシだろ。理由もなく人なんか殺せない」
大偉は思った。他のライヴドも、加々美と同じように人を殺すのだろうか。それともそのつもりはなくても殺さなければならない状況に陥っているのだろうか。あるいは大偉と同じようにこの戦い自体に疑問を抱いているのだろうか。
もしそんな人間が敵として現れたとき――――大偉は彼らを殺すことができるだろうか?
『ふん。では精々悩め。良い答えを見つけられるといいな』
「…………ああ」
大偉はこれからも戦うだろう。生きるために、いつか誰かを殺すだろう。
『生』を過去形にしないために。