メランコリック(3)
テスト期間中、学校は早く終わる。テストだけ済ませれば解放と言った具合で、それが最後まで生徒に足掻けと言っているのか、教師が面倒くさいからなのか、或いは僕らの与り知らぬ学校側の理由なのかは不明だが、兎に角午後早くには自由に行動する事が出来た。
「美春……お前、頭大丈夫か?」
というのはテスト終了後、朝比奈の第一声である。僕は席を立ち、時間を確認しつつ応じる。
「酷い言われようだな……昨日の事なら謝っただろ?」
「謝ったとかそういう問題じゃねえだろ。美春君の頭がおかしくなってしまったのかと思って、朝比奈君は大層心配したわけよ」
そりゃまあ、自分でも心配になるくらいだったからね。冷静に傍から見ていれば余計にそう思うだろう。
「なあ美春……なんかヤバい薬でもやってるんじゃないだろうな?」
「はあ? そんな訳ないだろ……善良な小市民である僕がヤバい薬って……」
頭を振りながら朝比奈に目を向ける。朝比奈はやけに真剣な表情で、思わず黙ってしまう。
「本当だな?」
「……本当だよ。いるのかどうかは分からないけど、神に誓ってもいい」
「なら……いいんだけどな」
なにやら考え込む朝比奈。昨日の僕も大概だったが、こいつも今日はどこかおかしい。
「この間言いそびれたんだが……九条先輩の件で、ちょっと気になる事があってな」
神妙な面持ちでケータイを取り出し、僕に差し出す朝比奈。そこには一枚の画像が表示されていた。解像度は荒くお世辞にも鮮明とは言えなかったが、写っている物の判断は可能だ。
「これは……カプセル剤?」
青く透明なカプセルに入った、たまご型の薬だ。思わず怪訝な表情を浮かべてしまったのはそれがなんなのか分らなかっただけではない。以前何処かで見覚えがある……そんな気がしたからだ。
「これ、確かどこかで……」
「見たのか? どこで見たんだ?」
「な、なんだよ。これがどうかしたのか?」
食い気味に顔を寄せてくる朝比奈に困惑する。彼もそこで冷静さを取り戻したのか、ケータイをポケットに収めて溜息を吐いた。
「わからねえ。十中八九、何らかの違法ドラッグだと思うんだが」
「はあ? 違法ドラッグってお前……ドラマじゃあるまいし」
「俺も最初はそう思ったさ。ま、お前が無関係ならそれでいいんだけどよ」
肩を竦める朝比奈。そこで僕は少し思案し、思い出した。
「わかった……それ、鳴海さんが持ってた薬だ」
「鳴海……?」
「朝比奈も見ただろ? この間の朝、僕らを待ち伏せしてた刑事だよ」
これを知らないと言われたらいよいよ僕の記憶はあてにならなくなってくるのだが、どうやら朝比奈も記憶していたようだ。それから納得した様子で頷く。
「はっはー、なるほどな」
「一人でどや顔してないで説明しろよ」
「ああ。例の刑事が調べてるのは九条先輩の件じゃなかったんだよ。厳密にはそれも含まれるのかもしれないが……つまり、連中が調べてるのはこの薬の事なんだ」
九条沙希がストーカーの所為で死んだ……そんな仮定を編み出した後も朝比奈はたまに九条先輩の事を聞いて回っていたらしい。顔も行動範囲も広い朝比奈だからこそ、こういうアングラなネタもちょくちょく聞こえてくるのだそうだ。
「実はな……九条先輩の事故、似たようなのが先月二件起きてるんだよ。両方うちの生徒で、死んじゃいないが一人は入院中、もう一人は謹慎中だ」
それは初耳だ。だが知らないのも無理はないだろう。同じ学校の生徒と言っても所詮は他人、先輩の時のように周知の事実になった方が稀有な例だと言えるだろう。命を落としたのならばともかく、入院程度なら学校中に話が伝わる筈もない。
「でも、似たようなってどういう事?」
「九条先輩は死の直前様子がおかしかっただろ? やっぱり残りの二件もわけがわからない事故だったんだ。まあ、ちょっと調べて来たから聞けよ」
一件目。十一月に入って間も無く起きた交通事故。
被害者は先輩と同じ三年生の女子で、登校途中車に撥ねられている。理由はこの女子生徒が車道に飛び出したからだが、その直前の様子が妙だったと言う。
「ちなみに徒歩で登校していたらしいが、事故る前もなにやらふらふらしていたらしい。一度躓いて倒れそうになったりして、他の生徒が気遣ってる。その後こいつは信号待ちの横断歩道を強行突破しようとした挙句、車に撥ねられた。幸い車の方が早い段階で気付いた為減速が間に合い、命に支障はなし。腕の骨折だけで済んだそうだ」
そして二件目。こちらは更に不可解な物になる。
被害者はやはり三年生で、今度は男子。大人しい性格で普段から影が薄く、クラスでも目立たない存在だったという。そんな彼はある日突然ゲームセンターの前で乱闘騒ぎを起こした。
理由は不明。柄の悪い男数人と殴り合い、大怪我をした。事件があったのは深夜の事で、その生徒は珍しく真夜中まで一人でゲームセンターを放浪、突然乱闘を始めたという。
「もちろん、そんな奴じゃなかった。人を殴った事もないような感じだったのに、急に大声で喚き出し、周りの人間を襲い始めた。結果的に不良に返り討ちにあって止まったからよかったが、そうじゃなかったらと考えるとな……」
「それで自宅謹慎中か。似たようなっていうのは、事件直前に様子がおかしくなる所か?」
「それだけじゃねえ。その二件についても、警察が調べに入ってるらしい。何人か聞き込みを受けた奴もいる。んで、全部の事件に共通しているのがさっきの薬だ……と、俺は睨んでる」
朝比奈に見せて貰った画像を思い出す。青いカプセルに入ったきらきらした液体。お世辞にも身体に良さそうには見えないあの薬を、鳴海さんも持っていた。
「《メランコリック》って言うらしい。何でも、好きな夢を見られるようになる薬だとか」
眉を潜めた。好きな夢を見る事が出来る薬――ただの偶然だろうか? 僕はその力を持っているという少女と最近知り合いになったばかりだ。
ケータイを取り出し、検索してみる。《メランコリック》とは、物思いに耽るとか憂鬱であるという表現に使われる形容動詞だ。恐らくそのままの意味で名付けられたのであろう事は理解出来るが、やはりそれ以上の情報は得られなかった。
「朝比奈はその写真、どこで?」
「ああ。学校の裏サイトで拾った」
またも怪訝な表情を浮かべてしまう。額に手をやり、朝比奈を見つめる。
「またそんなドラマみたいな物……」
「あるんだな、これが。って言っても相当マイナーだぜ。自称学校の裏サイトって感じの所でな、そこで噂されてたんだよ。好きな夢を見られる薬があるってな」
どうだろうか。確かに、本当にそんな薬があるのならば僕も興味はある。いや、誰だってあるはずだ。
夢というのは自分だけの物。どんなに欲望を曝け出しても、どんなにご都合主義で解釈しても、誰にも迷惑はかからない。僕だって思い通りにしてみたいと思った事はある。高校生なんて夢一杯の年頃なら余計にそうだろう。
「実際に使ってる奴を見た事はねえが、居るには居るんだろうぜ。この学校にもな」
「ちょっと待って。それじゃあ朝比奈はその……先輩もその薬を使っていたと?」
「そりゃまだわからんけどな。この薬は寝る直前に使うのが正しい使用法らしい。そうすると寝る前に自分が思い描いていた夢を見る事が出来るそうだが、起きている間に薬の効果が出てくると、どうも強烈な眠気と共に幻覚を見るらしいんだ」
メランコリックの副作用を受け、交通事故にあったり傷害事件を起こしたりする……それは確かに理に適っているように思える。もし本当にそうだとすれば、先輩も……。
「まあなんつーか、俺は昨日のお前の様子を見て……その、お前も使ってるんじゃないかって思ってな。何も知らなかったみたいだから、それはいいんだが」
「朝比奈、ちょっとその件……もう少し調べられる? もしかしたら僕、その薬について何か分るかもしれない」
「調べるのは別に苦じゃねえよ、どうせテストで暇だしな。しかしお前、何か分るかもしれないって……危ねえ事しようとしてるんじゃねえよな?」
「そういうのに詳しそうな知り合いがいるだけだよ。悪い奴じゃ無いし、僕も悪い事はしない。分かったらそろそろ行くよ。これから人に会う約束があるんだ」
荷物を纏め、小走りで教室を後にする。背後で朝比奈が何か言っていた気がするが、今はそれ所ではない。感じるこの胸騒ぎは、恐らく僕の勘違いではない。
僕が見た夢。先輩の死。夢の世界と真尋。そして警察とメランコリック……。恐らくそれは全て無関係ではないのだ。何かを見落としているだけで、僕はその答えに至る道を既に得ているのではないだろうか?
確認が必要だ。そしてこの一連の不可思議な状況を解決する事でこそ、僕は僕の状況を理解する事が出来る。先輩の死を乗り越え、前に進む事が出来るのだ。
「真尋、お待たせ!」
二年三組の教室へ向かい、真尋を回収する。机に座ってうとうとしていた真尋だったが、僕が声をかけると背筋を震わせ慌ててこちらへ走ってきた。
「な、何してるの?」
「何って、一緒に帰るだろ?」
「別に一緒に帰る必要はないんじゃ……」
きょろきょろと周囲を見渡し、僕を教室から押し出す真尋。そこで鞄を置いてきた事に気づき、慌てて取りに戻る。そうして再び教室を出て、僕の背中を押すのであった。
「……呆れた」
帰り道、ずっと黙り込んでいた真尋は溜息混じりに口を開いた。
「桜井君って、行動力ありすぎだと思う」
「そうかな? 君の行動力がなさすぎるだけじゃなくて?」
不満げにジト目でこちらを見る真尋。朝比奈や柳さん以外と帰り道を誰かと歩くのは珍しい。いや、もしかしたら九条先輩と何度か歩いたのかもしれないが……。
感慨深く景色を眺めていると、真尋が大分後ろを歩いていた。僕と比較すると移動がかなりゆっくりである為、たまに待ってやらないと真尋を置いて行ってしまうのだ。
「あなた、自分勝手だって言われない?」
「いや、言われないよ?」
「そう……じゃあ周りの人間がよほど自分勝手なんだね」
それは言えている気がする。
こうして僕らは真尋の家に向かった。その途中、真尋はあえて例の雑居ビルにあるスナックへと足を向けていた。近道と言えば近道なのだが、何故あえてここを通り抜けるのか。真尋の本意はわからないが、僕もその後に続く。
「ただいま、おばあちゃん」
そこで何と無く事情を察した。まだ日も高い為か店は閉まっていたが、準備中の店内には一人の女性の姿があった。
ポロシャツとジーンズという非常にラフな格好の上にエプロンを纏い、女性は煙草を咥えている。やたら短くカットされた紫色の髪と鋭い目付きは歳不相応にギラギラとしており、言われなければ誰も真尋の祖母だとは思わないだろう。
「おかえり真尋。それでなんだい、後ろの小僧は?」
「桜井君……学校の友達」
名乗ろうと思ったが、それより早く真尋の紹介が入った。僕は適当に笑顔を取り繕いながら会釈してみる。
「真尋が学校の友達、ねえ……ふうん」
紫煙を吐き出し、品定めするように僕を見つめるおばあちゃん。歳は歳なのだろうが、体型はスリムで肌もつやつやしている。背筋もしゃんと伸びており、おばあちゃんなんて風には見えないし、真尋とは似ても似つかない気がする。
「あんた名前は?」
「桜井です。桜井美春」
「はっ、女みたいな名前だねえ」
……こんな事は初めてだ。初対面の相手に、しかもばあさんに鼻で笑われ、自分の一番のコンプレックスを串刺しにされるなんて。
「もしかしてこいつ、この間あんたの部屋に来てた奴かい?」
無言で頷く真尋。どこかで見られていたのか……いや、あのアパートはこの店の真後ろだから、見られていてもおかしくはないのだが。
「何だかシャキっとしない面構えだねえ。真尋、友達はもっと選んだ方がいいんじゃないか?」
「おばあちゃん……」
「はいはい、分ってるよ。真尋ももう子供じゃないんだ、付き合う相手は自分で選びな。美春ちゃん、おやつでも食べるかい?」
「いえ、おかまいなく……」
こうしてエキセントリックなばあさんがいるスナックから離脱し、真尋の部屋に向かった。部屋に入ってようやく人心地ついた感じで、もうあのばあさんは忘れられない気がした。
「……ごめんね、変なおばあちゃんで」
「いや……えーと……うん」
何だか否定するのも疲れるので適当に頷いておいた。
「しかし真尋とは全然似てないね。真尋はどっちかっというとトロそうだけど、あの人はせっかちそうな感じだ」
「トロそうって……。桜井君、お茶飲む?」
「お構いなく。それより早く寝よう。何気に昨日から待ちきれなかったんだ」
上着を脱ぎながら立ち上がる。部屋には既に布団が用意されており、真尋もその気だったらしい事が伺える。
「待って……まだ色々準備が……。それに……こういうの初めてだし……」
「この間図書室でやっただろ、二回も」
「そうじゃなくて……」
何がそうじゃないのか良く分からないが、真尋は尻込みしているようだ。僕は待ちきれないのでさっさと布団に入ってしまう事にする。
「そういや、真尋はどこで寝るんだ?」
「隣、寝室だから。私はそっちで寝るよ」
「確認だけど、一緒の布団じゃなくても大丈夫なのか?」
図書室の時も実際の僕らの距離は離れていたから、大丈夫だとは思うのだが。
「……多分ね。じゃあ、私は隣に行くから」
布団の中、頭の後ろで両手を組みながら真尋を見送る。その途中、彼女は振り返り言った。
「こっち見ないで」
恐らくあの扉の向こうはプライベートな空間なのだろう。僕は大人しく目を瞑り、色々な物思いに耽った。けれど直ぐにそれを止めてぼんやりする。
最近常に何かを考えたり悩んだりしていた気がする。それはそれで悪くはないと思うのだが、ずっと続くと疲れてしまう。眠るつもりなら、どうでもいい事に意識を向けよう。
例えばこの部屋に来るの三回目だな、とか。明日もテストだな、とか。夕飯どうするかな、とか。この布団いいにおいがするな、とか。真尋はもう寝たのかな、とか……。
そんな事を考えているうちに、気付けば眠りの世界へ落ちていたのであった。
「それじゃ、早速試してみようか」
白い真尋と顔を合わせるのはこれが三度目になるだろうか。現実の彼女と違い、こちら側の彼女はとてもリラックスした様子に見える。表情からは余裕が伺えるし、言動も歌うように軽やかだ。
僕らは夢の中……領域内の真尋の部屋に居た。現実と違う所があるとすれば、細部がぼんやりとしている事だろうか。いつかと同じ様にコタツを挟んで僕らは向き合う。
「ちょっと確認いいか? これから僕たちがする事についてだ」
「別にいいよ。もしかして、怖気づいちゃった?」
目を細め微かに笑みを浮かべる真尋。やっぱりこう、夢の中だとキャラが少し違うなあ。
「真尋には僕の頭の中を覗いて貰うわけだが……その真尋が見ている物を僕も見る事は出来ないのか?」
「出来ないと思う。でも、一回私が理解してしまえば再現する事は可能だと思う。自分でも確認したいなら、後で再現してあげるよ」
「ちなみに、頭の中を覗かれるっていうのはどんな感じなんだ?」
「さあ? 私は覗かれた事がないから」
そりゃそうだろうな。真っ直ぐに僕の目を見て微笑む真尋。僕は深呼吸をして覚悟を決める。
「分かった。じゃあ、やってくれ」
「その前に私からも確認。もしあなたが九条さんと付き合っていたのだとしたら、その記憶も見る事になると思うけど……いい?」
言われて初めてその事を意識した。冷静に考えてみると、それは非常にまずいのではないだろうか? 恋人同士と言えば、そりゃもうあんな事やこんな事をやっている可能性があるわけで……。
「そ、そこだけ見ないっていうのは?」
「無理かな。そこまで精密にコントロールは出来ないよ」
「いやっ、でもそれを再現出来るならそれはそれで物凄く幸せなのでは……!」
頭を抱えて仰け反る。ああ、そういう素敵な事があったのだとしたら、何故覚えていないのか。それがとても悔やまれる……。
「ていうか真尋は大丈夫なの? 場合によってはただのセクハラだけど」
「別に……気にしないよ。子供じゃないんだからさ」
目を逸らし呟く。まあ、高校生なんだ。真尋がどんなにトロい子でも男女が付き合ったら何をするのかくらいは知っているだろう。
微妙に気まずい空気を咳払いで誤魔化しつつ、目を瞑る。
「よ、よし……やってくれ」
「桜井君、もっとリラックスして。意識がある状態でやるって事は、あなたが意識的に閲覧をガード出来るって事だから。それでも平気だけど、耐えると辛いかもしれないし」
確かにそうだろうな――と、そこで漸く思い至った。そもそも、なぜ僕はこの場所に……《CU領域》に来る事が出来るんだ? いや、厳密には何故この領域で意識を保ったままで居られるのだろうか?
真尋は言っていた。《エゴ》だけが領域内で自意識を成立させられる、と。通常の人間は無意識の状態で領域にやって来ると言うのなら、何故僕は……。
「い――っ!」
そこで思考は途切れた。一瞬頭の中が真っ白になり、体が激しく痙攣している事に気付く。五感は既に薄まり、出鱈目に動き回る肢体はコントロール不能な状態にあった。
「真尋……何やったんだ!」
「私は何も……ただ、あなたの認識に接触しただけだよ……!」
意識は鮮明になったが、身体は相変わらず言う事を聞かない。まるでそう、あの悪夢を見ていた時のようだ。しかしあの時とは違い、身体は勝手に動き出している。僕の意志を無視し、真尋に向かって腕を伸ばした。
真尋はそれに対し背後へと身をかわす。しかし僕はそれを追ってコタツを乗り越え真尋へ跳びかかろうとしていた。
「ちょ、ちょっと……あぶなっ! 壁に当たる!」
部屋の中を走って逃げる真尋。僕はその後をあちこちへ身体をぶつけながら追い掛け回す。やがて彼女は自分の部屋を飛び出し、通路の二階から飛び降りた。一瞬ひやっとしたが、優雅にふわりと着地し、僕を見上げている。
「真尋……って、うわー! ちょっと待って、僕は無理だろ!」
悲鳴を上げても身体は理不尽に飛び降りを実行する。身体に痛みはないが、鈍い衝撃が全身を貫いたのが分かる。それでも僕は真尋に向かい続けていた。
「桜井君、止まれないの?」
「止まれるなら止まってるよ! 君が何かしたんじゃないのか!」
「分からない、こんな事初めてだから……どうやって止めればいいのかも……」
身体はぐらぐらと前後に揺れている。まるで映画で見たゾンビのようだが、挙動はその何倍も素早い。自分の身体とは思えない身のこなしで獣のように真尋へ走っていく。
「――止まらないなら、止めればいいだろ」
声が聞こえた。聞き覚えのない声だった。戸惑い身構える真尋と僕の間、そいつは突然姿を現した。何もない場所に影が揺らぎ、ぼやけた景色が人型の像を結ぶ。
直後、僕の身体は空を舞っていた。状況に思考は全く追いついていない。スピンしながら空を吹っ飛ぶ僕の身体は、在ろう事か空中で静止。反転し、再び突撃を開始した。
そこで漸く僕は見た。真尋を庇うように立って居るその男の姿を。
全身を黒いコートで覆い、頭にはニット帽を被った長身の男。僕は彼を見た事がある――。
「悪いな。ぶん殴るぞ」
襲い掛かった僕に対し、男はカウンターで拳を叩き付ける。顔面に減り込む拳の嫌な感触に悶える間も無く、僕の身体はアスファルトに叩き付けられていた。
信じがたい事に大地が陥没し、亀裂が走る。身体は地面に減り込んでいるようで、暫く何とか動こうと足掻いていたが、やがて息絶えたようにぱったりと停止してしまった。
「あ、止まった……って、いいいいってえ!」
途端に身体が痛覚を思い出したかのように、全身に激痛が走った。しかしそれは思っていた程ではなく、突き抜けるようにしてすっと身体から消えてしまった。そもそも痛み以前に殆ど傷がないのがおかしい。地面に陥没するような勢いで殴られたら普通は無事じゃ済まないし、そもそもそんなパンチを人間が放てる筈も無いのだが……。
「思いの他冷静みたいだな。その様子なら悪い夢はすぐ覚める」
男が呟いた直後、僕は地面にちゃんと立っていた。何が起きたのかわからなかったが、瞬間移動したとしか思えない。何事も無かったかのように、身体は五体満足である。
「え……っと。何が、どうなったのか……」
「説明する義理はないな。お前は所詮ただのデコイに過ぎない」
またわけのわからない事を語り、男は振り返る。そうしてニット帽を脱ぎ、金色の長髪を晒しながら振り返った。視線の先に居るのは真尋だ。
「お前に訊きたい事がある。お前はそっちの一般人と違って、明らかに能力者だな」
男は不意に片手を真尋に向けた。刹那、男の手の中には拳銃が握られていた。これも先程と同じだ。そうだと思った瞬間、もうそこに拳銃が存在している――。
「その力、どこで手に入れた? 何故そいつに接触する?」
「おい、何の話だよ。僕にもわかるように説明し……」
男は徐に身体だけで振り返り引き金を引いた。僕は撃たれたのだ。胸を弾丸が貫き、肉がえぐられる感触があった。痛みとも熱ともつかない感覚に思わず膝を着く。
「桜井君!」
「動くな。言って置くが、俺はお前達を殺すのに躊躇したりしない。妙な考えを起こすな」
再び銃口は真尋へ向けられる。蹲ったまま自分の身体を見下ろすと、夥しい量の血が流れていた。途端に気分が悪くなり、吐き気がしてくる。
「真尋、逃げろ……! そんな奴に、構わず……!」
「でも、桜井君!」
「僕の事はいいから……!」
泣き出しそうな顔でこちらを見る真尋。彼女だけでも逃がしてやりたいのが本音だが、正直この状況をどうやって動かせばいいものか。真尋は銃口を向けられているし、僕は動けない……というか、死ぬかもしれない。
「何が目的だ……? 真尋に何を訊きたいんだよ」
結果、僕は男に話しかけていた。状況を動かすには、兎に角情報が不足している。彼が何者で何を目的として現れたのか知らなければ、交渉のしようがない。
「お前も《エゴ》なのか……? デコイってどういう意味だ?」
「……加減したとは言えよく喋るな。《エゴ》というのは知らんが……それがお前達の間での呼び方なのか」
興味深そうに呟き、それから男は目を細める。
「デコイとは文字通りの意味だ。お前は奴が仕込んだデコイ……つまり囮だ、桜井美春」
「どうして僕の名前を……」
「奴は俺や他の能力者が接触してきた場合に備え、お前を泳がせていた。お前は俺やこいつのように、他の能力者を釣る為のエサだったってわけだ。ま、先に気付いた俺が利用させてもらったんだがな」
状況が全く読めてこない。この男が何をしたいのか、僕がなんなのか……ただ一つわかっているのは、このままでは真尋が危ないという事だ。
「真尋、夢から覚める事は出来ないのか?」
「無駄だ。お前達の居場所は既に特定した。現実でもお前達を捉えるのは時間の問題だよ」
そんな事が……可能なのか。だが事実奴はここに介入してきた。《CU領域》内の場所と現実の場所に密接な関係があるのは間違いない。こちら側で僕らに接触してきたという事は、現実でも同じ事が可能なのかもしれない。少なくとも場所は把握された筈だ。
失敗だった。これが真尋の部屋ではなく図書室であればまだ対処法もあったかもしれない。だがここで逃げ切れても真尋の居場所がばれてしまっているのであれば、状況は好転しない。
「あなたが何を知りたいのかわからないけど……私は何も知らないよ。私達はそもそも、この力についても良くわかってないんだから。その為に検証していたんだし」
「検証?」
「僕の記憶の事だ。僕は過去の記憶を改竄されている可能性があるらしい。それを真尋に相談したら、お前の言う能力ってやつを使って確認してくれると言ってくれたんだ……!」
男は銃を真尋に向けたまま考え込む。それから目を細め、溜息混じりに銃を降ろした。
「なるほど。まあ、そうだろうな……。お前達の事情は理解出来た。だが、だからといってお前達が危険ではないという保証にはならない。能力を悪用する可能性、そしてお前達にその気がなくともまた奴に利用される可能性……それらを潰しておく必要がある」
ごくりと生唾を飲み込む。緊迫感の中、男は歩き出す。真尋の脇を抜け、そのまま背後へ。
「お前達の行動は監視させてもらう。精々俺の邪魔をしないよう、気をつける事だな」
次の瞬間、男の姿はすっかりそこからなくなっていた。再びの瞬間移動――否、文字通り消えたのだろう。現実の世界へ帰ったのか、或いは……。
「桜井君……!」
そこで真尋が駆け寄ってくるのを見て、やっと自分の状態を思い出した。しかし銃で撃たれた割にはピンピンしているような気が……。
「大丈夫、これは夢だから……桜井君は、怪我なんかしてないんだよ。考えてみて。夢の中で何が起きたって、あなたは死なないでしょ?」
屈んで僕の顔を覗きこむ真尋。落ち着いて考えてみればその通りだ。あまりにも拳銃に撃たれたという事実が迫力あり過ぎてすっかり見落としていたが、ここは夢なのだ。
僕だって色々な夢を見た事がある。そこでは命の危険を迫られる事もあった。だが目を覚ませば決まって全ては幻で、なかった事になる――。
「ほら……ね?」
僕の手を取り微笑む真尋。血塗れになっていたはずの手はすっかり綺麗に戻っており、身体に空いていた穴も、傷も血も全て消え去っていた。
「まったく……災難だ。真尋、怪我はない?」
「ないよ……むしろあなたの方が怪我してたじゃない」
苦笑を浮かべる真尋。どうやら本当に怪我の一つもないらしい。
立ち上がってみるが、やはり傷はなく痛みもない。軽くその場で身体を動かしてみるが、極めて調子は良好だ。先程までの痛みがまるで嘘のようである。
「なんだったんだ、あいつ……わけがわからない」
「多分、私と同じ《エゴ》なんだと思うけど……」
二人して立ち尽くす。先程までも異常な状況だったが、これでも十分に異常な状況である事に変わりはないのだ。そう思うと、なんだか少しだけおかしく思える。
「笑ってるの?」
「まあね。なんだかなあって、そう思ったのさ」
「そうだね。なんなんだろうね。私も……あなたも」
二人してそうして笑い合った。暫くそこでぼんやりしてみたが、先程の男も、例の黒い靄も現れる気配はない。漸く本来の趣旨に戻る事が出来そうだ。
「真尋、もう一度試してみてくれないか?」
「いいけど……またさっきみたいになるかもしれないよ?」
「その時は真尋が僕を殴って止めればいいだろ。あいつみたいにさ」
自らの掌を見つめ、そっと握り締める真尋。困った顔をしているのは、それが不可能だからではない。彼女も《エゴ》である以上、あの男と同じ事が出来ない筈も無い。実際真尋は僕に追われていた時、咄嗟に二階から飛び降りて見せた。通常はあの高さから無造作に落下すれば怪我の一つでもしそうなものだが、彼女は傷一つなかった。それだけではない。以前僕が黒い靄に襲われていた時も、真尋はあれを思い切り放り投げて見せた。
ここは夢で、現実ではない。非現実的な物理法則が適用され、当たり前のように人が空を吹っ飛ぶ。なんとも素敵な世界である。そして真尋にはそれを好きにする力があるのだ。
それでも真尋が煮え切らない表情をしているのは、単純に僕を傷つけたくないからだろう。夢の中だから大丈夫だと言ったのは彼女の方なのだが。
「桜井君がそれでいいなら……」
「構わないって言ってるだろ? それより僕の記憶が改竄されているのかどうか確かめる方が先決だ。さっきの奴の発言も考えると、雲行きが怪しくなってきたしな」
冗談めかして言うと真尋は口元に手をやり微笑んだ。そうして僕の頭に手を伸ばす。冷たい指先が額に触れる感触にゆっくりと瞼を閉じた。
「それじゃ、もう一度」
先の彼女の言葉を思い出し、可能な限り身体をリラックスさせる。そもそも夢の中で身体をリラックスも何もないのだが……兎に角こうして再度記憶閲覧が試みられたのであった。
結論から言うと、試みは失敗に終わった。理由は不明。
尤も、ハッキリしている事の方が少ないのだ。手探りであれこれ話を進めていく以上、検証に失敗と原因不明は付き物だと言える。それらを確かな物にする為にしている事なのだから。
「やっぱり、記憶は閲覧出来なかった……ううん、たぶん、そもそも……その記憶、つまり九条先輩に関する記憶が……なくなってるんじゃないかな」
現実に戻った真尋はお茶を飲みながらそう言った。僕は部屋の隅にある白いソファの上、真尋はコタツの傍にある兎のクッションの上に座っている。
あんな事があった所為か、大分寝汗をかいてしまった。目覚めてからは喉がカラカラで、妙に身体が気だるい感じがした。今は少しずつ意識を覚醒させつつ話を整理している。
「そんな風に一部分だけすっぽり記憶がなくなるというのは、普通はない事だと思う」
「これで記憶が弄られてるって説は確定、か……でも……」
口に広がるお茶の苦味が少しは思考を纏めてくれる気がする。だが考えた所で謎は深まるばかりだ。何故、どうして、先輩の事を忘れなければならなかったのか。それは誰が得をする事で、誰の仕業なのか。
結論から原因は逆算出来そうに無い。なので、一旦この件については置いておく事にする。分からない事を考え続けても、ただ疲れるだけで時間の無駄だ。
「そうだ真尋、《メランコリック》って聞いた事ある?」
僅かに思案した後、首を横に振る。まあ、そうすんなり行くとは思っていなかったが。
僕はそこで真尋に《メランコリック》の事を説明した。朝比奈から聞いた事をほぼそのまま伝える事にする。僕なりに色々と考えはあるが、場合によってはそれは蛇足になるだろう。
「好きな夢を見る薬……そう、それで私に」
僕の言いたい事は伝わったようだ。だが、生憎彼女の反応は期待はずれであった。
「やっぱり、私には関係ないと思う。少なくとも私はそんな薬使った事なんてない。だって、そんな物必要ないんだから……」
「……だよな。でも、無関係には思えないだろ?」
九条先輩の死、改竄された記憶、《エゴ》、黒い靄、《メランコリック》、金髪の男……安東真尋。別に何かしら根拠があるわけではない。だが、これらには何か繋がりがあるような気がするのだ。その何かが分れば話は簡単なのだが……。
「桜井君……あなた、これからどうしたいの?」
思考を中断させる真尋の声。僅かに顔を挙げる。
「どうっていうと?」
「今……あなたの前には、幾つかの問題……謎、かな。疑問みたいなものがあると思う。そしてあなたはそれを解決しようと躍起になってる……違う?」
全く違わない、その通りだ。頷いてみせると、彼女は溜息を一つ。
「確かに、記憶がないとか、あなたの大切な九条先輩が亡くなったのは無関係じゃない事件だけど……それ以外は、あなたに関係のない事だよね。どうしてそんなに一生懸命考えているの? 無意味かも知れないのに……」
「うーん……言われるまで考えもしなかったな、そんな事」
何と無く気になるから? 知的好奇心か? 恐らくそれも正解だ。だがそれだけかと言われれば違う気もする。上手くは言えないけど……。
「中途半端で放っておくのは気持ち悪いだろ? 色が出鱈目になってるルービックキューブとか、こんがらがってる電源コードとか……わからないかな、この気持ち」
「わからなくはないけど、そういうレベルの話なの?」
「先輩の死について知りたいっていうのはあるよ。まだピンと来ないけど、僕が彼女の恋人だったならそれを知る義務があると思うし……記憶に関しても、忘れたままはい終了っていうのは彼女に対して失礼だろ。夢とか《エゴ》とかに関しては……真尋が気になるから、かな」
予想外だったのだろう、真尋は顔を上げて僕の目を見た。真ん丸くなった目がおかしくて、つい笑ってしまう。
「折角知り合えたんだ。もう無関係じゃない。それに……自分の知らない所で誰かが居なくなったりするのは嫌だ。真尋だってもう、他人じゃないんだから」
そう、僕らはあのわけのわからない男に出会ってしまった。目をつけられてしまった。これからいつまたあの男が真尋の所に現れるかわからない。僕の方に現れて僕が殺されるとかならそれは自業自得だが、真尋は僕を手助けしてくれただけだ。あんな理不尽はもう許さない。
「っていうのは、半分。残りの半分は打算だね。真尋、僕は君がなんとなくこの問題の核心に近い場所に居る気がしているんだ。謎と謎を結ぶ点になるような、そんな予感がね」
「桜井君は……」
呟き、深呼吸。そして真尋は続きを口にする。
「桜井君は……時々、凄く変わってるよね」
「何だそりゃ?」
「悪口じゃないんだよ。ただ、上手く言えない……凄いなって思うけど……」
はにかむような口調なのに、表情は全く可愛らしくない。憂いを帯びた瞳を揺らし、カーペットの繊維一つ一つを数えるような、不安定な感情を彷彿とさせる横顔だ。
「……真尋? もしかして、迷惑だったかな?」
「迷惑……? ううん、それは違う。ただ……ごめんなさい、私、人と話すの、苦手だから……自分の気持ち、誰かに話した事なんか無くて……上手く言えないけど、でも、違うよ」
「ゆっくりでいいんじゃないかな。別に今日明日僕が消えるわけでもないしさ。真尋には色々迷惑かけちゃったけど、ちゃんと埋め合わせはするよ。だって僕ら、友達だろ?」
「とも……だち……?」
顔を上げた真尋は大層驚いた様子だった。それからもう一度小声で同じ言葉を繰り返し、僕の目を見て微笑んだ。それは恐らく僕が初めて見る、彼女の心からの笑顔だった。
「良かった。ちゃんと笑えるんだな、君」
「……桜井君、たまに凄く恥ずかしい事を言うよね。誰かに指摘されない?」
「え? 不本意だなあ、そんなの言われるまで考えた事もなかったよ……。参考までにどの辺りが恥ずかしいセリフだったのか教えてくれないか?」
「それは……嫌」
そんな調子で僕らは暫く雑談を交わした。根を詰めても仕方ない。それにこれもたった今気付いた事だが、僕は真尋をからかっているとそれなりに気分が落ち着くらしいのだ。
「……っと、そういえば大分時間遅くなっちゃったな。そろそろお暇するよ」
気付けば十九時近く。図書室でも閉まってしまう時間だ。鞄を手にとり立ち上がった所で気付いたのだが、そういえば借りた布団が汗まみれになっているのではなかろうか。
「真尋、布団大丈夫?」
「え? ああ……気にしないで。布団を干すくらいは、私にも出来るし……また来る事になるかもしれないからね」
との事で、お言葉に甘え僕はそのまま退場する事にした……のだが。
「ああ、ちょっと待った! 真尋、連絡先交換しておかないか? ケータイくらいあるだろ?」
僅かに首を擡げ、きょとんとする真尋。僕は自分のケータイを取り出す。
「あんな事があったんだ、何かあるかもしれないだろ? 真夜中でも気にせずかけてくれ。何かあったら直ぐに助けに来るから」
「……助けに来るって……桜井君に何が出来るの?」
それを言われてしまうと元も子もないのだが……えーと、警察に連絡するとか……それなら自分で出来るか……。
「じゃあ……桜井君、お願い。私、登録した事無いから分からないんだ」
今日日そんな女子高生がいるのかと驚嘆したが、真尋はそういう女子高生だった気もする。妙な納得をしつつ、彼女のケータイに自分のアドレスを登録するのであった。
「試しにかけてみてもいい?」
真尋のケータイは古い。しかしやたらと小奇麗だ。両手で一生懸命に電話をかけて、僕のケータイがちゃんと鳴った事に少し驚いている様子だった。
「繋がったね、ちゃんと」
耳にケータイを押し当て、柔らかく微笑む真尋。その横顔が、何だかとても印象的だった。