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メランコリック(2)

「……桜井君?」

 扉を開け、僕の顔を見て微かに驚きを浮かべる真尋。僕は笑顔を作ったつもりだったが、意志に反して表情は硬かったように思う。

「いや……この間の話の続きをしようと思って……」

 頬を掻きながら苦笑する。目を合わせる事が出来ないのは、嘘を吐いている自覚があるからだ。彼女もそれくらいは分るだろう。しかし何も言わず、扉を開いてくれた。

 真尋の部屋に訪問するのはこれが二度目になる。前回と変わらずやたらと質素な部屋の中心、前回と変わらず僕はコタツに入っていた。カーペットの上には兎のクッションがひっくりかえっており、これまた前回と同じく真尋はお湯を沸かしている。

「お構いなく」

「……お茶、まずかったから?」

「そういう意味じゃないよ。そりゃ、確かにやたらと苦かったけど……って、そうか。僕も手伝えばいいんだ。やるよ、真尋」

 立ち上がり真尋の隣に立つ。二人で並ぶにはこのキッチンは狭すぎて、距離は殆ど離れていない。真尋はヤカンを火にかけ、僕は急須に茶葉を入れた。

「それで……どうしたの、急に」

「だから、この間の話の続きを……」

 真尋はこっちを見ようとしない。相変わらず視線は揺れる火に向けたままだ。しかし何故か嘘を咎められているような気分になり、渋々本当の事を話す事にした。

「……ちょっと、嫌な事があったんだ。それで、僕の事をよく知らない奴の所に逃げ込みたくなった。それが正直な理由です」

「ふうん、そうなんだ」

「そういえば、さ。君……ナルコレプシーっていう病気なんだって?」

「そうらしいね。それがどうかした?」

「いや……少し気になってね。その病気の事、ちゃんと理解してくれる人はいないんだろ? 真尋、この間言ってたよな。誰も信じてくれない、頭がおかしくなったと思われるだけだって。真尋はそういうの……どうやって乗り越えたんだ?」

 答えはなかった。いきなり押しかけてこんな踏み込んだ質問をすれば当然と言えば当然である。我ながらデリカシーに欠けるというか、図々しいというか……。

「別に、乗り越えたわけじゃないから。半分くらい、諦めてるだけ。努力したって意味なんかないよ……どうせ無駄なんだから。そして無駄なら、乗り越えるも何もないでしょ。だって何をしたって無意味って事なんだから」

 感情を抑え、低い声で呟く。しかし殺しきれない交じり合った沢山の思いは確かに僕にも届いていた。だからその言葉は半分だけだ。残りはまだ、諦められていないのだから。

「お湯、沸いてるよ」

 真尋の声ではっとする。慌ててヤカンを手に取り急須にお湯を注いだ。そうしている間にも考えるのは先ほどまで自身に起きていた混乱の事であった。

 ラーメン屋を半ば強制退出させられた僕は、暫く意識が朦朧とした状態にあった。意識が朦朧……自分でも実に馬鹿げた響きだが、それが事実なのだから仕方ない。

 朝比奈は前後不覚な僕を柳さんと協力して運んでくれた。そうして家の近くまで来た所でようやく僕は平静さを取り戻し、二人に礼と謝罪を言って別れたのである。

 そこから何故真尋の家まで来たかと言えば、それは先ほど彼女に告げた通りだ。僕の事を知らない人と会いたかった。でも、一人にはなりたくなかった。家に帰っても僕は一人だ。独りぼっちで考えに耽っていたら、今度こそ何もかもおかしくなりそうで怖かったから。

「桜井君が淹れた方がずっとましだね」

「君はあれだ。茶葉をどっさり詰め込みすぎなんだよ。勿体無いなあ」

「どうせ貰い物だからいいの。このお煎餅もね。一人で食べるには、多すぎるから」

 コタツを挟んで向き合う僕ら。彼女は煎餅を小さな口で齧りながら相変わらず湯呑を見つめている。意地でも正面の僕とは目を合わせないといった様子である。

「…………それで?」

「え?」

「嫌な事って……?」

 視線を左右に泳がせ、一瞬だけ僕を見る。どうやら話を聞いてくれるらしい。その仕草がなんだかおかしくて、僕はつい笑ってしまった。

「どうして笑うの」

「いやごめん、ありがとう。えーと、話すと長くなるから、要点だけにするね」

 こうして僕は事の顛末を彼女に語り始めた。その大半は、僕がどれほど先輩に憧れていたか……という、ややどうでもいい話に費やされた気がする。

 僕は九条沙希という人間が好きだった。彼女はいつでも笑顔で、誰かの為に努力出来る人だった。僕はそれを美しいと感じた。ただただ美しいと、そう感じていたのだ。

 お堅い生徒会長なんて、誰だって気に食わない。少なくとも僕はそんな人間を信じない。何でもかんでもルール通り、セオリー通りが最良だなんて奴、ただの思考停止野郎に過ぎない。

 でも先輩は違った。彼女は自分のしている事がただの偽善に過ぎないと言っていた。自分がやりたいからやっているだけだと、そう言っていた。生徒会長だからとか、最上級生だからとか、そういう理由も勿論あるだろう。でもそれを実行するのはいつだって自分の意志だからと、彼女は責任の全てを背負う覚悟を見せていた。

 そうやって生きるのはとても難しい事だと思う。役職、立場、境遇……人間は色々な物の《せい》にして生きている。そうしなければ平静を保てない己の弱さを知っているからだ。

 その点、彼女は立派だった。僕は何をするにも損得を前提に考える。だからこそ、彼女の行動には惹かれた。凄いと思った。だからそれは恋だったかもしれないし、憧れだったのかもしれない。でも僕は確かに、九条沙希の事が好きだったのだ。

「先輩が死んだって聞いた時はショックだったよ。現実を受け入れたくなかった……。だから理由を求めていたんだと思う。納得出来るだけの理由を。でも……」

 それは本当に僕の気持ちだったのか? 残されている確かな記録の数々、それらは僕の頭の中からすっぽり抜け落ちている。あれから必死に思い出そうとしてみたが、九条先輩と出会い彼女が死ぬまでの記憶はやはり取り戻せなかった。

「九条先輩……桜井君と仲が良かったんだ」

「らしいね。僕の感覚としては、たまに会えば挨拶するくらいの美人だったんだけど」

「ケータイ、見せて。写真……あるんでしょ?」

 頷き、ポケットからケータイを差し出す。真尋は両手でしっかりとそれを受け取り、手元で操作を始めた。その間僕は何と無く気まずくなり、窓の外へと目を向けて過ごした。

「桜井君は多分、九条先輩の事を忘れているんだと思う。理由は……分からないけど。辛かったり、苦しかったり、痛かったり……度を過ぎると、心が忘れさせる事もあるのかも」

 視線を左右に泳がせながら語り、そっと僕にケータイを返す。そうしてそのまま兎のクッションを抱き締めて呟く。

「私も、昔の事……覚えてないんだ」

「覚えてない……って?」

「事故に遭ったの。お父さんとお母さんと私、三人で車に乗ってた。どういう事故だったのかは知らない。でもそれでお父さんもお母さんも死んで、私も死に掛けたんだって」

 真尋がその事故の話を聞いたのは、事故から随分経ってからの事だったという。

 安藤真尋は事故で生死の境を彷徨った後、長い間意識不明で入院していたという。凡そ半年間眠ったままだった彼女は、目覚めてからも眠りの世界に引き摺られるようになった。

「ナルコレプシーって言われたけど、それだって本当なのか分らない分からない。昔の事も覚えて無いし、ただ気付いたら私はこういう体質だった。皆と違うから……普通にはなれないって気付いたのは、それから何年か経ってから」

 深く溜息を吐き、首を横に振る。そうして自嘲染みた笑みを浮かべた。

「……それは、関係ない話だね。でも、私も昔の事覚えてないから……思ってる世界と、皆の世界が食い違ってるの、分るから……。桜井君の気持ちも、分かる気がする」

「もしかして、慰めてくれてるのか?」

「そうかもしれない……多分、そう」

 湯呑を両手で持ち、口元に運ぶ。そうして潤った唇を噛み締め、真尋は目を閉じた。

「桜井君に……何か、期待してるのかもね」

「何かって?」

「誰にも分かって貰えない……それでいいと思ってた。誰かと関わろうと努力する事も無駄だと……そう思ってた。でも、あなたは夢の中に現れた。私の話を信じてくれた。だから……」

 ――まただ、と。そう感じた。

 時折真尋は僕を見て、とても寂しげな目をする。縋るような、救いを乞うような目だ。けれど直ぐに感情を冷凍するみたいに息を吐いて目を逸らし、当たり前の仏頂面に戻ってしまう。彼女は時折そうやって自分の感情を揉み消しているように見えた。

「あなたに優しくして、優しくされたいのかもしれない。利用してるんだよ、きっと」

「別にいいじゃないか、それで。人間関係は利用して利用されてナンボさ。どんなコミュニティーも打算無しには成立しない。言い方の問題だろ、それって」

 努めて明るく語る。その様子がちょっと我ながら朝比奈みたいだと思いつつ。

「人と言う字は二人の人間が支えあっている様を表しているんだ……って、どこかで言ってたろ。人間は利用し合っている。それを支え合っている、助け合っていると語るのは、確かに偽善かもしれない。だけど、そうやって皆生きてるんだよ。誤魔化し誤魔化し、ね」

 指先で前髪を弄りながら耳を傾ける真尋。そうして僕の方を向き、いい笑顔で言った。

「確かに……桜井君のひゅふほぅ……うっ」

 ――一瞬の間。それから真尋は何故か舌を出し、真剣な様子で身体を小刻みに震わせる。

「確かに……桜井君の言う通りかもね」

「お前……今噛んだだろ」

「噛んでない」

 返事は速攻で返ってきた。何事も無かったかのようにすっかり無表情に戻っているが、あれはあれで恥ずかしかったに違いない。

「それより桜井君……あなたと九条さんの記憶に関してだけど」

 いかにも話を変えますと言わんばかり、目を細め口を開く。

「多分……桜井君の記憶は、改竄されているんだと思う」

 そしてまたわけの分からない事を口走った。段々この調子に慣れてきた僕は、腕を組み大人しく彼女の次の言葉を待つ事にする。

「初めての遭遇の時、私は夢の中で桜井君に接触した。そして、あなたの中から《認識》を探り出そうと試みたの」

 そういえば確か、最初の邂逅の時だ。例の黒い靄を追い払った後、真尋は僕に言った。勝手に観させて貰う――と。

「……私は、他人の《認識》を感じる事が出来る。相手の考えている事が分るし……相手の記憶を覗き込むような事も出来ると思う。夢の中限定だけど」

 自らの手を見つめ、それから視線だけで僕を捉える真尋。その眼差しはつい先ほどまでの縋るような物とは一変していた。夢の中で見たのと同じ、ミステリアスで自信に満ち溢れた強い眼差しだ。

「そんな事も出来るのか? それも《エゴ》の力?」

「かもしれない。出来るかどうかもやってみないと分からないけどね。でも、この間あなたの記憶を確認しようとしたら、それが出来なかったの」

「じゃあ、出来ないんじゃないのか? そもそも僕以外の《エゴ》……っていうか、僕以外に領域で自我を保ってる奴と会った事はないんだろ?」

「自我を保っている人には、ね。毎日あそこをうろついてると……たまに遭遇する事があるの。眠りの最中、無意識に領域を歩いている人とか。そういう人は基本的にこちらからの干渉を認識出来ないんだけど、面白半分で頭の中を覗き見したりしてたから」

 こいつ、平然と凄い事を言ってくるな。それって寝ている人間の頭の中を勝手に覗き見するって事だろ? しかも見られた方は見られた自覚すら出来ない。正にやりたい放題だ。

「桜井君を襲ったあの黒い靄……あれも誰かの無意識なのかもしれない。無意識に夢を放浪している場合、自分の姿を正確にイメージする事が出来ないから、あんな感じの姿になってる人が多いの」

「へぇ……。んー、余計に分らなくなってきたな。とりあえず話を本題に戻すけど、真尋は僕の頭の中を見ようとした……けど、見られなかったんだよな。どうしてだ?」

「理由は……幾つか考えられるけど」

 真尋曰く、夢の中を放浪する無意識は、例外なくどれも無防備な状態にあると言う。

 故に外部……と言っていいのかもわからないが、兎に角真尋の接触に対してもノーガードらしい。しかし自我があるのであれば、それをガードする事が可能なのかもしれない。

「つまり、桜井君が嫌がったから見られなかったという可能性……」

「可能性というかその通りじゃないか? 僕は大分嫌がった記憶があるぞ」

「でも、桜井君に私の干渉をガードする力はないと思うんだ」

 真尋は夢を好き勝手に作り変え、領域に漂う無意識に造作も無く干渉する《エゴ》の力を持っている。真尋は最初僕を《エゴ》だと思っていたようだが、そうではないらしい事が分ってきた。つまり、一般人である僕に《エゴ》からの干渉を防ぐ程の能力があるのかと、そういう疑問が上がってくるわけだ。

「つまり……桜井君以外の《エゴ》が、あなたにガードを施している可能性がある」

「それもないと思うよ。いや、無いとは言い切れないのか。僕はそれを認識出来ないんだし」

「そうだね。それと最後は……桜井君の記憶そのものが既に何らかの手段で改竄されていて、私がそれに干渉出来なかったという可能性」

 ここで先ほど僕がした話を真尋は関連付けたようだ。そして最初の発言へ戻る。

「桜井君は記憶を改竄されている……これがあなたを取り巻く今の問題と、私の力から得られた疑問に対する答えだと思う」

「記憶を改竄って……そんな無茶な」

「出来るよ、私なら。多分……やってみないと、分からないけど」

 悪戯っぽく笑う真尋。どうもその言葉のニュアンスが試してみる? と訊いているような気がして少しおっかない。

「だから、私とか……他に《エゴ》がいるのなら、その人なら君の記憶を改竄出来るって事。桜井君が……自分で自分の記憶を捻じ曲げた可能性もあるけど」

 僕としても思い当たる節はある。仮に僕が先輩と恋人同士で、それこそ先輩の死を受け止められないほど僕が彼女に入れ込んでいたと仮定しよう。

 その死の現実から心を守る為、僕は先輩と付き合って居なかった自分を妄想した。そしてそれを強烈に信じ込む事で、心の痛みを軽減しようとした。

 実際僕は既に彼女の死から立ち直りつつある。だがそれは僕と彼女が大して親しくない、という前提条件のお陰だ。もし彼女が自分にとって大切な人だったならば、持ち直すのにはもっと時間が必要だっただろう。

「……他の《エゴ》って、そんなの居るのか?」

「わからない。思い当たるのは、この間の黒いの……かな」

 言われてようやくその可能性に気付いた。あれの正体は未だに不明だが、幾つかの候補は上がっている。何者かの無意識か、或いは《エゴ》である何者かの意識か。仮にあれば《エゴ》なのだとすれば、僕の記憶を改竄した犯人としては適当なのだが。

「なんか強引な理屈って気もするな。そもそも君、本当に他人の記憶に干渉出来るのか?」

「その検証も含めて……試してみる? 一緒に寝れば、嫌でも分ると思うよ」

 成程、確かに実際に寝てみるのが手っ取り早いか。そう思って頷いて立ち上がり、上着を脱いでいると……。

「……待って、今じゃない。明日にして」

「え? 何で?」

「常識的に考えて、そうでしょ……。何も準備してないし、ベッド一つしかない……明日までに布団出しておくから」

 あー。やっぱり流石に二人で一緒の布団というのは無理ですか。まあそうですよね。

「別に僕はコタツでもいいけど」

「私が嫌」

 こうきっぱりと言われてしまうとぐうの音も出ない。仕方なく実証は明日に回し、今日の所は退散する事になった。そこで漸く気付いたが、もういい時間だ。今一緒に寝たりしたら、そのまま明日の朝まで起きない気もする。

「悪かったね、また遅くまで居座っちゃって」

 首を横に振る真尋。そうして湯呑を片付けながら振り返る。

「気をつけて……帰ってね」

「え? あー、うん。ありがとう」

 そうしてまた真尋はそっぽ向く。部屋から出て暫く歩いて気付いた。多分あれは、前回言いそびれた言葉なのではないか、と。

 前回言えなかった事を気にしていた彼女は、今日こそ言ってやろうと待ち構えていたのだろう。そう思うとやっぱり少しおかしくて、暗い夜道を一人で笑ってしまうのであった。

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