表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/14

CU領域(2)

 こうして、朝比奈のお陰で僕は先輩の件について一つの答えを得た。

 勿論、これが正解かどうかは分らない。けれど思考停止しているより、納得の行かない事から目を逸らしているよりはずっと清清しい気持ちになる事が出来た。今回ばかりは朝比奈のお人好しと友情に感謝しつつ、僕は次の行動に移る事にしよう。

 翌日の放課後、向かったのは図書室であった。勿論図書を借りるとか返すとか、そういう本来あるべき事が目的なのではない。

 図書室をぐるりと見渡すと、受付に図書委員と思しき生徒が一人。それから本を読んでいる生徒、勉強に勤しんでいる生徒が数名。相変わらず閑散とした図書室の奥、窓際のカウンター席に僕は向かう。

 前回と同じくランダムに図鑑を一つ引っ張り出し、前回と同じ席に座る。前回と同じく図鑑を広げ、僕は目を瞑った。

 そう、これは検証だ。あの日の夢を一度目の検証だとするのであれば、これは二度目の検証になる。相変わらずオンボロのエアコンから漏れる雑音に耳を傾けつつ、思考する。

 約一週間前、僕はここで夢を見た。あの頃の僕は毎夜繰り返される悪夢にすっかり参っており、その打開策を求め眠りに着く際の状況を検証しようとしたのである。

 そこまでは確かに記憶している。しかし眠りに着いた後何がどうなったのか、実にあいまいだ。確かここで眠っても同じ悪夢が再現されたように思うのだが……。

 結果的にはここで眠った事が原因なのかどうなのか、とにかく僕は悪夢を見なくなった。お陰で以前と同じ様に安眠を取り戻したのだが、ではその理由とはなんだったのか?

 あの悪夢を、僕は自戒の念だと以前分析した。だがそれは今でもしっかり胸の奥底に残っている。それどころか、朝比奈からストーカー説を聞いてからはより増しているように思う。

 僕がもっとちゃんとしていれば……或いは、あの日先輩を自宅まで送っていれば。そんなイフの話をした所できりはないし意味もないのだが、そう思わずにはいられなかった。

 では、あの悪夢はなんだったのか? 思考はそうして振り出しに戻った。

 別に見なくなったのなら見なくなったで越した事はないのだが……もう一度検証してみるのもいいだろう。何せ僕は悩みも大方なくなった帰宅部、時間だけは有り余っているのだから。

 前回と違って特に睡眠不足でもなく、眠ろう眠ろうと意識したわけでもなかったが、大量の本が蔵書された部屋独特のにおい、エアコンの音や暖かさ、ぐだぐだと管を巻いた思考は意外と心地よく意識を睡眠へと誘ってくれた。そして……。

「出た……」

 一面に広がる暗闇。その景色に思わず焦りが募る。

 自分でそうなるかもしれないとわかって眠りについたくせに、いざ以前と同じ夢を見たら怖くなるのだから、根性なしもいい所である。

 しかしこの夢には前回と違う所があった。それは例のあの視線を感じない事、そして僕が自分の意思で自分の身体を動かす事が出来る、という事だ。

 あの全身を凍てつかせていた感覚は今はない。試しに軽く身体を動かしてみるが、何の不自由もない。やはりというか当然と言うか、それも現実とは少し違うように感じられたが。

 例えば、手があり、それを自分で動かす事は出来る。しかしそれが本当に自分の腕なのか、或いは自分の意思で動かしているのかというと疑問が浮かぶ。

 五感の殆どがあるような無いような、そんな曖昧さを宿していた。闇の中を歩く事は出来るのだが、足場がちゃんとあるのかはわからない。

 文字通り夢心地だ。意識もはっきりしているようなしていないような。夢の中だと今は自覚しているが、目覚めたら夢の内容も忘れてしまいそうな……そんな感覚。あてもなく空をさ迷い歩く僕は、そこでまた自分以外の存在を察知した。

「……こんにちは。この間は助けてくれてありがとう」

 だから僕は先に声をかける事にした。不思議な事だが、ここに来て彼女の姿を認めた瞬間、靄の掛かっていた記憶が一気にクリアになってきた。

 そう、僕は以前もここで彼女と出会ったのだ。一週間前の夕暮れ時、この場所で……。

「お礼を言われるとは思わなかったな。別に、助けたつもりはなかったから」

 澄んだ声だ。僕はこの声を鮮明に覚えている。何も見えない聞こえない闇の中、光を放つように力強く響いた……僕を闇から解き放った声だ。

 白い外套を纏った少女は青い光を帯びた瞳で僕を見つめている。僕がそうして彼女に歩み寄ろうとした瞬間、闇の世界に異変が起こった。

 僕の踏み出した一歩が虚空の大地に触れた瞬間、光の波紋が広がる。それは僕らを取り囲む様にこの空間に四角い部屋を浮かび上がらせる。しかしそれはまだ、ただの四角い部屋らしき物にすぎない。彼女は片腕を振るい、その骨組みに厚みを持たせていく。

 針金にテクスチャを貼り付けるかのように、部屋と呼べる景色が再現される。それに伴い僕の靴底は足元を感じるようになり、窓から差し込む茜色の光を眩しく思うようになった。

 再現された部屋には覚えがある。これは僕が眠っている図書室そのものだ。細部まで記憶にないので比較検証は出来ないが、大方そのものだと言っても構わない出来だろう。

 彼女は作り上げた夢の図書室の中、窓際の席に座る。

「どうしたの? あなたも座ったら?」

「あ、ああ……」

 言われるがまま隣に腰掛けようとしたが、途中で思い留まった。彼女の背後で腕を組み思案する。当たり前のように会話しているが、そもそもこれはどういう状況なのか。

「あんまり考えても意味ないと思うよ。下手の考え休むに似たり、って言うでしょ」

「それはまた随分な言われようだね」

「訂正はしないよ。だってあなたはこの場所の事を何もわかってないでしょ? それにあなたにはこの場所をどうにかする力もない。他人の干渉に対しても素直すぎるし……って、言っても分らないんだもんね。それじゃ、下手と言われても仕方ないよね」

 口元に僅かに笑みを浮かべ、少女は流れるような口調で語る。こちらを小馬鹿にしているような……いや、違うな。恐らくそれほど僕に対して感情は抱いていない。単純に思った事を口にしているだけだろう。何故かそう思った。

 大人しく隣の椅子に腰を下ろす。窓の向こうは相変わらずの夕焼け空だ。しかしこの場所には本来あるべき音が一つもない。例のオンボロエアコンの雑音も、部活動に勤しむ生徒達の威勢のいい声も聞こえない。それどころか僕と彼女以外の物は全て停止しているかのようだ。

「それで? あなた、何か私に用があってここに来たんでしょ?」

 そんな事がわかるのか……? 驚きながら眉を潜めると。

「わかるよ。一度目は偶然だったけど、今回のあなたには明確な意思が感じられる。私を探そうっていう意志が……ね」

「それなら話は早い。幾つか質問したい事があるんだ」

 例の悪夢の事、この場所の事、それから彼女の事……。今は分らない事だらけだ。

 僕は今夢の中に居る……少なくとも僕自身はそう思っている。幻想を自覚された明晰夢ならば、所詮は僕の見る夢に過ぎない。だがどうにもそれだけには思えないのだ。

 二週間ぶっ続けで僕を苦しめた夢。そこに割り込んできた彼女。伊凪第一の図書室で見る夢の中、僕は再び彼女と邂逅を果たした。それが意味する所はなんなのか。

「質問するのはいいけど……全部に答えられるかはわからないよ。あんまり時間もないしね」

 時間、という概念があるのか。いや、余計な事を考える必要はない。

「ここは僕の夢の中……で、いいんだよな?」

 一つ目の質問。彼女はこくりと首を振る。

「じゃあ、君も? 僕が夢の中で作り出した登場人物に過ぎないのか?」

 二つ目の質問。彼女はこれに対し首を横に振る。明確な否定の意図を感じられた。

「私は私。あなたが作り出した幻想とは違う。実体を帯びた、紛れもない現実だよ」

「じゃあ、この間の奴は? 君も見ただろ、黒い靄みたいな怪物を」

 三つ目の質問。彼女は僅かに思案し、YESともNOとも取れない表情を浮かべる。

「……わからない。確かに、そういう可能性はあるよ。でも、あれは違う気がする」

「違う? 何が違うんだ?」

「上手く言えない。多分、あなたには分らないと思う」

 思わず溜息を漏らす。さっきからそればっかりだ。お前には分らない、お前には分るはずがない……それは確かにそうかもしれないけど……。

「なら、この場所について。君が僕の作り出した夢でないなら、この場所もそうなのか?」

 最後の質問に彼女は頷き、そして呟いた。

「――《CU領域》」

 意味のわからない言葉だった。勿論聞き覚えもない。結局、これも分らないって事か。

「質問、今ので最後?」

「まだ色々聞きたい事はあるけど……ちょっと整理中」

「そう。なら今度は私があなたに質問してもいい? いいよね?」

 僅かに首を擡げるようにして訊ねる少女。僕は思考を一時中断し、彼女に向き合う。

「あなたは何? どうしてここでそんなに動けているの?」

 そこまで言って、彼女は首を横に振る。それから何かを考え、続けた。

「……あなたは私と同じ? 私と同じ……《エゴ》?」

「……悪いけど、何の事だかさっぱり……。《エゴ》……っていうのは、君の名前?」

 正直に答えただけだが、彼女があまりにもがっかりした様子だったので何だか申し訳ない気分になってしまう。小さく息を吐き、彼女は席を立つ。

「違うよ。言葉……通じてる? もしかしたら、認識の仕方が違うのかも……」

「認識……? 言葉は通じてると思うよ。実際こうして話せてるじゃない」

「話せていても、認識に相違があるかもしれないから」

 認識に相違? どういう意味だ? さっきからいまいち話についていけない。

 彼女は暫く立ったり座ったりを繰り返し、黙りこくっている。というよりこれは頭の中を整理している、思考していると言うのが近いだろうか。僕自身状況にまったくついていけないので、次の彼女のアクションを期待していたのだが……。

「……そろそろ時間だから。私、行くね」

「え? あ、ああ……って、待った!」

 背を向けた少女の手を掴み引き止める。彼女は無表情に振り返ったが、その眼差しには僅かな怒気が含まれているように見える。

 触ったのが拙かったのかと思い、慌てて手を離す。それから咳払いを一つ。

「僕の名前は桜井美春。伊凪第一、二年二組だ。えっと、君は?」

 自己紹介のついでに握手も求めてみたのだが、反応はなし。僕が差し出した手をじっと見下ろし、彼女は目を瞑る。

「名前、教える理由がないから……」

 そうしてさして興味もなさそうに背を向けて歩いていく。僕はその背中に訊いた。

「また……ここで会える?」

 彼女は答えなかった。そして瞬きの間にその場から姿を消してしまう。やがて彼女の消失を契機とするように幻想の図書室はゆっくりと解けるように消失を開始し、僕の意識もその流れに巻き込まれるようにしてと薄れていった。

 気がつくと僕は現実の図書室に居た。窓際の席にうつ伏せになって眠っていたらしい。

 すぐさま飛び起きて周囲を見渡すが、あの少女の姿はなかった。全てが夢の中の出来事に過ぎないのか……。だが掴んだ彼女の冷たい手の感触が、まだ指先に残っているような気がした。

「しかし、時間っていうのは……そう言う事なのか?」

 すっかり日は暮れ、図書室に人気は無くなっていた。荷物を纏めて時計に目をやると、時間は十八時五十分ジャスト。そろそろ図書室が閉まる時間であった。




 《CU領域》――彼女は夢の世界をそう表現した。

 あの日得られた情報の断片から、僕はあの世界の事を調べようと試みた。今の世の中は便利な物で、その気になれば大抵の情報を調べる事が出来る。

 とりあえず身近な方法として、インターネット検索という手段がある。僕は真っ先にCU領域について検索してみたのだが、それらしい情報は得られなかった。

「んー……CUだけで検索してみるか……」

 真夜中に自室のパソコンに向かい、キーを叩く。そこで幾つかCUという言葉の意味を知る。

「キューバ……関係あるのか? 銅の元素記号……も、違う気がする」

 頭を掻きながら考える。しかし結局意味はよくわからなかった。

「別の事を調べてみるか……えーと」

 確か、《エゴ》とか言っていたか。新たにこちらを検索してみると、今度はそれらしい情報がヒットしてくれた。

「えーと……《エゴ》とは、《自我》である、と」

 流石に僕もこの言葉には聞き覚えがある。と言っても、日常的に使われる言葉ではないが。

 《エゴ》とは《自我》である、というのが非常にざっくばらんな解説になる。哲学、或いは精神分析学において、自己を対象とする認識作用の事を言う……。多分、こんな感じで合っていると思うが、僕はただの高校生なのでこんな説明を読んでもちんぷんかんぷんである。

「しかし、《エゴ》か……」

 いかん、ちょっと笑ってしまった。哲学だか精神分析学だか知らないが、彼女のあの外見と相まって何だか痛い感じに聞こえてしまう。有体に言えば、中二病という奴だろうか。

「あー、やっぱりわからん。どっちにしろ、あの現象を説明できるわけでもなし……」

 匙を投げつつ天井を見つめる。白い髪に白いマント、青い瞳の少女。思い返せば思い返すほど、なんともファンタジックな存在だ。夢の中なのだからと言ってしまえばそれまでだが、残念ながらあれは僕の趣味ではない。であれば、誰の趣味なのだろう?

「まあ、十中八九あの子の趣味だよな。あの子が僕の空想でなければ……だけど」

 少し自分の気持ちを整理してみよう。僕は何故、彼女の事を気にかけているのか。

 いや、厳密には少し違う。彼女の事が気になっているのではなく、あの夢がなんだったのか……あの夢にどんな意味があったのか、それが気懸かりなのだ。

 あの夢は何? 夢を見なくなったのは何故? 彼女は何者? あそこは何処? 僕は何の為にあんな夢を見るのか。それが何を意味しているのか。不思議とそれが気になって仕方がないのである。

 では気になる理由はと言うと、これが実に奇妙なのだが自分でも良く分らない。ただ、彼女を追いかけなければいけない気がする。僕自身の興味とは無関係な所、頭のどこかからそんな指示が出続けているような気がする。それは大した強制力を持たないので、ほうっておけば忘れてしまいそうなものなのだが……。




「よお、美春。今日は随分ゆっくりじゃねえか」

 不思議な、或いは中二病な体験をした翌朝。やはり考えすぎでよく眠れなかった僕は、欠伸をしながら学校へ向かう坂道を登っていた。その途中、背後から自転車を押しながら朝比奈が近づいてくる。

「もう朝比奈が来る時間か……もしかして遅刻ギリギリ?」

「人を遅刻判定装置みたいに言うんじゃねえ。本当にギリギリだったら、チャリンコから降りたりしねえっつの」

 二人して歩く朝。お互いにまだ眠いので会話は疎らだ。

 そういえば、昨日の出来事を朝比奈に相談してみようか……なんて考えた。しかしどこから何をどうやって説明すればいいのか。やはりまだこの事は僕の胸の内だけに秘めておいた方がいい気がする。何せ、全てがただの夢かもしれないのだから。

「そういや美春よ。この間の話の続きなんだけどよ……」

 朝比奈が話を切り出そうとした、正にその時。校門前に立っていた女性が僕らの姿を認め、近づいてくるのが見えた。

「おはよう少年。ちょっとお話、いいかしら?」

 明るくはきはきとした声だった。朝比奈はすっかり言いかけた言葉を飲み込み、女性の姿をまじまじと眺めている。恐らく僕も同じ反応だったと思う。何せ相手が美人だったから。

 スタイリッシュなワンボタンのスーツに身を包んだ妙齢の美女は、腕を組み僕らに笑いかけている。かなり低俗な表現をすると、セクシーな大人のお姉さんといった所か。実に朝比奈が好きそうなタイプだ。

「呼び止めちゃってごめんなさいね。私は伊凪南署の方から来ました、鳴海警部補です。そっちは私の頼り無い相棒、小林巡査長」

 小林と呼ばれた背の低い男はなんとも言えない表情を浮かべている。その間に鳴海と呼ばれた女は懐から警察手帳を取り出し、僕らの前に翳した。

「桜井美春君……でよかったかしら? 君に訊きたい事があるんだけど」

 優しく微笑む鳴海警部補。だが少し待って欲しい。これは一体どういう状況なのか。

「訊きたい事、ですか?」

「ええ。九条沙希の件について……と言えば分ってもらえるかしら?」

 予想はしていたが、驚きを隠せなかった。何故? どうして? 様々な疑念が頭を過ぎる。

 確かに僕らは想定した。先輩の死が事故死ではないという事。警察が捜査に乗り出し、直に解決されるであろう事……。だからこれは想定内だ。想定内なのだが……。

「鳴海さん、彼らは学生ですよ? これから授業じゃないですか。話を聞くなら、学校が終わってからにすればいいでしょう」

 溜息混じりに眼鏡のブリッジを押し上げる小林さん。女の方もその言に納得した様子で、警察手帳を収め、代わりにメモ帳を取り出した。

「確かにその通りね。学生の本分は勉強、部活、青春……っと。これ、私の連絡先よ。学校が終わったら連絡して頂戴。直ぐに迎えに来るから」

「え……っと」

 そこで漸く僕の困惑を察知したらしい。女は首を擡げ、苦笑する。

「そんなに警戒する必要はないわよ。ただ一つ二つ、確認したい事があるだけだから」

 メモ帳から一枚を千切り、半ば強引に手渡す女。僕はそれを受け取り、制服のポケットにそっと納めた。

「それじゃ、学校頑張ってね。小林君、運転宜しく」

 ひらひらと手を振って立ち去る二人。校門の傍につけてあった黒塗りの車に乗り込むと、そのままどこかへ走り去っていった。

「あの若さで警部補か。そんなやり手には見えなかったけどな」

 後頭部を掻きながらぼやく朝比奈。ポケットに突っ込んだままの掌の中には受け取らざるを得なかった紙の感触がある。そんな筈はないのに、何故かずっしりと重さを感じる気がした。

「九条先輩は、やっぱり……」

「……さて、どうかな。考えたって仕方ねえだろ? とりあえず教室行こうぜ。折角ゆとりを持って来たってのに、このままじゃ遅刻になっちまう」

 朝比奈に背中を叩かれ歩き出す。あえて明るく振舞ってくれているのは分るのだが、僕はそんな風に笑える気分ではなかった。

 警察が調査をしているという事実が、九条先輩の死は偶然出なかったと物語っている気がした。まだその詳細は分らない。何の話を聞こうとしているのかも不明だ。けれど……。

「犯人と呼べる奴がいるのなら、僕は……」

 小声で呟いたので、朝比奈には聞こえなかったと思う。けれどもあいつは少し困ったような顔をして、僕の肩を叩いた。


 その日は一日、授業に集中出来なかった。期末テストを目前に控え、教師はしきりにテスト範囲について説明していたが、それを良く聞かなかったのがどれほど影響するか……。

 学校が終わると僕は直ぐにポケットからメモを取り出していた。教室を出ながら電話をかけると、短いコール音の後あの明るい声が聞こえてくる。

「はい、鳴海です」

「あ、鳴海さん。僕です、えーと……」

「ああ、桜井君ね。授業お疲れ様。これから時間、大丈夫かしら?」

「帰宅部なんで、時間だけは幾らでも」

「それは良かったわ。じゃ、迎えに行くわね。今学校の近くにいるから、それほど時間は掛からないと思うわ。そうね、えーと……大体十分くらいあればそっちに行けるわね」

 こうして僕は彼女と合流する約束を取り付け校舎を出た。校門前で言われた通りに待っていたが、十分経っても中々鳴海さんは姿を現さなかった。

 結局彼女が来たのは二十分近く経ってからだ。法定速度を守っているのか怪しい感じの勢いで校門前に停止した車から、彼女は手を振りながら降りてくる。

「ごめーん! 色々やってたら遅くなっちゃった。もしかして待った?」

「ええ。十分くらい待ちましたけど」

「そこは今来た所って言っていいのよ。ちょっとデートみたいでしょ?」

  腕組み子供っぽく笑う鳴海さん。腕を組んでいると余計に大きな胸が強調されている。ああ……美人なんだけどな。時間には……いや、全てにおいてずぼらそうだ。

 こうして僕は小林さんの運転する車の後部座席に乗り込んだ。乗りなれない車のシートは居心地が悪く、何と無く気分も沈んでしまう。

「もしかして緊張してる?」

 助手席から鳴海さんの声。僕は何も答えなかったが、当然緊張している。これってどういう意味で連衡されているのだろう? 警察の車に押し込まれた経験なんてあるわけないし、緊張するなという方が無理な相談だろう。

「小林君、何か気の利いたBGMとかないの?」

「そう言われましてもね」

「本当、君って面白くないわよねー。女の子とかこのかっちょいー車の助手席に乗せちゃったりしてるんでしょ? そういう時どうしてるわけ?」

「何の話ですか、子供の前ですよ。それに僕はそういう事はしていません」

 若干警察らしくない……否、かなり警察らしくない会話に耳を傾けていると、車はファミリーレストランの駐車場に入った。僕も何度か利用した事がある、駅前のチェーン店だ。

 てっきり警察署にでも連れて行かれるだろうと身構えていた僕からすると意外な目的地である。二人はさっさと車から降りるので、僕も慌ててそれに続いた。

「折角だし、奢るわよ。健全な青少年だもの、放課後は小腹も空いてるでしょうしね」

 と、ウインクする鳴海さん。どんどん店に入り、ずんずん窓際の見晴らしのいい席を確保し、メニューを開いて人の話を聞かず勝手に注文し、メニューを閉じて笑みを浮かべた。

「すまないね。こういう人なんだ、彼女は」

「いや……まあ、なんとなくわかります」

 顔を寄せ小声で呟く小林さん。乱暴かつスマートに物事を決め終えた鳴海さんはしわくちゃになった煙草の箱を取り出しながら話を切り出した。

「さてと! それじゃあ桜井君、幾つか話を聞いてもいいかな?」

 煙草を咥え、いかにも大量生産ですと言わんばかりの粗野な造りのライターを取り出す。そこでようやく思い出したように小首をかしげ、僕の前で指に挟んだ煙草を振る。僕がそれに頷くと、改めて煙草に火をつけた。

「君も勿論知っているわよね? 先月亡くなった、伊凪第一高等学校三年生の九条沙希さんの事……。私が話を聞きたいのは、彼女に関する事なの」

 正面の席に座った僕にかけない為か、煙を真上に吐き出す鳴海さん。小林さんは話の内容を記録するつもりなのか、手帳を開きペンを手にしている。

「単刀直入に訊くわ。桜井君、九条さんの死について何か知らないかしら?」

「何か……と言うと?」

「思い当たる事、何でもいいの。彼女の死の原因について……例えば、最近様子がおかしくなかった? 何か相談されたりしていない?」

「いえ、そういう事はありませんでした。気付ければよかったんですが」

「桜井君、九条さんと親しかったのよね?」

 少しの間の後、灰皿に煙草を押し当てながら鳴海さんはそう言った。親しく……の意味にも寄るが、僕は……どうだっただろうか?

「九条さんの死はトラックに撥ねられた事による事故死……これは紛れも無い事実。だけど、彼女を死に追いやった原因は他の部分にある。私はそう睨んでいるの」

「もしかして、その……ストーカーとか、ですか?」

 その話ならこの間朝比奈としたばかりだ。あの日、先輩の様子がおかしかったのは僕も知っている。最終的に僕らは先輩がストーカー被害にあっていたという結論を出したわけだが……。

「ストーカー? ああ……そうね、そういう考え方もあるわね」

 鳴海さんの反応は僕の発想は想定外でしたと言わんばかりだった。僕の方もその反応が想定外で固まってしまう。

「君も色々考えてるみたいね。本当はこういうの、話しちゃうのは拙いんだけど……」

「……鳴海さん」

「いいじゃない、知る権利があるわよ。桜井君は特に、ね」

 窘めるような小林さんの言葉に肩を竦め、彼女は話を進める。

「私達はね、彼女を死に追い込んだ原因をストーカーだとは思っていないの」

 その言葉には少なからず衝撃を受けた。だが彼女はこう続ける。

「でも確かに、ある意味においてストーカーと言えるかもしれないわね」

「どういう意味ですか?」

「……いいわ、ちょっと話を横道に逸らしましょうか。君はストーカーという推論を口にしたけど、その前提となる情報をどれくらい把握しているのかしら?」

「先輩が死の直前おかしかったという話は聞いています。誰かから逃げていたとか、怯えていたとか……護身用にナイフを持ち歩いていたという事も聞きました。噂ですけど」

「それでストーカー被害、か。うーん、成程ね。筋は通ってるかな」

 そうこう話をしているとホットコーヒーが三人分、それから僕と鳴海さんの前にステーキが運ばれてきた。香ばしいガーリックの効いた肉の匂いがシリアスな空気に充満して行く。

「でも、それは不自然じゃないかしら。普通ストーカー被害に遭っていたら、君に相談すると思わない? まあ、心配させたくないから黙っていたのかもしれないけどね」

 肉を切り分けながら首を捻る。何で先輩が僕に相談するんだ? しかもまるでそれが当たり前のような言い方に聞こえた気がするが。

「君にしてみれば、そういう風に考えたいのかもしれないけどね。うん、野暮な事を訊いちゃったわ。そろそろ脱線は終わりにしましょうか」

「あ、はい」

 良く分らないまま勝手に彼女が納得し、自己完結してしまった。考えてみると最近こういう事が不思議と多い気がする。朝比奈や柳さんも、こんな感じというか……。

 二人してナイフで肉を切り、口に放り込む。確かにうまい。うまいが……このボリューム。夕飯前に食べる量じゃないと思うんだけどな……。

「うーん、お肉おいちい! 今日あんぱんと牛乳しか食べてなかったから、もうおなかぺこぺこだったのよねー」

 なんでそんな刑事ドラマみたいな感じなんだよ。まさか刑事って本当にあんぱんと牛乳で張り込みしたりするのか? ていうか肉はあんたが食いたかっただけだよな。

 暫く二人で肉を食う。鳴海さんはライスまでおかわりしていた。もう話を聞く為に来たのか、肉を食いにきたのかよく分らなくなってきた。

「もう一度確認するわね。九条さんが亡くなる前、おかしな事はなかったかしら?」

「さっきも言いましたけど、特には……」

「君が聞いている九条さんのおかしな噂について、心当たりは?」

「おかしな噂って……さっき僕が話したような、ですか? そういうのは……」

「そっか。君も知らないとなると、本格的にお手上げかもね」

 砂糖とミルクを大量にぶちこんだコーヒーを飲みながらそう呟く鳴海さん。僕はいよいよ疑問に耐え切れず、先ほどから引っ掛かっている事を訊いてみる事にした。

「あの、こっちからも質問いいですか?」

「怒られない範囲ならね」

 ちらりと小林さんを横目に頷く。僕は咳払いし、切り出した。

「どうして僕なんですか?」

「どういう意味かしら?」

 先ほどの僕のセリフを真似するように呟く鳴海さん。無視して話を進める。

「だって、僕はただの生徒ですよ? 彼女との共通点は伊凪第一の生徒であるって事だけです。僕からこんな風に話を聞く必要なんて無いはずです」

 それは僕にしてみれば当たり前の主張だった。しかし二人の反応は意外なほど冷ややかだ。

「それ、本気で言ってるの?」

「本気って……本気ですよ。僕は伊凪第一の生徒で、彼女はその生徒会長だった。それ以外に僕らの間に接点なんてなかったんですから。僕に訊くより、彼女のクラスメイトとか……そう、生徒会の人間とか、風紀委員とか。普段から彼女と接していた人間に訊いた方がよっぽど手っ取り早いし、実になると思いますけど……」

 語っている間から既に二人の反応はおかしかった。小林さんはしきりに手帳を確認し、鳴海さんは口元に手をやり何か考え込んでいる様子だ。

 それはとても奇妙な感覚だった。二人はまるでさっきまでの僕と同じだ。相手の発言に違和感を覚え、その理由を探っているような……。なんと言うか、会話が噛み合っていないのだ。僕は至極真面目に返答したつもりだが、二人はそれを訝しげに捉えている。

「……何ですか? 僕、変な事言いましたか?」

「ああ、いや。変というか、こちらの情報に食い違いがあったようなんだ」

 手帳を閉じ、首を横に振る小林さん。僕はすっかり状況に取り残されている。

「勿論、君の言う通りクラスメイトや彼女に親しい生徒には話を聞いているよ。僕達にしてみれば、君が最後の一人のつもりだったんだが……」

「最後の一人……?」

 なぜ? どうして? 僕に話を聞いて何か意味があるのか?

 最初からおかしかったんだ。どうしてわざわざ校門の前で僕を待っていた? どうして僕の名前と顔を最初から知っていた? まるで僕がこの事件に無関係じゃないみたいな……。

「まさか、僕を疑っているんですか?」

「そういうわけじゃないさ。犯人扱いしているように感じたのなら謝罪するよ。明言しておくが、僕達は君を疑っているわけじゃない」

「だったらなんだって言うんですか? どうして僕を呼びつけたりしたんですか?」

 苛立ちを抑え切れず、責めるような口調になってしまう。そこへ鳴海さんの声が響いた。

「君が……あの学校で九条沙希と最も親しい人間だったからよ」

 小林さんからバトンを受け取るように口を開く鳴海さん。その鋭い眼差しが僕を捉える。

「一つ確認していいかしら、桜井君」

「……何ですか?」

「私達が勘違いしていたのなら、ごめんなさい。でも……学校で聞いた話と君の言っている事は、ちょっと食い違いがあるの。だからあくまで確認なんだけど……」

 コーヒーを飲み干し、カップを置く。そうして言った。

「――桜井美春は、九条沙希とつきあっていたんじゃないの?」

「はいっ?」

 まるで予想斜め上のセリフだ。不意打ちにも程がある。なぜそういう話になるのか。

「つまり、カップル。君達は恋人同士。とても親しい関係にあった……違うの?」

「……ちょ……っと、待って下さい。恋人……って?」

「伊凪第一で聞き込みをしていたらちらほら聞こえた話よ。君は九条さんの良き理解者であり、相談相手だった。それがいつしか恋愛関係へと変わって……」

「待って下さい! 何ですかその話、誰に聞いたっていうんですか?」

 思わず席を立っていた。何だかよくわからないが、勝手に僕という人間像が捻じ曲げられている気がする。

 鳴海さんはまるで当たり前みたいな顔で意味不明な過去を捏造している。まるでそうじゃないと感じている僕の方がこの世界にとっておかしいみたいだ。みんながそう言っている? 本当にそう言っているのか? 誰が? どういう思い違いで?

「鳴海さん」

「ええ。どうやらこっちの勘違いだったみたいね。当の本人がこの様子じゃ、ただの噂話だったって事か……。まあ、学校じゃそういう色恋の噂は珍しくもないだろうしね」

 二人はまた勝手に自己完結しているが、こっちはそういう訳にはいかない。席に着き、飲みかけのコーヒーを見つめる。

「それじゃ、私達はそろそろ行くわね。あ、家まで送りましょうか?」

「いえ、ここから近いので……大丈夫です」

 本音を言えば、また車に乗るのは気まずい。可能なら遠慮したい所だ。

「そう。支払いは任せてね。小林君が出しとくから」

「……結局僕ですか」

「いいじゃないの、私今月パチンコ打ちすぎて金ないのよ」

「自業自得じゃないですか」

 二人は勝手に席を立ち、来る時と同じ様な下らない話をしている。僕は相変わらず席に一人縮こまったまま、真っ黒なコーヒーの水面を見つめていた。

「最後に一つだけ。桜井君、こんな物に見覚えはない?」

 億劫だが声に目線を向ける。鳴海さんが手にしていたのは小さいビニール袋だ。しっかりと封がされており、走り書きのメモがセロハンテープで添付されている。

「鳴海さん、ちょっと!」

 何故か慌てた様子の小林さん。僕は改めてその小さな袋に目を凝らす。中には青っぽい色をしたカプセル型の飲み薬らしき物が幾つか入っていた。しかし見覚え等ある筈もない。

「何ですか、それ?」

 その返答を聞くと彼女は目を瞑り溜息を一つ。さっさと懐に収め笑みを浮かべた。

「知らないなら、なんでもないわ。あ、そうそう……もう一つだけいいかしら?」

 最後に一つだけと言った気がしたのだが……。僕はもうこの二人と話をしたい気分ではなかったが、彼女が取り出した写真に目を向けた。そして思わずぎょっとする。

「この男に見覚えは?」

 写真に写っている男を僕は知っていた。以前、先輩が死んだ事故現場に一人で向かった時、僕と同じ様に現場を眺めていた男だ。服装は違っているが、恐らく間違いはないだろう。

「見覚え……あります。確か駅前で見かけました。九条先輩の事故現場です」

 顔を見合わせる二人。それから僕に聞こえないよう小声でやりとりした後、何事もなかったかのように笑顔を浮かべた。

「もしかしたらまた話を聞くかもしれないから、君の携帯番号を登録したいんだけど……構わないかしら?」

「……えーと……はい」

 正直もう、彼女達と関わるのは気乗りしない。何だか訳の分からない話をしてくるし、そもそも警察と何度もお茶したいとは誰だって思わないはずだ。だがそれが先輩の死を解明する為に必要になるのなら……と、自分の気持ちを偽り頷いた。

「今日の事は他言無用でよろしくね。それじゃあね、桜井君」

 窓際の席からは、二人の乗り込んだ車が去っていくのが良く見えた。

 一人で残されたテーブルには半分くらい残ったステーキ。胃はすっかり重く、食べきれるかどうかは微妙な所である。

 吸殻についた赤い口紅を恨めしく見やり、肉の処分を再開するのであった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ