CU領域(1)
「……つまりだな。九条先輩の事故死には、やっぱり裏があるんじゃないかって話だ」
僕は放課後朝比奈に連れ出され、行きつけのラーメン屋へとやって来ていた。
駅から徒歩五分の場所にあるボロボロのラーメン屋、正源。朝比奈はここの味噌ラーメンが好きで、週三回は通っているらしい。ちなみに店主のオススメは塩ラーメンなのだが、朝比奈はそれだけは絶対に食べないようにしているらしい。ちなみに理由は不明。
「おい美春、聞いてるか?」
「ああ……うん。悪い、少しぼんやりしてた」
「最近多いぞお前。顔色もあんまり良くねえし……ちゃんとメシ食ってんのか? メシ」
そんな親戚のオッサンみたいな事言われてもな……。
そもそも、体調は以前に比べれば大分良くなった方なのだ。僕に言わせれば、顔色だって何日か前までの方がずっと悪かった。
あの日、僕は放課後の図書室で悪夢を見た……と思う。というのも、僕はあの時の事をはっきりと覚えていないからだ。
悪夢を見て、それでどうなったのか。確かそこで何かあったような気がするのだが、詳細をてんで思い出す事が出来ない。記憶を呼び覚まそうとしてみても、頭の中に薄くかかった霞がそれを許してくれない。
しかし結果だけ見ると、僕はどうやらあの日を境に悪夢を見なくなったらしい。事実ここ数日はすっかり快眠であり、九条先輩の死を切欠に起こった異常事態はすっかり収束したように思えたのだが……。
「先輩の事故死に裏があるって、お前今そう言ったのか?」
「ああ。なんだよ、お前だって知りたがってただろ? 何を急に落ち着いちゃってるんだ?」
「色々あったというか、もっと不思議な事があったというか……それで?」
チャーシューを齧り、水を飲み干す朝比奈。そうして携帯電話を取り出した。
朝比奈のケータイは所謂スマートフォンという奴だ。僕は相変わらず真ん中でくったり折れ曲がるガラケーを使っているのでその使い勝手に関しては大いに疑問だが、少なくとも朝比奈はすっかり使いこなしているように見える。
「あの日、九条先輩がトラックに撥ねられた瞬間を目撃していた奴は結構居たんだ。そりゃまあ、丁度帰宅時だったしな。んで、話を聞いたら色々おかしな事が分ってきた」
と、こいつは簡単に言うが、それ程容易い事だろうか? 目撃者から話を聞くのだって、結構な手間だと思うのだけれど……。
「九条先輩は、既に電車に乗っていた時から様子がおかしかったらしい。で、そっからおかしいままおかしい事になった。要するに、全部おかしいんだよ」
そう言って朝比奈はケータイにメモしていた聞き込みの結果を僕に聞かせてくれた。
あの事故の日、十七時頃。九条先輩と僕が一緒に歩いていた姿が目撃されている。教室に最短で彼女を迎えに行ったはいいが、校内からの離脱に時間が掛かった事、帰り道をゆっくり歩いていた事を鑑みれば、妥当な目撃時間だと思われる。
というか、僕らはやはり人に見られていたのか。そう思うと少し気恥ずかしい気もするが……今になっては何の意味もない。そう思うとまた少し寂しさが込み上げた。
話を戻そう。十七時二十分頃、駅前で話し込む僕と先輩の姿が目撃される。これも僕自身の記憶と合致している。そこで僕らは電車を待つ間幾つかの雑談を交わした。
その後、先輩は改札を潜りホームへ向かった。実際に一緒に居た僕が保証するが、その時まで先輩は普段通りの先輩だった。問題はここから先である。
数分後、ホームで電車を待つ先輩の姿が目撃される。ここからの目撃情報は先輩が事故に遭うまで全て同一人物からの情報提供らしい。
先輩はホームで鞄を抱きかかえるようにして立っていた。しかし何故か周囲をしきりに見渡し、何かを気にしている様子だったという。
ホームに入って来た電車の扉が開くと同時に我先にと駆け込み、他の乗客を掻き分け隅の席へ移動。椅子に座り込んでからは鞄を抱えたまま俯き、ぶつぶつと独り言を呟き始めた。
「ちなみに、何て?」
「さあな。電車の中で聞こえなかったというよりは、日本語じゃないような感じだったとか言ってたが……まあ結局よくわからん」
その後、先輩は電車内でずっとそんな調子だったという。目撃者もそれが九条先輩だとは思わなかったらしく、後にそうだと知った時はかなり驚いたらしい。
実際、僕にはそんな九条先輩の様子が想像出来ない。いや、出来なくはないが……あまりにも現実味がないというか。少なくとも僕の知る彼女の姿とはかけ離れている。
凡そ十分間電車に揺られ、彼女は例の駅へと降り立った。するとやはり我先にと電車から飛び出したという。そこで彼女は人混みに突っ込み派手に転倒。大事に抱えていた鞄の中身をぶちまけてしまった。
「中身は当然教科書やら筆記用具やらだったが、明らかに女子高生の持ち物としてはおかしな物も混ざっていた」
一際目立つ異常……。ホームに転がったのは、小さなナイフだった。先輩は慌ててそれを拾い上げ、その他の物……要するに鞄そのものや教科書やらは放置したまま、逃げるように走り去ったという。
「そこで見ていた奴も気付いたんだ。それが九条先輩だってな。で、鞄と中身を拾って後を追った。まあ、俺達でもそうしたろうな」
だがその親切心の所為で彼……或いは彼女は九条先輩の死に直面する事になる。
駅から飛び出した九条先輩を見失わないようになんとか追いかけたその人は、彼女と共に駅中からの離脱に成功する。しかし九条先輩は足を止めず、そのまま真っ直ぐ走り続けた。
「その時も何かわけのわからん事を叫んでいたらしい。しきりに背後を顧みながらな」
そしてその時が訪れる。十七時四十四分、赤信号を無視して九条沙希は大通りに飛び出した。結果、道を遠慮なく走っていたトラックに撥ねられ即死……十八年の人生に幕を下ろした。
「な? おかしいだろ?」
「それは…………おかしい、ね」
おかしくない部分を探す方が難しいくらい、これはおかしい。先ほどから想像しながら話を聞いていたが、オカルトめいた薄気味悪さすら感じる。
考え込んでいた間箸が止まっていた為、ラーメンはすっかり伸びてしまっていた。僕はその処理を再開しつつ、目線だけを朝比奈に向ける。
「その話、本当なの?」
「ああ。にわかには信じられないが、事実だ。お前は知らなかったろうが、事故の日から既にこの話はちょっとした噂になっててな。少し叩けば埃がぼろぼろ出てきたよ」
すっかり食事を終えた朝比奈は爪楊枝を咥えながらなんとも言えない表情を浮かべている。それも無理はないだろう。僕もどんな顔をすればいいのか、正直困惑している所だ。
「勿論、俺だってこの話を鵜呑みにしてるわけじゃないぜ? だけど、ただの事故死だったと決め付けるのは早計ってもんだろ。例えば……先輩はストーカー被害に遭っていた、とかよ」
僕も正に同じ事を考えていた所だった。今の話を総合的にまとめてみると、要点は二つ。
まず、先輩の様子がおかしかったという事。周囲の目線をしきりに気にしたり、逃げたり隠れたりするような行動が見られた。
次に、先輩が持っていたナイフの意味。後に朝比奈に詳しく確認すると、それは俗にバタフライナイフと呼ばれる種類の折りたたみ式ナイフだった。何と無く粗野な言い方をしてしまうと、不良が持っていそうな感じの実にステレオタイプなナイフである。
何故バタフライナイフかと言えば、それは持ち運びに優れているからだろう。物自体が小さい為、鞄に収めてしまえばそうそう分らないない。
では更に何故、それを持ち運んでいたのか。まさか先輩がヤンキー同士の抗争に巻き込まれ、一人放課後に路地裏で格闘していたとは思えないので、その用途は当然護身だと推測出来る。
「つまり、あの日先輩は誰かに追いかけられていた。しかもそれが最初じゃない。事前に護身用のナイフを準備するくらいには繰り返し被害に遭っていた……って事じゃないかな」
伸びた麺を食べながら呟く。朝比奈は親指と中指を擦り合わせ、パチンと音を鳴らす。
「イコール、ストーカーってのも極論だが……先輩が他に付け狙われる理由も思いつかねえ」
逆に言えば、先輩に一人や二人ストーカーがいたとしても僕は不思議に思わない。
先輩は美人だし、良く出来た人だ。誰にでも分け隔てなく親切だし、いつだって一生懸命。実に魅力的な女性だったと思う。僕だって法律に触れないのなら、彼女の四六時中をこの両目で追跡してみたいと思うくらいだよ。
「じゃあ、ストーカー被害に遭っていたと仮定しよう。そうすると辻褄が合うんだよな。先輩があの日、別れ際に残した言葉も……」
良かったらまた、こうして一緒に帰ってくれないかしら……そう彼女は言っていた。
あれはもしかして、僕と一緒に歩いている間はストーカー被害に遭わなかった、という意味だったのではないだろうか? だからこそ、また僕と一緒に帰りたいと彼女がお願いしてきたのだとしたら……。
僕としてはちょっと複雑な心境だが、納得が行く。何故大して親しくもない僕に彼女があんな事を言ったのか。あの時の穏やかな笑顔の意味も……。
「別れ際の言葉ってなんだ?」
「いや、何か勘違いして舞い上がっていたのが恥ずかしいから黙っておくよ……それより」
「ああ。もし、俺達の仮定が間違いじゃねえなら……」
――先輩の死は、事故なんかじゃない。先輩は、誰かの悪意に殺されたという事になる。
拳を握り締めたのは悔しさからか、或いは今更気づいた所でなんの解決にもならないという無力感からか。未だ憶測の域を出ないが、この仮定はあまりにも辛すぎる。
「僕の所為かもしれないな」
急にそんな事を呟くものだから、朝比奈もきょとんとしていた。
「僕があの日、先輩と一緒に仲良さげに帰ったりしたから……それをストーカーがどこかで見ていて、逆上して先輩を……」
「そりゃお前、考えすぎってもんだろ。そもそも実際にストーカーが直接手を下したわけじゃねえんだ。そいつが暴走して追っかけまわした結果先輩が死んだとしても、そりゃお前の所為じゃねえよ」
その台詞は半分くらい僕の所為だと言っているように聞こえるのだが、気のせいだろうか。
「警察もこの話はとっくに聞いてる筈だ。俺達と同じ想定に至ったのだとすれば、連中が勝手に調べて白黒ハッキリさせるだろ。それで事件は終了ってわけだ」
空いていたグラスにピッチャーから冷水を注ぐ朝比奈。続けて僕のグラスも同じ様に満たし、長話の締めくくりだといわんばかりに身体を大きく伸ばした。
「でも……僕は許せないよ。先輩を死に追いやった奴がいるのなら……偶然でも事故でも関係ない。僕は……」
「まあ、報われねえよなあ。先輩、もう少しで卒業だったのにな。まだ遣り残した事、沢山あったろうになあ……」
まるでアルコール度数の高い酒でも入ってるみたいに、朝比奈は憂鬱な表情でグラスを傾ける。僕もそれに倣って唇を潤すと、不思議と冷たく苦い味がするような気がした。
「……わからないな。どうして誰かを好きになったのに、その人を苦しめるような事をするんだ? そんな事をしても、何の得にもならないじゃないか」
「可愛さ余って憎さ百倍ってか。もう、得だ損だって問題じゃなくなってるんだろうな。人間は熱くなれば熱くなるほど常識を欠いちまうもんだ。どんなに上出来な奴だって、デカイ思いにぶち当たった時、周りが見えなくなっちまう」
「少し羨ましいよ。そこまで誰かを好きになれたら、きっとそれは幸せなんだろうね」
ぽつりと呟くと、朝比奈は何故か驚いた様子で僕を見た。それから何かを言いかけたが、思案した結果彼は何も言わず片手で眉間を揉み始める。
「まあ、なんつーか……元気出せよ、美春」
「何が?」
「何がってそりゃ、九条先輩の事とかよ……」
いまいち歯切れ悪く語る朝比奈。よくわからないが、僕に気を遣っているらしい。
「とりあえず、俺にしてやれる事はこのくらいだ。後はそれこそ探偵なり警察なりの出番だからな。お前もいい加減、元気出せよ」
僕の肩を軽く叩き席を立つ朝比奈。それに続き僕も席を立つ。
「オヤジ、ごっそーさん!」
長年使い込まれた油塗れのレジ前に立つ朝比奈。その背中を眺め、考える。
もしかしてこいつ、僕が先輩の死について気にしていたからここまで調べてくれたのだろうか? ここ数週間、理由はそれだけではなかったとは言え、落ち込んでいた僕の為に……。
「朝比奈、いくら? 今日は僕が出すよ」
「あん? どうした急に?」
「そういう気分だから。嫌なら別にいいけど」
財布から五千円札を取り出し笑う。朝比奈は何を言いたいのか分ってくれた様子で、片手を軽く掲げて「ごっそーさん」と言った。