悪夢(2)
「九条先輩、少しお時間もらえますか?」
その日の放課後、僕は九条先輩のクラスへ顔を出すため校舎の三階へと足を運んでいた。理由はもちろん、朝比奈から頼まれた事を実行に移す為だ。
ドアを開いて教室の中を覗き込むと、数名のクラスメイトに先輩が何やら声をかけられているのが見えた。会話の邪魔をしてしまったというよりは、僕を見て……のようだ。
「ご、ごめんなさい桜井君。どうかしたの?」
「いえ、ちょっと野暮用というか頼まれ事というか……もしかして忙しいですか?」
「ううん、今日はもう帰るだけよ」
「良かった。それじゃあ一緒に帰りませんか? お話したい事があるんです」
きょとんと目を丸くする先輩。そりゃそうだろう、僕はこれまでこんな風に彼女をどこかに誘った事なんてなかった。一応、自分ではそれなりに親しい間柄だと思ってはいるけど、彼女もそう思っているとは限らないわけで。
「分ったわ。少しだけ待ってて、すぐ支度するから」
だからその答えを聞いた時は流石にほっとした。教室から出て廊下の壁に体重を預け、先輩を待ちながら物思いに耽る。
今になって冷静に考えてみると、急に下級生の男子が訪ねてきたからクラスメイトが騒いでいたのかもしれない。そういうつもりはなかったけど、客観的に見ると……。
「お待たせ。それじゃあ帰りましょう」
「あ、はい」
ま、なんだっていいだろう。先輩もこの通り気にしていないわけだし。そもそも先輩は我が伊凪第一のアイドルなのだから、冷やかしの類は慣れっこだろう。
それでも二人で校内を歩くのは流石に緊張した。本来なら、僕と先輩がこうして肩を並べて歩くなんていうのはちょっとした異常事態なのだ。自分で言うのもなんだけど、全く以ってお似合いとは言い難い。
それに先輩は男女問わずに顔が広く、ただ廊下を歩いているだけでやたらと挨拶が飛び交う。恐らく殆どの生徒が彼女と擦れ違う時に一声かけるのではないだろうか。かく言う僕がそうであるように。
「何だかごめんなさいね、落ち着かなくて」
「ああ、いや。先輩はやっぱり人気者ですね。僕が歩いていても後輩なんか無視ですよ、無視」
「あらあら……。でも、皆が顔を覚えてくれて挨拶してくれる……これってすごく光栄な事よね。生徒会長として大変な事もあったけど、皆の笑顔があったからやってこられたんだなって思う。今も沢山元気を貰った気分よ」
足を止め、過去を懐かしむように目を瞑る先輩。窓から差し込む夕日に照らされたその横顔が凄く絵になっていて、思わず見惚れてしまいそうになる。
「さ、行きましょうか。校内にいたら、君の話を聞いてあげられそうにないものね」
苦笑いしながら先輩は歩き出す。僕も釣られて笑顔を作り、その背中に続いた。
部活に勤しむ生徒達の威勢のいい声を聞きながら、僕らは一緒に校門を出た。家路を急ぐ生徒や寄り道に勤しむ生徒に紛れ、ゆっくりと見慣れた街を歩いていく。
「それで、話って?」
栗色の髪を片手で掻き上げながら笑いかける先輩。僕はブレザーの内ポケットより、昼休みに朝比奈から購入した例のチケットを取り出した。
「先輩もご存知ですよね、これ」
「ああ……うん。朝比奈君が頑張ってくれているみたいね」
「その朝比奈から頼まれたんです。実は僕ら、個人的に先輩に何かプレゼントしようと思ってるんですけど……何をプレゼントすれば喜ぶのかわからないので、こっそり探りを入れて来いって」
「……それ、私に言っちゃっていいの?」
腕組み思案する。まあ、普通は駄目だと思うけど……僕には無理なんだから仕方ないだろう。こっそり聞き出すとか、それとなく誘導するとか……下手な嘘を吐くくらいなら、堂々と訊いてしまった方がいくらかましだと思う。
先輩は僕の様子が余程面白かったのか、口元に手を当て笑いを堪えている。目尻に浮かんだ涙を拭い、彼女は深々と息を吐いた。
「本当、君達って面白いわね。君と朝比奈君、いいコンビだと思うわ」
「はあ……そうですか。若干不本意ではありますが……ただの悪友ですし」
「悪友、ねえ。いい友達は大事にしなきゃね。人生は長いけど、本当に分かり合える親友とは数える程しか出会えないのよ。それって奇跡みたいな確率だと思わない?」
人間同士が心を通わせるのは、途方も無く難しい事だ。
人は誰でも嘘を吐く。時には自分を、そして他人を欺いて生きている。信じる事も、理解しようとする事も、沢山の勇気がなければ不可能だ。
僕は死ぬまでの間にあとどれくらいの人と出会えるだろう? そしてその中の何人と友になり、或いは親友になれるだろうか? 分かり合い、笑いあう事が出来るだろうか?
「確かに、偶然ですよね。僕と朝比奈が出会って友達になる……言葉にすると簡単だけど、ものすごい確率の中で成立した事なんだろうなあ……」
ふと考え込んでいると、先輩が僕の顔をにやにやしながら覗きこんでいる事に気付いた。彼女がそんな風に僕を見ているのは初めての事で、どぎまぎしてしまう。
「桜井君、今朝言ってたわよね。人の決めたルールに従うのが嫌いだ、って」
流石に僕も覚えている。確かにそんな会話をしたはずだ。
「実はね、私もそうなの。君と同じ。この世界にあるしがらみが大嫌い」
――それは、意外な言葉だった。
理想的、模範的な生徒を絵に描いた様な九条先輩。当たり前の事だが、何の努力も意識もしないでそういう形に収まる事が出来る人間なんていやしない。
彼女は相応の重荷を背負い、それを零さず運んできたからこそ九条沙希という在り方を維持出来ている。それは僕には想像も出来ない、途方もない事だ。それこそ、好き好んでなければ続けられないような……。
「私ね、実は一年留年してるの」
「はい?」
更に意外な告白が続き、素っ頓狂な声を出してしまった。彼女はそれが面白いのか、からかうみたいに笑いながら話を続ける。
「だから、本当は君より二つ年上ね。驚いたでしょう?」
「そりゃもう。だから先輩、こんなに大人っぽいんですね。色っぽいっていうか」
咳払いを一つ。我ながら何を口走っているのか分らない。とりあえず少し落ち着こう。
「しかし、どうして留年なんて……」
「厳密には休学ね。もう三年前になるかな……。私ね、急に日常っていうか、当たり前の人生が嫌になったの。思い立ったら直ぐ行動してたわ。その時自分が身に纏っていた何もかもを放り出して、旅に出たの」
これまた凄まじい言葉が出てきた。旅……彼女からは想像もつかない響きだ。
「半年くらいかな。日本中あちこち一人で歩き回ったわ。色々な人と出会って、お世話になって、親しくなって別れて……。色々あったけど、でも不思議と最後にはまたこの街に戻ってきてた。自分が投げ出していた事について、諦めっていうか……ううん、これは少し違うかな。受け入れる……そう、納得する覚悟が出来たんだと思う」
昔を思い返しながら、ゆっくりと選んで紡がれた言葉。そこには先輩の沢山の気持ちが詰まっている気がした。僕の知らない、実りある半年を垣間見られる程に。
「それで両親には迷惑かけちゃったから、これからは良い子になろうって決めたのね。この街に生まれた事も、あの家に生まれた事も、あの学校に入った事も、君達と出会った事も……全部素敵な運命だったんだなって思う。だからそれを守りたいし、誰かに受け継いで貰いたい……そう思ってるわ」
ゆっくりと溜息を吐くみたいに語りえ終えた彼女は、慌てて僕の顔色を伺う。
「ご、ごめんなさい。余計な話を聞かせてしまって……退屈だったでしょ?」
「いえ、嬉しかったです。先輩の事、少しだけ分った気がします」
首を横に振ると彼女はほっとしたように笑みを浮かべた。
僕は彼女について何も知らなかった。いや、恐らく殆どの生徒がそうだろう。まさか彼女がこんなに破天荒な人間だなんて、そもそも想像した事すらなかった。
「これ、他に誰か知っている人は?」
「多分、一部の先生方くらいかしら? 自分の口で誰かに話すのは初めてよ」
「それじゃ、僕と先輩だけの秘密って事ですね。なんだか得した気分です」
「得、ね……。ふふ、そうね。これで秘密を共有するのは……二回目ね」
――その時、僕が覚えた違和感がなんだったのか。その意味に気付けなかった所為で後にあんな事になるなんて……僕はこの時知る由もなく。
淡く溶けるような紅い夕日に照らされた彼女の笑顔がとても儚げで、目を閉じたら消えてしまいそうな……そんな錯覚に胸を打たれていた。
「先輩。プレゼント、何がいいですか?」
思わずその手を掴んでいた。少し驚いた後、彼女は優しく囁く。
「それじゃあ……桜井君のお弁当、かな」
「僕の弁当……ですか?」
「いつも食堂に持ち込んで食べているでしょ? 料理、上手だって聞いているわ」
確かに僕の料理はそこそこ美味い。自画自賛するくらいには上出来だと思っている。しかしそれは男子高校生が作ったにしては……であって、お世辞にもプロ並とは言えないわけで。
「そんなのでいいんですか?」
僕らの財布事情を気にかけてくれたのだろうか。少々申し訳ない気持ちになり頬を掻くと、彼女はゆっくりと首を横に振る。
「そんなのだからこそ、いいのよ」
それは有無を言わせない笑顔だった。こんな風に笑いかけられたらだめだ。普通の男だったら、どうしたって信じてしまうに決まっている。
「それはともかく……もしかして忘れてる? クリスマス前には期末試験があるって事」
自分の表情が露骨にうんざりしたのが分った。先輩は口元に手をやり微笑んでいる。
「楽しみにしてるわね。クリスマスも、テストの結果もね」
それから僕らは駅の近くまで一緒に歩いた。彼女は電車で隣町から通学しているので、必然的にそこでお別れとなった。行き交う人の中に消えていく彼女の背中を遠巻きに見送る。
「桜井君。良かったらまた、こうして一緒に帰ってくれないかしら」
ふと、改札の向こうで立ち止まった彼女が振り返った。僕は片手を振り、それに応じる。
「ええ、是非」
「本当? 約束だからね」
子供みたいに笑って、手を上げて。それをゆっくりと、大きく振った。
「またね、桜井君」
そうして彼女は雑踏の中に姿を消した。僕は九条先輩の姿が見えなくなるまでそこに一人で突っ立っていた。
「九条先輩……か」
美人で、真面目で、誰からも好かれる模範的な生徒会長。そして、僕の憧れの人。
別に本気で恋しちゃっているわけではない。これでも分という物を弁えているつもりだ。
それでも彼女と一緒にいると暖かい気持ちになるのは、曲げようのない事実で。そういう意味で、僕は彼女の事が好き……だったのかもしれない。
我ながら馬鹿らしい思考にうんざりしつつ、しかし口元が緩むのを止められなかった。それを誤魔化すように俯きながら駅を出て、僕は帰路についた。
だから、その時は考える事すらしなかったのだ。彼女の言葉の意味も、笑顔の意味も。
これが彼女と交わした最後の言葉になるかもしれない、なんて事も。
――この日、九条沙希は帰り道で交通事故に遭い、十八歳の若さでこの世を去った。
僕がその原因の一端を担っていたという事を知るのは、まだ一ヶ月程先の事だ。
「……美春。おい、美春!」
肩を揺さぶられている事に気付き、ゆっくりと目を向ける。放課後、教室でぼんやりしていた僕を朝比奈が心配そうに見つめていた。
「お前、ぼんやりしすぎだろ。大丈夫か?」
「そんなに、だった?」
「ああ。そりゃもう、今すぐにでも魂が口から抜けて昇天しそうな勢いだったぜ」
肩を竦めて笑う朝比奈。しかし僕らの間にあったのは沈黙だけで、彼は頭を振る。
「……悪い。デリカシーのないボケだったな」
「そこまで神経質にならなくてもいいだろ? 死んだ人間が蘇るなら話は別だけどね」
そんな言葉を紡ぎだした舌の根も乾かぬうちに、僕は溜息混じりに目を逸らした。
九条沙希先輩が事故死したという話は、瞬く間に学校中が知る事となった。
誰もが彼女の死を悼んだ……と思う。少なくとも昨日その話が知れ渡った時より、僕らの日常には誤魔化しようのない影が差してしまったように思える。
別段、これはとてつもない悲劇というわけでもない。人生の半分も生きてはいない僕達は、これから同じ様な不幸を何度も繰り返し経験して行くに違いないわけで。
しかしだからといって割り切る事は出来ない。そう出来るほど僕らは大人ではなかったし、直ぐに忘れられるほど彼女は他人でもなかったから……。
それは僕らに限った話ではなかった。彼女の死が齎した影響は様々な意味で大きい。
当たり前だが、朝比奈が進めていた懇親会の話は白紙に戻った。彼女の死により、代々生徒会長が次の生徒会長を推薦するという伝統さえも、ここで打ち止めとなるだろう。
事件から二日経った今朝、朝礼で体育館に集められた生徒に学校側からの正式な発表があった。これによりただの噂に過ぎなかった九条沙希の死は、疑う余地のない出来事として僕らの中へ強制的に押し込まれつつあった。
朝礼の後には泣いている生徒の姿を沢山見かけた。朝比奈も泣いていたように思う。僕は……どうだっただろうか。多分、泣いてはいなかったと思う。
僕は……僕はまだ、彼女の死を信じられずにいた。僕はあの日、恐らく彼女と最後に言葉を交わした人間だ。駅の改札越しに僕らは確かに思いを伝え合った。そこに彼女は生きていた。笑っていた……なのに。
考えれば考えるほど現実味がない。いくら考えた所で、味のなくなったガムを噛んでいるのと一緒だ。意味なんてない。どこかが寂しいから、それを噛み締めているにすぎない。
「あーあ、どうすっかねえ。かき集めた金も返却しなきゃならねえし……一気にやる事が増えて忙しくなっちまったわりには、どうにも身体を動かす気にならねえんだよな」
正に努めて明るくといった様子で朝比奈は声を上げた。対する僕はと言うと、やはりというかなんというか、顰め面であった。
「朝比奈……先輩、どうして死んだんだろうな」
「どうしてって……交通事故だろ。トラックに撥ねられて、即死だったって話じゃねえか」
即死――というのは、どういう感じなのだろう? 死の恐怖も、痛みも感じずに即座に死ねたのだろうか。だとしたら少しは救いになるかも知れない……。そう考えるのは、結局生きている人間の傲慢なのだろう。
「何か……引っ掛かっているんだ。なあ、少し整理してもいいか?」
「……それでお前がシャキっとすんならな。付き合ってやるよ、俺は優しいんでね」
空いていた隣の席から椅子を持ってきた朝比奈は背もたれを抱えるようにして逆に腰掛ける。そうして僕らは彼女の死について、もう一度良く考えてみる事にした。
「九条沙希は交通事故で死んだ。それが一昨日の夕方、地元の駅まで電車で移動した直後の事。彼女は駅から出て直ぐに大通りで4トントラックに撥ねられた。その結果、即死。直ぐに病院に搬送されたが、救命の余地は無かった。これであってる?」
「あってますよ。死因はなんだったんだろうな。まあ、頭でも強く打ったのか……頭じゃなくてもトラックに撥ねられたら死ぬだろうけどな」
椅子を前後にぐらぐらと揺らしながら頷く朝比奈。僕は人差し指に前髪を絡め呟く。
「おかしくないか、これ?」
「どこがだ? 別に誰にでも起こり得る不幸な出来事だろ? 考えすぎだよ、お前」
それはそうなのだが……あのしっかり者の九条先輩が、車なんかに轢かれるだろうか?
そう、彼女は本当にしっかりしていた。何せあの日僕らが肩を並べて歩いていた時も、彼女は道路の右側、しかも車道側に陣取っていた。車の通りは決して多くはなかったが、それが近づけば彼女は少し歩みを遅め、まるで僕を庇うように振舞っていたのだ。
これはちょっと男としては問題なのだが、彼女があまりに自然にやっていたので僕はその時意識すら出来なかったのだ……と、言い訳させて欲しい。
「なるほど、昨日の放課後……。で、それがどうしたんだ? ヘタレ君」
噛み砕いて話をすると、朝比奈はそんな悪態をつく。僕は眉を潜め、咳払いを一つ。
「僕が言いたいのは、彼女が周囲の危険を察知出来るだけの注意深さと冷静さを持っていたという事だよ。あの人がいきなり車に轢かれるなんて、ちょっと考えられないんだ」
「けど轢かれた。で、死んだ……それが現実だろ? 誰にだって百パーセントなんてねえ」
「それはそうだけど、確率を持ち出すのなら余計におかしいじゃないか。お前だってあの駅には行った事あるだろ?」
考え込む朝比奈。だが本当は考えるまでもない。僕らは休日に遊び場を求め、電車で市内まで良く移動している。ならば事故のあった駅周辺は当然車内からも視認出来るし、そこで降りた事も一度や二度ではないのだから。
「見通しの良い直線道路……あんな所で死ぬのは余程のバカか、自殺志願者くらいだ」
「……だけどよ、そこまで言うならじゃあ何だって言うんだ? 九条先輩が死んだ理由が交通事故じゃなかったとでも言うつもりか? 流石に荒唐無稽だろうがよ」
「僕もそこまでは言わないけど……事故に遭った直接の原因が別にあるとか。例えば……そう、背後から誰かに突き飛ばされた、とか」
自分で言って、少し背筋が寒くなってしまった。もしそうだとすれば、これは事故死ではない。立派な殺人と言う事になる……だが。
「お前の言う通り、荒唐無稽が過ぎる……かな」
両手で頭をがしがし掻いて立ち上がった。窓からは相変わらず炎を溶かしたみたいな淡い夕日の光が差し込んでいる。
「少しどうかしてたみたいだ。先輩が死んだ事実を受け入れたくなくて、別の理由をでっち上げようとするなんて……何やってんだかな」
朝比奈は立ち上がり僕の肩を軽く叩いた。馬鹿な話につきあわせてしまったが、彼は相変わらずお調子者の笑顔でそこに居てくれる。今はそれが本当にありがたかった。
「まあ、無理もねえさ。だって、お前は……」
そこで彼の言葉は途切れた。だって、お前は……何だ? いや、何と無くわかる。何せ、僕なのだ。彼女の元気な姿を最後にはっきりと確認した人間は……僕、だけなのだから。
「あれま。二人とも、まだ教室に残ってたの?」
声の聞こえた方に目を向けると、教室を覗き込んでいる柳さんの姿があった。僕らは顔を見合わせ、それから同時に軽く手を振った。
「よお。お前こそ部活はどうしたんだよ」
「今日はサボり。何だかこう、燃えてこないのよね。走りたくて仕方ないっていう熱い気持ちが、すっかり冷めちゃったみたい」
両手を頭上で組み、背筋を伸ばす柳さん。そうして僕らを追い越して窓辺に立ち、茜色の光に染まるグラウンドを見下ろす。いつもなら威勢のいい声と共に駆け回る生徒の姿が見られるのだが、今日は全てがまばらな様子だ。
「ほら、皆そんな気分じゃないのよ。お葬式ムードっていうのかしらね、こういうの」
「多分、実感が沸かないんだよ。気持ちが止まってしまっているから、動けないんだ」
もう、二度と会う事は出来ない。あの笑顔を見る事も……冷たい手を握る事もない。一緒に肩を並べて歩く事も、朝早くに校門で出会う事も、何も……。
「さあて、帰りますかねえ! 辛気臭い顔してないでしっかりしなさい……って、きっと九条先輩ならそう言うと思うぜ」
僕と柳さんの間に入り、朝比奈が同時に肩を抱いてくる。だから僕らは同時に朝比奈を引っぺがし、同時に彼の頭を小突いた。
「陽平、どうせ暇なんでしょ? 帰りになんか驕りなさいよ」
「お前俺らよりずっと食うじゃねえか……いちいち奢ってたら財布が持たねえよ……」
「何の為にバイトしてんのよ、あんた」
「少なくともお前の満腹の為じゃねえよ! いい加減太るぞお前!」
いつも通りの夫婦漫才……そう、あえて夫婦漫才と言わせてもらおう……が始まった。二人はしばらくその調子で会話を続け、やがて僕にも話を振って来た。
「桜井も一緒にどう? 久しぶりに三人でラーメンとかさ」
柳さんは部活で忙しいから、三人で行動する事は稀だ。でもそういう時は決まって朝比奈が足繁く通うラーメン屋で、文字通り道草を食っていた。沈んだ気分のまま過ごしているよりは、ずっとその方が健全なのだろうが……。
「僕は遠慮しとくよ。ちょっと、他に寄りたい所があってね。それに君達がイチャイチャしているのを横で見せ付けられるのもねえ……」
「だ、誰がイチャイチャしてるって? ったく……いいわ、お言葉に甘えて陽平と二人きりでお出かけしてくるから」
「ま、しゃあないな。俺達はお先に帰らせてもらうぜ、美春」
僕の背中を叩き、朝比奈はウインクする。帰り道の相談をしながら教室を後にした二人を見送り、僕も机にかけていた鞄を手に取るのであった。
僕の家は、学校から徒歩で二十分程の場所にある。急いでいる時は自転車を使うが、基本的に早めに起きて行動している僕は徒歩での登下校が多かった。
そんな僕が今日わざわざ自転車に乗って学校まで来たのには理由がある。駐輪場で自転車の籠に鞄を突っ込みつつ、取り出した携帯電話のディスプレイを見つめる。
「――さて」
あまり乗り回していない所為かブレーキの調子が悪い紺色のママチャリを走らせ、向かった先は一昨日の夕方先輩を見送ったあの駅だ。そこで自転車を降り、切符を買って改札を潜る。
目的地はそう、先輩が事故に遭った現場である。元々僕は学校帰りにそこへ行く事を視野に入れていた。
もしかしたら行くかどうかで迷うかもしれない……そう考えた僕は、いざという時急げるようにわざわざ自転車を用意していたのだ。なら最初からさっさといけよと自分でも思うが、朝比奈と話をするまで踏ん切りはついていなかったのである。
彼には荒唐無稽と言ったが、やはり腑に落ちない。先輩の事故死という物に本当に事件性があるのかはともかく、僕は一度足を運んでおくべきなのだと思う。
吊革を両手で掴み、体重を預ける。僕は……やはり、先輩の死を受け入れられずにいるのだろう。つい二日前の出来事なのだから当然と言えば当然。しかしいつまでもこうして憂鬱な気持ちで過ごすのはよくないと思う。
だから、本当に事件性があったのかなんて事は多分二の次なのだ。僕は先輩が死んだ場所に行って、本当に彼女が死んだのだと、そういう確信を持ちたいだけ。そうして明日からはちゃんと彼女の事を……彼女の死を受け入れて、生きていきたいだけなのだ。
伊凪第一はどちらかというと市外に建てられた高校だ。僕はそこからより市内へ向けて移動を終えた。再開発が非常にゆっくりと進められている駅に降り、数分歩けばもう現場を拝む事が出来た。
四車線の、見通しのいい直線道路。駅を利用する人間が行き交う為、比較的大きい横断歩道があり、信号機からは聞き覚えのある童謡が流れている。その信号機の隅っこに申し訳無さそうにこぢんまりと、いくつかの花が供えられていた。
見れば、うちの制服を着ている生徒が何人かそこにたむろしている。僕はそれを背後から遠巻きに眺め、視線をスライドさせた。先輩の死が具現化した景色を、直視したくなかったのか。或いは……僕と同じ様に駅周辺を見渡している人物を発見したからだろうか。
彼、もしくは彼女……は、僕と同じように景色を眺めていた。折り重なった花でもなく、その前で泣いている生徒でもなく、僕と同じやや後ろ。全身をすっぽりと黒いトレンチコートで覆い、同じく黒いニット帽を目深に被っている。
一見して彼なのか彼女なのか判別がつかなかったのは、長く伸びた金髪の所為だろう。三つ編みにした後ろ髪を揺らし、件の人物は踵を返す。その時一瞬だけ僕の方へと目線をくれた。
青い瞳だ。それはとても印象的だった。ようやく気付いたが、あれは恐らく彼であっている。女性にしては背が高すぎるし、体格も良すぎるからだ。ついでに言えば、髪や目の色からして外国の血が入っている事も想像がつく。
――と、そこまで思考した所で僕は彼の後を追いかけていた。理由はわからない。ただ、こちらを一瞥したのには何か意味があるような気がした。
偶然、たまたま、ちらりとこちらに目を向けただけかもしれない。けれどもしかしたらそうでない可能性だってある。明確に僕に意識を向ける……そんな理由が彼にあるようには思えないが、それも追いかけてみれば確かめられると思ったのだ。しかし……。
「見失った……」
この駅は伊凪の最寄り駅とは違う。建屋自体も最近改装を済ませたばかりで、駅中に様々なショップが入ってから人通りは急激に増えた。その人の濁流の中に目当ての人物は消えてしまい、今となっては見る影もない。
立ち止まっていると行き交う人々が怪訝な目で僕を見ているのが分る。そりゃそうだ、こんなに人通りの多い場所に突っ立っていれば邪魔だし、それを自覚しているのであれば変人と言う事になる。悲しいかな、僕は今正にそれである。
「何やってんだかな……」
そもそもあの男がなんだというのか。もしかすれば、彼は九条先輩の関係者かもしれない。それなら僕と同じ様にあの景色を眺めていてもおかしい事は何もない。
遠巻きに立っていたのだって、あの時は横断歩道前に伊凪の生徒が固まっていたから遠慮しただけかもしれない。理由は幾らでも考えられる。どちらかと言えば、神妙な面持ちで彼を追いかけていた僕の方が異常だと言えるだろう。
そもそも、何故追いかけようと思ったのか。額に手をやり考え込む。それは……。
……頭を振って溜息を着く。僕は少し落ち着くべきだ。一体何を殺気立っているのか。九条沙希の死を切欠に、ナーバスになっているとしか思えない。
「それだけなのかな……九条先輩」
問い掛けには雑踏が答える。折り重なった声は既に声ではなく、雑音。僕を取り巻く無数の無遠慮さは、眩暈がするくらい普段通りに時を刻み続けていた。




