九条沙希(4)
翌日のクリスマスイヴ。僕は真尋を尋ねて彼女の祖母が経営するスナックに足を運んでいた。
先に真尋の部屋に行ってみたのだが、生憎留守にしていた。他に真尋が行きそうな場所を考えたら、真っ先に思い浮かんだのがここであった。
「こんばんは」
「……え? 桜井君?」
案の定、真尋はカウンター席に一人でぽつんと座っていた。暖房が効いている室内は暖かく、外気との寒暖差に背筋が震えた。
「ああ、暖かい……」
「頭……雪載ってるよ?」
歩み寄り、僕の髪を払う真尋。続けて肩を叩き、それから首を傾げる。
「どうしたの……?」
「どうしたもこうしたも、クリスマスだからね。お誘いに来たんだよ」
コートの内ポケットから便箋を取り出し真尋に手渡す。朝比奈が無理を言って文化部の連中に急遽作らせた、例のパーティーの招待状を多少改造した物だ。
「うちでクリスマス会やるんだ。真尋もおいでよ」
「え……? 私……行ってもいいの?」
「当たり前だろ? 今日は真尋が主役だから、内緒にしてたんだ。準備は全部出来てるから、あとは君が来るだけだよ」
ぱあっと明るく微笑み、胸に便箋を抱き締める真尋。それから慌てた様子で右へ左へ歩き回り、転びそうになりながら駆け出した。
「わらひ、じゅんび……あうっ」
「おお、テンパってるテンパってる」
店の裏口から飛び出していく真尋を笑いながら見送る。雪道で転んで怪我でもしなければいいのだが……。
「あの子がクリスマスにお出かけなんてねえ。こんな事は初めてだよ」
声は店の奥、厨房から聞こえた。相変わらずの風貌で姿を見せた彼女の祖母に頭を下げる。
「ご無沙汰してます」
「ああ、堅苦しい挨拶はいいよ。子供は子供らしくしてな。何か暖かい物でも飲むかい? あの調子じゃ、真尋は準備に時間がかかるだろうからね」
「そうですか。なら、丁度良かった。実はあなたに折り入って話があるんです」
上着を脱いで開いている席にかける。この店は常に客入りが皆無だが、経営は大丈夫なのだろうか……心配になってくるが、今はそれよりも大事な話がある。
「ココアでよかったかい」
「ありがとうございます。それで、話なんですが……お聞きしたいのは、真尋の過去の事です」
差し出された陶器のマグカップからは湯気が立ち上っている。舌先が痺れるくらい熱いココアで唇を濡らし、意を決して問いかけた。
「過去の事というと、何の事だい?」
「真尋は昔事故で両親を亡くしたそうですね。そこで自身も重傷を負い、記憶を失った。ついでに彼女がナルコレプシーを発症したのもこの時だと聞いています」
「……あの子が話したのかい?」
ゆっくりと頷く。女は腕を組み、深々と溜息を吐いた。
「真尋が知りたがってるのかい? 自分の事を」
「いえ。僕が興味本位で訊いているだけです。真尋に話すつもりはありません」
「興味本位と来たかい。それで私が話すとでも思うのかい?」
「話していただけないならそれはそれで構いません。ただ僕は……彼女の能力と、彼女自身と……その両方とこれからも向き合っていくと決めました。だから……」
能力、という言葉には反応が大きかった。それで大体僕が何をどれほど知っているのか、彼女は察したのだろう。カウンターの端から客席へと回り込み、僕の隣の席に腰を下ろした。
「《エゴ》という言葉をご存知ですね?」
「……ああ。何を隠そう、その言葉を教えたのは私だよ。話すと長くなるねえ。嫌な事も思い出さなきゃならない。だからあんたに話すのは、触りだけにさせてもらうよ」
彼女はゆっくりと重い口を開いた。そして語られたのは、贖罪と後悔の告白であった。
「あれはまだ真尋が十歳くらいの頃だから……もう六年くらい前になるかねえ。私はとある大病院で働く医者の一人だった。医者と言うか、そうだねえ……研究者、というのが正確かね」
ある日、一件の事故で三人の重傷患者が運び込まれてきた。成人男性が一人、成人女性が一人、そして少女が一人。三人は家族であり、この時点で母親は既に息を引き取っていた。
直ぐに緊急手術が行なわれ、父親と娘が施術を受けた。しかし回復したのは娘の方だけ。父親は医師らの尽力も虚しく、手術中に亡くなってしまった。
唯一生き残った娘も長い間生死の境を彷徨う状態が続いた。そこから何とか脱しても意識が戻らず、時間だけがただただ過ぎていった。
「事件から半年くらい経った頃かね。少女は目を覚ました。でもね、その後も非常に長い睡眠と短い覚醒を繰り返すだけで、一向に動けるようになる気配がなかった。私達はそれがある能力が開花する前兆だと知っていてね。だから、隔離する事になったのさ」
元々身寄りの無い少女だった。その病院に併設された研究施設……表向きにはサナトリウムとして機能していたらしい……に送り込まれた後、彼女はある特殊な研究の対象となった。
「それが……超能力ですか?」
「そんな大仰な物じゃないがね。あの頃、あの真っ白な建物の中には真尋みたいな子供が何人もいた。私が担当したのは真尋だけで、他の子については知らされて居なかったけど……」
それが非人道的な研究である事は疑う余地もなかった。実際真尋が受けていた処遇も、お世辞にも人道的だったとは言えないらしい。
「それをあの子が覚えていないのが、唯一の救いかねえ……」
コーヒーの注がれたマグカップに口をつけ、女は一息吐く。そうして続きを語り出した。
「真尋の能力は凄かったよ。あの子は間違いなく天才だった。それが事故の所為なのか元々なのかは分らないけどね。あの頃、プロジェクトの中枢にどの子を据えるのかっていう議論が起こっていた。候補は二人。真尋と……それからナルミっていう男の子だったね」
「ナルミ……?」
その言葉には聞き覚えがある。ナルミ。なるみ。鳴海……NARUMI。要するに、この少年があの男の言っていた少年《N》なのだろう。
「ただ、《エゴ》として完全に調整された子は、間違いなくもう人間ではなくなってしまう。私は真尋がそうなるのが嫌でね。早い話、拉致して逃げたのさ」
最初はただの研究対象だった少女も、いつの間にか情が移り我が娘のように思うようになっていた。そして彼女は真尋を連れ出し、何もかもを棄てて逃げ出したのだ。
「暫くは逃亡生活が続いたが、《エゴ》の力は《メランコリック》を常用しないと維持出来ないという当時の通論もあって、追手はそのうちかからなくなった。ナルミの方がプロジェクトの中枢に収まったのもあるんだろうね。その後私は真尋と共に彼方此方を転転として、今に至るってわけさ」
いや、恐らくそれだけではない。彼女は知らないのだろうが、その後《N》の暴走による混乱があり、それが上手い具合に二人の逃亡を助けたのだろう。
話が終わるともう一度彼女は盛大に溜息を吐いた。僕も思わずそれに続く。なんとも気の重くなる……悲しい話だ。
「私にとって真尋は全てさ。あの子と引き換えに、私は全てを投げ捨てたんだ。あの子が可愛くて仕方ない……だからって連れ去った事実は変わらないけどね」
「他に引き取り手も居なかったんでしょう? なら、これでよかったんですよ」
「それは真尋だけが決められる事さ。あんたが偉そうに言える事じゃないねえ」
笑いながら憎まれ口を叩く。その横顔が以前よりずっと疲れて見えるのは、恐らく気の所為ではないだろう。
「今度はこっちから質問だ。あんた……何をどこまで知ってるんだい?」
「何と無く分ってるんじゃありませんか?」
「分ってはいるが……いるからこそ、だね。真尋をどうするつもりだ?」
「どうにもしません。僕はね、彼女に助けられたんです。新しい人生を貰ったというか……失った物に気付かせてくれたというか。兎に角彼女は恩人なんです。そんな真尋を可哀想な目に遭わせたりはしません。いるのか分らない、神様に誓って」
ココアを飲み干し席を立つ。上着を羽織り、店の裏口へと足を向ける。
「真尋の様子を見てきます。お話、ありがとうございました」
「ああ。言うまでも無いとは思うけど……」
「ええ。今の話はあの子には伏せて置きますよ」
「そうかい。それじゃあ、クリスマスを満喫しておいでと伝えておくれ」
頷いて裏口から外に出る。後ろ手に扉を閉め、そこで僕は足を止めた。雪の中、裏口の傍に背を預け真尋が立っていたからだ。
「真尋……」
「言っておくけど、今来た所だから」
何を言っておくのかは分からないが、真尋の肩にも頭にも薄っすらと雪が積もっていた。恐らく僕らが思う以上に彼女は準備を急いでくれたのだろう。
「……ほら、行くぞ。お前の為にみんなで準備したんだ。一人よりずっと楽しいぞ」
真尋の手を握り締め、ゆっくりと歩き出す。俯いたままの彼女が頬を掌で擦るのは、見なかった事にした……。
クリスマス会は、僕の自宅で催される事になった。参加者は僕、真尋、朝比奈、それから柳さんの四名だけである。これはいきなり大人数だと真尋が驚いてテンパってしまうだろうからという、僕なりのささやかな配慮の結果である。
どこか外に出かけるという選択肢もあったが、生憎天候は雪だったし、何より真尋には眠り病がついて回る。何かあった時の対応も考えると、自宅と言うのが結局最良の選択だろう。
「来た来た! 安藤、メリークリスマース!」
玄関までわざわざ出迎えに来ていた柳さんが真尋の前でクラッカーを鳴らす。真尋は正に鳩が豆鉄砲を食らったような状態で、直立不動となっている。
「あれ? もしもーし? 桜井、安藤大丈夫なのこれ?」
「びっくりしたんだろうな。真尋、紹介するよ。彼女は柳千佳さん」
「……幾らなんでも知ってるよ。クラスメイトだし……」
僕の横腹を肘で小突く真尋。柳さんはそれが嬉しかったようで、ひしと真尋を抱き締める。
「覚えててくれたんだー! ありがとう、安藤!」
「は、はひゅふ……」
「柳さん、解放してあげて。今こいつの頭の中、多分凄い事になってるから……」
手荒い歓迎の後、リビングへ向かう。朝比奈はテレビを眺めながらソファに腰掛けていた。
部屋の中はクリスマスらしく飾りつけが済んでおり、折角なのでツリーも引っ張り出してきた。部屋の中については二人に任せて出てきてしまったので、僕も初見である。
「へえ、結構ちゃんとしてるじゃない」
「当たり前だろ? 芸術的なセンスでこの朝比奈様の右に出る者はいないぜ」
「何が芸術的センスよ。あんたなんでもいいからキラキラした物そのへんに纏わりつかせただけじゃないの」
「見てただけの奴が言うんじゃねえよ! お前つまみ食いしてただけだろが!」
いつも通りバカップルがイチャついているのを横目に席に着く。上着をハンガーにかけ、真尋もソファの上に腰を下ろした。
「すごい料理……おいしそう」
「そう? ありがとう、僕が作ったんだよ」
「え? 桜井君、料理出来るんだ……知らなかった」
そういえばそんな話もした事がなかったか。冷静に考えてみれば、非現実的な話ばかりで僕と真尋は当たり前の友人関係を結び損ねてしまった気がする。
「食べてみてよ。好き嫌いが分からなかったから、定番を数撃って当てる感じだけどさ」
フォークにから揚げを刺し、一口で頬張る真尋。その横顔がとても嬉しそうで、こっちの方まで嬉しくなってくる。
「おいしい……」
「だろ? そうだ、今度夕飯を作りに行ってやるよ。君はろくなもの食べてなさそうだしな」
「いいの……?」
「いいよ。一連の事件のお礼というか……だから全然いいの。ほら、もっと食べてよ」
頷き、次々に手を伸ばす真尋。頬杖をついてその様子を眺めていると、いつの間にかバカ騒ぎしていた二人が僕を凝視している事に気付いた。
「二人とも何してんの?」
「いや……お前、いつの間に安藤を口説き落としたんだ?」
「というか……小動物を餌付けしてるような……」
二人してなにやら失礼な発言をしているが、真尋は全然聞いていない。どうやらおなかが空いていたのか、食べるのに夢中と言った様子だ。
「まあ、色々あったんだよ。色々ね」
「安藤、桜井に変な事されてないわよね? あいつかなり変人だから気をつけなきゃだめよ」
「それは……うん、知ってる」
どっちが変人だこの野郎。柳さんよりは真人間のつもりなのだが……真尋も反論して欲しい。
「こんな事もあろうかと、家からカラオケセットを持って来たんだよ! さあ、女子から歌おうぜ、女子から!」
「お前そんなの何処で買うんだ?」
「通販に決まってんだろ? 深夜の通販だよ」
「深夜の通販……面白いよね」
そこでまさかの真尋が反応。四六時中寝ている分、夜中には起きているのだろうか。
「だよなー、つい買っちまうんだよなあ。こういう時じゃねえと使い道もなくってよ。是非使ってやってくれよ」
テレビにカラオケセットを繋ぎ始める朝比奈。柳さんは真尋の隣に座って先ほどからずっとあれこれ話しかけ続けている。これまで会話が成立しなかった分、色々溜まっていたのだろう。
そう、真尋は変わった。以前のように人を避ける様な目をしなくなった。その心境の変化がどこから齎されたのかは分からない。ただ、僕はそれを嬉しく思う。
「手料理……食べさせたかったな……」
最後の最後、笑って手を振る彼女の姿を瞼に浮かべる。もう戻らない甘くて苦くてくすぐったいこの気持ちに名前をつけるとしたら、やはり恋だったのだと思う。
だけど、それはもう終わりにしよう。忘れる事は出来ないし、思い出す事も出来ないけれど……それでも彼女の名前と共に生きていこうと思う。九条沙希を僕は手放さない。これからそうやって、罪を背負って生きていく。
「私、カラオケなんてやった事ないから……」
「だったら尚更安藤が最初だろ! ほら、知ってる曲なんでもいいからさ!」
「桜井君……たすけて……」
賑やか過ぎる二人に挟まれ、涙目でマイクを握り締める真尋。僕はケータイを取り出し、内蔵したカメラで三人の姿を写し取る。
愚かな僕に残されたこの日常を、この幸福を楽しもうと思う。僕は真尋と出会った。彼女と出会う事が出来た。だからそれを大切に守っていく。彼女の理解者として傍に居る。それが今の僕に出来る、ささやかな彼女への恩返しなのだから――。
「桜井君の方から呼び出しがかかるのは珍しいわね」
このファミリーレストランで彼女と……鳴海さんと顔を合わせるのはこれで三度目だ。前回、前々回と同じ窓際の席、今は二人で対面する形で椅子に座っている。
校庭で例の怪物を始末した後、僕が真っ先に連絡をつけたのが彼女だ。幸い呼び出しには迅速に応じてくれた為、こうして二人でゆっくり話をする機会を得られたのだが……。
「何か注文する? お姉さんが奢ってあげるわよ」
「注文はしますが、支払いはこっちで持ちますよ。忙しい中時間を作って貰った訳ですし」
「あら、そんな気遣い要らないのに……流石男の子ね。それで、話って何かしら?」
「では単刀直入に……。鳴海さん、あなたは一体何者ですか?」
真正面に彼女の瞳を見つめ問いかける。しかし向こうは驚いた様子で首を傾げる。
「何者って……どうしちゃったの、桜井君?」
「まあ、惚けますよね。では順を追って話しましょう。そもそも鳴海さん、あなたは伊凪南所の刑事ではありませんよね?」
「酷いわねえ、刑事じゃないって……そりゃ私はこの若さでこの美貌だから、刑事だなんて思われないだろうけど……警察手帳だってほら、ちゃんと持ってるわよ」
苦笑を浮かべ、上着のポケットから手帳を取り出す鳴海さん。しかし……。
「生憎ですが、僕は本物の警察手帳と言う物を見た事がありません。それが本物なのか偽者なのかすら分らないんですよ」
確かに、警察手帳を出されれば相手を警察だとは思うだろう。そもそもそれを本物かどうか疑うなんて発想が普通出てこない。だから僕もあっさり騙された。
「仮に本物だとしても、立場ごと捏造したんじゃないですか?」
「あら、凄い発想ね」
「小林さん……今日は一緒じゃないんですね。刑事が単独行動、それっていいんですか?」
眉を潜める鳴海さん。懐より煙草を取り出し、口に咥える。
「今日はプライベートなデートだから、コブはなし。単独行動も同様の理由。現在私は業務中じゃないから」
「小林さんに確認したんです。鳴海さんのケータイではなく、先に伊凪南署に電話しました。そこで小林さんを呼び出して貰ったんですよ」
無言で煙草に火を点け、紫煙を真上に吐き出す鳴海さん。僕は話を続ける。
「小林さんはいましたよ。でも鳴海なんて人間の事は知らないと言っていました。彼はここ数ヶ月の記憶が急に曖昧になってしまって、そろそろ医者に看て貰うべきかと悩んでいました」
「そう……小林君がそんな事を」
薄っすらと笑みを浮かべ、囁くように呟く。そこに先ほどまでの陽気な様子は見られない。
「もう一度訊きます。あなたは何者ですか? 何故小林さんと僕の記憶を消したんですか?」
「記憶を消すとは、また突拍子も無い発想ね」
「突拍子も無いのは何もかもそうですよ。僕はね……鳴海さん。あなたが今回の事件、全ての黒幕だと睨んでいるんです」
そう、彼女はその何もかもがおかしい事だらけだった。
一度目の接触時、何故最初から僕に会いに来ていたのか。そして何故を所持していたのか。
警察だというのなら、まだ話は分かる。だが先に言った様に彼女は刑事でもなんでもなかったのだ。そんな人間がどこでどうやって《メランコリック》を入手したのか。そして何故それを僕に見せたのか。
二度目の接触もタイミングは絶妙だった。僕が自分の記憶を操作されている事を知った直後、彼女の方から呼び出してあった。そして彼女は言った。何か思い出したか、と。
「あなたは例の男や真尋が僕に接触した事に気付いたんですよね。だから万が一僕が何か思い出していないか確かめる必要があった……違いますか?」
「うーん……仮にそうだったとして、よ。今更君の呼び出しに応じた理由は? そもそも君の言う通りだとしたら、私がその話を認める筈ないじゃない。そうは思わなかったの?」
笑いながら語る鳴海さん。そう、だからそれが不思議でもあるのだ。自分で呼んでおいてなんだが、まさかこんなに素直に応じてくれるとは思って居なかった。
彼女の言う通り、仮に僕の指摘が合っていたとしても、それを認める必要はない。認めさえしなければ、全ては僕の妄想で終わるのだから……。
何も言い返せず俯いていると、彼女は大きく煙草の煙を吸い込み、一気に真上に吐き出した。そうして灰皿に口紅のついた吸殻を押し付け、新たな煙草を一本取り出した。
「――なんてね。意地悪しちゃってごめんなさい。そう、君の推理は大体当たってるわ。色々と惜しい所もあるけど……ま、次第点を上げてもいい」
おどけた笑みと共に唇で煙草を咥える鳴海さん。そうして彼女は煙草の先端を中指と親指で挟むようにして擦り始める。
「面白い物を見せてあげるわ」
次の瞬間、指を鳴らす要領で強く煙草を弾いてみせる。その瞬間赤い光が瞬き、煙草の先端には火が灯っていた。僕はその様子を呆然と眺める。
「パイロキネシス」
紫煙を吐き出し、続けテーブルの上に転がっているティースプーンを指差す。するとそれがカタカタと音を立て始め、振動しながらゆっくりと動き出したのだ。
「テレキネシス」
更に彼女は片手を軽く振るう。すると動いてたスプーンの先端がありえない勢いで捻じ曲がり、最終的にはぶっつりとねじ切れてしまった。
「サイコキネシス」
にっこりと微笑む鳴海さん。僕はもう完全に呆気にとられてしまい、言葉も出てこない。
「こういう力を持ってる子はね、たまーにいるのよ。私も、私の弟もそうだったわ。弟は私より力が強くて……特に夢に干渉する超能力にずば抜けた適正を持っていた」
「それは……」
「私達は九条機関の研究所で育った。大人になって力は多少衰えたけどね」
思わず生唾を飲み込んだ。どんな反応を返せばいいのか分からないが、とにかくこれだけはハッキリしている。この人は普通じゃない。この人こそ、今回の事件の黒幕なのだ。
「私が今日ここに来たのはね、桜井君。君の偶然に物を言わせた立ち振る舞いの最後を見届ける為よ。君は今回の事件になんの関係もない、ただ巻き込まれただけの一般人だった。それがこんな最後の最後までしっかりついてきたんだから、何かご褒美があってもいいと思うのよね」
まるで子供のように無邪気に語る鳴海さん。だけど僕はそんなに胸中穏やかでは居られない。何故ならば彼女こそが僕の記憶を奪った……沙希の死の原因となった人物だからだ。
「さあ、答え合わせと行きましょうか。お世辞にも推理とは呼べない君の稚拙な妄言で、私に真実を回答させてみなさい」
煙草を手にしたまま、彼女はリラックスした様子で頬杖を着いている。向こうにしてみれば僕なんて取るに足らない存在なのだろう。だがそれでも、僕にだって意地がある。
「鳴海さん……何故僕だったんですか?」
「《メランコリック》の売人として、って事? それはただの偶然。別に君じゃないといけない理由は何もなかった。そうねえ、私の気まぐれ……かしらね」
唖然としてしまう。それは理由として幾らなんでも理不尽すぎるだろう。
「君と会ったのは、もう半年以上前になるかしらね。当時私は与えられた任務を果たす為、場所と人材を設定するのに追われていたわ。酷いもんよね、大体全部現場の私一人に押し付けるんだから。それでちょっとイライラしてて、酒飲んで道端でぶっ倒れてたの。そこに通りかかったのが君……桜井美春君だった」
春が終わり、初夏を迎えたこの町で彼女は僕と出会った。真夜中の街を徘徊する少年と、妙齢の酔っ払い女。その出会いは誰がどう考えても偶然の筈だった。
「君はね、道端でゲロゲロしてる私を介抱してくれたのよ。それで気に入っちゃった訳」
「酷すぎる理由だ……。どうして僕はそんな時間に……」
「さあ? 薄々感づいてると思うけど、私と出会った頃の君は今とは結構違ってたのよね。多分それも内に秘めた青春のメランコリーだったんだろうけど……うーん、若いっていいわね」
「余計な事はいいんで、話を続けてくれませんか……?」
ジト目で催促すると彼女は唇を尖らせ、なんとも言えない表情を浮かべる。
「まあ兎に角、私は君が気に入ったの。だから駒に使おうと思った。ま、私のいつも通りのやり方ってわけ」
彼女は同じ様に《仕事》を始める時、必ず《場所》と《駒》と《立場》を用意するという。今回彼女が選んだ《場所》はこの伊凪という町、そして《駒》は僕と、それから小林さんも含まれるだろうか。そして《立場》はこの街の警察。若く美しい女刑事、といった所か。
「条件を揃えてすぐお仕事を開始したわ。《メランコリック》の服用者をこの町に集中させれば、いずれあの子も《CU領域》でこの町にやってくる。時間はちょっぴりかかったけど、目論見通りに全てが推移していった」
一呼吸入れ、煙を吐き出す鳴海さん。そこへウェイターが料理を運んできた。持って来たのはミックスピザとフライドポテトで、両方彼女が注文した物である。
「桜井君、どれくらい事情を聞いてるの? 会ったんでしょ、御神に」
「ミカミ……?」
「金髪ロンゲで黒ずくめの外人。あいつ、厳密にはハーフだけどね」
御神、という名前だったのか。彼女の言う《あいつ》というのは、間違いなく僕の中でも《あいつ》で通る彼の事だろう。
「九条機関と、《N》っていう少年の事は、ざっと……」
「それじゃ、私が日本政府直々に動いているスーパーエージェントで、その命令を受けてこの町で事件を起こしたという事も?」
それも……ざっとは聞いていたが、中々ピンと来ない話だ。僕はしがない学生に過ぎない。日本という国の成り立ちも、この国がどのように動いているのかも、皆目検討がつかない。全ては雲の上の話だ。
「九条機関が潰れてから、能力者は彼方此方に散らばったわ。中には脱走した奴も居て、御神はその一人。私は九条機関からスライドしてそのまま政府の犬になったわけ」
「御神はどうして鳴海さんを追ってるんですか?」
「さあ? まあ、気に入らないんじゃないかしらね。この力をお国の為に使うっていうのが。割と待遇はいいし、人様に言えないだけで公務員だから生活も安定してるんだけどねー」
けらけらと笑いながら語る鳴海さんだが、その瞳は何故か寂しげだ。恐らく彼女自身、自分の立場に関しては全て腑に落ちているわけではないのだろう。
「ま、無理もないわ。あいつは酷い目に遭ってるしね……っと、そういえばあいつは?」
「もうこの街を出て行きましたよ。一緒に鳴海さんに会いに行こうと思って誘いましたが、自分が居ると鳴海は出てこないから、と」
「流石、分ってるわねー。あいつも多分君の努力を認めてたのよ。だから私を捕まえるチャンスを棒に振って、君とこうして二人で話す機会を残したのね」
ニヤニヤと語る鳴海さんだが、その推測は完璧に的中している。まさに別れ際に彼が言っていた言葉そのものだ。こうして思い返してみると、鳴海さんと御神、二人の奇妙な関係性を少しだけ垣間見たような気がする。
「それじゃあ、次の質問いいですか? 《N》についてです」
「死んだ凄い超能力者よ。その結論じゃ不満足?」
「ええ。その、実は僕は《N》と接触した時……死んだ筈の九条沙希の記憶を見た気がするんです。気がするだけなので、はっきりとは言い切れないんですが」
「別に普通の事じゃない? 《CU領域》ってそういう所だし」
ピザに齧りつき、チーズを引きながら呟く。この人いつも高カロリーそうな物食べてるけど、大丈夫なのだろうか。スタイルを見る限りは、大丈夫そうなのだが……。
「君、集合的無意識って聞いた事ある?」
「えー……と……」
「集合的無意識――《Collective unconscious》」
「あ、CU……」
「要するに、個人の意識を超えた所にある、人類共通の普遍的な意識。あの空間はそれに近いイメージなの。あそこには恐らく、人類誕生から現在に至るまで、この世界に生きては死んで行った人間全ての知識と記憶が保管されているのよ」
これまた凄まじく大きな話になってきた。随分前からオカルトの世界ではあったが、いよいよ奇妙さが色濃くなってきたぞ。
「《CU領域》の全てを暴く事が出来れば、神にだってなれる……事実はどうあれ、そう信じた連中が九条機関よ。尤も、その解析を終える前に機関はなくなったんだけどね。あの子……君やあいつが《N》と呼んでいるあの子は、誰より領域に近づいていた。だからそこに取り込まれてしまったのかもしれないわね。ま、全ては憶測に過ぎないんだけど」
人類の全体意識に近づきすぎて正気を失った少年《N》……。彼は本来の自分を追い求めて、《メランコリック》服用者を襲っていたのかもしれない。そして次々にそれらの意識を奪い取り、同化させていった……なんて、推理とも言えない下らない妄想に過ぎないけれど。
「だとすれば僕は……先輩を二度も殺した事に……」
「そうそう、あの子を止めたのは君達だったわね。結局私は何も手を下さずに済んだんだから、お礼を言わなきゃね。こっちとしてもね、もう手詰まりもいい所で……誘き寄せたはいいけど、私にあの子は止められ無いし……本当、どうしようかと頭を悩ませていた所だったのよ」
確かにあれは掛け値なしの怪物だった。あの時僕が助かったのは単なる偶然に過ぎない。真尋が救い出してくれるのが僅かにでも遅かったら、結果は違っていただろう。
「あの女の子、真尋ちゃんって言ったかしら? 凄かったわね。あの子がいなかったらどうにもならなかったろうし、被害もどんどん拡大していたでしょうね。正直、あそこまで危険な物に進化しているとは予想もしていなかったから、こっちも準備不足だったわ」
「その……御神も言ってましたが、真尋って……」
「恐ろしい子ね。あの子ならそれこそ神になれるんじゃないかしら? こっちとしてもあの子の事をどう報告したらいいのか困ってるのよ。だってあんなのイレギュラー中のイレギュラー、存在している事自体おかしいんだもの」
そこに来て僕は彼女を呼び出したもう一つの目的を思い出した。僅かに逡巡し、それから意を決して口火を切る。
「あの……!」
「真尋ちゃんの事?」
だが二の句は読まれていた。確かに分りやすいタイミングではあったのだが。
「真尋の事は……そっとしといてやってくれませんか? 僕にはあいつがどのくらい凄いのかよく分からないんですが……でも、あいつは普通の女の子なんです。好き好んで、あんな力を手に入れたわけじゃないと思うんです。だから……」
「うーん、どうしよっかなー」
「鳴海さん!」
思わず立ち上がりテーブルを叩いてしまう。向こうはそれでびっくりして、周囲の客にぺこぺこ頭を下げながら僕の頭を掴み、強引に席に着かせた。
「冗談よ冗談、ちょっとしたジョークでしょ? 全くもう、そんなに真尋ちゃんが大事?」
「恩人ですから。それに今度こそ……守ると誓ったんです」
「……ふうん、そう。あのね、誤解しないで欲しいんだけど、私だって仕事じゃなかったらこんな事はしなかったし、良心がこれっぽっちもない悪党だったら君の前にこうして姿も見せなかったわよ。力を持ってる所為であれこれ不幸になる子の気持ちも、よーく分かるしね」
肩を竦め、溜息を一つ。それからテーブル越しに身を乗り出し、僕の頭を撫でる。
「ああいう子には理解者が必要よ。特別な人間はどうしようもなく孤独だわ……例外なく、ね。だから君が傍にいて支えてあげなさい」
優しい声で、優しい手でそう語る。そうされていると、どうしても僕には彼女が悪人には思えなかった。やった事は決して許されない事だけど……多分この人たちにとってそれはもう日常茶飯事というか……そういう部分での葛藤は、とうに終わっているのだろう。
「今回の件は私一人でやった事にしておくわ。その方がお手柄を独り占め出来るしね」
「……ありがとうございます」
「お礼を言う必要はないわよ。君は私を許せない筈でしょ」
確かに、憎む理由はあれど許す理由はない。彼女は許されずして当然だ。だがそれは僕にも同じ事が言える。結局、誰も許されてはならないのだから。
「確認したいのですが……九条沙希が巻き込まれたのは僕の所為ですよね? つまり、鳴海さんがそう意図した事ではなかった、と?」
「そうね。君が九条沙希と知り合いだとは知らなかったわ。ま、九条機関の関係者なんだから、こういう偶然……ううん、必然もあるんじゃないかしらね」
必然、か。そう表現して片付けてしまえば確かに全てその通りだろう。
沙希はこの事をどれくらい理解していたのだろうか? 僕は結局沙希の事を何も分かってやれなかった。《メランコリック》について、そして九条機関について……彼女は知っていたのだろうか。彼女も本当は関係者だったのか、それとも無関係だったのか……。
「ともあれ、《N》は消えた。もう幻覚や白昼夢に悩まされる人もいなくなるでしょう。《メランコリック》はどうせ御神が回収したんでしょうしね」
「……いかにも、ですね。では、これで……?」
「ええ。この事件は終了って訳ね」
その言葉と共に彼女は立ち上がった。上着を引っ手繰り、僕の傍に立つ。
「――さてと。それじゃあ、私もこの街を出るわ。次の目的地はもう決まってるのよね。全く、貴重な超能力者様をなんだと思っているのやら」
「鳴海さん……鳴海さんはまた、こんな事を……?」
出来ればもう、こんな事はしないで欲しかった。彼女だって本当は望んでいない筈だ。好き好んでこんな馬鹿げた事を繰り返せる人じゃない……だけど。
「……あの子もね、誰かが止めなきゃいけなかったのよ。この街では君の知らない被害者も含め、六人死んだわ。だけど、ほうっておけばそんな物じゃ済まなかった。あの子自身、いつまでも独りぼっちで誰かの心の中を彷徨い歩くなんて……可哀想じゃない」
「鳴海さん……」
「やあねえ、そんな顔しないの! 今回、君は本当にたまたま巻き込まれてしまった。それは必然ではなくただの偶然よ。だからもう、こんな妙ちくりんな事件に巻き込まれる事なんてないわよ。鳴海お姉さんが、保証してあげる!」
ばしばしと僕の肩を叩きながら笑う鳴海さん。僕は最後にもう一つ質問を付け加える。
「……鳴海さんが僕の記憶を消したのは……自分の素性がバレるからってだけじゃないですよね。それを覚えていると、僕がその記憶に苦しむ事になるから……」
だから、事件の事だけではなく、九条先輩の記憶も消したのではないだろうか。
九条先輩の事は、覚えていても良かったはずだ。楽しかった思い出まで消す必要はなかった筈だ。それはとても残酷で非人道的な行いだが、それによって僕は救われたのかもしれない。
思い出さない方がいい事もある。忘れたままの方が楽な事もある。辛い記憶を全て抱えたまま生きていくには、人生はあまりにも長すぎるから。
「残念ながら、それは深読みのしすぎよ。私は仕事を完璧にやり遂げなければならなかった。だから君の記憶に関しては、結構大げさに消しちゃったのよね」
「小林さんのも……ですか?」
笑いかけると一瞬固まり、その後彼女も釣られて笑い出した。僕らは二人して暫くそうして笑い合い、それから真正面で向き合う。
「それじゃ、行くわね。君も真尋ちゃんも、元気でね」
手を振り彼女は踵を返した。さっぱり去っていく背中を見送り、僕はゆっくりと瞼を閉じる。
終わった。これで何もかも……。
結局の所、この事件に犯人と呼べる人間がいたのだろうか。誰もが少しずつ間違っていたし、誰もが少しずつ擦れ違っていた。結局誰が一番悪かったのか……なんて、考えるだけ馬鹿馬鹿しい話だ。
会計を済ませ、ファミレスを後にする。この街は何も変わっていない。そう、何も……。
答えは自分の中で見つけ出すしかないのだ。最初から最後まで傍観する事しか出来なかった愚かな僕に出来る事は、それだけなのだから……。




