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悪夢(1)

 ――ああ、これは夢だ。眠っている間にそう自覚する夢の事を、明晰夢と言うらしい。


 通常、夢を夢と認識するのは目が覚めた後と相場が決まっている。僕自身これまで意識出来るだけでも何百回と繰り返し夢を見てきたが、明晰夢と呼べた物は数える程しかなかった。

 そう、明晰夢自体は恐らく珍しい現象ではないのだ。僕だって夢を見ている最中、これは夢だなと思う時はある。問題はこの明晰夢を僕が毎日経験している、という事だ。

 毎夜同じ夢を見るようになったのは、今から二週間ほど前。翌月に押し迫った憂鬱なイベントに頭を悩ませながら過ごしていた十一月末の事。

 最初はそれを明晰夢だとも思わなかった。ただ、夢にしては妙にリアルだな……と、そんな事を考えるくらいだ。今になって思うが、自身に起こっている異変について、当人こそが最も疎い物なのかもしれない。

 眠りについて暫くすると、闇の中に漂う身体を自覚する。最初はそれだけの夢だった。それこそそれが夢なのか、或いは漂っているのが自分自身なのかさえ明確ではなかった。

 ところが何日も同じ夢を繰り返しているうちに、徐々に闇の中に自身の肢体を自覚するようになる。頭から爪先まで、自分という形の輪郭を認識し、やがて五感とも呼べる情報を得た。

 ぼんやりとした意識のまま、闇を俯瞰する夢……しかしやがて僕は気付く。この闇はただの闇ではないと。真っ暗で何も無いと思っていた景色にも、うっすらと輪郭が宿りつつあるのだと。

 そこに来て、ようやく僕は思考に至る。先程から自分が浮いているこの景色は、この世界はなんなのかと。

答えは得られるはずもないが、身体は相変わらず浮いているだけで動かす事も出来ず、可能な事と言えば思考する事くらいなのだから、何も考えるなという方が無理な相談である。

 夢の中で変な話だが、思考ははっきりしつつあるというのに身体が言う事を効かない状態はさながら金縛りのようだった。そしてこれは人にも寄るだろうが、金縛りという記号から僕はある物を連想した。

 ――そう、幽霊だ。

 金縛りと言えば幽霊。恐らくセットで語っても大半の人は納得してくれるだろう。

 僕は霊感と呼ばれるような特殊な才能は持っていないし、まあそもそも幽霊なんてものが実在するのかどうか怪しいと感じている種類の人間だが、流石にこうわけのわからない状況に放り込まれてしまうと、超常現象を信じてしまいかねないくらいには混乱してしまうわけで。

 相変わらず言う事を聞かない身体は、何者かにしっかりと押さえ込まれているかのようにびくともしない。辛うじて動かせるのは眼球くらいで、結果僕は安直に闇の中へと目を凝らすのだ。

 するとどうだ。ゆっくりと、ゆっくりと。見えてくる。それ確かに最初からそこに居た。僕がそうだと認識していなかっただけで、そこからずっと僕を見ていたのだ。

 何も無い、或いは何かあるのだが認識出来ない闇の中。薄ぼんやりとした影が僕を見ている。

 人の形をしているが、輪郭がそうだと思えるだけで細部は認識出来ない。黒い靄、或いは霧だろうか。そういう類の物が人の形に纏まっているようにも見える。

 影はずっと僕を見ている。動く事の出来ない僕。状況を理解出来ていない僕。夢なのか現実なのかさえ判断出来ない僕。超常現象の存在を信じかけているこの僕を……。

 最初はそれだけだった。見られている事は不快だったが、どうという事もなかったのだ。

 この明晰夢自体、いつの間にか終わりを告げ何食わぬ顔で朝がやってくる。別に永遠にこの闇の中に閉じ込められているわけではないのだから、気にする事もない……そう思っていた。

 でも僕は、今はそう思っていない。

 同じ夢を立て続けに二週間、繰り返し見るようになって。

 その夢の中にいると感じる時間が、だんだんと長くなって。

 僕を見ているだけだったはずの黒い靄が、日に日に近づいている事に気がついたから。


 ――ああ、これは夢だ。眠っている間にそう自覚する夢の事を、明晰夢と言うらしい。

 十一月末から始まったこの悪夢は、日に日に明確な悪意を帯び、僕を追い詰めつつあった。




   1 悪夢


「おはよう、桜井君。今日も早いのね」

 僕は、五分前行動という言葉が好きだ。

 何事も早め早めに動いておけば、後々焦らなくて済む。ギリギリまでもたついていた所為で後々あくせくしなければならないとしたら、それは最終的には損だと思うわけだ。

 尤も、ではお前は常に五分前行動なのかと言われると、胸を張って返事は出来ないのだが。

「おはようございます、九条先輩。他の人より早く登校すると、得した気分になりませんか?」

「そこに損得という言葉を持ってきてしまうあたりが桜井君ね。まあ、遅刻されるよりはだいぶましなんだけど」

「そういう九条先輩は、どうしてこんな時間に校門前で僕を待ち伏せしているんですか?」

「別に君を待ち伏せしていたわけじゃないわ。生徒会長だから、月に二回ほど早めに登校して生徒達に挨拶しているだけよ。というか、君は知っているでしょ?」

 溜息混じりに柔らかく微笑む九条先輩。彼女は僕が通うこの私立伊凪第一高等学校の生徒会長という役職を担っている。

 容姿端麗……いや、才色兼備か。所謂バカ校のレッテルを貼られる我が伊凪第一の中でぶっちぎりの才女である彼女は、真面目かつ優秀でありながらも気さくで親しみやすい性格で、全校生徒から厚い信頼を集める人気者である。

  そんな九条先輩と僕は、とある理由から親しい関係にあった。勿論、先輩と後輩を超えるような物ではないが。理由は……理由は、なんだったか。ぱっと思い出す事が出来ない。

ともかくそんな訳で、たまに顔を合わせるとこうして話し込むのは珍しい事ではなかった。

「前から思っていたんですが、それも生徒会長の仕事なんですか?」

「ううん、これは私がやりたくてやっている事よ。風紀委員が月に一度持ち物検査しているみたいだけど、私はそういう事はせずただ挨拶をするだけね」

「それ、意味あるんですか?」

「意味の有無はともかく、歴代の生徒会長は皆こうしていたそうよ」

「はあ。うちの生徒会長ってみんな暇だったんですかね」

「あら、こう見えても忙しいんだからね? 一応私も受験生だし、それに今年中になんとか次の生徒会長を見繕っておかないとね」

 伊凪の生徒会長は、新年と共に世代交代を迎えるのが通例となっている。

 基本的には全校生徒の投票によって決定されるのだが、投票される側の生徒は自らの意思で立候補した者に限ると定められている。つまり、生徒会長になる気がない人間には最初から投票しても無意味だという事だ。

「先輩は前の生徒会長から推薦されたんでしたっけ」

「ええ。推薦自体に意味はないけど、それが立候補の切欠。同じ様に、次の生徒会長は私が推薦しようと思っているの。これも代々続く伝統ね」

 実際、九条先輩が推薦すれば次の生徒会長はもう決まったような物だろう。先輩以上に生徒会長という役職を理解している人はいないし、何より彼女は生徒達から信頼されている。

 九条先輩が次はこいつに託すと言って指差せば、僕でも生徒会長になれる気がするくらいだ。

「本当はちょっぴり良くないなって思うんだけどね。もしかしたら、自分から立候補する生徒が他にもいるかもしれないし。そうしたら私は、折角手を上げてくれたその子の気持ちを台無しにしてしまうのよね」

「それはそうですが、そんなの気にしてたらキリないでしょう」

「そうね。それに生半可な気持ちで引き受けない方がいいわ。こんな早くから校門前に立っているなんて、どう考えても青春の無駄遣いだもの」

 先輩はそう言って悪戯っぽく笑みを浮かべる。

「その通りですけど、そう思うならやらなきゃいいでしょうに」

「それはそれ、これはこれ……かな? 普通に考えたら変かもしれないけど、こうやって登校してくる子と話をしたり、挨拶したり……結構気に入ってるのよね、私」

「そういうものですか」

 まあ、本人がそれでいいというのだ。僕が口を出す事ではないだろう。

 ふと、ズボンのポケットから携帯電話を取り出し時刻を確認する。暫く話し込んでいたような気がしたのだが、待ち受け画面になっているデジタル表記の時計は未だ午前七時を少し回った所だった。

 八時二十分までに登校すれば良い伊凪にこんな早くからやってきているのは、僕や先輩のような変人か朝練をしている部活組くらいだろう。

「桜井君、早起きが得意なら運動部でも良かったんじゃない?」

「いえ、早起きが得意というか……あくせくするのが嫌いなんですよ」

 念の為言っておくが、僕だって今かなり眠いのだ。

 健全な男子高校生は十時間寝た所で睡眠時間は不足しているという物。正直な所を言えば、僕だってまだお布団の中でうとうとしていたい時間だ……だが。

「例えば遅刻しそうになって慌てて走って登校するとしましょう。そういうのってかっこ悪いっていうか、むかつくじゃないですか」

「むかつく?」

 よほど不思議な台詞だったのだろう。先輩はオウム返しに首を傾げた。

「なぜ僕が遅刻しそうになって慌ててやらなきゃいけないんだ……って思うわけです」

「それは、遅刻しそうだからでしょう?」

「そもそも遅刻っていうのが腹立たしい。それって僕が生まれる前に誰かが勝手に決めたルールじゃないですか。なぜそれに僕が従わなければならないのか……」

「うーん……つまり、人が作った決まりに従うのが嫌って事?」

「……あまりつっこまれると僕も自信がなくなってきますが、大体そんな感じです。早めに来てここでぼんやり先輩と話していると、世の中の流れに勝利したような気がしてくるんですよね。一日を有意義に過ごせそうな気分っていうか」

「もしかして、それが得した気分?」

 腕を組み頷いてみせると、先輩は呆れたように肩を竦める。

「気持ちは分らなくもないけどね。当たり前の流れの中にいるからこそ得られる幸福っていうのもあると思うわよ」

 そう呟いた先輩の横顔はどこか寂しげだった。遠い所……或いはずっと昔の事に思いを馳せているような、そういう眼差しだ。

「そろそろ教室に行った方がいいわ。ここは寒いしね」

 歩み寄り、僕の胸元に手を伸ばす。どうやら彼女は曲がっていたネクタイが気になっていたらしく、手早く結び直すと僕の肩を叩いて笑った。

「今日もいい一日になるといいわね」

 十一月の朝はもう十二分に寒い。空は快晴で風もないが、ずっとここに立っていた彼女の身体は僕よりずっと冷えているだろう。

 鼻頭を赤くしながら優しい笑顔を振りまく九条先輩。男子生徒憧れの彼女をこうして独り占めできたのだから、早起きは三文の徳というのもあながち嘘ではないらしい。


「つっても、普段から早起きしてなきゃ意味ねーってこったな……」

 先輩と別れた僕は二年二組の教室へ向かい、机に突っ伏して足りない睡眠時間を補っていた。

 そうして暫くうとうとしていると、あれよあれよと時間は過ぎて気付けば始業間近。チャイムが鳴る前になんとか滑り込もうと教室に飛び込んでくる連中の中にそいつの姿もあった。

 彼の名前は朝比奈陽平。一年の時からの友人で、二年になってからも関係は比較的良好なまま継続している。

 毎度毎度お騒がせに登場する彼の姿を見かねた僕は、今朝校門の前で九条先輩と会ったという話をしてやったのだ。自称九条先輩のファンである朝比奈は案の定悔しがり、僕の机に勝手に座ったまま盛大に両腕を投げ出している。

「俺がチャリで突っ込んできた時にゃ、既に見る影も無かったぜ」

「チャリで突っ込んできたら……っていうか廊下走ってたら怒られるんじゃないか?」

「それはそれで美味しいだろが」

「……まあ、そうかもね」

 ちなみに、なんだかんだで僕も九条先輩に憧れる男子の一人なのである。

「あー、俺も一回でいいから愛しの生徒会長と二人きりでお話してみたい! そしてあの胸を揉んでみたい!」

「そうだよなあ。でかいよなあ……」

 しみじみと言ってしまった。朝比奈は相変わらず虚空に向かって両手を突き出し、恍惚の表情で手を握ったり開いたりしている。僕はこれを朝比奈エアーおっぱいもみもみ、略してAAOMと呼んでいる。

「あー、かったりい。美春の自慢話で始まった一日なんか絶対いい事ないぜ」

「幸運の女神に愛されてしまったね……。ほら、先生来たぞ。いいからとっとと席に着け」

 片手をひらひら振りながら定位置へと帰る朝比奈。ちなみに美春というのは僕の名前だ。

 桜井美春、それが僕のフルネームである。言うまでもなくあまり好きではない名前だ。尤も、僕を美春と名前で呼ぶのは朝比奈くらいなので、それほど気にはしていないのだが。


 僕、桜井美春の日常は特に面白味も無く繰り返されている。

 僕が暮らしているこの伊凪市は都市開発もすっかり止まり、今となっては廃れきるのを待つだけとなった地方都市の一つだ。

 これといった名産も無く、特徴と呼べるような特徴もない。バブルの流れに乗り張り切って開発を試みたらしい駅周辺の町並みも、今やすっかり降ろされたシャッターが目立つ寂しい景色へと変わり果ててしまった。

 だからといって特別不便な事もなく、地方は地方なりに気楽に暮らして行ける。電車に乗って二駅くらい出れば、遊ぶ場所にもそれなりに困らないし……田舎にしては、だけど。

 何がいいって訳じゃないが、何が悪いって訳でもない伊凪。その伊凪の中でも自由な校風……というかいかにも偏差値の低そうな伊凪第一高等学校に通う日々。それが僕、桜井美春が過ごす日常の全てだった。そう、この時はまだ……。


「そういや美春、クリスマスは何か予定あるのか?」

 眠い目を擦りながら懸命に午前中の授業を切り抜け、漸く迎える事が出来た昼休み。いつもの様に食堂に移動した僕と朝比奈はテーブル越しに顔を合わせていた。

「……それは、ひょっとして嫌味?」

 しかしこのバカがまた不必要な話題を持ち出してくるものだから、僕の楽しい気分もきれいさっぱりどこかへ押し流されてしまった。

 弁当箱の隅にちょこんと収められたきんぴらを箸で摘みながら溜息を一つ。そう、もうすぐ十一月も終了……とくれば、次にやってくるのは当然十二月だ。

 そして十二月と来れば、真っ先に誰もが思い浮かべる例のあれ。十二月後半に控える、一年を通しても比較的大きなそのイベントを思うと、忘れていた憂鬱が胸の奥から噴き出してくる。

「予定なんてあるわけないだろ。あったとしてもお前には言わないけど」

「ははは。まあ、そうだと思ったんだ。そんな寂しい独り身でクリスマスを迎える美春君に、この朝比奈君が救済の手を差し伸べてあげようじゃあないか!」

 仰々しく両手を広げて語る朝比奈。それから周囲を気にしつつテーブル越しに顔を寄せてきたので、僕もそれに倣って身を乗り出した。

「実は、クリスマスイヴにちょっとしたパァチィを企画しているのだよ」

「またお得意の悪巧みか……好きだなあ、お前」

「バーカ、男女共に余っちゃってる人達を救済しようと一生懸命なんだろうが。むしろこんな慈善事業に躍起になってる俺に対し、お前達は賞賛の言葉をかけるべきだね」

 悪戯っぽく笑いながら箸を僕の眉間に突きつける朝比奈。それを片手で押し退ける。

「っていうと、合コンみたいな感じ?」

「懇親会と言って欲しいなあ。合コンなんて不埒な集まりとは違うんだよ。何せ我らが生徒会長も出席する事が決まってるんだからな」

「何! 生徒会長っていうと、あの九条先輩が?」

「その九条先輩だよ。つーか生徒会長は一人しかいねえんだから当然だろ」

 思わず掴みかかるような勢いで声を上げてしまった。周囲の席に座った生徒がこちらを見ている事に気付き、お互いに会釈しながら僕達は身体を引っ込めた。

「しかし驚いたな。そういうタイプには見えないんだけど」

「だから懇親会って言っただろ? 半分くらいは、来月で生徒会長を解任される九条先輩に対するお疲れ様会でもあるんだよ」

 ああ、なるほど。それなら彼女も断らないだろう。上手い事考えたな。

「彼女、今年で卒業だしな。九条先輩には世話になってる奴も多いし、元々そういうのをやろうって話はあちこちにあったんだ。んで、俺がその辺に散らばってる大小様々な企画を取り纏め、一つの大きなパァチィを催す事になったわけよ」

 その言い方気に入ったのか? どや顔も相まって大分鬱陶しいんだが。

「でも、それじゃあ本当にお堅いパーティーになるな。お前の事だから、僕はてっきり以前の惨状が再現されるのかと思ったけど」

 ちなみに、こいつがこういう事を言い出すのはこれが初めてではない。

 折に触れては馬鹿騒ぎを企画して、律儀にそれを実行してきた。お陰で巻き込まれた僕は色々と大変な目にも遭って来たが、今となっては楽しい想い出の一つに昇華されている。いや、せざるを得なかったというのが本音だが……。

「おいおい、俺がいつ惨劇を引き起こしたよ? 俺はいつでもこの伊凪第一の生徒達に楽しい青春の思い出を作ってあげたいと、そういう眩しい気持ちで頑張ってるんだぜ」

 頬杖を突きながら話半分に聞き流しつつ苦笑する。朝比奈の弁も大方間違いではないのだろうが、それだけという事もないだろう。

 こいつは無類の女好きで校内に限らずあちこちの女子に手を出しまくっている。尤も、彼の涙ぐましい努力が実った所を僕は一度きりしか見た事がないのだが。

 今回のパーティーに関しても同じ事が言えるだろう。勿論、九条先輩を思う気持ちは本物だと思う。だがそれ以上に会場にやってくる女子生徒が目当てに違いない。

「つーわけで、これ。パーティーの招待状だ」

 ブレザーの内ポケットから取り出したチケットは、高校生がお遊びで作ったにしては随分と手が込んでいた。クリスマスらしいカラフルなイラストと共に、九条先輩お疲れ様会とプリントされている。多分、文化部の連中に無理言って作らせたのだろう。

「ありがたく頂戴します」

 そのチケットを受け取ろうと片手を伸ばしたその時、何故か朝比奈は寸前でチケットを取り上げた。気を取り直してもう一度受け取ろうとするが、今度は横にチケットを逃がす。

「おいこら」

「バーカ、誰もタダでとは言ってねえだろ? 招待状は、一枚千円になります」

 ……前言撤回。こいつは自分の事しか考えていない、ただの大バカ野郎だ。

「そんな怖い目で見んなっつーの。ちげーよ、これは参加費。実はパーティー会場はうちの体育館を使わせてもらえる事になったんだが、当たり前のように学生のパーティーなんてもんは経費が不足しがちでね」

「ああ、なるほど。へぇ……良く体育館を使わせてもらえたね」

「そこは色々裏から根回しをな……。とは言えあの九条先輩の為だ。教師も甘くなるさ」

 ウインクしつつ語る朝比奈。実際、九条先輩は本当に良く出来た人だ。生徒会の仕事も殆ど彼女が一人でやっているし、今朝のように自発的に校内を良くする為、生徒達に顔を覚えてもらう為の努力を怠らなかった。

 以前、夏休み後半に有志を募り行なわれた校内清掃運動というのがあった。企画したのは九条先輩で、新学期に向け新たな気持ちで勉学に励む為に……という名目で行なわれた一銭の得にもならない大掃除だが、蓋を開ければそこには百人以上の生徒が参加していた。

 何を隠そう、僕も茹だるような暑さの中清掃に参加した一人だ。あの時は皆口々に暑いとかだるいとか文句を言っていたけれど、投げ出す奴は一人もいなかったっけ。

「教師のお気に入りだもんね、九条先輩。あれだけ色々やってて成績は全く落とさないんだから、本当に凄いよ」

「バカ校ってのもあるんだろうけどな。努力家である事実には変わりなしだ」

 ラーメンを啜りながら呟く朝比奈。一気に残りを掻き込みスープを飲み干すと、どんぶりを置いて急に真剣な表情を浮かべたりする。

「先輩があちこちの部活の経費管理も引き受けてたって、お前知ってるか?」

「そんな事までしてたの……聖人の類なのか、あの人は」

「もちろん女神だぜ。んで、そのお陰であちこちの経費は無駄が出てなくて余ってるらしい。んで、各部来年度に回す部費の中から、今回のパーティーの為に経費を捻出してもらってる。あ、当然有志な」

「それもお前が声かけて回ってんの?」

「ああ。六割方既に快諾。それでもまあ、人数が増えてくると色々入用だろ? そんなわけで俺としては不本意だが、参加者から千円ずつ徴収してるってわけよ。安心しな、飲み食いしてるだけでも元は取れるって」

 そこまで説明されて出し渋ったらただの守銭奴になってしまう。さっきは前言撤回したけど、それも撤回するよ。お前はやっぱりいい奴だったんだな。

「毎度ありー」

 財布から取り出した千円冊と入れ替わりに手元にやってきたチケット。しげしげとそれを眺め、僕は思いがけず笑みを浮かべていた。

「先輩、喜んでくれるといいな」

「おうよ。この朝比奈様に任せておきなさいって。忘れられない夜にしてやるぜ!」

「はいはい。何か協力出来る事があったら言ってくれ。先輩の為なら一肌脱ぐよ」

 と、一通り話が纏まった時だ。僕ら二人の間にぬっと伸びる影が一つ。

「桜井が何に協力するって?」

「げっ、千佳!」

 そういうリアクションを取らなければ、彼女だってこんな顰め面にはならないだろうに。

「あんた達、また何か下らない悪巧みしてるわけ? 陽平がバカなのは多分死ぬまで治んないだろうけどさ。桜井は付き合う友達、選んだ方がいいんじゃないの?」

 長髪を括ったポニーテールを揺らしながら深々と溜息を漏らす女子生徒。すらりと伸びた手をこれまたスリムな腰に当て、お決まりのポーズで僕らを見下している。

「僕もかれこれ一年以上そのテーマについて脳内会議を繰り広げているんだけどね。柳さん、これからお昼?」

 彼女の名前は柳千佳。二年一組の生徒で、陸上部で短距離走に情熱を傾けているらしい。ちなみに結構な美人で、不本意な事に朝比奈の彼女でもある。

 そう、何を隠そう朝比奈が一度だけ成功させたナンパのレアケース、それが彼女なのである。何だかんだで一年は付き合っているのだから、関係は良好……だと思う。

「そういう事。陽平は相変わらず食べるの早いわねえ。良く噛まないと顎が衰えるわよ」

「俺は爺さんか! あのな、ラーメンってのは日本が誇るインスタント食の一つだぞ。お湯を入れて三分待って出来上がり、そんでもう三分でハイ完食ってなもんよ」

「カップ麺じゃない、それ。ていうかインスタントならどっちかってと言うと蕎麦じゃない?」

「俺は蕎麦苦手なんだよ。男の青春はラーメンと共にあると相場が決まってんだ」

 二人の会話をまともに聞いていると疲れそうなので、僕は残っていた弁当をそそくさと片付ける事にした。そうしている間に柳さんも昼食を購入してきたらしい。ちなみに今日も彼女がトレイに乗せているのは大盛りのカレーライスだ。

「桜井ってさあ、いつも弁当よね。それ自分で作ってるんだっけ?」

「そうだよ。最近早起きした後有り余っている時間をどう有効活用するのかに凝っててね。料理も作るし、掃除もするし……家の事は大体朝にやっちゃうかもね」

「へえ。偉いと思うけどさ、男がそういうのやってると何か気持ち悪くない? 女の仕事だとまでは言わないけどさあ、そこまで几帳面だと面倒臭いわよね」

 眉を潜めて笑う柳さん。ちなみに彼女は普段から誰に対してもこういう話し方なので、別に僕に対して悪意を持っているわけではない。僕らは朝比奈を経由してとはいえ、一応良好な友人関係を構築していると思う。

「千佳は料理出来ねえからな。桜井に教えてもらったらどうだ?」

「余計なお世話だバカ。あんたら帰宅部と違って運動部は忙しいのよ」

 とか何とか言いながら、彼女はカレーを食べる手を全く休めていない。総重量八百グラムはあるという大盛りカレーが見る見る減っていくのは見ている分には爽快だが、なんというかこう、女性的な問題は大丈夫なのだろうか? むさぼる姿とか、カロリーとか。

「話戻すけど、何の悪巧みしてたの?」

「うん。九条先輩が生徒会長任期満了でしょ? それでお疲れ様会をやるんだって」

 朝比奈がなんとも言えない表情で僕を見つめている。やっぱりこの事は柳さんには秘密だったみたいだな。悪いが僕はどちらかというと、お前より柳さんの味方なんだ。

「へえ……成程ね。で、どうして陽平はあたしにそれを黙ってるわけ?」

「いや、だから、それは……」

 朝比奈は完全にしどろもどろだ。恨めしげに僕を睨んだ所で、状況は好転しないよ。

「あんたの事だからまた女の子に声かけるつもりだったんだろうけど……無駄よ無駄。あんたと付き合うような奇特な女、あたしくらいしか居やしないわよ」

「うっせーな、やってみなきゃわっかんねーだろ! お前もそんなに俺が嫌ならさっさと別れりゃあいいだろが!」

 立ち上がり、握り拳で詰め寄る朝比奈。次に彼女が何を言うのか、僕は何と無くわかった。

「べ……別に、嫌とは言ってないじゃない……」

 沈黙、ただただ沈黙だけがあった。朝比奈もおずおずと座り込み、それから小声で「悪かった」と呟いた。二人は何と無く気まずそうに……しかしなんていうのかなこれ。このイチャイチャしている感じ。

「君達……悪いんだけど他所でやってくれるかな?」

「……な、何が? とりあえずさ、あたしもそれ参加するから。陽平、チケット頂戴」

「あ、ああ。千円な……い、いや、なんでもない。俺が出しとくわ……」

 お互いに顔を赤らめながらのそんなやりとりを僕はもう何度も何度も何度も見せ付けられてきた。はいはい、よかったですね。仲良しですね。

「でも、九条先輩も卒業かあ……何だか寂しくなるわね。彼女、陸上部の練習もよく見に来てたし、大会の時も応援に駆けつけてくれたの。ほんと、色々お世話になったのよね」

 ああ、そうか。どちらかというと部活に参加している人間の方が接点があったわけだ。朝比奈によれば、陸上部も今回のイベントに出資してくれている部の一つらしいし。

「パーティーは勿論だけど、何かプレゼントの一つでも用意してあげたいわね」

「そうなんだよな。まあ、それは個人個人でやるんだろうけど……っと、そうか。なあ美春、お前今日放課後暇か?」

「暇じゃない日の方が珍しいけど、何?」

「悲しい奴め……。ちょいとお前に頼みたい事があるんだが、引き受けてくれるよな? 何か協力出来る事があれば言ってくれって、お前そう言ったもんな」

 ニヤニヤ笑いながら両手を合わせる朝比奈。何やら嫌な予感もするが、先輩の為と思えば断る理由もない。結局断るべくもなし、僕は彼の頼みを快諾するのであった。

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