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バスを待つ間に

作者: 城田 直

 

「名前を、呼ぶんだよ」

 ショウイチは言った。

「冷房止めて。窓、開けて」 

  彼は咲良に頼んだ。咲良は言うとおり、リモコンで冷気を停め、薄い水色のカーテンのかかった病室の窓を開けた。

 むっとする熱気が入ってくるかと身構えたが、外気は意外なほど澄んで、清々しい風が頬を掠めていく。

「ここね、冷房要らないよ」 

 ショウイチは木製のベッドに仰臥したまま、微笑んだ。

「高原だからさ。東側は山並みが連なっている。南向きの窓だけど、東風(こちかぜ)が山からおろして来るんだ。涼しくて、いい気持ち」 風が抜けた。

 咲良の肩までの栗色のまっすぐな髪の毛が乱れて唇に張り付く。

 髪を掻き揚げて窓から身を乗り出してみる。

 高原の樹木は翡翠色に染まり、その光が生き生きと瞳に突き刺さる。どれひとつとっても、同じトーンの緑はなかった。

 みどりいろと名づけられたカテゴリのうちに、幾重にも綾なすグラディーションが、単体のいろとは思えないほどあえかな色彩を織り成し揺れている。

 もう、樹々が光のなかにあるのか、ひかりが樹木という形にひかっているのかわからないほどだった。

 生きている。

 ということは、多分、こういう光景を瞳に宿している刹那、そのものなのだ、と咲良は思う。

 そして、そのかけがえのないいっときを、この部屋で享受できる自分の身を、いとおしく思う。

 咲良は振り返って、ベッドの上のショウイチを見る。

 眉根にしわを寄せて、彼は僻目をしている。

 どこか、痛むのだ。

「背中、痛むの?」

 咲良は訊ねる。

「痛くない、といったら嘘になるなあ」

 他人ごとのように呟いて彼はベッドの上の壁と天井の境目あたりをぼんやり見ている。

「ときどきさ、夜が哂うんだ」

 ショウイチは虚を眺めたまま呟く。唇が白く乾いて、粉を吹いたようになっている。

「喉、渇いてるの?」

 咲良は水差しを指し示す。

「いらない・・・」

 低い声で彼は続ける。歌うような、啼くような聞いたこともない節で。

 乾いたことばが零れ落ちる。


「夜が、けっらけっら・・・哂ってる・・・」

「なに?それ」

「知ってた?哂うんよ、夜って。けらけら」

「そうなんだ。始めて知った」

「笑わないの?」

「そこ、笑うところだった?もしかして」

 可笑しいと思うんだけどな・・・

 ショウイチは弱々しく骨の浮き出た手首を頭の上に差出し、そのさまを眺めた。

 そして、

「もう、何も食べられないものな」

 といってから、ゆっくり微笑んだ。


「お見舞いの人にさ、食べたらよくなるよ、何が食べたい?って聞かれたの。

 ここに来る前に。会社の同僚に。いっつも馬鹿やってて。飲みに出かけて、異業種の女子と合コンとかやって。気が合えばメアド聞いて。そのあといっしょにご飯食べたりして。でもさ、たいてい 二回か三回くらい会うと、途切れちゃうの。俺、面倒くさがりだからかな。メールが来たらすぐ返して、とか言われると、引いちゃう」

「それは、引くと思う」

「面倒くさくなって。女子と付き合うとか。仕事もまあまあうまくいってたし、当分独りでいいのかなって。旅行に行ったり」

「どこに行ったの?」

「いろいろ。でも覚えてないの。なんだか自分がどこで何をしてたかなんてことすら思い出せなくなって。多分、ハワイとか?グァムとか?でも、あんなところ海外じゃないよね?日本人ばっかりで。レストランのメニューも変な日本語で書いてあったりして。グァム行ったときなんか、旅行中ずっと雨降りで、どこにもいけなくて。ホテルでカラオケやってた。友達と。これじゃ、日本にいるのと変わりないよねって」

「そうだったの」

 咲良は想像してみる。三十代からまりの独身男が三人。

 海を越えた南国の、白いホテルの地下にあるカラオケルームでJ-POPを歌っている。テーブルにはトロピカルジュース。

 大甘な、わけのわからない味の。砂糖水に色がついたような。

 咲良は一度も海外旅行をしたことがない。行きたいとも思ったことがない。

 おそらく、それはどこかに身を置き換えて、再び自分の巣に帰巣するだけという作業がとてつもない時間の無駄に思えるからなのだ。

 どこに行っても同じ。自分が変わらなければ。

 旅行するくらいで自分のこころが変われるとは思えない。どんな気分転換を図っていっとき、気がまぎれたとしても、自身の中に巣くう得体の知れないうつろな「感じ」は埋めることができない。だからこそ、彼女は思う。

 後ろを振り向いてはいけない。

 一瞬でも振り向いたら石になってしまう。そして、その石はやがてひび割れ、粉々に破壊されつくす。砂にかわり、ほこりに変わる。

 ただ、前だけを見て、愚直に日々を積み重ね続けなければならない。

 華やか過ぎてもいけないし、地味すぎてもつまらない。

 平凡、これこそが人生の最良の友達なのだ。

 咲良は、いつも注意深く生きている。

 注意しないと、気を幾分張り詰めていないと、自分を保っていけない。

 喜びすぎても、悲しみすぎてもいけない。ただ淡々と生きる。

 そうして、自分の力のバランスを図るうちにたどり着いたのが、この立ち位置だった。


「宮沢賢治がさ」

 ショウイチは言った。

「咲良、賢治読んだこと、ある?」

「ある」

「銀河鉄道の夜?」

「そう、それ」

「あのさ、賢治がさ、銀河鉄道の夜のなかで、主人公の・・・あの、なんといったけ?」

「ジョバンニ」

「そう、それ」

「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ」

 ふたりは同時に言った。そして噴出した。

「気があうね」

 ショウイチは笑った

「四又の百合ってお話、知ってる?」

 咲良は訊ねた。

「知らない」

 ショウイチが言った。

「長いお話?」

 彼が訊ねた。

「短い話」

 咲良が応えた。

「どんな話だろう?」

「他愛もない話」

 咲良は微笑んだ。

 そして、見えない風の行方を追うような、透明なたたずまいで、

「二億年ばかり前どこかであったことのような気がします」

 と、呟いた。


 正遍知というのは、等覚の悟を開いた如来のことである。

 如来というのは、仏の意で、如如として来る者という意味がある。

 たしか、そうだった、と咲良は思い出す。

 その、正遍知如来が明日の朝、ヒムーキャの河を渡って、町に来るというのだ。

 町の人間はいそいそと、ヒムーキャの河を渡って来るという如来正遍知のおいでを

 待ちきれなくて、町中を掃除し、王城の大膳職は、食事を作る命を王から受けるのを

 うろうろ歩きながら待っている。

 翌日、王はすっかりしたくを整えて、ヒムーキャの河岸に立ち、正遍知に百合をささげるため、大臣に命じて林に行くよう促す。

 大臣は林の中で一人の子供に出会い、百合を所望した。子供は売ることを承知するが、

 大臣が正遍知に捧げる百合だということを知ると、そんなら、やらない。と言い出す。

 大臣が、どうして、と訊ねると、子供は言う。自分が正遍知にその百合をやりたいからだ、と。そして大臣が「そうか、返そう」というと、こどもは、「やるよ」と。

「おまえはいい子だな」大臣は自分の身分を明かし、子供はお城に招待される。

「立派な百合だ。ほんとうにありがとう」

 王は百合を受け取ってそれからうやうやしくいただきました。


 咲良は笑った。指で髪を掻き揚げた。

「この話、好きなの。他愛なさ過ぎて、あまりにもシンプルで」

「ささやか過ぎるから、感動するんだね」

 ショウイチは笑った。いい笑顔だった。

 笑いの一片がふわりと漂っているかのような。

 その笑いにつられて、咲良も微笑んだ。

「それ、その笑顔、いいな」

 ショウイチは咲良を指差した。

「積雪の朝のごみステーションのようだと思わない?」

「なに、それ?」

「カラスの足跡だらけ。自爆してみました」

 咲良はすましている。

「そんなこと、いわないでよ。おねがいだからさ」

 ショウイチは困り果てた子供のような顔をして咲良を見た。

「あのさあ、女の人の笑い皺って、ほんと、魅力的だと思うんだ」

 ショウイチは生真面目な顔つきで言った。

「変わっているわねえ。普通、若い男の子はアラウンド・フィフティーのおばさんなんかに興味ないでしょうに」

 咲良は笑い転げた。

「そこ、大笑いしすぎです」

 ショウイチは咳払いするまねをした。

「確かに普通はね」そして続けた。

「僕、普通じゃないから」

「へえ」

 咲良は鼻歌でも歌ってみました、とでもいうようにさりげなく言った

「マザコンなのかなぁ」

「あ、そうかも」

 ショウイチは今、合点がいったというふうに、うれしそうに言った。


「小さいころさ、おかあさんにべったりだったみたいよ、僕。小学校二年のとき

 おかあさんが亡くなってさ。それからは親父とふたり暮らし。その親父も三年前心不全でいきなり死んじゃってさ。トイレだよ?死んでた場所が?信じられないよね?朝寝ぼけ眼でトイレに入ろうとしてドアを開けたら親父が、紫色の顔して死んでたの」

 咲良は何も言わなかった。

「それからここに入るまで、ずっと独りで暮らしてた。

 さみしかったか?と誰かに聞かれたら、そりゃ寂しいさ、と答えるんだろうけど、誰も寂しいか?なんて訊ねなかった。しょうがないなって、自分で納得したから。

 だっておかあさんだって死んだし。ずっと病気だった。病気だったから死なないでって思ってたんだけど、最後にショウちゃん、ごめんねって。いい子でいるんですよって。

 そういわれたから、僕はずっといい子でいようと決めたんだよ。

 実際、いい子だったんです。優等生だったし、スポーツもできました。

 怖いものなんて何もなかった。何でかしらないけど、いつも自分を信じてこれたの」

「いい子ね」

 咲良は微笑した。

「ほんとうに、いい子」咲良は歌う。

「仕事だって、できた。実際できたんだよ。先輩の覚えも良かったし。最年少で大きなプロジェクトに参加できたし、あと二、三年したら先輩の設計事務所に役員待遇でむかえてもらえる確約もできてた」

「そっか」

「でもね、こうなったら何もかも必要ないよね。よかったよ。高い生命保険に加入していて。まあ終わりまで適切なケアを受けられそうだし」

「冷静なのね」

「んな、わけないでしょ」

 こわいよ、とショウイチは続けた。

「夜が、怖い」

「夜が、怖い」

 咲良は繰り返した。そして目を細めた。

「笑ってみたら?」唐突に彼女は言った。

「夜も哂うんでしょ?だったら負けずに笑ってみたら?」

 ショウイチは絶句している。

「咲良って、音でよむと、花のさくらを連想するんだけど、実は、よく笑うって言う意味なの。昔はね、咲くという文字をわらう、と読んだんだって」

「そうなんだ」

「そうなんです」

 えへん、と咲良は腰に手をあてて威張りくさった格好をしてみせる。

「咲良って、面白いね」

「それはありがとう」

「まるで、死を目前にした人間と対峙してるみたいに見えないんですけど」

「だって、死ぬって普通のことだからよ」

「死んだこと、あるみたいな言い方だよね」

 ショウイチは唇を尖らせた。

「生まれてきたときのことすら誰も覚えていないでしょう」

 と咲良は言った。

「そりゃ、そうだね」

「ある日、突然自分がここにいるって気がついて、その、気がついた日がほんとうの自分の誕生日なのよ。きっと」

「生まれたときはね」

「死ぬときだって、多分。そう思いたい。きっと自然な流れの中に身をゆだねれば何も怖くないのではないかしら?」

「理屈ではね」

「理屈ではね」

「でも、咲良の声を聞いていると、安心するんだよ。ただ、居てくれるだけで落ち着くの。なぜなんだろう」

「なぜかしらね」

 咲良は笑う。ひまわりが太陽の方向を見失わないように。たったいま、春先に固いつぼみを解いた桜が 

 いっせいに咲き誇るように。



 Ⅱ 



「咲良さん、ちとやばい感じ」

 ショウイチが顔をしかめて咲良を呼ぶ。

点滴クスリ入れたいな。看護師さん呼んでくれるかな?」

 咲良はショウイチの体を三十度ほど斜めにして、背中にクッションを入れた。

 ナースコールのボタンを押した。そうして、向かいのナース・ステーションから

 看護師が到着するまで背中をさすった。

 身長180センチ近い痩躯の彼は、体に厚みというものがまったくない。

 まるで『チャーリーとチョコレート工場』に出て来る、キャンディ伸ばし機にかけられた後の マイク・ティービーみたいだ。

 存在そのものが、キャンディの包み紙のセロファンみたいに透けて見える。

 手に触れた肌のぬくもりも徐々に冷え切ってゆくような気がする。

 窓からは相変わらず、夏の高原の風が吹き抜けて来る。

 水色の化繊のカーテンが揺れて妖精の光の粉が降り注ぐ。

 この建物は・・・咲良は思う。

 いつ訪れても、まるで現実味が薄い。

 ここに居る人間はたいてい穏やかでいい人たちばかりだ。

 やさしい丸い空気が漂っている。

 正遍知に捧げた百合の花の咲く林もかくあるかのような穏やかさ。

 ささやか過ぎるぬくもりのヴェールに覆われているからこそ、非現実空間のように思えてしまうのかもしれない。

 天空の城のように。宇宙に浮かぶ巨大な宝塔のように。

 窓を閉めようとカーテンのそばに立ち寄ると、二階の窓の下に車椅子を押した老紳士とそれに乗る老いた女性のふたり分の影が目に留まった。

 夏の日差しの中で施設のエントランスから続くオレンジとグレーのレンガタイルの小径を歩く、おそらくは老夫婦は黄色いコスモスが咲き群れる中、ゆったりと歩を進めていた。

 彼らの行く先に水色の空気がたおやかに流れ、黄金色のコスモスが延々と続いているような気がして、咲良は眩暈を覚えた。


 ショウイチは看護師から点滴の処置を受けていた。

「だいぶ、痛みますか?」

 看護師は落ち着いた声でショウイチの腕にゴムの紐を巻きつけ、ラインを採ろうとした。腕は細いのに、血管がなかなか浮き出ない。

 看護師はショウイチの腕を何度も擦った。

 ショウイチは、手のひらを硬く握った。しかし、静脈のすじは現れなかった。

「手の、甲でもいいかしら。ここ、だめみたい」

 看護師は残念そうな顔をした。

「かまわないよ」

 ショウイチは、左手の甲を差し出した。

 看護師は人差し指と中指の間に青く浮き出た血管を捕らえて、針を刺した。

 滑らかに、銀色の針が皮膚に呑まれる。

「なんかさ」

 ショウイチはそのさまをじっと眺めながら言った。

「最初は点滴がすごくいやだったんだけど、慣れてくると気持ちいいかも、ね。針を指す場所がなくなると、今度はどこに刺すんだろって、わくわくしたりしてね」

 看護師は苦笑した。

「痛みはないですか?違和感ないですか?」

「大丈夫。ナースセンターにいたのが、佐々木さんでよかった。佐々木さんスタッフの中で一番、針刺すのうまいもんね。最近じゃあ、針の角度で、この人刺すのうまいな、とかわかるようになったよ。佐々木さんは、針うちぴかいちかもね」

 背中の痛みに顔をしかめながらショウイチは、軽口をたたく。

「ありがと」

 ショウイチは言った。

「すぐに楽になりますよ」

 看護師は言った。

「そうだね。そうだといいね」

 ショウイチは軽く目をつぶった。

 咲良は窓際に立ち、処置の様子を見守り看護師に向かって軽い会釈をした。

 看護師は微笑んだ。

「今年は涼しい夏ですね」

 病室を去り際、看護師は咲良に向かって言った。

「そうですね」

 咲良は応えて、

「せみが、去年より啼いてないですね」

 と付け加えた。

「そうなんですね」

 看護師は言う。

「静かな夏・・・」

「静かな夏です」

 咲良は頷いた。

 ショウイチは点滴のせいか、話疲れたのかすでにまどろみかかっていた。

「咲良さん、きょうはおしまい」

 彼は言った。

「では、またあしたね」

 咲良は言った。

「また、あした」

 ショウイチは思いのほか長いまつげを静かに伏せた。

 背を向けた咲良のラヴェンダー色の薄いニットワンピースの裾が揺れた。


 病室の扉が静かに閉まった。



「お疲れさまです」

 佐々木看護師は、ゆるくパーマを当てたショートヘアを揺らして

 咲良に頭を下げた。年のころは二十代前半だろうか。小柄で物静かな雰囲気だが、

 動作は機敏で、小動物のような印象を受ける。

「お疲れ様です」

 咲良も頭を下げる。

「いつもありがとうございます。咲良さんが来てくれてから、患者さんたちが落ち着いてるみたい。なぜかわからないけどって。ドクターが言ってました。本来ならとっくに発たれるはずの人が余命を延ばしてる感じがするって」

 佐々木看護師はまじめな顔をして言う。

「そうなんですかね?」

 咲良は自分に捧げられた賛辞がいまいちぴんとこない気がして、戸惑う。

「ただ、わたしはわたしにできることしかしていないんですけどね」

「咲良さんがここに来てくれて、一年たつでしょう。ケアチームのスタッフも咲良さんにはだいぶ助けられてるって、感謝しているんです」

「医療に関しては門外漢なのに?ただ、話を聞いてるだけなのに?」

「それがいいんです。ただ、だれかに寄り添ってほしい。それだけなんです。緩和ケアでは、痛みのコントロールをするのが目的で、治癒が目的ではありません」

 佐々木看護師は言った。

 咲良は深く頷く。

「最後の時間を、それがいつとは断言できませんが、最後の最後まで、自分らしく生き抜いていきたいと望まれる患者さんが、ここに滞在しています」

 佐々木看護師は滞在、と言った。

 入院ではない。最後に出発するまでのひとときをここですごす。拠点から拠点を移動する 旅人が利用するホテルのような感覚だ。ここは、ホスピタリティをなにより優先する、『ホスピス』なのであった。

 廊下には、年老いた母親を介助しながら歩く女性の姿があった。

「咲良さん、こんにちは」

 女性は咲良に向かって笑いかけた。

「きょうは、もうおしまいですか?」

 咲良は頷く。

「ええ。店じまい」

「お疲れ様です」

「お母さんはだいぶ調子がいいみたいですね」

 咲良は、老婦人の肩を抱いた。

「おかげさまでね。気分がいいから、ちょっと歩いてみようかなって」

「それは良かった。気分のいいのはなによりです」

 咲良は言った。

「このごろ、前より調子いいみたい。こないだなんかね、お見舞いのメロンをふた切れも食べたんですよ」

 三十路くらいの年頃の娘が言った。

「ふた切れも。それは優秀ですね」

 咲良に褒められて、七十くらいの老いた母親は

「美味しかった」

 と笑う。

 食べられるのはいいことだ、と咲良は思う。

 人間が生きるということは、とりもなおさず食べるという事実が最前提なのだ。

 なぜなら人間のからだは『食べたものでつくられている』から。

 もっと言えば、からだだけでなく、こころまでも食べ物で作られるのかもしれない。

 ときどき、咲良は不思議に思う。

 自分の体の中に、地球を二周半もする長さの大小の径の血管が張り巡らされ、骨が組まれ、臓器が横たわり、脳細胞が意識を統括する事実を。

 意識がなくても、心臓が動き続ければ、それは生きていることになる。厳密に言えば、生かされているにすぎないのだが。

 たとえば脳死のようは人の死といわれるが、脳は死んだ。体幹部は温かい。体の温かい人間を前にして、その人のもっとも親しい人間ははたしてその人を死んだ、と認めることができるのだろうか?

 翻って、そもそも意識がない。ということは、死んでいること同義語なんだろうか?

 たとえば手術前に麻酔がかかって、暗闇に引きずりこまれている瞬間も?

 疲れきって、睡眠薬で深く眠っている時間も?

「哲学的過ぎること」

 を意識しないことに決めてからもう何年もたつのだが、どうしても不思議でたまらない。

 食べ物を摂る、排泄する、息をする、考える、眠る。

 医学的に切り取れば、いくらでも説明はつくはだろう。でも、咲良にはわからない。

 いのちというものの、本当の意味が。

 そのいのちが、なんの説明もなく突然奪われてしまうひとがいる一方、長い闘病の末、やっと旅立つ人がいる。その道を分かつものの正体とはなんなのか。

 おそらく、有史以来、意識というものの存在に気がついたときから、その難問は発したのだろう。答はすでに三千年前に出ているのだが、少しばかりの知識を蓄えたアカデミズムがあまりにも長きにわたって、思惟し続けた結果、待ち切れなくなったほかの人びとはその問題を放置し始めたのかもしれない、と咲良は思う。

 その答の一部が咲良に囁く。

「あつき、ちめたきのちえだにも」

 所詮人間なんて、自然の一部にすぎないのだ。自分の知識など何の役にも立たない。

 とりたてて何のとりえもない平凡なひとりの女にすぎない自分がそんな大それたことを

 考えたとして何になる?暑さ、寒さを感じるほどのちっぽけな存在にしか過ぎないのだから。自分にできることはただ、耳を澄ますことだ。微細な細胞のひとつひとつ、指に触れるぬくもり、瞳に映る光、全身を研ぎ澄まして自分を中心部においた同心円上の微小な世界の一部の囁き声を感じとることだ。

 ひとつが。ひとりが大切なのだ。と咲良は思う。生涯かけて一人の人間の心に触れれば、そして自分とそのひとりを分かつ境界線がなくなるまでその人間の物語を聞き遂げることができれば、それで本望だと思う。

 その思いは伝わるかもしれない。また伝わらないのかもしれない。

 結果など望んではいない。ただ、物語に沿って、全身を耳にして、その言葉を頼りに歩き続けること。歩き続ければ道は開く。歩いていけば壁にたどり着く。でもその壁は本当にあるのか?

 咲良は思う。壁なんてない。壁があると思う幻想だけがある。壁が幻想なら、自分は天使にもなれる。天使もまた幻想にしかすぎないのだから。

 言葉にすればたいそうなことだが、咲良の頭のなかは、これだけのことが刹那によぎる。「人間は食べたものでできている」

 たった、これだけのフレーズがこれほどの言葉を喚起する。

 しかもその言葉の群れは、眠れない夜に数える羊の数のように無責任に頭の中の囲いを飛び交う。だから、咲良は沈黙する。沈黙の中に身を潜めて沈黙のヴェールで防御する。

 自らの言葉は意味を持たない。ただ、そこに在ること、それだけが重要なのだ。

 視線で、指先で、唇で、髪で、言葉を受け止める。

「はじめにことばありき」

 確かめたい、刻み付けたい。たったひとりの人間の物語にそのヒントが隠されているような気がしてならない。だから、咲良はそのたった一人を探す。

 そして、その物語を、境界のない、いのちの物語を聞き遂げたいと思う。

 ほとんど、無意識のなかで咲良はそう思っているのだ。


  Ⅲ



 佐々木看護師がナースステーションに消える。

 咲良は彼女に会釈して、それからゆっくりと一回に降りる階段を下る。

 階段はさほど広くない玄関ホールに続く。玄関ホールは三階まで吹き抜けになっていて、天井が高い分だけ、開放感がある。

 吹き抜けの窓は互い違いに透明なガラスとステンドグラスのモザイク模様になっていて、白い光と、色ガラスを通過した光がある一点で虹彩を放つ。

 咲良は玄関ホールを抜け、エントランスに出た。

 グレーとオレンジのタイルが小さな十字模様を連ねてバスの発着所前で止まる。

 めったに乗り込む人のないバスは、運転席にだるそう座ってに仮眠をとる運転手をのせてひっそりと出番を待っている。

 八月上旬の午後三時二十六分、医療法人青山会待雪荘前発のバスはそのままこの、南東北の山間部の、過疎化した町の西側に位置する咲良の家の目の前に到着する。

 乗車時間にして五分ほど。一年前、ここでの仕事が本決まりとなり自分ひとりでホスピスにほど近い家を探していたときに、院長の佐原道尚自ら紹介してもらった物件だった。

「こんなに立派な住宅じゃなくていいです。わたし一人が住む場所ですから」

 物件の下見に来たときに、咲良は山を切り開いて造成された住宅地の、坂の入り口の百坪の土地に立つ、三十坪ほどのアーリー・アメリカン風の白壁、ミント色の屋根の家を見て佐原にやんわりと断りを入れた。

「息子夫婦がね、住んでいたんだが。わたしは病院を始めてまだ数年経っていない時分で、息子らにはまだ一番上の子供も生まれてなかったな」

 佐原は目を細めた。

「子供が生まれるころ、何を思ったか、アメリカに行ってしまってね。それまでうちのホスピスで緩和ケアのスタッフをしていたんだが。やつめ、ターミナルケアを追及してみたいといってね。嫁は嫌がったみたいだが。頑固な息子でね。誰に似たんだか」

 そういって八十になろうとする好々爺の顔で佐原は快活に笑った。

 佐原は白髪をオールバックにし、口とあごにひげを蓄えている。眼光は穏やかだが

 意志のぶれない大人の趣がある。咲良は佐原が好きだった。尊敬もしていた。

「佐原院長に似たんですよね」

 咲良は混ぜ返した。

「俺、そんなに頑固かなあ」

「そんなこと、ありませんよ」

 咲良は笑った

「冗談です」

 佐原は瞳の奥に深い色を見せた。

 その眼は成長した愛娘を見る父親のまなざしだった。

「室井君に頼まれていたからね。君の事は」

「室井が、ですか」

「そう」

「あれから二年になるんですね」

「早いね。時間の過ぎるのは」

「室井は、なんて?」

「スタッフに聞いていなかったのか?」

「ええ。あの当時は混乱してましたから」

「そうだなあ」

 佐原は深く頷いた。

「室井がなんと言ったか、自分で確かめたほうがいいだろうな」

 そして、佐原は続ける。

「他人の口を通して聞いた言葉は言った本人の本当のところを伝えてはいないからな」

 咲良は沈黙する。

 でも、どうやって? 室井は亡くなっているんですよ、といおうとした瞬間、佐原は言葉を継いだ。

「室井は生きている。君の記憶にね。それは痛みを伴う記憶かも知れない。だけどね咲良君、人間の記憶ほどあいまいなものはないと思うよ」

 そして言った。

「記憶はいかようにでも改変される」

 佐原は謎めいたことを口走った。

如是我聞にょぜがもん

「是の如く我聞きき、という意味だ。そのとおりです。そのとおりです。と人の話を聞き遂げるんだ。相手の存在を全肯定して。君ならできる。最後の言葉を聴き遂げる役割を」

 しばしの沈黙の後、佐原は言った。

「そうしていつかは室井の思いにたどり着くときがくるはずだ」

「わたしにできるでしょうか」

「できるか、できないかじゃない。君がやらなくてどうするのかね?」

 佐原は微笑した。

 咲良も微笑んだ。

「如是我聞」   

 咲良は呟いた。           


 咲良は心理療法士の資格を持っていない。

 咲良が行っている仕事は、傾聴セラピーといって、ひたすら相手の話を聴き遂げることにより、相手の心のなかにあるこころの「凝り」をほぐすことだ。

 カウンセラーが相手の心の問題解決に助言を施すのとは違って、傾聴は、助言も指導も行わない。ただ、あいての話を丸ごと受け入れる。というスタンスで行われる。もともとは、高齢者の話し相手になる傾聴ボランティアなどに端を発している。

 傾聴とは、特別資格が問われるものではないが、誰にでもできるものでもない。

 相手の心のひだを読み取り、聴かせていただいていますよ、というサインを送ることが重要だ。共感、同感のこころを持ち続けていないと、聴き遂げることは難しい。

 ただ、聴く。このシンプルな行為のどれほど困難なことか。

 話の腰を折ってはいけない。相手の話にコメントをつけてはいけない。

 相手を指導してはいけない。そのうえ、相手が不快に思わないように、相手が話しやすい場を提供するためにノンバーバル・コミュニケーションの力まで要求される。

 自分の資質を生かすには、カウンセラーかセラピストが一番妥当だ、と咲良は若いころから思っていた。咲良が高校卒業を目前にし、進路決定を迫られていた1980年当初はまだ、現在のようにカウンセリングとか心理療法士の存在は一般的ではなかった。

 こころの病に対する偏見もあった。

 咲良は今で言うところの気分障害だった。

 おかしい、と自覚症状はあった。気分の波が激しく、浮き沈みがひどいため、他人とうまく付き合えなかった。友達と談笑した次の瞬間には、深く落ち込む。今日笑っていられても、明日同じような平坦な感情で居られるかわからない。

 先週はあんなに明るい気持ちで過ごせていたのに、今週はひどく落ち込む。一度落ち込んだら最後、浮上するまで落ち込み続ける。それは果てしない下方へ続くこころの迷宮だった。温泉を掘るボーリングの掘削機のように、らせん状のカッターがこころの地階を切り裂いてゆく。

 からだが、他人に支配されたもののように、重い。背中に鉄板をしょっている感じだ。

 おおよそ、鬱の根本原因は喪失感である。

 失う悲しみはさまざまだ。

 愛する者(物)、愛着のある場所、仕事、地位、役割、経済、健康、若さ、容貌。

 興味深いのは、結婚や昇進、出産、マイホームの引渡しさえも、鬱の原因になることだ。

 うれしいことが起こると鬱になるなんて信じがたいのだが、それはいままでその人が抱えてきた苦労という名前の生きがいを、喪失することから生まれる。

 燃え尽き症候群、というものだ。

 人間は常に何かを抱えこんで生きていないと生きがいを感じていられないものなのだなあと咲良は思う。執着心があるから生きていられるのかもしれない。

 だから、若くして自殺願望を抱いているもののほとんどはまず、死なない。自殺したい、という願望を生きがいにして、それに取りすがって生きているのだから。

 自殺で本当に死んでしまうのは、責任の重さに耐え切れなくなった大人たちで、その闇の深さは計り知れない。

 たとえば壮年のリストラ、経営難、老いを通して、自分の立ち位置を失い、社会に役立たずといわれ続ける(ような被害妄想を抱く)恐怖が拍車をかける。

 その現実的な死のベクトルの重厚感は若年層の観念的な死への嗜好とは趣を異にする。

 そもそも若さとは闇を嗜好するものだ。自分の精神がまだ幼すぎておおきな光の輪のなかに入ることができない。ちょうど、多人数で縄跳びをすると、かならずタイミングをはずしてなかなか、輪に入れない人間がいるのとおなじことだ。

 長年、自分の病と付き合って得た結論だった。もちろん咲良のなかだけで、だが。

 病院にも行った。カウンセリングも受けた。クスリを山ほどのみ、精神病院に入退院を重ね 精神科の薬で、自分の症状を推定できるほどだった。

 でも、そんなことは、ゴミ箱に捨てて焼却すべき記憶だ。

 だいじなのは、過去ではない。今この瞬間と、如如としてきたる、未来なのだ。


 Ⅳ        



 咲良は、バスを降り、自宅玄関へ続く白い敷石を歩く。玄関は庭を横切った先にあり、敷石は庭のすべてに敷き詰めてあるわけではない。

 人ひとり通れる幅であくまで通路としてしつらえてあるものだ。

 家は庭の奥まった箇所にある。ちょうど、家の角が切り土の山を直角に石垣で覆っている箇所に収まるように建ててある。隅っこが好きなんです、という感じに。

 咲良はこの家のたたずまいが大変気に入っている。

 ほんとうに、独りで住むにはもったいないくらいかわいらしい家だ。

 中は、下が洗面所と風呂場、ダイニングもかねた二十畳のリビングキッチン一間で

 上は十二畳の部屋がひとつに、七畳くらいの寝室である。

 ここに、置くものってなにもないわ。

 最初にうち、咲良にとってこのうちは広すぎていったいどうやって暮らしていったらいいのか皆目、見当もつかなかった。

 咲良が引越しの際に持ってきたものは、小さなつくりだが重厚感のあるオーク材でできたライティングデスクと、ノートパソコンだけだ。あとのものはみんなそろっていた。

 白木でできた二人用のダイニングテーブル、寝室にあるセミダブルベッド、風呂場の脱衣所にはところどころ網目の破れかけた藤製のチェストがあった。ここに下着やタオルをしまっていたのだろうか。悪くなかった。冷蔵庫も、ガステーブルも作り付けだった。ガステーブルの下にはオーブンもあった。

 ケーキが焼けるわ。ピザも。チキンも。そう思って咲良はわくわくした。

 それから、苦笑した。そんなものを作って誰に食べさせるというのだろう。

 ここには誰も来ない。友達もいない。連れ合いも今は故人だ。

 ホスピスに持っていく、ということも考えたが、食べ物を食べられない人が暮らしているその場所で、スタッフをねぎらうという意味にしても食べ物を持っていくというのはなにか不謹慎な感じがした。それで彼女は瞬時に考えを変えた。面倒は、やめた。

 咲良は、ここで自分の気持ちのおもむくまま、気楽に暮らせばいいと思った。

 どうせ独りになってしまったのだ。人生いたるところに青山あり。どこでどんなふうに

 人生を終えてもかまわない、と思った。立って半畳、寝て一畳の広さの屋根があれば、いい。だからこんな広々とした家で窓から白樺の枝に生い茂る緑の葉の色を眺めたり、空に流れる雲の形を物に見立てて楽しんだり、鉄紺色の空のオリオン座を見上げる贅沢を与えられた自分の幸福に感謝せずにいられない。

 そしてその感謝は自分以外のすべてにわたって遍く分かち合うものなのだと咲良は感じた。今のこの気持ちは忘れないで、記憶のフォルダにしまいこまないと。

 咲良は眼を閉じる。真っ白な壁に千の引き出しがある。その一つ一つには咲良の一生分の記憶がカテゴリごとに分別されてしまいこまれている。

 これがいっせいに開け放たれるのは、最後の刹那、だろう。

 その解き放たれた記憶は瞬時にスロー再生されてただ独りの観客の咲良は自分が主役の

 シネマを鑑賞する。

 主演、咲良、

 プロデュース、咲良

 エキストラ、ご縁があった人々

 観客、咲良

 願わくは最期が喜劇で終わりますように。


 喉が乾く。

 水道の蛇口をひねり勢いよく水をだす。

 コップに程よく冷えた水を満たし一気に喉に流し込む。

 喉仏が動く。食道をとおり、胃が膨らむ。

 生きている、という事実を無防備に感じる。

 体を通り抜ける水の流れを。細胞を満たす、いのちの流れを。

 脱衣所に入ってきていた服を脱ぎ、洗濯機に放り込む。

 それから、チェストの引き出しをあけ、ネイビーのボーダーのTシャツと、グレーのハーフパンツに着替えた。

 くつろいだ格好になると、素足の裏にあたる白木の床の感触が心地良かった。

 冷蔵庫からビールを出して、プルトップを引き上げた。

 それからダイニングの南側に面した明け広げた大窓の前に立ち外を眺めた。

 ゴールデンウィークの頃に植えた、庭の花壇のひまわりがいっせいに西の方角を向いている。空は澄んだ輝きを失い、にび色の湿った、澱んだ空気が漂い始めていた。

 夕立がくるかもしれない。

 咲良がダイニングの大窓のサッシを閉めようとした、そのとき。

 ぽつん、と大粒のしぶきを頬に受けた。粒はみるみる数と勢いを増して落下してきた。

 ひどい夕立になりそうだった。

 サッシを閉め、窓のカーテンを引こうとして、何気なく庭の向こう側の通りを見た。

 ひとりの老婆が、腰を低くまげてほとんど、地面につんのめりそうな格好をして、通りの坂道をゆるゆる歩いていた。

 ああ、と思った。

 手押し車も押さないで歩くなんて無謀だ。どこの年寄りだろう。

 散歩の帰途で夕立に逢い、手押し車を押す気力も失せて途方にくれているのに違いない。咲良は玄関に回り、傘を手に通りに出た。

 老婆は、白髪を短く刈り、夏の時期だというのに、首周りとそでぐりと裾にぬいぐるみの生地のような、もこもこした白い飾りのついた、冬の厚手のちゃんちゃんこを着込んでいる。そのなかは、薄汚れたベージュの肌着で長袖なのだが、その肌着の上にくすんだ赤の繊維の毛羽立ちの目立つ半そでのTシャツを着込み、もんぺとも、ももひきともいえないこれもこげ茶の厚手のジャージをはいている。全体的にこげ茶、というか、海老茶というかなんともいえない、醤油で煮しめたイナゴの佃煮みたいな感じのコーディネイトだ。ふと足元に目を遣れば、なんとはだしである。

 おいおい・・・咲良は呟く。・・・迷子札はあるよね?

 とりあえず、ほとんど地面に突っ伏しそうな状態で固まっている老婆を抱きかかえてみた。そのからだの意外な重さと抗いに、咲良はついに傘を放り出した。雨に打たれた髪の雫がずっしりと重い。

「うっつぁ、けるだ」老婆は叫んだ。「うっつあ、けるだ」

「うっつあ、けるのな。婆っぱ、どごがらきただ?」

 土地の言葉で咲良は応じる。どうやら、家にかえりたいらしい。

 うっつぁ、は家に、けるだ、は帰るのだ。という福島の会津地方の方言だ。

「わがね」

「なんもわがね、せんせ、どしたらいいですが」

 ああ、そうね、やっぱり。咲良は合点がいった。

 この人は認知症だ。先生というからには、近所の老人介護施設を抜け出して徘徊している患者なのだろう。わたしを介護職の職員と間違えているのね。だとすればそう重症な認知でもないのかな。

 咲良はそう判断して相手の話に合わせる。

「雨、降ってるでしょう、風邪を引くよ。おうちにつれてくから支度しなさい」

 そういったあと、

「うっつあ、けるだ。婆っぱ、うっつあ、けるど」

 下から老婆の顔を覗き込んで、やさしいトーンでゆっくり語りかけた。

 ぎっちりと眼を閉じた老婆は、うっすら目やにで覆われた細い糸のような眼を開いてかすかにうなずいた。

「どごの、どなたさんかしりませんがありがたい」

 老婆は拝むしぐさをした。咲良はその手を両手で包み込んだ。それから片手を離し、片手を腰にまわしてゆるゆると歩き始めた。雨はほとんど、ゲリラ豪雨状態だった。プールの水を一気にひっくり返したみたいに。通りのアスファルトに敷かれたマンホールの蓋から水が噴出している。

 玄関まで誘導するのに相当な時間がかかった。なにしろ咲良より体重がありそうでまるまるとしているので、背負うわけにはいかない。歩かせるのが一苦労で、おまけにゲリラ豪雨は、このタイミングを待ってましたとでも言うように水門のゲートを開ける。現象のすべてが一斉に負のタイミングをはずさなかったので、咲良はこの不運を嘆くというより も、笑うしかなかった。

 あ~あ。わたしらしくて、素敵過ぎる。

 咲良はなんとか老婆を家の玄関まで連れて行き、そのままそこでぬれた服を脱がせた。

 自分も着ていた服を脱ぎ、そのまま中に入って脱衣所から大判のバスタオルを二枚取り出した。下着を取った咲良は手早く体を拭き、新しい下着とグレーのジャージのTシャツワンピに着替え、すぐに老婆を風呂場に連れて行く。

「婆っぱ、風呂さへれ」

 老婆は頷いて、おとなしく咲良に従う。それにしても時間がかかる。

 咲良はゆっくりと老婆が移動するのを待つ。

 突然、老婆が歌いだす。

 もし、もしかめよ、かめさんよ

 咲良は続いて歌う。

 世界のうちでおまえこそ

 あゆみののろいものはない

 老婆と咲良の声がかさなりあう。

 それは歌と呼ぶにはあまりにもちいさな、呟きのような

 茶碗に残った米のつぶを拾い集めるようなつたない音のかけらの集まりだった。

 もし、もし、かめよ

 老婆は泣いた。

「せんせ、どうしたらいいですか」

 老婆は咲良に訴えた。

「風呂さ。あったまるもんだ。こげに冷えで」

 咲良は促す。

 うんうん、老婆は頷く。

「風呂のあとにうっつぁ、つれでぐがら」

 咲良は言う。

「約束」

 そして、老婆のぎこちない小指を自分の小指に絡める。

「指きり、げんまん、うそついたら針千本、のーます」

 老婆のからだはぎしぎしと軋みをたてて今にも崩壊しそうだ。

 ゆっくり歩いて風呂場の前にたたせ、それから咲良は風呂場の床にバスタオルを敷いた。そこに老婆を座らせ、肩にタオルを掛け、水圧を緩めた暖かいシャワーを満遍なく浴びせた。

 老婆は黙ってされるままになっている。

 ああ、きもちいい

 老婆が低く呟いたのを、咲良は聞き逃さなかった。

「気持ちいいべ」

 老婆は頷いた。きもちいいな

 それから咲良は、石鹸を泡立て、頭からゆっくりと老婆を洗った。

 石のように固まった老婆のからだが一瞬ほどけるのがわかった。

 老婆を洗い終わり、風呂場から引き上げてバスタオルで体を拭いたとき、

 咲良ははた、と困った。

 老婆の服も下着も洗濯機の中で洗剤にまみれて渦潮のなか、だ。

 咲良は老婆をバスタオルでくるんだまま、風呂場に放置し、急いで二階にあがり、寝室のクローゼットの中を調べた。

「あった」

 咲良は微笑んだ。何でもとって置くものだわ。

 咲良は必要なもの意外はなるべく持たないという主義だが、それだけは捨てないで

 とって置いた物だった。

 咲良はクローゼットの奥深くにしまいこまれたダンボールの箱を取り出した。

 さして大きくはない。縦横、40センチ四方の箱だった。

 そこには、おなかの大きな妊婦だったころの、妊婦用のはきこみの深いショーツと

 マタニティ用のスゥエットスーツが入っていた。咲良はそれを手に取るとしばらく眺めた。こんなところで役にたつとはね。それは咲良が妊婦のとき着ていた服だった。

 それは咲良が母親になろうとしていたプロセスの証だった。

 捨ててしまえ、と連れは言ったが、咲良にはどうしても捨てることのできなかった

 こだわりだった。

 でも、今はそんなこだわりなどかまっていられない。あの老婆の裸体を隠さなければならない。老婆を羞恥心にまみれさせることはできない。

 咲良は老婆の裸体に下穿きをつけ、グレーと紺色の上下のスゥエット・スーツで垂れ下がった乳房と、皺がより、ゾウの皮膚が伸びたような太った腰周りを隠していった。

 すっかりしたくをさせて、リビングダイニングの床にクッションを敷き、老婆を横にしてから咲良は近所の介護施設の電話番号をネットで調べた。

 咲良のカンは見事にヒットした。

 念のため、といって咲良は携帯電話で撮った老婆の写真のデータを介護施設のパソコンに送った。折り返しすぐに連絡があり、探している本人に間違いないとのことだった。

 老婆は眠っていた。口を薄くあけ、よだれを垂らしていた。よほど疲れたのだろう。

 この人にもきっと若い頃があったに違いない。咲良は思う。生まれて、育って、嫁ついで子供を産んで、育てて、老いて、病んで、捨てられる。

 でも。と咲良は自分に反駁する。それでもこの人は遺伝子を残したのだ。

 この人には子供も孫もいるのだろう。今こうして老いをさらしてはいるが、この人はちゃんと生まれてきた意味があるのだ。子供に捨てられた、なんて感傷以上に、この人はちゃんと生きているのだ。その証拠にこの人は、自分のアイディンティティーを探しに出かける勇気があるのだ。誰になんと思われようが、この人は自分の立ち位置に立たねばならなかったのに違いない。それはもう、本能というべきものである。

 いのちのふるさとを探してこのひとは仮の宿をエスケープしたのだ。

「やるな、おばあちゃん」咲良はひそかに笑った。

 実は咲良は内心、この一連の騒動を楽しんでいたのだ。

 生きているということは、想定外のテーマパークだ。

 面倒くさいことを面白がれるようになれたら、きっと世界はディズニーランドのスペースマウンテンより楽しいはずなのだ。

「ごめんください。こぶしの郷のものです」

 チャイムとともに玄関先で大声がした。

 ドアを開けると、水色のジャージを来て、写真入のネームカードを首から下げた、角刈りの見るからに体育会系といった、屈強な体つきをした男が立ち尽くしていた。

「ご苦労様です」咲良は男性職員を部屋に招き入れた。男は眠っていた老婆をおこした。

「トミさん、遠藤トミさん、こんなところにいちゃダメだ。このうちのひとに迷惑がかかるだろう」職員は老婆をゆすりおこし、寝ぼけ顔の老婆の腕の付け根を強く握った。

「大丈夫ですよ、時間掛けてゆっくり起こしてあげてください」

 咲良はそういって、老婆の名はトミ、というのか。と思った。

「トミさん、うっつあ、けるぞ。うちのひと、むがえにきただ」

 そういって肩をたたいた。

 男性職員は、ぎょっとした顔で咲良を見た。

「土地の者ではないのですが、

 まあ同じ東北人、ということで、多少の方言はたしなみます」

 咲良はにっこり笑って男性職員を見た。

「土地のおばあちゃんは、方言使わないとこころ開いてくれないんですよ」

「どちらからきらったんですか?」

 男性は咲良に興味がわいたらしく、会津弁でそう訊ねた。

「生まれは福島の郡山市、結婚して岩手と宮城と東北各地を転々とし、出戻りじゃないのになぜかまた福島に戻って、ここ、会津磐梯山のふもとに腰掛けてます」

「複雑そうですね」男は思い切り、引いた顔になった。

「はい。面倒くさいので、東北人ということでお願いします」

「いや、なんにせよ、ありがとうございます。トミさんは近頃認知が進んで、徘徊するようになってしまって。施設の玄関は施錠しているはずなんですが、どういうわけかいつもスタッフの専用通路から逃げ出してしまうんです。まあ、暴力的になるとかそういうことはないんでなんとかやってこれてるんですが」

「お疲れ様です」

 咲良は頭を下げた。

 老婆は素直に玄関先に促され、職員とともに施設の車に乗車した。

 車を見送り、咲良は部屋に戻る。

 どっと疲れが出た。

 二階の寝室に入ると、ベッドに横になりそのまま深い眠りに落ちた。

 いつの間にか夕立はやみ、ダークブルーの闇に寝ぼけた左向きの三日月が映っていた。

 ひまわりの葉に落ちた露にちいさくにじんだ月の光が闇に溶けて。



 Ⅴ




 メロディが流れている。ハリー・ポッターのサントラ盤を彷彿とさせる。

 なんだろう。夢かしら

 咲良はぼうっとしたまま目を開ける。

 なんだか、空気が湿って重い。

 寝室の窓を開ける。普段は夜風が気持ちよく吹き込むのに、今夜はじめったまま動かない。闇の中でかすかに鳴り響く音に耳を澄ます。この音、なんだっけ?

 聴いたことがあるぞ。咲良は音のするほうに歩き出した。

 音は階段のしたに向かうにしたがって大きくなる。

 なんだっけ、この音楽。思い出せそうで思い出せない。なぜ?

 リビングの闇に緑色の光がちかちか点滅してる。テレビの主電源の消し忘れ?

 クリスマス、じゃないよね。夏だし。

 一瞬考える。

 あああ、携帯電話が鳴ってたんだわ。

 やっと事態が飲み込めたとき、電話の音が止まった。

 めったに電話などかかってこないから、着信音がわからなかったのね。

 と思い、咲良は折りたたみの携帯電話を開く。

 アドレスに載っていない番号だ。

 なんだ、間違ったのね。

 簡単に納得してしまうのが、咲良のいいところでもあり、弱点でもある。

 咲良は携帯の時計を確認する。十時二十七分。はあ、まだそんなものか。

 夜中だと思ったけど、まだ早いのね。

 テレビのスィッチをつける。お笑い番組をやっている。

 キッチンに立ち、コップに水を汲む。この町の水はおいしいと思う。水源が山麓の地下水で、名水百選に選ばれるくらいだから、消毒の塩素の含有量が格段に低い。夏でも数秒間水を流し続けているとすぐに冷えて、おいしく飲める。

 水がきれいなのは最高の贅沢だ。

 ただ、ここ何年かは震災の影響で放射能の問題が取りざたされているので、確実に安全かどうかは実のところなんともいえない。

 まあ、自分はいつなんどきどうなってもかまわないから、放射能なんてどうでもいいんだけど、子供を抱えていたらそうはいかないんだろうな。世の中なにが幸いするかわからない。少なくとも、今の自分には心配の対象となる幼子がいないのだから、平和な気分で居られるわけだ。感謝しなくちゃ。

 コップの水を飲み干して咲良は伸びをした。

 あくびで涙を流しながら、漫然とテレビの画面を眺める。

 芸能人が高級レストランで食事をしてその食事の代金を推測し、金額が当たらなければその代金を個人で支払うというゲームのようだ。

 高級レストランか。おなかすいたぞ。急に空腹を覚えて

 咲良は立ち上がり、冷蔵庫からもらい物のトマトを出し、塩を振ってかじった。

 やっぱり、夏はトマトよね。じゅわっとあふれるトマトの汁のほんのり青臭いのがたまらない。完熟もいいが、幾分堅さをのこしたトマトが咲良は好みだった。

 夏の終盤になると、収穫終わりの青いトマトをたくさんもらって漬物をつくる。

 ほどよい塩加減と歯ざわりが絶妙で、ビールのつまみに合う。

 なんにしろ、自然というものは最高の贅沢だ。

 夏は暑く、冬は寒く、春はたおやかに暖かく、秋は凛とさわやかで、そういう気候のはっきりしているのが、もっとも美しい景色を司どる、と咲良は思う。

 だから咲良は東北地方が好きだ。福島も、岩手も、宮城も、秋田も、青森も、山形も。

 東北は、春の季節がことのほか美しい。

 春が美しいのは、冬があるからだ。

 痛いほどの寒風と積雪と氷に閉ざされる半年間を耐え抜くから、待ち焦がれた春の光の温もりが涙するほど、こころに染みる。

 しかし美しいのは春だけではない。

 春も、夏も、秋も、冬も。それぞれが純粋な箱入り娘のように清らかに美しい。

 その自然の中に立ち、大地の恵みをはぐくむ農家の人たちの荒れた手が咲良は好きだ。

 自然と対話し、土に敬意を払った結果だから。

 おなじように、曲がった腰を折り曲げて歩く年寄りの姿も好きだ。

 あの姿は、大地に対する尊敬のかたちなのだ。そんな年寄りは必ず、透明な空気をまとっている。それは人生の最終章を飾る、繊細なレースのヴェールであり、無冠の王族のしるしなのだ。神話で神様がよく、年老いたこじきの姿で人を試す話がある。

 咲良は思う。もっとも悲惨な姿をしたものが、実はもっとも貴いのではないか、と。

 弱者の存在は最後の審判でもっとも罪深い人を選別するために配属された、神のミッションを遂行するひとたちなのではないか、と。

 再びハリー・ポッターサントラ盤もどきの音楽が鳴り響く。

 今度は誰?咲良は携帯を開いた。さっきと同じ番号だ。

 咲良は電話に出た。

「もしもし」

 相手は沈黙している。

「もしもし」

 ややあって、かすれた声が受話口から零れ落ちていた。

「ごめん、なさい」

 若い男の声だった。かすれて聞き取れないほどのささやき声。

「おそくに、ごめんなさい。僕です」

 おや、と思った。声の主はショウイチだ。

 咲良は音に関しては鋭敏な感受性を持っていた。

 それは対象の音がかすかであればあるほど研ぎ澄まされた機能を発揮する。

 なのに、携帯の音がわからないなんて不思議なのだが、どうやらその感受性は生き物が立てる音限定で発揮されるようだ。デジタル音は苦手なのだ。

「どうしたぁ」

 咲良はいつものように聞き返した。

 セラピーを受けている患者に自分の個人情報は流していないはずなのに。

 看護師にも、スタッフにも携帯番号は知らせていない。

 誰に聞いたのだろう?

 いぶかしく思うが、ことさらショウイチに問いただすことでもない。

 彼は何か話したいことがあるのだ。

 緊急に。いますぐに。訴えたいことが。

 今はその訴えを聴くことが責務だと咲良は思った。

 しかし、話を促すことはなかった。沈黙が続く。

 この沈黙の声を聴き遂げられてこそ、セラピーの存在する意味がある。

 十秒の沈黙。咲良は心の中で時間をカウントしている。

 ややあって、かすれた声がふたたび耳を掠める。

「笑えないよ」

 え?

「笑えないんだって。夜が」

 夜が、笑えない?咲良は昼間ショウイチとした会話の一部始終を巻き戻す。

 思い当たった。そうだ。ショウイチは夜が哂う、といった。

 それで自分は「夜が哂うなら、こちらも負けずに笑い飛ばせばいい」

 そういったのだ。咲良は耳を澄ます。

「夜がね、馬鹿にする。お前は惨めな負け犬だっていう。けらけら哂ってる」

「そっか」

「咲良、僕は負け犬かな。自分に負けたからこんなになったのかな」

「負けてない」

 咲良はこころに力を込めて断言した。

「でも、夜が」

「闇が深いほど暁はちかい、でしょ?」

「そんな簡単なことじゃない」

「そうだね」

「僕は負け犬だ」

「どうしてそう思うの」

「あのね、咲良、ぼく佐々木さんが好きだ」

「佐々木さんって、あの佐々木さん?看護師の」

 昼間ショウイチの点滴の処置を受け持った、小動物のような若い看護師のみずみずしい

 姿を咲良は思い浮かべた。

「ほかに誰がいるのさ」

 そうだった。待雪荘に佐々木という苗字はひとりしか居ない。

「失礼いたしました」

「咲良の携帯番号も、佐々木さんに聞いた。佐々木さんは直に知らなかったけど、わざわざ、院長に聞いて教えてもらったんだって」

 ああ、それでか。納得がいった。佐原院長が教えたなら仕方ない。

 咲良はまた沈黙し、次の言葉を待った。

「僕ね、佐々木さんが彼女だったらよいと思うんだ」

「そうだね」

「咲良もそう思う?」

「そう、思うよ」

「佐々木さんってさ、優しいんだ。優しくて辛抱強い」

「そうだね」

 咲良は黙々と日々、患者のケアに励む佐々木看護師の姿を思い浮かべていた。

 けっして自分を前に出さず、余計なことは言わず、ただにこにこして、小動物のように

 くるくると、よく働く女性だった。

「針、刺すの、うまいんだよね、彼女」

「そうなんだ」

「彼女、すうって刺すの。針を。ちゃんと角度を心得ていて、皮膚に触れるか触れないか位のところでするするって」

「そうなんだ」

「それだけで、佐々木さんのこと大好きになったの。可笑しいと思う?」

「いいえ、ぜんぜん」

 可笑しくないわ、と言おうとした瞬間、ショウイチが嗚咽した。

 咲良はショウイチの嗚咽をだまって聞いていた。

「僕はいつまで生きられるんだろう。なんでもっと早く佐々木さんに会わなかったんだろう」

「でも、会えたでしょ」

「佐々木さんにずっと一緒にいてほしいの。でも僕は彼女がどんなに好きでもそれを彼女に言うわけにはいかないんだ。なぜなら」

「僕は・・・」

 嗚咽がひどくなった。涙が喉につかえて声も出せずにいるのだ。

「僕はね・・」

「負け犬だから。夜にすら馬鹿にされて。怖いんだ怖いんだ怖いんだ」

 ひとしきり、ショウイチは泣いた。

 咲良はただ、泣き声を聴いていた。じっと、その不協和音を聴き続けた。

「佐々木さんは、居ないの?」

「今日は定時で帰った。彼女が帰るときに無理言って、咲良さんの携帯番号を院長から聞きだしてもらったの」

「佐々木さんはなんて言ってた?」

「なにも言ってなかった。仕方ないですねって顔して、笑ってた」

「そっか」

「咲良、怖いの。こんな弱虫なところ、佐々木さんに見せられないよ。僕一応男だし。もう長くないけど、長くないからカッコつけたいっていうの、あるでしょ?」

「あるね」

 咲良は頷いた。そして

「ショウイチ、わかったよ、咲良かあさんがなんとかしてあげるから、今夜のところはおやすみ」

 となだめた。母親を名乗った手前、一応言ってみた。

「昔話でもきかせてあげようか?」

「それは所望いたしません」

 ショウイチはきっぱり断った。

 咲良は笑った。

「じゃあ、またあしたね」

 咲良は言った。

 何もいわず電話が切れた。

 今夜、ショウイチは眠れるだろうか。

 窓のカーテンを開けると、つやつやしたビロードのように質感のある闇が広がっている。

 左向きの三日月が迷いを消したようにくっきりと銀色に輝いていた。



 Ⅵ



 日差しがカーテンを切り裂いて進入する。

 五時に目覚めた咲良は、一晩にかいた汗を流すべく、シャワーの準備をする。

 階下に下りると、リビングのカーテンが開きっぱなしになっている。

 咲良は大窓を開ける。夏のにおいがする。植物の吐く酸素の濃いにおい。草いきれの

 青い香りがする。空気が澄んでいる。微風が吹く。

 今日も一日、晴れ渡るだろうと予測がつく。

 咲良は脱衣所で服を脱ぎ、裸の体を洗い場の鏡に映しだす。最近痩せてきたような気がする。体重計に乗ると二キロ減っている。もともとそんなにふくよかな体ではないので、痩せると頬がこけてくる。

 158センチ、46キロ。アラウンド・フィフティーにしてはましなほうなのかな?

 咲良はおなかを引っ込めてみる。やはり体の線は下に下がっている。下腹部に縦に手術の痕跡がある。パンヤがくたびれてやせ細った、ティディ・ベアみたい。

 ふるびた熊ちゃん。仕方ないよね、年をとればこうなるのは当たり前。

 わかってはいるが妙に切ない。佐々木看護師のすっきりしたボディラインを思い出す。

「若いっていいよなあ」

 声に出して呟く。意識して声を出さないと気持ちが沈む。

 誰も聞いてないのはわかっているが、独り言でも声を出さないと、自分が何者かわからなくなってしまうことがある。

 人の話は聴くが、自分の話は誰にもしたことがない。

 多分言っても、つたわらないと思う。

 他人が何を考えているのか咲良は勘ぐることをしないが、たいていの人間は自分だけが得をすることばかりを考えているらしい。

 それをどうこう言うつもりはない。自己保身がなければ生きていられない。

 自分は多分、自己保身の必要性がなくなってしまったのだ。

 誰に対しても身構えることなく、風のように生きられるようになってしまったから。

 およそ、怒りというものを最近は感じたことがない。怒りはただ疲れるだけだ。

 あるがまま、なすがまま、風に吹かれる川辺の葦のように咲良は生きている。

 形ある人間のはずだったのに、今では自分がただ影のように何かに寄り添うものとして

 しか、感じられていない。

 それがいいことか、わるいことか、咲良にはわからない。

 存在感のある、空気人間でいること。それが自分の仕事だと感じてきたから、だ。

 咲良は自分の体を確かめる。あ、生きてるんだ、わたし。

 バスタブに湯を張り、シャワーを全身に浴びせかける。

 長い髪を洗い、体を洗い、シャンプーの泡だらけになって子供のように泡と戯れる。

 こういう時間が咲良は好きだ。無心に何気ないことに夢中になれるのは気持ちがいい。

 それは自分をはなれているから、だ。自分を意識しないでいられること、それこそが

 気持ちを楽にする唯一の方法であると、気がついたのはいつのころだったろう。

 自分とは自らを分ける存在なのだ。自らを分け合い互いに共有すること、そうすれば世の中はほんの少し豊かになれるのに。

 残念なことだ。と咲良は思う。きっと、こういう思いは誰に話しても通じない。

 咲良は沈黙する。そして自らを相手のために切り分ける。

 そっかあ、アンパンマンかぁ。咲良は笑う。そうして今はものすごく

 アンパンが食べたい。粒あんがぎっしり詰まった、昔ながらのアンパン。おへそにさくらの塩漬けがのってるやつ。

 想像してうっとりする。それに牛乳があれば最高。

 仕事場に行く前に、コンビニに行こう。

 人は食べたもので生きている。わたしはアンパンで。

 バスタブのなかに全身を沈めて咲良はお湯の中で丸くなる。

 胎児のように浮かんでみる。息が苦しくなって顔を上げる。

 気持ちいい。

 そうか、死とは胎児の時間に遡行することか。

 わかった。

 咲良はバスタブから勢いよく上がり、バスタオルで体を包み込んだ。

 長い髪をもう一枚のバスタオルで巻いた。

 そうか、そうか。

 咲良は笑う。もう何も怖くないよ、ショウイチ。

 佐々木さんにショウイチの思いを伝えてみようかと思う。

 一瞬、感じた思いを咲良は引き戻す。あぶないあぶない。

 他人の気持ちの操作はすべきでない。

 アラジンのジーニーも、恋の魔法だけは使えないと、言ってたではないか。

 おばさんだなあ、発想が。咲良は自分を揶揄する。

 恋愛なんて若い当事者に任せておけばいいのだ。

 余計な同情はかえって相手を傷つけるだけ。

 ほんとに、おせっかいなおばさん。

 ふと、悲しくなる。わたしはもう二度と、恋愛なんかしないのだから。

 女でもなく、男でもなく、人間として生きる。透明な、意志ある空気人間として。

 一番つらい人のそばに寄り添わせてください。

 あの日、わたしは、そう誓ったのだから。

「だから、今日も行かなくちゃ」

 髪を乾かし、下着をつけ、服を着て、化粧して。

 明るい太陽の日差しに向かい、歩き始めなければならない。

 こころにリズムをつけて。日々繰り返される生の営み。

 社会という長縄跳びの輪の中に飛び込まなければ。

 個人は社会という、広大な有機体にあって小さな細胞の一片に過ぎないけど、

 つなぎ合わせれば、果てしない宇宙の向こうまでたどり着くはずだから。

 個々が今、この場所に、それぞれに生きつづける。その連鎖が社会を構築する。

 だから、わたしが世界で、世界はわたしなのだ。咲良はそう思う。

 今、ここ、わたし。それが世界のすべてで、それ以外の世界はただの現象にすぎない。

 生きなきゃ。行かなきゃ。ただ、前に。ジーン(遺伝子)の赴くままに。

 記憶の導くままに。


 ⅶ



「おはよう、ショウイチ、夕べは眠れたの」

 咲良は病室に顔を出す。

 ショウイチは点滴をしている。痛みが間断なく襲っているのだ。

「眠れなかったね」

 ショウイチは目を閉ざす。

「そう。眠れなかったのね」

 咲良は頷く。

「ずっと笑ってた。夜がいっぱい来た」

「夜が哂ってたのね」

「笑い返せないよ。一気に哂うから。何人も。何万人も」

「つらそうね」

「つらいとか、通り越してるし」

 ショウイチは乾いた唇で言った。

「咲良はいつも自分の話はしないんだね」

「してるわよ」

 咲良は微笑む。

「いや、してない」

「からすの足跡とか、読んだ本の話とか結構してるわよ」

「それ以外で」

「それ以外で?なにがあるだろう」

 ショウイチは目を閉じた。

「なんで、咲良はセラピストになろうと思ったの?」

「なんで?って、そんなこと意味があるかしら?」

「ある」

「どうしてそう思う?」

 咲良はやわらかい視線でショウイチを見守る。

「死ぬ間際の人間の話聴いて、何が楽しいんだろうっていっつも思ってた」

「楽しいとか、そういうことではないな」

「仕事だから?」

「仕事と割り切れるものでもないな」

「でも、咲良はいつも私情を挟まないよね。でも話してる相手は、それじゃ満足できないんだ。うまくいえないけど、フェアじゃない、と思う」

「一方的に聴いているのが、フェアじゃないってことかな」

「そう。話ってさ、シーソーみたいなもんじゃん。こっちがあがれば、そっちが下がる。そっちが下がりっぱなしじゃ、こっちは地面から浮いたままだ。なんかしっくりこない」

「そうか」

「聴くばっかりじゃつまらないんだ。咲良はどうなの?どう思うの?ってこっちが

 聴いてみたいことだってたくさんあるよ。お互いがいったりきたりするのが人間関係じゃないの?ただ、じっと聴きっぱなしで、全部見透かしたみたいな態度で居られるのは落ち着かない。ちゃんと対話、してほしいんだ」

 ショウイチは目を閉じてそう言った。

「僕はね、もう行かなきゃならないんだ。それはわかっているんだ。自分のなかに違和感があるんだ。痛みじゃなくて、疑問符だよ。痛みをこらえる方法は熟知してる。自分が痛みか、痛みが自分かわからなくなるほど、痛みという現象に埋没すればいいんだ。はじめから痛みがあるのが当然と思ったら次第に順応する。そういうもんでしょ。だから、最期に僕の話を聴き遂げてくれる人がどんな人だったのか、こちらも聴き遂げなきゃいけないと思うんだ」

「そっか」

 咲良は沈黙した。

「自分の話、か」

 咲良は目を閉じた。なぜ傾聴セラピーを始めたか。

 それを語りはじめるのは、痛みが伴う。

「こわいんでしょ?」

 ショウイチは言った。

「自分と向き合うのが、怖いんでしょ?でもそれくらいのことできないなら、傾聴セラピーなんてやめたほうがいいと思うよ。こっちはもう最期なんだからさ。これからどこに向かうのか、いつ迎えがくるのか、わからないんだから」

「どこにも、行かないと思うよ」

 咲良は言った。

「からだはね、消えるかもしれない。タバコの火が灰になって煙に変化するみたいに。でもタバコは本当に消えたの?成分は空気中に残って、受動喫煙の害を招くよね?」

「だから、そんななんというか、観念的なことは聴きたくないの。咲良がどんな人間でどんな理由でここに居るのか、それが聴きたいって言ってるの」

 ショウイチはいらいらしていた。

「行かなきゃいけないから、もうすぐ」

「どこに行くの?」

「わからない。自分はどこから来て、どこに行くんだろう。なぜ今、ここなんだろう。何千回も思ったよ。ここにたどり着いてから。今年の六月の初めから。東京の大学病院をはなれてここにきたときから、ずっと」

「そっか」

 咲良はほんの少し笑った。

「この仕事、二年目だけど、そんなこといったの、ショウイチが初めて。聴くのは慣れてるけど、自分のこと話すのは慣れてない」

「話して」

 ショウイチは怒ったように口を尖らせる。

「わかったわ、話す」

 そして咲良は静かな声で語り始めた。




 ⅷ 


 何から話したらいいのかわからないけど、今わたしは一人で生活してるの。

 ここに勤められるのは運がよかった。すべてをなくしていたから、ね。

 咲良は語り始める。

 五年前、わたしは子供を授かったの。四十二歳だった。

 高齢出産のリスクは高いと聞いていたけど、自分に限ってそんなことはないってたかをくくっていたのね。

 夫は外科の勤務医だったし、何かあれば助けてくれるって信じていた。

 夫と知り合ったいきさつ?

 あのね、わたしは若い頃、リストカットの常習者だったの。今で言う気分障害、躁鬱が激しくてね。テンションの上下が尋常じゃなくて。いったん下がるとだめなの。もう死ぬことしか考えられなくなるの。

 夜中にね、切って。手首とか、足とか。今はそんなに傷は残ってないけど、ね。

 そうして血だらけになるから、家族が病院に連れて行くの。

 家族といったって、母親しか居ないけどね。

 一月に一回はそんなこと繰り返してて、いつも行く病院に夫が居たの。

 主治医だったのね、ほとんど。傷の手当てをしてくれて、必ずお説教されるの。

 でもお説教されるのがいやじゃなかった。わたしの父と母はわたしが幼い頃離婚しててね、母はわたしがかわいそうだといって、わがままは何でも聞いてくれた。

 それがいけなかったのかな?今となってはね、そう思うけど、当時は優しくされて当たり前だと思っていた。だって、母はわたしから父を奪ったんだもの。当然と思ってた。

 わたしが幼稚園の遠足から帰ってきた夕方遅くだった。

 父が大きなボストンバックを下げて、玄関を出ようとするの。

 母親は、買い物に出てくる、といって居なかった。わたしは父に尋ねたの。

「パパ、出張?」

 父はよく出張と言って何日も家に帰らないことが多かったから、わたしはそう訊ねたの。父はわたしをぎゅっと抱きしめた。いつもと違うにおいがした。

 多分あれは、「別れ」というもののにおいだったのね。なんか夕方みたいな、切ないような。鼻の奥がつーんとして、涙が出そうだった。

「えー、行っちゃうの?咲良が帰ってきたばかりなのに?」

 わたしは無邪気にそう言った。父は困ったような、情けないような顔をして、

「行かなきゃならない」

 そういったの。それからわたしたちは握手して、

「パパ、バイバイ」

 って。それが本当のお別れだともしらないでね。

 それから父とは一回も会ってない。離婚の理由はわからない。

 知りたくもないから聞かなかったけど。よくある話ね。父には愛人が居たらしいわ。

 父とわたしは仲良しだったと思っていたけど、それが覆されて苦しかった。

 自分ってなんだろうって思った。母は腫れ物にさわるみたいにわたしに接した。

 それがますます許せなかった。

 だから、自分をしかってくれる人がいるってことに感動すら覚えたわ。

 わたしは夫に依存した。夫にしかられたくて何回もリストカットした。

 でも夫は研修医だったから、半年で病院から居なくなった。

 そういうものだって思った。愛する人はいつも自分の前から姿を消すの。

 どうしてかしらね。わたしがしがみついちゃうから?自分を責めて、責めて、許せなくてますますこころを病んだわ。二十歳の頃よ。仕事には就けなくて、母に迷惑をかけたわ。母は昼間は会社で仕事して、夜は居酒屋で明け方まで働いた。何でだと思う?居なくなった父親の借金を背負っていたのよ。

 離婚した夫の借金なんか返さなくてもいいのに、正義感の強い母親はそれを良しとしなかったの。それで体を壊した。

 子宮体がんになって、そのときの執刀医が、なんと夫だったの。

 親子してお世話になったわけね。

 結局、母は術後、三年生きて、がんがリンパに転移してなくなってしまった。

 そのことを婦人科の先生から聞いた彼は、そのショックでまたわたしがリストカットするんじゃないか心配で、母のお通夜のときに婦人科の先生と一緒に家に来てくれて、お線香を上げてくれて、それが縁でそれから交際が始まったの。

 最初わたしは彼が同情して付き合ってくれてると思ってた。

 恋人とかそういう雰囲気じゃなかった。先生と生徒、みたいな。

「いつもそばに居て上げられるわけじゃないんだから、強くならなきゃだめだよ」

 って、よく、そういってたわ。

 強くなろう、ってはじめて思った。強くならないとこの人はいなくなる。この人をつなぎとめて置けるだけの強さがわたしには必要だって。

 母を亡くして、独りになって、それまでぜんぜん働いたことがなかったわたしが始めてコンビニでアルバイトした。

「いらっしゃいませ」の挨拶の声が小さいって店長に何度も怒鳴られて。

 それで彼に、「どうしたら自分に自信がもてるの」って聞いたの。

 そしたら彼は休みのときに、宮城の沿岸部に連れって行ってくれて。海辺を散歩して、

「ここで大きな声を出す練習すれば自信がつくよ」

 って。一緒にいらっしゃいませって大声出して叫んで。

 冬の海だったから、誰も居なかった。ふたりで叫んで、まるで青春映画みたいだねって笑って。そしたら夫がわたしを見て言ったの。

「笑うとかわいいよな」

 そしてこういったの。

「さくらのはなは、どうしてさくらって言うと思う?」

 そんなの、わからないって言った。

「強く、咲こうと思うからだよ。よく咲こうと思うからだよ。咲く、という字は昔笑う、と読んだんだ。笑って生きるのが君らしい」

 なんでか知らないけど、涙が出てとまらなかった。変わろう、と思った。この人のために

 自分は変わろうって。この人が居なくても強く生きていけるような自分に変わろうって。

「変わる必要はないから、弱くても力をつけろ。僕が君に生きる力を与えてあげる」

 彼は、そう言ったの。

「だから、泣くな。どんなことがあっても、僕の前では笑っているんだよ」

 わたしは努力した。大学に行って心理学を勉強しようと思って、学資を稼ぐためにコンビニで一生懸命働いた。週一しか休みもとらないで、一日10時間以上働いた。

 三年そういう生活してて、疲れがたまって倒れて、また彼の病院に入院したの。

 学校どころじゃなったわ。

「働きすぎだ。もうやめろ。僕の世話だけしてろ。君の一人くらい支えられる根性はあるぞ」

 彼がそう言ったので、それで結婚したの。

 彼もショウイチと同じように小さい頃母親を亡くして、お母さんのお姉さんに育てられたんだって。

 おばさんは彼が自分の息子より出来がいいのをねたんでずいぶん意地悪されたらしいけど、彼は高校を出ると自活して奨学金で地域医療に力を入れている医科大学に進んだんだって。苦労してるんだねって言ったら、お前ほどじゃないって笑うの。


「咲良さん」

 ショウイチが言った。

「あのね、きょうは咲良だけが話して。僕はただ聞いていたい」

「いつもと反対じゃない?聞いてて、疲れない?」

 いや、とショウイチは言った。

「声が」

「声?」

「咲良の声が気持ちいい。落ち着くんだよ、聞いてると。だから話して。楽になるから」

 わかった。と咲良は言い、話を続けた。


 結婚したのは二十六のとき。結婚式も新婚旅行もなかった。

 彼は東北地方の無医村を回って診療に明け暮れてた。外科が専門なのに、内科も小児科も何でも診た。五歳しか違わないのに、お父さんみたいに優しくしてくれた。

 でも家に居ることはほとんどなかったわ。

 何年もの間、彼はいろんな地方を回って、その間わたしは彼についていって、ずっとひとりで家を守っていた。彼がいつ帰ってきてもいいようにご飯の支度だけはすぐできるようにしてた。それは村で知り合ったおばあちゃんに教えてもらっったことなの。

 男の子はいっぱい食べさせないと、育たない。だんなも同じだよって。おいしいものがあれば、どんなに疲れていても必ず家に帰ってくるからね。人間は食べたものでできてるんだ。こころも食べ物でできているって。

 そのおばあちゃんには救われた。

 ひとりで悲しい思いをしてたとき、いつも畑仕事のあとに訊ねてきてくれて、

「先生に食べさせてけろ。おらたちのせんせだで。ありがてぇ菩薩様でがんす」

 って。米とか野菜とか。お魚とか。ほとんど買い物したことがなかった。

 もっともお店もないところだったからね。

 でもね、いくら近所の人に親切にされても、ひとりで田舎に引っ込んでいるのはつらかった。さみしくてこころを、また病み始めて。

 子供もほしかったのに、できなかったの。そのことで散々夫を責めたわ。

「あなたはわたしを愛してるの?子供がほしいと思わないの?」

 ってね。

「もちろんほしいよ」って夫は言うの。

「でも、今の君が子供を持っても育てられないだろう」って。

 そのときわたしは岩手にいて、盛岡の大きな病院の精神科に入っていた。

 重症鬱だった。もがいてももがいても出口が見えないの。ただ薬でねむるだけなの。

 何年そこにいたかしら?三年くらいいたのかな。でたりはいったりして。

 いろんなことがありすぎて、うまくお話できないけど、こんなかんじ。


「続けて」

 ショウイチは目を閉じて促した。


 岩手から今度は宮城に移った。

 宮城の沿岸部の少し大きな病院に移って、夫はそこで外科部長として働いてた。

 彼が四十七で、わたしが四十二のとき。今までと違って、少し時間に余裕ができたので、二人で日帰り旅行に出かけたりした。リラックスできたのがよかったのか、子供に恵まれたわ。すごい幸せだった。幸せという言葉なんか自分には似合わないとどこかで思っていたのだけど、そのときは自分が生まれてきたことを素直に感謝できたの。

 亡くなった母にありがとうって、毎日手を合わせてたわ。

 仏壇とか特になかったから、写真にお水とお茶を供えて一輪挿しのお花を飾ってね。

 無事生まれてきますようにって。七ヶ月、八ヶ月になると、いよいよだなあって思って、ひとりでショッピングセンターに行って、子供服をそろえたり、育児雑誌を眺めたり アフガンを手作りしたり、もうおなかの中の子供がいとおしくて仕方がないの。

 男の子でも女の子でもよかったから、超音波検診のときに性別訊ねたりしないで、

 生まれてからのお楽しみっていって。

 夫は知ってたみたいだけどね。

 担当の先生は夫とは別の病院だったけど、知り合いだったから。


「それで?」

 ショウイチはじっと耳を澄ましていた。

 全身で話を聞こうとしているのが良くわかった。

 咲良は言った。

「疲れない?」

「疲れないよ、続けて」

 ショウイチは胸に手を組んだまま、目を閉じた。

「聞いていると、気持ちいい。お話して」


 ある日、わたしは出血したの。その日は夫が難しい手術だからごめんね、遅くなるよ

 って朝早くから家をでてたの。

 九月の末だったわ。十月の二十日が出産予定日だったからもう少し、って思って喜んでた矢先だった。わたしは早産だなって思って、でもものすごくおなかが痛くて、出血が止まらなくて、なんだろうって怖くなって、夫の病院に連絡したの。そしたら、

「室井先生は手術室に入ったところです」って

 言われて、わかりましたって。救急車で受診してた産婦人科に運ばれたの。

 救急車で運ばれてるときに出血がひどくなって、気を失ったのね。

 それから後のことはぜんぜん覚えてないの。

 気がついたときはおなかがぺちゃんこだった。

「ああ、生まれたんだな」って思った。帝王切開で出したんだって。

 それから、眠たくなってまた眠ってしまったの。

 再び起きたときに、なんでここにいるんだろうって思った。

「わたし、何をしているんですか?」

 って聞いたの。点滴を取替えに来た看護師さんに。

「もう少し休んだほうがいいですよ」

 って看護師さんは言うの。

 それで、ああ赤ちゃんに会わなきゃって思って。

「赤ちゃん」

 って言ったの。

 そしたら看護師さんはなにも言わずに出てった。

 赤ちゃん、居なくなってたの。宮殿ごと。


「つらかったんだね」

 ショウイチは言った。


 詳しくはわからないんだけど、あとで夫に聞いたら、前置胎盤っていって、胎盤が子宮口にかかっていたんだって。それで子供もへその緒首に巻きついて仮死状態で、わたしが助かったのは奇跡だって。そういわれたけど、理解できなかった。

 赤ちゃんは帰ってくるって信じてた。それでまたおかしくなった。夫を責めた。

「赤の他人の命は助けられるのに、どうして自分の子供の命を助けられなかったのよ」

 って。なにもかもが理不尽に思えて仕方なかった。

 自分の存在そのものが理不尽だと思った。わかる?どうして自分の命が助かって、子供の命が救われなかったのって。わたしはもう十分生きたからいい。

 でも未来ある子供が死ぬのは許せなかったの。

 すごくつらかった。だからね、最近まで子供の洋服とか、マタニティウェアとか手放さずに取っておいたのよ。未練というか、執着というか。恥ずかしいよね。


「ぜんぜん恥ずかしくないよ。当たり前のことじゃん」

 ショウイチは言った。

「おかあさんなら、だれでもそう思うよ」

 ショウイチはそう言った。

「それに、子供はいつもおかあさんを助けたいと思うものだよ」

「そう?」

「そうだよ」

「ぼくが咲良の赤ちゃんなら、やはりお母さんを助けたいって思う」

「そうなのかな」

「そうだよ。子供はお母さんが大好きだ」

 ありがと、咲良はそう言い、少し涙ぐんだ。

「そこ、泣くとこじゃありませんよ」

 ショウイチは言った。

「ほんとのことだからさ」

「そうだね」

 咲良は言った。

「続けて」

 ショウイチは目を閉じる。


 ずっと立ち直れなかった。ずっと室井を恨んでいた。

 でも、夫は仕事に行くの。そして夜勤で帰ってこないの。

 泣くでもない、笑うでもない。ただ、淡々としてるの。

 怒りもしないの。かわいそうとも言わないの。

 この人は感情がないんだと思ってた。医者だから。人の体を切り刻むのが仕事だから。

 だからだってずっと思い込んでた。

 二年前の三月だった。





 Ⅸ




 あの日。あなたは何をしてた?3.11よ。



「3.11か。ずいぶん昔だね」

 ショウイチは目を開ける

「社内会議の途中だったかな。いきなり来て」

「帰宅難民で、都心からマンションのある荻窪まで歩いて帰った」

 あとは覚えてない、とショウイチは言った。節電とか、停電とか、思い出すの、面倒くさい。



 その日の朝、珍しく夫が居たの。

 普段夫は忙しくて、わたしはずっとふさぎこんでたから意識して顔をあわせようともしなかったの。

 でもその日は夫が言うの。

「咲良、味噌汁飲みたいな」って。

「ひさしぶりにお前の作った味噌汁が飲みたい。ほら、岩手に居たとき野菜たっぷりの味噌汁よく作ってくれたでしょう、近所のおばあさんに野菜もらったって言って」

 そういうから、ありあわせの野菜で、ごぼうとかにんじん、白菜、大根、長ネギ、みんな入れて味噌汁作ったの。

 ついでに白いご飯でゴマ昆布のおにぎりも作った。

 室井は梅干が苦手で、おにぎりの中身はツナマヨかゴマ昆布かたらこか鮭なの。

 そのときは冷蔵庫が空っぽで、ゴマ昆布しかなかったから、それでおにぎり作った。

 そしたら喜んで。

「やっぱり、お前料理うまいわ」って

 褒めてくれて。上機嫌で仕事に行ったの。

 それっきり、帰ってこなかった。何日も連絡とれず、一週間も二週間も行方不明で。

 でもいつもいないことに慣れてたから、どうとも思わなかった。彼は、彼のことだから被災した患者さんに張り付いて、わたしのことなんか忘れてる。

 でもそれでいいのだって思って。携帯はつながらないし、情報も錯綜して、しばらくして落ち着いたとき、小学校の体育館が遺体安置所になったって聞いたの。死んでるはずない、と思ったけど何回かそこにいったわ。

 みんな、きれいなの。ご遺体が。白くて傷もなく眠っているみたい。冷たい水に浸っていたから、保存状態がよかったのかしらね。男性のご遺体を探し回ったわ。たくさんのご遺体を見たのだけど、悲しいとか怒りとかそういう気持ちじゃなくて、ただ空白なの。感情が。室井がそこに居るはずないって確信だけがあるのだけど、探さずに居られないの。

 夢なのか現実なのかそれすらもわからない。ぐちゃぐちゃだったわ。気持ちも体も最低の泥沼状態。ぬかるみをさまようってあのときのことかしら?でも、すでにこころは被災してたので、変に冷静な部分もあって、そのときは、まあいつもの鬱と大して変わらないのかなって気もした。だって夫が居ないことが悲しいって思えなかったのよ。

 感情が動かないの。

 わたしたちが住んでたアパートは高台にあったから

 津波の被害はなかったけど、室井の病院は浜のほうにあったから、四階まで津波の被害にあったらしいのよ。彼はとにかく患者さんを救おうと必死だったって。

 津波の第一波が三階に押し寄せたとき、室井は指揮を執って患者さんを全部救出したらしいの。全員病院の屋上に上げて、八十人くらいだったのかしら。スタッフも合わせて。

 それでまだ救出されていない人が居るって情報が入って、動かなきゃよかったのにそれが子供だって聞いたから、自分が行くって言って、四階まで下がったときに津波が来て。

 子供を流れてきた家屋のドアかなんかにつかまらせて、階段の上に押し上げたときに一挙に。

 そういって、咲良は言葉を切った。

 ショウイチは黙っていた。

 その無言の状態が、話の続きをせがんでいた。


 聞いた話よ。わたしが見ていたわけじゃないの。わたしも高台のアパートが地震で倒壊して避難所を転々としたの。二ヵ月後のある日、隣町の高台の公民館に避難してたときに、わたしを探しに来てくれた病院関係者のひとに聞いた話だから。その病院の関係者で亡くなったのは、室井だけだって。そういわれたとき、涙も出なくて。

 本当に悲しいときって、案外泣けないもんだなあって。他人事みたいだったのよ。


「そうかもしれないね」

 ショウイチは言った。

「他人事にならざるを得ない。自分が壊れていくのは、つらい」

「・・・幻覚を見るのは、脳に転移した証拠なんだろうな」

 ショウイチはそういって、瞳を咲良に向けた。

 咲良は、ショウイチの視線を微笑で抱きしめた。


「咲良は、なんでそんなに強いの?」

 ショウイチは言った。

「強くなんか、ないわよ」

 咲良は笑う。

「人はみんなどこかしら弱さを抱えて生きているし、その弱さに立ち向かうことで生きながらえていけるのかもしれないわね」

「室井の話をきいたときに、馬鹿だなあって思った。だって外科部長よ?立ち位置ぶれちゃいけない立場なのに、自分から動くなんてリーダー失格よ。指揮を執るのが仕事なのに。ほんとうになんというか、あのひとは」

 咲良は笑った。だからいっしょにいられたのね。言葉に出さずに咲良は思った。

「そういうひとって、馬鹿じゃないと思う。自分の気持ちに正直なんだよ」

 ショウイチは言った。

「でも、僕には理解できないけど。誰かのために自分を犠牲にするなんて」

「室井はきっと、それでよかったのよ」

「なぜ、そう思うの」

「わたしをここに導いてくれたから」

「そうなんだ」

「そう」

 咲良はそれきり、沈黙した。

「ぼくね」

 正一が言った。

「嘘ついた」

「佐々木さんが好きというのは嘘」

「そう」

「本当は誰も好きじゃない」

「誰も信じてない。ずっとそうだった」

「そう」

「でも、それはそれで、気楽に生きてこれた。自分の今できることだけを淡々とこなしてきたから」

「えらいね」

「えらくない。何も考えないで居ただけ」

「何も考えないで居られることがすごいのよ」

「そうかな」

「そう。だからたいていの人はえらい」

「咲良は?」

「えらくない」

「どうして」

「考えちゃうから。どうでもいいことを。考えて被害妄想になるから」

「そうかな」

「そうだよ」

 咲良は笑う。人事みたいに。

「何も考えなくてもいいんだと思う。シンプルに今やるべきことをしていけば。それで」

「そうしてたよ、僕。でも死んでゆくんだ」

「あなたは幸せよ」

「なんでさ」

「死んでゆく自分を見つめる時間を与えられてるから」

「そか。じゃあ咲良、僕と立場交換する?」

「そうだね。そうできたらいいね」

「そんなこと、思っても居ないくせに」

 そういって、ショウイチは笑った。

「ね、人は死んだら、どこに行くんだろうね」

 ショウイチは訊ねる。

「わからない。でも」

「でも?」

「きっと、どこにも行かない」

 そういって、咲良は目頭を押さえる。

「どしたの?」

「風が、吹いて眼にごみが」

「風なんか吹いてない」

「花粉症なのよ」

 咲良は鼻をぐすぐすさせた。

「泣いてるんでしょう」

 ショウイチは言った。

「泣いてなんか、ない」

 そして咲良は言う。

「ほんとうに悲しいとき、ひとは泣くことさえできないのよ」

「そうなのかな」

「そうなの。そしてただ・・・」

「名前を呼ぶんだよ」

 と、ショウイチは言葉を引き取った。

「本当に大切な人の名前をね」





 Ⅹ




「本当に大切な人の、名前」

「そう。忘れちゃいけないんだよ」

 ショウイチは言った。

「忘れないよ」

 咲良は言った。

「ううん、忘れてる」

「忘れないよ」

 咲良は再び言った。

「でもね、忘れるんだよ、いつか。言葉は、ね。でもなんというか、その人の優しさとか、あたたかさとか、親切にされた思いは残るんだと思う」

 ショウイチはそういって、すうっと眠りについた。規則正しい寝息が聞こえる。

 胸に手をあてて、ふわっと軽い空気が彼をやさしく包む。

 おだやかな、いい笑顔だった。こんなふうに安心したショウイチの寝顔を見たのは初めてだ。

「寝てしまったのね」

 咲良は言い残し、部屋を出た。

 こんなに癒された思いは室井がなくなってから初めてだった。

 なんだか、患者さんにケアされたみたいだ。と咲良は苦笑した。

 咲良は、泣いた。ごく自然に涙がでて止まらなかった。

「泣いても、いいよね」

 咲良は廊下を抜け、テレビの置いてあるロビーの窓の前に立つ。

 外からは、会津富士が見て取れた。深い茄子紺の山肌に夜色の影が立っていた。

 谷の影だ。深い青と、浅黄と、夏空の強い藍いろのコントラストが静寂を際立たせている。青は精神を落ち着かせる色だと思う。

 冷たさの中に芯の強さがある。

 すべてを受け入れそうで、一線引いたようなゆるぎない静けさがある。

「ねえ、海は冷たかったね」

 咲良は泣いた。

 そして確かに聞こえた。

 室井は叫んでいた。

「さくら、生きて生きて生き抜けよ。つらくても笑ってろ。強く咲き誇れ」


 背後に人の気配がする。咲良はそっと眼に指を当て涙をぬぐう。

 その人は咲良の肩に手を置いた。

 細い骨の感触がぬくもりとともに肩にかかった。

「お疲れ様、お茶でもいかがですか」

 声の主は佐々木看護師だった。

「ああ」

 と咲良は我に返った。

「今日も晴れて気持ちいいですね」

 振り返るとさわやかな笑みが咲良を包んだ。

 げっ歯類のような前歯が愛らしい。

 この人を花にたとえたら、朝顔だな。咲良は思う。

 小ぶりのきれいな青い朝顔。朝露を残していそうな若さ。

 ナースセンターのドアを開けると、芳醇なコーヒーの香りが漂ってきた。

「コーヒー入れました。佐原院長のお土産です。横浜の有名なコーヒー豆の専門店から

 買ってきたんですって。ハワイ・コナという種類だそうです」

 佐々木看護師は、コーヒーメーカーからガラスポットを抜き出した。

「淹れたてです。咲良さんとわたしがお初をいただきます」

 佐々木看護師はカップにコーヒーを注ぐ。

「どうぞ」

「ありがとう」

 咲良は両手でカップを受け取る。

 芳醇なコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。

 カップを受け取ったとたん、ナースセンターのドアが開く。

 ショウイチの担当の正木ドクターだった。

「おや、コーヒータイムですか?僕も一杯ご馳走になろうかな」

 白髪まじりだが顔つきは若々しい。

 年齢は四十代に差しかかろうとするころだろうか。

 彼は常に穏やかな物言いをする。

 患者のことを第一に気にかけ、痛みを取り除くこと、

 最期の生活のクォリティをいかにしてあげていくか、ということに重きをおく。

 そのいのちに対する真摯な姿勢が、暗くなりがちな患者と最期を看取る家族の心情を和らげる。それゆえスタッフにも絶大な信頼を置かれている。

「正木先生に看取られてよかった。この人も本望です」

 最期のお別れに立ち会う家族は誰もがそう感謝の意を述べる。

 最期の最期まで関わるというのがモットーの雪待荘では、医師は患者を病院から送り出した後も、焼香には必ず訪れるという暗黙の了解ができている。

 ここで亡くなった患者は、看護師に湯かんされ、最後のケアをされ、あらかじめ用意した最期のステージを飾る衣装に身をつつみ、安生として旅立つ。

 人が人としてできる最後の真心の行為が死後看護である。

 そこにいのちを救ったという達成感はないが、代わりに最期まで見届けたという責任を果たした安堵感がしみじみとこころを満たす。

 よくがんばったね。立派だったね、お疲れ様。

 ねぎらいの言葉がスタッフの胸に満ちる。

 患者の家族の胸を篤くする。

「死は、誰にでも訪れる。そこから眼を離すな、誰にでも訪れる現象だからこそ大切に見守るのだよ。

 生まれてきた以上は必ず最期を迎えるときが来る。そのときにいかに患者の死への不安を取り除き、夕日が落ちるが如くの生から死への移行を果たしていくのか、いのちに関わる以上はそこから眼をそらしてはいけない」

 佐原院長は常にスタッフに言い聞かせる。

 その思いを忠実に業務に落とし込んでいるのが

 正木医師だった。彼は佐原院長の直弟子だった。

 死のあることが生を生たらしめるのだ。

 期限付きの生だからこそ一日一日を大切に生きるのだ。

 われわれがそうであるならば、患者もまたそうなのだ。

 死に際しては誰も後悔したくない。

 しかし後悔することがあってもいい。

 後悔しないことも、後悔することも、死の前では何の役にもたたない。

 人間はなぜ人間というのか、それはひととひとの間でしか生きられない生き物だからだ。

 生まれるときも、死に際しても独りだが、誰かの手を借りなければ、誰かに頼らなければこの世に生れ落ちてくることはできないし、また旅立つこともできないのだ。

 佐原院長の指針は、スタッフ全員の行動の指針だ。

 ここで働くスタッフは死に直面しながらも明るい。

 死は生の裏側、光と影、昼と夜、のようなものだと個々に感じているから。

 いのちには必ず死が包含されている。

 細胞は五十二日で入れ替わる。髪の毛は日々抜ける。

 およそこの世の中で変化しないものはない。

 だから、死は受け入れていいのだ。死は敗北ではない。

「咲良さん」

 佐々木看護師が呼んだ。

「はい」

「夕べ遅く、電話が行きましたか?」

「きましたよ」

「ショウイチ君から?」

「はい」

「自宅まで連絡してしまってごめんなさい」

 佐々木看護師はそう言った。

「指示を出したのは、僕なんだ」

 ありがとう、とカップを受け取り、一口コーヒーをすすった正木医師が、唐突に咲良に向かってそう言ったので、咲良は面食らう。

 正木医師が指示をだした?わたしに?なぜ?

「ショウイチ君は、がんがリンパに転移して、脳幹まで転移が進んだ。そのため、幻覚を見るようになった。夜が哂う、というんだ。夕べはひどかった。鎮静剤を投与しても効かなかった。泣いて、君の名前を呼んでいるんだ」

「そうなんです」

 佐々木看護師は言った。

「さくら、さくら、と叫ぶから適当に話を合わせてて、それが咲良さんのこととは知らなくて。でも正木先生に来ていただいて、ショウイチ君が正木先生、僕は咲良さんのことが好きで好きでたまらないんだ。咲良さんを見ているとなくなった母を思い出す。今すぐ咲良さんの声が、聴きたいって言うから・・・」

「イレギュラーで済まなかったんだけど、佐原院長に問い合わせて室井さんの携帯番号を聞いて、電話させたんだよ、ショウイチ君に」

 咲良は絶句した。

「でも、ショウイチ君は、佐々木さんのことが好きだって、

 わたしには言ってたんですよ」

 咲良は混乱した。

「そうじゃないんです」

 そう否定する佐々木看護師を見守るように、正木は言葉を引き継いだ。

「佐々木君から聞いていた。僕もショウイチ君の室井さんに対する気持ちはなんどか聞いたことがある。彼は、僕は母親のことをほとんど忘れかかっていた。でも母親がいつも優しくしてくれたことを咲良さんが思い出させてくれた。咲良さんは母親のようだった。母親であり、姉であり恋人だってぽつぽつ、話してくれていた」

「そうだったんですか」

「そのことを咲良さんに僕たちが言ってもいいものかどうかわからなかった。だから僕はショウイチ君にこう言った。ダイレクトに自分から話してみればいい。咲良さんは同情だけで人を憐れんだりはしない。ちゃんと答を聞いたらどうかな、それがダメでも勇気を出してぶつかってみるべきだと思うよって、ね」

「そうなんですね」

 咲良は沈黙した。

 何を話せばいいのかわからなかった。

「そんなふうに、誰かに心を寄せられて、全幅の信頼を置かれるってすごいことですよね」

 佐々木看護師がため息をついた。

「咲良さんってすごいですよね」

「いいえ。それは違う。癒されるんですよ、わたしのほうが」

 咲良は目を閉じる。

「なんといったらいいのか、優しい気持ちにつつまれて、ああ、この人の人生の最後に

 めぐり合えてよかった。間に合ったって思うんです」

「間に合った?」

 佐々木看護師が不思議そうなそれでいて感動を込めた視線を咲良に注ぐ。

「そう、間に合ったのです。わたしたちは最期の最期に出会えた。だからこそ、最高の出会いに変えていかないといけないと思うんです」

 咲良の脳裏に一瞬、冷たい空気の漂う遺体安置所で夫の遺体を捜す自分の姿がよぎった。

 最期の最期に出会えなかった、ただひとりの家族を思った。そして、言った。

「ショウイチはわたしの子供で、恋人ですよ。こころから、そう思う」

 自分の言葉がひとつの答を孕んだことに気づく。


 まだ、妊娠の喜びにつつまれていた時期、ある日の夕方。

 おなかの大きな自分にむけて夫の室井が、何気なく放ったことば。

「俺の名前ってかけるだよね。男の子だったら、一文字とって翔一しょういちってどう?」

「え~、赤ちゃん男の子なの?」

「う~ん、そうだといいなあ」

「知ってるくせに」

「女の子だったら、咲良がつけたらいいよ」

「もしかして、双子?」

「いや、おひとりですね」

「じゃあ、女の子だったら、翔子、かな」

「桜子、なんてのもいいよね」

 室井の柔らかな笑顔が咲良をつつむ。

 咲良は夫の胸の中で甘い幸せにとろけそうになる。

 自分の中に宿ったいとおしい感覚。

 あまりにも遠すぎる思い出に足元がふるえ、

 紗がかかったフィルムのような心もとなさを覚える。


 翔一、だ。それがあの子の名前だった。咲良は確信する。

 待ち焦がれて出会えなかったあの子は、男の子だったんだ。


「不思議ですよね」

 咲良はコーヒーカップを空にして微笑む。

「今までぜんぜん縁のなかったものどおしが、最期の最期に出会えるなんて

 きっと、この先にまた彼とどこかで出会えるような気がしてならないんです。そういう感じって、役割を持たないんですよ。恋人とか、子供とか友達とか、そういう役割を持たずに、すうっと自分の心に入ってすとんと、落ち着くんですよ。まるで境目がないんです。あなたが、わたしでわたしが、あなたっていう、まるい感覚、わかりますか?」

「たぶん、それがもともとのいのちの正体なのかもしれませんね」

 佐々木看護師は微笑んだ。

「いのちには、境目がない、ぼくもそう思いますよ」

 正木ドクターが微笑んだ。

「あなたのいのちは、わたしのいのちにつながっている、そういう感覚がもっと一般的になるといいね」

 正木ドクターは心を込めてそう言った。

 軽やかに咲良は笑う。もうそういう時代に入っていますよ、そして彼女はふわりと髪を揺らしてナースセンターを立ち去った。



 ⅩⅠ



 ショウイチは眠っている。

 薄く開いたまぶたがときどき揺れる。

 規則正しい呼吸がときどきゆっくりとなり、時に止まる。

 リズムが揺れる。

 咲良はじっといのちの音を聴く。

 手を取って、掌に収める。

 冷たいかさついた皮膚。

 さらさらと乾いた砂のような感触。

 ショウイチは目覚める。

「夢をみた。在来線に乗って旅をするの。小さな男の子が乗ってきた。ひざをそろえて

 僕の前の座席に座った。ショウイチといった。僕と同じ名前だったよ。どこまで行くの?って僕に聞くから、わからない、どこまでも、どこまでも行くんだよって答えた。窓の外は桜並木が広がってて、きれいだった」

 咲良は頷いた。

 ショウイチは天井を見る。その眼にはなにも映っていない。

「咲良」

 そういって、ショウイチは再び眼を閉じる。

「名前を呼ぶんだよ、ときどきは。さみしいから」



「15時26分、ご臨終です。お疲れ様でした」

 医師が最期を告げた。

 開け放たれた窓から午後の風が吹き込んだ。

 強い太陽の日差しが黄金色の粉を風に運ばせた。

 日差しが強いのに、風はさわやかだった。静かでおだやかな最期だった。

 咲良と正木医師、佐々木看護師、佐原院長、彼に関わったスタッフの皆が頭を垂れた。

 皆が祈っていた。沈黙のセレモニーはほんの一分にすぎなかったのに、

 その一分がメビウスの輪につながるように永遠という時間に連なっていた。

 誰も号泣しなかった。だれも彼をここに引きとめようとはしなかった。

 彼は出発したのだ。そのことをそこに居る誰もが知っていた。

 彼は旅立った。しかし、彼はどこにも行かないことを皆はわかっていた。

 彼は居る。彼に関わったすべての人の中に。名前を忘れても彼が存在した残り香は残る。

 ふと、咲良の中にイメージが浮かぶ。いのちは子宮の中に遡行するのではない。

 おおもとの光の輪のなかに吸収されるのだ。いのちは、ひかりだ。

 重さもなく色もなくかたちもなく時間に縛られず、ただありのままで自由に世界を見渡している。そんなひかり。それが太陽のようなおおもとの光源に吸収され、一時は休み、力を蓄えてまたここに戻ってくる。そんなきがしてならない。

 だから、いのちは永遠なんだ。咲良は強くそう思った。

 ただ、「想い」だけがあった。





 同日、同時刻。

 午後三時二十六分、医療法人青山会待雪荘前発のバスに、背の高い一人の青年が乗り込んだ。青年は白いワイシャツのボタンをはずした軽装で、グレーのズボンを穿いていた。

 靴は茶色の革靴でよく磨きこまれていた。小さなボストンバッグをひとつ下げた彼は、

 バスの前列の運転席の真後ろに座り、冷房の聞いた車内でボストンバッグから、読み古された文庫本を取り出した。

「毎日、暑いですね」

 青年は運転席でだるそうに首を回している運転手に話しかけた。

「んだね、でもまぁ、あづいのもお盆までだろう。盆すぎっと、すぐさみぐなる」

「そうですね」

「にしゃ(あなた)、見舞いに来たの?」

「いえいえ、退院です」

 そういって青年は微笑んだ。

「退院って、にしゃ、あそごは入ったらすぐ死んちまうどごだぞ。

 ホスピスっていうんだぞ、おんつぁだな(ばかだな)」

「知ってます」

 青年は笑ってつづけた。

「宮沢賢治のね、童話の中に天国の先があるっていう話があるんだけど、せっかく退院できたので、それがどこかこれから確かめにいくんですよ」

 青年は文庫本を指し示した。タイトルは『銀河鉄道の夜』と記されている。

「天国に先なんてあっかよ、まぁ」

 運転手は胡散臭そうに青年を見た。

「あるらしいですよ」

 そういって青年はすっと目を閉じた。

 運転手はおかしな乗客にかまわず、定刻を一分過ぎて車を走らせる。

 咲良の住む住宅地の坂道を抜ける頃、思い出したように

「にしゃは、どごでおりるだぁ」

 と運転手は青年に声を掛けた。

 返事はなかった。

 車内の座席はすべて空席だった。












































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