遠くに消えてった、落書きだらけの夏。
夏の空に、空砲が鳴る。朝起きてから、頻繁に空に声を散らす音を聞くたび、喧騒が増していくような気がした。待ち合わせ場所の潰れかけの駄菓子屋が近い十字路で携帯を弄っていた僕は、何気なく、消えていく音の行方を見上げた。湿り気のない、熱気があふれる夕暮れは、タンクトップでいるのがちょうどよかった。スニーカーのつま先で、汗を流しているであろうアスファルトを叩いていると、受信メールの存在に気づいた。僕はウェブの画面を切る。
新着メールを開くけれど、結局はメールマガジンの配信だった。「夏休み特別企画!」のタイトルにももう慣れてしまったのに、気を紛らわすために、無意味に開く。不覚にも、「意中の彼女を」の文字に、思わずカーソルを向けてしまった。けれど、結局はどこにでもあるような文面が液晶画面に流れてきて、胸の高まりをどこかへ昇華させるかのように、深い息を吐いた。
胸から首の方へあふれてくる動悸は、まるで収まる気配もない。僕ってこんなに緊張する体質だっけ、とも言いたげに、激しいビート音はスピードを速めていく。彼女がメールで言った「水色ベースで金魚柄」の浴衣姿を探し続けて、どれだけ時間が経ったのかもよく分からない。時々、浴衣に身を包む女性の相方にガン付けられたし、自重しなきゃいけないのもわかっている。でも、自分の緊張が僕の行動を制御できなくなっていき、やっぱりあの柄を探してしまう。携帯を閉じて、ポケットに押し込むと、周りに変な目で見られないよう目をふりまき――「誰かかわいい子でもいたの?」「のわあ!」
背中の声に飛び上がった僕は、ひっくり返った声を上げて、人波に凝視されてしまう。短い前髪を引っ張って泳ぐ瞳を必死に隠そうとするけれど、苦笑とも思える声をシャットアウトすることはできなかった。
「ごめんね、待った?」
「い、いや、全然」
綾菜は僕の前で手を合わせて、頭頂を向けた。高い位置でまとめた髪が、僕におじぎをする。
「謝ることないって」
「浴衣どこにあるかわかんなくなっちゃって携帯も充電したままどこに置いたか分からなくなっちゃったしサンダルも奥の方に仕舞っちゃってたから探すのに」「もういいって」
綾菜はすっかり顔を火照らせて、「相変わらず拓留くんは優しいなあ」と笑顔を見せながら言った。というか、二人っきりでそんなことを言われるのは初めてだから、無性に恥ずかしさが込み上げてきて、今すぐ首から上を切り落としたいくらいだ。
「人結構いるね」
僕は咄嗟に言葉をはさむ。
「そうだね、あたし、男の子と二人で夏祭りなんて行ったことないし楽しみだなあ」
満開のひまわりみたいな笑顔を見せた綾菜は、僕の腕に「えいっ」と掛け声高らかに飛びついてきた。僕は一瞬何が起こったのかよく分からず、飛びのいてしまいそうになったところで、心を落ち着かせる。
「……いや?」
「そ、そんなことはないけど、何でいきなり」
「だって祭りに人たちって大体カップルでしょ? なら今日くらい親密にいこうよ」
親密の度を越えてる。などとは口に出来ず、僕は無言のまま肯いてしまう。微かな甘い香りが首筋にかかってきて、緊張の度合いは経験したことがないほどだった。薄い色素が包む腕から直接、綾菜の心音が聞こえてくる気さえする。僕の音も聞こえていないかと最初は不安になったけど、そんな気持ちもどこかへ吹き飛んでしまった。
「ほら、行こっ」
嬉しそうな瞳を向けた綾菜は、僕の腕を引く。
「こ、こら」
太さのあまり変わらない腕を引かれて、サンダルを擦るようにしながら、僕は彼女に連れられていく。客観的に見れば何をやってるのやら、と思うかもしれないのだけど、その時の僕には、この時間が永遠のものになればいいだなんて、儚い願い事を思案していた。
「印出と?」
中間テストが終わり、学校生活に一段落ついた頃、昼休みの教室で僕はその話を友香から聞いた。度のきついメガネを向けて、潔癖症を言語化したなどと揶揄される言葉を僕に浴びせる友香の口調は、いつにもなく強力な気がした。
「だから、あんた綾菜のこと好きなんじゃないの?」
「ばっ、そんなこと教室の真ん中で言うなって」
「減るものじゃないじゃない。大体、あんたが中一のころからずっと綾菜に片思いしてるのなんてクラスの半分は知ってるわ」
「え、嘘」
僕は両手で青ざめた表情を隠して、天井を仰ぐ。噂が浸透するのが早いクラスだとは実感していたけれど、ここまで早く知られるとは思わなかった。
「だから、いっそ二人で夏祭りでも行けば、って思っただけ。正直綾菜だってあんたのこと悪く思ってないし、よく話すことだってあるんだからいいじゃない」
恋愛対象として会話するのと友人対象として話すのか緊張の度合いが違う、と反駁してみるけれど、「黙れこの草食系が」と一蹴されてしまう。お前は僕を罵倒したいだけなのか?
嘆息交じりにつぶやく僕に苛立ったのか、友香はきつい視線を眼前に十センチ前までに向け、教室一帯に響き渡るかのような声を上げた。
「今は私が提案してあげてるけど、どうせあんた一人で綾菜とそんな行事に誘うなんて無理なんでしょ? だったら素直に『行く』って言えばいいじゃない!」
友香の声に気圧され、僕は思わず「分かったから」と連呼してしまう。鼻息を荒くした友香は、憤慨した表情を落ち着かせることもなく、踵を返して自分の席に戻ってしまった。僕自身が情けなくなって、別の意味でため息がこぼれる。
それから数日たって、綾菜にメールアドレスを聞くことができ、より一層綾菜との会話が増えるようになったことには、確かに友香に感謝している。でもあの時に僕は気づくべきだったのかもしれない。典型的な草食系だと僕を揶揄し続けた友香が、こんな話を持ちかけてくれたことに。
毎年夏に行われる花火大会だと、僕らのような若者は、花火を置いて先に屋台の群がる神社に向かうのが通例だ。僕も綾菜に連れられて、屋台が集まる神社に飛び込むと、空が少し薄暗くなり始めていた。煌々と灯る提灯の明かりが点在し、カップルの客、友人同士の客なんかが少しだけ幻想的に灯されているような気がする。綾菜に手を引かれて、人波の中をかき分けたところで、ようやく綾菜が足を止めた。使われなくなった焼却炉を囲む、崩れかかった塀に腰を下ろした綾菜は、僕を手招く。徐にピンク色の女子っぽい財布を取り出した彼女は、小銭を何枚か取り出すと、しかめっ面を見せた。
「むー、お金が」
「無いの?」
「うん、ママがあまりくれなくて、結構前に友達と遊びに行ったときに使っちゃったし」
口を窄めた綾菜は、貧弱に見える百円硬貨二枚をつまんで言った。その表情にやりきれなくなって、僕はジーンズのポケットから小銭を数枚取り出し、もう二枚の硬貨を彼女に差し出す。綾菜は目を丸くして僕の方を上目遣いで見た。
「いいよ、これやる」
「え、でも」
「男の方がこういうのはおごるもんじゃないの?」
それだけ言うと、綾菜は急に光が反射したんじゃないのかと間違えるような笑顔を見せて、嬉しそうに硬貨を取った。けれど、すぐに「むー」と唸って見せて、こめかみをつまむと、もう片方の方に握っていた、僕が渡したのとは違う硬貨を二枚、僕の眼前に突き付ける。
「じゃあ、これはあたしからっ」
僕は思わず目を丸くする。
「あたしからもおごってあげるのです」
にへへ、と白い歯を出して笑った綾菜の無邪気な顔に自然と笑みがこぼれてきて、気づいた時にはその効果を手汗だらけの掌の中に納めていた。綾菜が腰を上げると、「どこ行く?」などと、親にものをねだる子供のような声を聞かせてきたので、僕は思わず「どうしようか」と、おうむ返しにした。
「じゃあ、あたしが決めてもいい?」
綾菜は僕の返答も待たず、急ぎ足でサンダルの音を鳴らしていく。彼女の華奢な体を追っていった先は、屋台が群がる中でもはずれにある、落書きせんべいの屋台だった。タコ頭が特徴的なおじさんの前で僕の名前を呼ぶ綾菜に追いついたところで、綾菜は掌に納めていた二百円を見せる。
「昔から、花火大会に来るときは絶対落書きせんべいを食べてたんだ」
おじさん一枚ください、と言って綾菜はタコおやじに百円玉を二枚渡す。へい毎度、そこの彼氏さんも一緒にどうだい? などと豪快な物言いを見せたおじさんを前に、綾菜は頬から耳の先までを真っ赤に染め上げ、「違いますよ!」と精一杯に手を振った。
「ほ、ほら拓留くんもやろうよ!」
綾菜に呼ばれて、綾菜のことお言えないくらい紅潮させた頬の熱を振り切るように、僕は髪をかきむしると、手汗まみれになった二枚の硬貨を茶黒いおじさんの手の中に落とした。
「お、毎度! じゃあ、せんべいの基盤はこれな、あとはそこに筆を用意してるし、色砂糖や他のトッピングもある、好きにしてくれ!」
薄桃色のせんべいを渡されたところで、僕らは屋台の前に腰を落ち着かせ、平筆を取った。机の上には、七色どころか色とりどりの色砂糖に、多彩なチョコスプレー、バナナや缶詰のフルーツなんかが置いてある。
「正直、これやるの初めてかも」
「ほんと? なら教えてあげる。そこに薄く色が付いた液があるでしょ? それってガムシロップに近いんだけど、それを筆に付けて、糊みたいにして使うんだよ。そうしたらあとは自由で、何やってもいいんだよ、落書きなんだし」
「でもさ、何書いたらいいのか」
「なんだっていいんだよ、そんなの。あ、だったらこうしよう! 七夕は終わっちゃったけど、これからの願いごとを書こうよ! 中学もまだあるし、勉強でも部活でもなんでもいいし」
チョコペンがあるから、それで書けるよと言うと、綾菜は上唇を舐めて、筆を取り出し薄くシロップを伸ばしていく。
……願いごと?
そんなことを言われても、正直困る。今隣には、中学に入った時からずっと想いを馳せていた綾菜がいるわけだし、彼女が今自分の間近にいるだけで、ほとんど願いごとは達成されたようなものなのだ。それ以上望む、とすれば、多分、綾菜とこの先――「決まった?」
「のわあ!」
全身を震わせて、僕は思わず握っていた筆を落としてしまう。恐る恐る顔を上げてみると、一瞬だけおじさんが鋭い視線を向けてきたけれど、すぐに剣幕を緩めてくれて、新しい筆を貰った。肩をなでおろして、苦笑する綾菜をよそに、筆をシロップの中に浸す。筆に水色のシロップが染み込んだところで、せんべいの表面を薄く撫でていく。大体全面にシロップが広がったところで、水色のチョコスプレーを薄く振りかけ、僕はチョコペンの方に手を伸ばした。
「あ」「あっ」
ペンを取ろうとしたところで、綾菜の手に触れて、僕らは思わず手を引っ込めてしまう。スフレみたいなふわっとした肌の感触が今更脳の方に伝わって、更に心音が走り始めた。
「ほ、ほら拓留くんも書こうよ」
「お、おう」
綾菜が皿の上に納めたばかりのチョコペンを摘まんで、俺はせんべいの上にチョコを落とそうとした。
でも、なんて書いたらいいんだろうか。願いごとなんてあまり考えたこともないし、今ある願いごとなんて、恥ずかしすぎて書きたくない。
「よしっ、できた!」
綾菜は缶詰の蜜柑をせんべいの上にトッピングしたところで、両手に持って掲げた。
「早いね……」
「拓留くんが遅いだけだよ、何書くの?」
「え、じゃ、じゃあ印出は何書いたの?」
「え、……と、秘密! 恥ずかしいから教えてあげない!」
なんだよそれ、と肩を落とすと、タコおやじが豪快に笑い声をあげる。
「いいな君ら、仲いいんだな」
もう一枚やるよ、とおじさんは綾菜にもう一枚のせんべいをくれた。寄せていた眉を戻して、笑顔を見せた綾菜は、せんべいにまた薄くシロップを塗っていく。絵の具を玩具のようにする子供のような手つきをよそに、僕はチョコペンを少しだけ押して、チョコのラインを出した。綾菜が教えてくれないのなら、別に僕だって教える権利はないし、だったら口にできないような願いごとを書いても、別にいいかもしれない。
微かに震える指先を滑らせないように、チョコペンで文字を描いていく。とぎれとぎれのチョコのラインはやがて、チョコスプレーとシロップが支配する単調な色彩の野に、いびつな文字を作り上げた。
ふう、と息を吐いたところでペンを皿の上に戻すと、慣れた手つきでフルーツのトッピングに取り掛かっていた綾菜が興味深げな視線を向けてきた。僕は文字の書かれた文面を見られないよう、その面を胸の方に向ける。
「拓留くんは何書いたの?」
綾菜は無垢な子供のような笑みを浮かべる。
「綾菜が教えてくれないなら教えてやらない」
「何よ、ケチー」
綾菜が口を酸っぱくしてそう言った時、遠くの空に轟音が響いた。屋台の群がる神社を守るかのような、広葉樹の梢の切れ間に、七色の光が咲く。僕らは連発する轟音に思わず揃って飛び上がってしまい、ようやく花火が始まった現実を知ったところで、お互いに苦笑し合った。
「行こう、印出」
「待って、あたし穴場知ってるんだ、そっち行こうよ」
おじさんが僕らにせんべいを入れるビニール袋をくれたところで、綾菜は僕の手を掴むと、神社の境内がある方へと、駆け出していく。提灯と人波が流れる石の道を走るたびに、体中を取り巻く夏の風が、僕の鼓動を後押しした。大した距離を走っていないのに、彼女とこうして風を切っていることを、永遠にしてきたような気さえしてきて、思わず笑みがこぼれてしまう。無邪気な表情で花火の音が上がるたびに歓声を上げている彼女を見ていると、心からこう思ってくる。
本当に僕は、彼女が好きなんだな、と。
彼女が言った穴場は、神社の裏にある、倉庫の屋根の上だった。ログハウスのような造りの壁を強引に上って、壁の上に腰を落ち着かせると、綾菜は「結構本気で走っちゃった」と、舌を出しておどける。僕が苦笑して、倉庫の前にある木と木の切れ間から見える、光の群れの方へ眼を向けると、花火はいつの間にか形を変えて、流星群のような軌跡を見せていた。
「星の雨みたいだね」
綾菜が落書きせんべいをかじって言うと、僕は思わず肯いてしまう。
「でもあれって、『スターマイン』って言うらしいよ。あと一文字合ってれば『スターレイン』だったのにね」
綾菜は人差し指を突き上げてそういうと、藍色の光に反射して、真横の綾菜の頬が柔らかく持ち上がる。浴衣の生地が僕の足に伝ってきて、直接綾菜の体温を感じているような、そんな錯覚を覚えた。胸の奥が熱い。僕は気を紛らわすために、ビニールからせんべいを取り出して、かじりついた。
「ねえやっぱり何書いたのか教えてよ」
綾菜が僕の肩をゆすると、僕は「綾菜が教えてくれるなら」と、口を尖らせて言った。けれど彼女は、いじわるだの男らしくないだのと駄々をこねて、握っていた僕のタンクトップの裾から手を離そうとしない。
「だから、綾菜が教えてくれたら教えてやるって」
「……だって、恥ずかしいじゃない」
「僕だって恥ずかしいよ。それはお互い様だろ」
ここまで偉そうなことを言い連ねる僕だけれど、もちろん僕だって綾菜が何を書いたのかをもう少し詮索したかった。そりゃあ、片思いをしている相手のことなら何でも知りたいと思うのが思春期真っ只中の僕の性だし、逆に思わない人の方がいないとは思う。でも、僕はここまで異様に恥ずかしがる綾菜の表情を見るのも初めてだったから、あまりその話題を掘り下げたくなかったのも確かだ。
スターマインがひと段落ついたところで、花火はまた、菊のような形を帯びた花びらを咲かせていく。僕らはしばらく、少しだけ離れながら、花火に見入っていた。金銀色とりどりの輝きを帯びた花が、神秘的な音を奏でる森の中の虫を後押しして、蠱惑的な空間を生み出しているみたいだ。少し経つと、綾菜の頭が僕の右肩に少し垂れ、僕は何も言わずにただ花火の方を見ていた。心音の音がばれないように、息を深く吸っては吐いたけれど、ある意味その行為が、緊張を助長させる。やがて綾菜は、呆けたような声でつぶやく。
「……拓留くんと来れてよかったな」
水面に花びらをこぼしたかのような声に、僕は思わず彼女の方を向いてしまう。
「どうして?」
「あたし、こうやって男の子と二人っきりでいるのって初めてなんだ」唇がかすかにわななく。「だから、どうしたらいいかなんてわからなかったし、正直拓留くんを振り回しちゃったかもしれないし」
自嘲気味に呟く彼女をよそに、僕は鼻をすん、と鳴らした。
「そんなことないよ。僕だって女子と二人っきりでいるのは初めてなんだよ。だから僕だってどうしたらいいかなんてわからなかったし、なんか印出の顔見てるだけで本当に楽しめて」
自分でもかなり恥ずかしいこと言ったよな、と内心つぶやくと、僕の肩で綾菜が苦笑する。
「拓留くんは、本当に優しいよね」
頭を上げた彼女は、僕の手の上に、ほのかな熱を帯びた手を乗せる。
「だって、今日の花火大会って、友香から頼まれたんでしょ?」
僕は思わず目を丸めてしまい、目を細めている綾菜の表情を呆けた顔つきで見つめてしまう。
「……あれって、あたしが友香に頼んだんだよ?」
「え?」
「あたしさ」
綾菜は俯きかけた顔を花火が咲く方へと向けた。
「引っ越すんだ、別の街に」
その言葉を理解するまでに、少しばかりの時間を必要とした。
引っ越す? なんで? どうしていきなり、そんなことを?
本当ならすぐに言葉を返すはずなのに、口元の言葉が気化してしまったかのように、僕の声帯は言葉を生み出すことができなかった。淡い微笑みを空の方へ向けていた綾菜は、少しずつ言葉をつなげる。
「本当は、六月のはじめにもうそういう風にパパから言われてたんだ。でも、いざみんなに言おう、と思うと口がふさがっちゃってさ。だから、友香にしか言えなかったの」
ひどく寂しげな声なのに、綾菜の表情は優しい笑みを向けていた。僕の中で彷徨していたドキドキも自然と薄れていき、儚げで、今にもどこかへ霧散してしまいそうな彼女を横に、言葉が出てこない。どこへ引っ越すの? とか、今度はいつ会えるのかな? とか。のど元まで浮かんできた言葉は自然と僕の中で飽和していき、言葉のかけらとして成り立たない。ひどくいたいけな表情を浮かべていたであろう僕を見て、綾菜は僕の手をぎゅっと握る。
「ごめんね」
自嘲気味に言う声は、少しだけ震えていた。漫画やドラマの世界だったら、ここで僕は彼女のことを抱きしめてあげたいのだけれど、十四歳の僕にはそれをする勇気が生まれず、彼女から目を逸らして花火の方へ視線を向けることしか出来なかった。口の中に残ったせんべいのかけらが、鉄片みたいに思えてくる。
「願いごと、知りたい?」
空を裂くような花火が上がり始めたころ、ぽつりと綾菜はつぶやいた。僕は何も言わずに、顎を引いた。
「恋の願いごとだよ」
胸が高鳴る。茶目っ気のある言いぐさで、彼女は人差し指を回した。
「ずっと好きな人がいてね」彼女の淡い表情が、花火からこぼれる光に反射する。「この街から出た後も、好きでいたいなあ、って」
彼女はせんべいの切れ端をかじると、また僕の方を向いて無邪気な笑顔を見せた。それは僕だって、と言いかけたところで、妙な弱気が僕に漂着して、言葉を溶かしてしまう。
脈拍が落ち着き始めると、僕はため息にも似た深呼吸をした。胸を軽くたたいて、僕は花火の方を見据えて言う。
「……僕もさ」
彼女が僕の方を向く。
「恋の願いごとなんだ」
「……おそろい、だね」
彼女が雫をこぼしたような声で言うと、僕らは笑い合った。もちろん僕は本心で笑うことができなかったし、彼女も目は決して笑っていなかった。
やがて、花火は散発的な音を立てて、光の残滓だけが僕らの中に残った。アナウンスが鳴り、人波が動き始める音が彼方から聞こえてきたけれど、僕らは立ち上がることもなく、無言のまま夜の中に身を沈めていた。何か言わなくちゃ、とは思うけれど、フレーズがこれっぽっちも出てこない。やがて出てきた言葉を言うのに、正直ためらいを覚えたけれど、下唇を噛んで声を絞り出す。
「あの」「あの」
重なった声に、思わず僕らは鼻音を立てた。
「何? 拓留くん」
肩をすくめた彼女を前に、僕はいつになく強気な口調で言った。
「今度はいつ、会えるかな」
それがどれだけ愚昧で、価値のない言葉だとは実感していたけれど、彼女は一瞬だけクスリと笑い、虚無的な声で言う。
「わかんない。でも、またこうやってさ」
彼女は光がまだあった、夜空の彼方に瞳を当てて、不意に立ち上がった。森の発散する、空気を吸って胸を満たした彼女は、僕の方を見下げる。夜の中、木立の切れ目から差し込む月明かりに照らされる彼女は、精霊のような雰囲気を醸し出していた。
「こうやってまた、拓留くんと花火をみたいな、って思ったよ」
彼女は屋根の上から飛び降りて、浴衣をひるがえすと、僕に笑顔を見せた。それは今まで彼女が周囲にふりまいてきたどんな笑顔よりも花開いていて、自然と瞳の奥に何か熱いものが込み上げてくる。
「……ありがと、拓留くん」
その時みた光の粒を、僕は見逃すことがなかった。
踵を返した綾菜が僕の前から去っていこうとする。でも、それでいいのか? これで終わりにしたら、僕は後悔して一生その念を心に抱えることになるんじゃないのか? と、錯綜しながら。
気づいた時にはほとんど無意識で、屋根の上から飛び降りていた。駆け出していた綾菜の寂しげな背中にいたたまれなさを覚えていたころには、胸の奥に山積されていた言葉を吐き出していた。
「綾菜!」
閑散とした空間に、僕の声が飛び散る。綾菜はぱったりと足を止めて、その小さな体を、少しずつまた僕の方に向ける。
「約束だぞ! 絶対またお前と花火見に行くから! 約束破ったら許さないからな!」
ほとんど無意識のうちに絞り出した言葉は震えていて、酷く薄っぺらい言葉だった。でも、遠くの方で僕を見る綾菜の顔は、似合わない涙におぼれてしまいそうで、その顔を見つめ続けるのには相当苦を呈した。
「拓留くん!」
甲高い声に、梢の中に居座るフクロウが押し黙る。
「あたし、言えなかったことがあるんだ!」
無我夢中で叫ぶ彼女の声は、今にも崩れそうだった。
「あたし、拓留くんのことが好きだった!」
「……え」
「中一のころからずっと好きで、こうして今日夜拓留くんといるだけでよかったのに、でもやっぱり言えないと辛いから、言っちゃうけど! あたしは拓留くんが好き! 遠い街に行っても、違う誰かと仲良くなっても、ずっと拓留くんのことが好きだから!」
そう叫ぶと、綾菜は僕の方にまた微笑んで、そして僕の方から遠ざかって行った。僕は現実が信じられずに言葉を出すことすらできなくて、その場に膝をついた。だって、僕だってずっとずっと綾菜のことが好きだったのに。夜寝る時も彼女の顔が脳裏をよぎって、そのたびに胸を苦しくしていたのに。
僕は、想いを伝えられなかった。それはとても――情けない。
僕は屋根に上って、ビニール袋に入ったせんべいを取り出した。でもその中には、僕のせんべいだけじゃなくて、見覚えのないものがもう二枚、入っていた。
かじり後のある一枚には、綾菜の丸っぽい文字がなぞられていた。蜜柑やバナナと言ったフルーツがきれいに並べられていて、七色のチョコスプレーが振りかけられている。僕は何より、その面に描かれていた文字を見て、呆然としてしまう。
『ずっと一緒にいたい』
それが本当に、僕に対しての言葉だったのか、どうだったのかは分からない。でも、零れてくる涙粒はきっと、それの真意を分かっている。そして、もう一枚には、同じようなトッピングをされたせんべいに、相合傘のマーク。そして片方には、「あやな」となぞられている。
僕はその断片にかじりついて、そのまま横たわった。口から全身に伝わるほのかな甘みが、不思議と心地いい。けれど遠い空の彼方に、その甘みも消えていく。空に消える彼女の残滓は、もう僕の手元にはない。
きっと、彼女が帰ってきたら、もう片方に僕の名前を入れよう。その時まで、僕は彼女のことを忘れずにいよう。
君は、あの夏の思い出だから。
いかがでしたでしょうか、企画考案者なのにもかかわらず遅刻して申し訳ありませんでした。
ちょっと納得のいくものはできなかったのですが、中学生の心情は本当に難しくて結構難航してしまったりw
こんな作品でしたが、読了いただきありがとうございました。