天
気づけば道から逸れて、迷ってしまっていた。街道といってもつくられたのは遥か昔で、それは獣道のようであった。古道は山の中をうねうねと蛇行して、落ち葉や朽木を踏み締めて進んだ。森は鬱蒼としていてただでさえ視界が悪いのに、あの小さな社をこえた辺りから、霧がたちこみはじめた。それは、人々が " 霧のくに " と呼ぶ○○地方に近づきつつある証であった。
私はなんとか山を越えて、長閑な郷に出た。田畑が平地に広がっているが、霧が濃いために遠くまでは見渡すことができない。
疲れ果てて、茶屋に入った。草履が破れてしまって、足がひどく痛くなった。背負っていた薬箱をおろして、古臭い畳の上に腰をすえた。茶屋の主人に、草履はあるかと尋ねると婆さんが編んだものがあると言って、三文で売ってくれた。
出されたお茶と握り飯を食べていると、地元の者らしき男ふたりが店に入ってきた。私はなんともなしに、ふたりの会話を盗み聞いた。
彼らが話していたのは、この道の先にある茶屋の看板娘のことだった。なにしろ、とびきりの美人らしく、ふたりはその娘の目をしきりに誉めていた。茶屋の主人は、うちには若い娘がいなくて悪うござんすね、と嫌味を言って、ふたりを笑わせた。
草履を履き替えて店を出た。道をゆくと、ふたりが話していたであろう茶屋にぶつかった。噂の美人につられて、喉も乾いていないのに再び茶屋に入ってしまった。中は男の客で混んでいた。座敷に座ると、娘がお茶を持って出てきた。なるほど、かわいい娘である。町娘らしく、素朴で、ぷっくりとした頬っぺたが愛らしい娘だった。
大福を頬張っていると、隣にいたジイさんに話しかけられた。
「あんた、薬売りかい?」
「ええ、そうです」
「わしはひどい腰痛持ちでな。なにかいいのがあれば売ってくれないかい?」
「そういうのはないね。私が売り歩いているのは、普通の薬ではないのです」
「普通ではない?」
「この箱にあるのは、舶来の高級品ばかりでしてね。特殊な珍品ばかりです」
「へぇ、どんな?」
「天竺の山奥に住む蝶を干して粉末にしたものだったり、龍の鱗やら鳳凰の鉤爪やら」
「おもしろいな。しかし、そんなもの買う奴がおるのかね?」
「武家や商人が珍しがって買っていただけますよ」
「金持ちの道楽ってわけかい?」
「まぁ、そんなもんです。だから、是非ここらの金持ちを教えてほしいんだが」
「そりゃ、金貸しの池上だろう。豪勢な門構えだから、町の方にいけばすぐわかると思うがね。奴は成金だから、いい客になってくれるだろうよ」
「どうも」
「して、その龍だの鳳凰だのの珍品はホンモノなのかね?」
「それは、信じるも信じないのも、あなた次第でさぁ」
「かっかっかっ」
老人は歯抜けの口を大きく開けて笑った。
「あの娘、かわいいね」
私は忙しそうに立ち働いている娘をさして言った。
「そうだろう。ここらの男たちはみな彼女に夢中なのさ」
「ふむ、愛らしい顔だ。少し外を向いた眇なのが気になるが」
「なに言ってなさる、それがいいんじゃないか」
たしかに眇の女には、どこか神秘的な、独特な魅力がある。その看板娘を見ていると、ドキッとさせられる。眇の女はどこを見ているか、わからない。しかし、だからこそ、見られている気もする。今、自分のことを見ていたのではないか、と客たちは錯覚する。彼女は、ただ単に給仕をしているだけだろうが。
池上とかいう家に押し売りに行くのは明日にして、街道沿いの安いボロ宿に入った。荷をほどいていると、汚らしい修行僧がやってきた。長い間、放浪していたとみえて、髪と髭がぼうぼうに伸びていた。彼は縁側に水をいれたタライをもってきて、剃刀でそりはじめた。
「行商人さんか? ここいらには、よく来るのかい?」
坊主は剃刀をもつ手を動かしながら、話しかけてきた。
「いえ、はじめての土地なのです。言われている通り、すごい霧ですね」
「ああ、おかげで全然見えやしない。まるで山水画の世界や」
「でも、嫌いではないですね。風流だと思う」
「そりゃええわ」
彼は髭を剃り終えて、頭の方に取り掛かった。慣れた手つきで、シャッシャッと気持ちよく髪を落としていく。
「眇の女は見たかい?」
「茶屋のとこの?」
「茶屋? いや、茶屋の娘は知らんが。そうか、知らんのか」
「なにがですか?」
「ここらでは、眇が美しいとされているんだよ。だから、○○の男たちは、眇の女に目がないんやね」
「へぇ、それは知らなかった。おもしろい」
「やつらは、眇を " 天眼 " と呼んでいるがね。神仏のように物事を広く見わたせるっちゅう、縁起物らしいわ」
「霧が深い土地だからですかね」
「そうかもしれん。しかし、まぁ、こうして旅ばかりしていると、その土地々々にいろんな風習があって、おもろいわ」
「ええ、まったく」
坊主は剃り終えた頭を撫でまわして、どんよりと曇った灰色の空を見上げた。
翌日、町の方へ行った。池上とかいうものは、立派な門構えですぐにわかった。隣接する店では、商人たちがそろばんをはじいたり、銭を数えたりしていた。
下女に案内を乞う。
「私は海越え山越えやって来た、薬売りでごさいます。しかし、ただの薬売りじゃござりません。私があつかっておりますのは、皇がおさめし全国、津々浦々の土地から、いや、大海原を越えた朝鮮、支那、はるばる天竺からもかき集めた、古今東西のたいへん物珍しい妙薬でごさいまする。いかなる病気でも言ってくだされば、私がすっかり治してしまう御薬をお出しいたしましょう。ぜひ、ぜひお買い上げ、いやいや、ご覧になるだけでもけっこう、結構。ちょうどいい、退屈しのぎになりますよ!」
ここで下女に小さな水晶石をくれてやるのが大事だ。
下女が奥にさがって、主人を呼んできてくれた。主人は成金らしくでっぷりと太った恰幅のよい男で、目を糸のように細めた作り笑いで、私を招き入れた。
主人は、細君と三人の男の子を呼んで座敷に腰をすえた。私は箱から次々と商品を出しては、口上をたれる。
「さぁ次に御目にかけまするは、広大な支那の国を飛び越えてやっと辿り着く最果ての地、西蔵から伝わりし一品、白虎の牙でごさいます。西蔵には、天まで届くかと思われるほどの、それはそれは高い山々が聳え立ち、地元の人間でも簡単には立ち入ることができませぬ。そこに住まうのが、白虎でごさいます。人前には滅多に姿を現さず、半ば幻の獣。険峻な崖を軽々と跳梁し、ほかの獣たちを統べる山の王。そんな誇り高き獣の牙が、コチラなのです!
薬には同物同治というものがごさいまして、治したい体の部位と同じものからつくられた薬を飲むのがよろしい。この牙を粉にして煎じて飲めば、生涯、虫歯になることがなくなってしまうという謂れが————」
子供たちは妙薬を食い入るように眺めて、金貸しの主人も興味がひかれているようだった。
ただ、気になっていたことがあった。それは細君が、白無垢の花嫁が身につける綿帽子のようなものをかぶっていることだ。すっぽりと頭を覆っていて、目元が見えなかった。出された薬を見るときは、面をこころもち上げて、まるで盗み見るようにうかがっていた。私が女に視線を送ると、さっと面を下げてしまう。
主人が私の視線に気づいて、少し怪訝な表情をした。
「いや、失礼。あまり見ないものをお召しなもので」
弁明をして、主人の表情はほころんだ。
「これは、" かくし " といって、よその男に天眼を見られないようにするものです。美しい目をそう安売りしちゃ、もったいないですからね」
「なるほど」
「どれ、せっかくだから、お前の立派な天眼を見せてさしあげなさい」
女はゆっくりと被っていた布を持ち上げた。
彼女には悪いが、正直なところ、私はぎょっとしてしまった。
女の眇は、なかなか見ないほど酷いものだった。二つの瞳は、近づけた磁石のように反発しあって、強く外側を向いていた。左目はより一層外を睨んでいて、その瞳は下弦の月のようだった。
「いやはや、たいへん美しゅうごさいます」
私はおずおずと世辞を言った。
「そうだろう、そうだろう。自慢の嫁なのだ」と主人はご満悦。
細君は一礼して、再び綿帽子を被りなおした。
「———これはきっと、驚きになりますよ。なんと龍の鱗でございます! 古来より、支那では龍は———」
肝心の薬売りの方に戻ろうとしたが、ダメだった。女の強烈な目が脳裏にこびりついて離れない。楽しそうにしている子供たちを見て、気持ちをまぎらわそうとしたが、意識しないようにすればするほど、女の存在が意識されるのだった。あの布の下から、あの目が私をのぞいている!
あらかた商品を紹介し終えて、子供たちの無邪気な問いかけに答えていると、ただいまという声がした。入ってきたのは、眼帯をした女の子と、子守りらしき若い女。
「千代はほんとにお散歩が好きだねぇ。行商のお兄さんがおもしろいものを見せてくれるから、こっちにきなさい」
主人が呼びかけると、少女は駆け寄ってきて、畳の上に並べられた品々をまじまじと眺め出した。顔を近づけて、まるで猫のような姿勢。
少女はある薬をひとつ手にとって、眼帯をしていない方の目で見た。硝子瓶に入った小さな黄色い花。
「それは、砂漠に咲く幻の花だよ。遊牧民の話では、十年に一度、新月の夜に咲いて、、、
お嬢さんは、目のご病気で?」
私は主人に尋ねた。
「いや、これは病気ではない。天眼になるための矯正をしているのです。今は左目を隠しておりますが、来月には右目を隠します。再来月にはまた左を隠して、左右交互に。そうすると、やがて美しい天眼の娘になるんですな」
「ほう、それはすごい」
よその風習に口出しする気もないが、それはすこし、やりすぎな気もした。
少女は砂漠の花をえらくお気に召したようで、その薬瓶を離さなかった。もっとよく見ようと、彼女は眼帯に手をかけた。
「こらっ、眼帯を外すなといつも言っているだろう!」
主人が怒鳴った。少女はびくりとして、眼帯を目にかけ、薬瓶を私に返してきた。名残惜しそうで、私もすこし、悲しくなった。
細君は、静かに、奥ゆかしく鎮座している。この女の眇は、病気や生まれつきであろうか。それとも、眼帯の月日を経てこうなったのか。病気であればいいのに、なんて考えるのは、変だ。
結局、金貸し屋は小さな高麗人参を一本買っただけだった。ケチな男である。




