誰かの手記③
百二十五日目────
この世界に降り立つ方法を検討し始めて、随分と時が経った。
視座が動かせることは早々に理解できた。高度もある程度は自由に動かせる、ということは、地上の様子も間近で観察することができるはずだった。
だが実際には、人の目線で世界を見渡すことは出来なかった。ここまで出来ないとなると、慣れの問題ではないと結論付けるしかないだろう。
やはり、一番現実的だったのは、憑依することである。
この広い世界には、スピリチュアルな存在との交信をしようと試みる者が何人もいる。その中でも、憑依されることへの耐性を持っている者には、少しの間だけ入り込むことができた。
しかし、その人間の視界などの五感を得ることができる程度で、近くの人間とコミュニケーションを取るまでには至らない。
更に言えば、耐性を持っていたとしても、少し憑依するだけで身体が疲弊してしまい、数分も持たない内に弾き出されてしまう。耐性のない人間については、入り込もうと意識するだけで気絶してしまう程だ。正直、視界もかなり朧げだし、周りの音などロクに聞こえない状態だ。
私の身勝手で誰かが満身創痍になるその様子は、なかなか見れたものではない。現実的ではあるが、そう何度も行えるものではなかった。
それともう一つ、これは現時点で再現性の低い方法だが、ごく稀に偶発的に起きた現象である。
恐らく、とある場所……座標といった方がいいのか。この世界にいくつか点在するそれらには、そのままの私で降り立つことができた。
何故その座標なのか、そこに何があるのか、あらゆる要素が未検証だ。記録している限りでは、その座標ならば少しばかり時間を置くことで、繰り返し降り立つことができるのだ。
ただし、憑依した際に比べても短い、まさに刹那の一瞬である。これではコミュニケーションどころではない。
いや、それで言えば一度だけ、その瞬間を他人に見られたことがあった。当然、コンタクトにすら数えられない一幕であったが、唯一私の姿を見た者は確か、若い男だったような気がする。
彼には私が、どのように映ったのだろう。人の形をしていたのだろうか。これも確証を持つ術はないが、私が欲している情報の一つでもある。
この世界において、私という存在は何なのか?
私はこの世界を、様々な角度から観測しようと試行錯誤しているだけで、この世界に直接影響を及ぼしている様子はない。いや、影響を及ぼしていたとしても、それを認知出来ていない。
神様、天使、上位存在。前世ならどれも赤面モノの妄言だが、誰もいないここで恥をかくという概念を持つ必要もない。故に、この可能性も考えるが、それにしては何も出来なさすぎる。
神はサイコロを振らない、なんて言葉を聞いたことがあるが、振らないのではなく、振れないのである。一体何ならできるのか。
しかし、様々な試行の中で、出来ることも増えてきている。
最初の頃よりも、視点の移動が早くなったのに加え、時間の進みをある程度コントロールできるようになった。
気がつくと矢のように流れる時の移ろいを、自身で緩めることができるのは非常に有り難い。
あとはこの世界に降り立つ方法の確立である。そうすれば、何か更なる進展があるはずだ。
こうして文字にしてみると、自分では気付かない自分を見つけることができる。
私はきっと、誰かと話がしたいのだ。




