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幽雅亭

 ギルドを出て、石畳の通りを歩く。

 夕暮れ前の街は人通りが多く、店先の呼び声や馬車の音が混ざり合っていた。


「しかし幽雅亭ねぇ……」


 モグが腕を組み、首をひねる。


「名前だけは聞いたことあるが、行ったことはねぇな。

 なんでも“やけに雰囲気がある”って噂だったか」


「雰囲気、というより空気だね」


 ティルが補足する。


「魔力的な意味で。あの一帯だけ、感情に反応する結界が薄いらしい」


「またそういう胡散臭い話を」


 シンヤは苦笑しつつも、足取りは軽い。


「でもさ、そういうのがいいんだよ。

 仕組みとか演出とかじゃなくて、こう……素でドキドキできるやつ」


「今の君に必要なのは“免疫のない刺激”だからね」


 ティルがさらりと言う。


「それを初心と呼ぶか、耐性不足と呼ぶかはさておき」


「やめろよ、ちょっとかっこよく言うな」


 そんなやり取りをしているうちに、通りの奥に――

 ひときわ異質な建物が見えてきた。


 瓦屋根のような緩やかな曲線を描く屋根。

 しかし壁は石造りで、アーチ状の窓には洋風のステンドグラス。

 木製の引き戸には、金属製の取っ手が付いている。


「……和と洋をごちゃ混ぜにしたみてぇな店だな」


 モグが率直に言った。


「異世界感満載だ」


「幽雅亭――ルミナ・レイス」


 ティルが看板を読み上げる。


 淡く光る文字は、よく見るとほんのわずかに揺らいでいた。


 その前から、ちょうど数人の客が出てくる。


「いやぁ、楽しかった……!」


 若い男が顔を紅潮させ、仲間に話している。


「女の子と、あんなにゆっくり喋ったの初めてだよ。

 ちゃんと話を聞いてくれるしさ……」


「はは、わかるわかる」


 別の客は肩を落とし、ため息交じりだ。


「御主人様になれたら、すんごいサービスがあるらしいんだが……

 俺には無理だった。緊張しすぎてな」


「惜しかったなぁ」


 そんな声を背に、三人は顔を見合わせる。


「……ほらな」


 シンヤが小さく笑う。


「初心者歓迎ってやつだ」


 入口脇には、可愛らしい立て看板が置かれていた。

 丸みのある文字で、こう書かれている。


――

ここから先は、ご主人様になりきってください♡

ウブなご主人様も大歓迎です


私たちは、お帰りを待っています。

御主人様を

――


「……お帰り、か」


 モグが顎を撫でる。


「店に入るってより、帰る感じだな」


「言葉選びが秀逸だ」


 ティルが頷く。


「歓迎ではなく、待っている。

 客ではなく、御主人様」


 シンヤは深く息を吸い、吐いた。


「よし」


 取っ手に手をかける。


「この先に何があるのか……

 確かめに行こうぜ」


 三人は一瞬だけ顔を見合わせ、

 それぞれの期待と不安と好奇心を胸に――


 幽雅亭の扉の前。


 三人は、無意識に喉を鳴らしていた。


 ごくり。


 メイド喫茶という形は知っている。

 これまでいくつも巡ってきた。

 だが――目の前の扉からは、妙な圧を感じる。


「……緊張してるのか、ワシ?」


 モグが小声で呟く。


「空気が重いわけではない。ただ……濃い」


 ティルが目を細める。


 シンヤは、取っ手を握った。


「初心、だろ」


 そう言って、ゆっくりと扉を押し開ける。


 ――その瞬間。



「「「 お帰りなさいませ♡ ご主人様~♡♡ 」」」



 甘く、弾む声が店内いっぱいに響いた。


 思わず三人の動きが止まる。


「……は?」


 間の抜けた声を出したのはモグだった。


 視界に飛び込んできたのは、女の子たち。


 和を基調にしたメイド服。

 袖や襟元は着物の意匠を残しつつ、フリルやリボンが可愛らしくあしらわれている。


 だが――違和感は、そこではない。


 踵より下が、ない。


 透けている。


 床から数寸、浮いている。


 ある者は膝から下が霞のように淡く、

 ある者は腰から下が霧のように揺らぎ、

 中には本当に、上半身だけがそこに在るかのように漂っている娘もいた。


「……おい」


 モグの声がわずかに震える。


「これ、浮いてねぇか?」


「浮いているな」


 ティルは冷静に観察しているが、耳がわずかに赤い。


 視界がゆっくりと広がる。


 店内は、貴族の邸宅を思わせる重厚な造り。

 高い天井、シャンデリア、深い色の木製家具。


 それでいて、テーブルには丸いレースクロス。

 壁には可愛らしい花の刺繍や、手書き風のメニュー。

 硬質と柔らかさが同居している。


 そして。


 女の子たちが、こちらへ歩み寄ってくる。


 ――いや、歩いてはいない。


 音もなく、すべるように。


 にこにこと微笑みながら。


 瞳は煌びやかで、期待に満ちている。


 まるで、ずっと玄関で待っていた犬が、

 帰宅した主人に駆け寄る瞬間のような――そんな目。


「……」


 三人は、思わずたじろぐ。


 だが。


 シンヤだけは、ふっと笑った。


「なるほど」


 一目で理解した。


 この店は、本気だ。


 立て看板の言葉が、脳裏によみがえる。


 ――ここから先は、ご主人様になりきってください。


 試されるのは、客ではない。


 “御主人様”だ。


 シンヤは小さく息を吐き、覚悟を決めるように一歩、前へ出た。


「……帰ってきたぞ」


 その言葉が、自然と口からこぼれた。


 幽雅亭の空気が、わずかに震えた気がした。

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