仮面
ステージの音楽が少しトーンを落とす。店内に漂う空気が、ふと、緩やかに変わったように感じた。
柔らかな光がソファ席に差し込む中、シンヤはグラスをゆっくりと置いて、ぽつりと口を開いた。
「……夢を見たんだ」
その声に、わたしは顔を上げる。
「いや、夢っていうか……誰かの願いが、流れ込んできたような感じだった。頭じゃなくて、胸の奥に、直接、届いたっていうかさ」
わたしの指が、膝の上でぎゅっと揃う。シンヤの言葉の奥に、なにかがあると感じて。
「……だから、今日はなんとなく、この店に来たくなったんだよ。目的っていうほどのもんでもないんだけどさ……」
彼は少し笑って、視線を落とした。
「昔さ、森の中で子狐を助けたんだ。すげえ可愛い、ピンク色の毛並みをしたやつでさ。……なんていうか、ミヨンちゃんみたいだった」
――どん。
心臓が跳ねた。
あのときの記憶。ずっと、心の奥にしまっていた小さな灯火が、ふっと明るくなる。
「そいつ、助けたあともずっとついてきたんだよ。……いや、面白かったんだ。足を止めたら、そいつも止まってさ。近づくと、ちょっとだけ離れて」
彼は、どこか懐かしそうに見上げた。
「怖かったのかな……って思ってた」
「……違うよ」
わたしは、無意識につぶやいていた。
でも彼は気づかないまま、話を続ける。
「それからさ、色々試したんだ。ご飯で釣ってみたり、猫じゃらしみたいなやつ振ってみたり。効くかどうか分からないけどな」
思い出して、笑っている。優しい、あの頃の笑い方。
「でもダメだった。ホント警戒心が強くてさ。……やっぱ動物って、異種族娘とは違うって思ったよ」
「……恥ずかしかっただけ」
わたしは、小さく笑った。今はもう、隠せない気がして。
「でさ、どうしようもなくなって、全部投げ出したんだよ。座り込んで、空を見上げてさ。もう、やーめた、なるようになれってさ」
彼の声は、とても静かだった。
そこから、シンヤの表情がふと変わる。なにかを思い出すように、眉がゆるやかに下がった。
思い出した。忘れてた……いや、思い出すべきだった記憶。
彼の隣にぽっかりと隙間があって。そこに、"入っていいよ"って言われた気がした。
だから、一歩だけ踏み出してみた。そしたら、あとは……すごく簡単だった。
わたしの手が、震えている。
「気づいたらさ、あいつは俺の隣にいた。……近くで見ると、ほんと可愛くてさ。すげえいい匂いがしてさ。
頭とか、首元とか撫でてやったら、すげえ喜ぶの。これまでの苦労てもう、なんなんだろうな、って」
――嬉しかった。
その一言が、どんな言葉よりも、わたしの胸を温かく満たした。
「……心地よかった。ほんと、あの時間は特別だった。でも、俺、バカだからさ。つい、変なこと言っちゃって……」
彼はグラスを指先でなぞる。
「"異種族娘だったらなぁ"って。……口に出してから、しまったと思ったけどな。おとぎ話を信じるガキかってな」
そのとき、わたしの中で、何かが決まった。
もう、これ以上は待てない。届けたい。わたしの、この想いを。
ずっと、ずっと伝えられなかった――想いを。
わたしは仮面の奥で、しっかりと目を開く。
「……童話は、本当になったよ」
その言葉に、シンヤの目が、まるくなる。
「……え?」
戸惑うように見返す彼に、わたしはそっと笑いかける。仮面の奥の唇が、確かに微笑んだ、その瞬間――
パッ、と。
店内の照明が、温かな桃色に切り替わる。
ステージの上から、元気な声が響いた。
「さーびすた~いむっ♡」
ふわふわの尻尾が一斉に舞う。
“モフモフタイム”のはじまりを告げる、合図だった。
「モフモフタイムのお時間ですよ~♡」
ステージから、元気な声が響き渡った。店内の照明が、より一層柔らかな桃色へと切り替わる。
「は~い♡」
あちこちから、とろけた声が上がる。ふわふわの尻尾が一斉に揺れ、ソファやクッションの上に座る客たちは思い思いの姿勢で、その幸福の瞬間を味わい始めた。
「お隣のキツネ娘の耳や尻尾のモフモフをご堪能くださいませ~♡
ただし、過度なおさわりは禁止ですよ~。守れない子には――お・し・お・き、です♡」
これまで一体感に包まれていた空間が、ふと分断されたようだった。各々の世界に没入するように、客たちは目の前のモフモフへと意識を向けていく。
――だが。
ここだけは、違った。
シンヤとミヨン。その世界だけは、今、まったく別の意味で深く交わり始めていた。
「ミヨンちゃん……何を……?」
シンヤが、声をかける。まるで、夢の続きのように。
ミヨンは、小さく息を吸って――そして、はっきりと告げた。
「ずっと……会いたかったよ」
シンヤの目が、わずかに見開かれる。
「ずっと、必死に探してたの。シンヤに近づきたくて、声を届けたくて。……なれたんだよ、ようやく……」
ミヨンの声は震えていなかった。覚悟を宿した響きが、まっすぐに届いていた。
「もう、隠さない。わたしのこの想いを、届くまで、何度だって伝えるよ」
「……っ」
「シンヤが願ってくれた姿になれた。シンヤに、声が届くようになって、……それが、すごく、すごく嬉しいの」
「……嘘、だろ……?」
シンヤの声が、かすれる。
ミヨンは静かに微笑んで、ほんの一瞬、目を伏せた。そして、そっと口元を緩める。
「最初に見せたかったんだよ。わたしの顔……一番に、あなたに」
シンヤの手が、ゆっくりと仮面に伸びる。ミヨンは拒まない。言葉もいらない。ただ、そのまま、静かに受け入れる。
――カチャ。
仮面が、外された。
淡い光の中、姿を現したその顔に、シンヤは、言葉を失った。目を見開き、しばし、呼吸さえ忘れてしまったように。
――どうかな。変じゃないかな。……これが、シンヤの願った姿かな。
不安は滲んでいなかった。もう、不安なんてどうでもよかった。
ただ、ひたむきにまっすぐに想いを伝えたかった。
「……わたしの名前は、ユラ」
その名が、今、ようやく告げられる。
「ずっと、ずっと――あなたが、大好きだったよ」
その言葉と同時に。
ユラはそっと身を乗り出し、シンヤの肩に手を添えて、優しく、けれど確かに――その唇を重ねた。
やわらかくて、あたたかくて、願いがひとつ、形になった音がした。




