わたしの一歩
扉の鈴が、からんと鳴った。
耳が、ぴくりと動く。
それと同時に――全身の毛が、ぶわっと逆立った。
この匂い。
甘くて、懐かしくて、安心するのに、心臓が飛び跳ねる。
間違いない。あの人だ。
わたしの中に染みついていた、あのときの記憶と、ぴたりと重なる。
目を向けると、三人の人影。
中央にいるのは――シンヤ。
間違いようもなく、あのときの、わたしを助けてくれた人。
どうしよう。
声なんて、出せない。
足も動かない。
けれど、わたしの耳も、尻尾も、正直だった。
震えが止まらない。
全身が、彼の存在を受け止めていた。
……その人の隣には、小柄な体にごつい腕の男と、すらりとした耳長がいる。
お友達なのかな? 旅の仲間? ギルドの人?
そんなことを思っていると――シンヤが、ふとこちらを見た。
目が合った、ような気がした。
その瞬間、わたしの胸が跳ねた。
彼の表情が、わずかに変わる。
頬に、赤みが差した。
まるで、何かを思い出したように。
わたしの仮面の奥にあるものを、感じ取ったように――
「よぉ。三人だけなんだけど、大丈夫かい?」
いつもの、どこか気の抜けたような軽い調子。
シンヤの声が、店内に響く。
「あら、いらっしゃいませ! ご予約の“シンヤ様”ですね?」
カウンターにいた店員さんが、笑顔で応じる。
「例の“レビューで繁盛請負人”のご来店だ~」
「お店の記事、楽しみにしてますよっ!」
「やめてくれよ、大げさに言うなって。俺はただの客。節度ある紳士さ」
シンヤが肩をすくめて、苦笑する。
隣のドワーフが「どこが紳士だよ」とぼそっと突っ込んで、三人で笑い合う。
その間にも、わたしの胸の鼓動は、どんどん早くなっていった。
「それと、当店では過度な接触は禁止となっております。ご理解くださいね」
「もちろん。ルールはちゃんと守るさ。サービスを楽しむのと、無礼を働くのは別だろ?」
シンヤの言葉に、店員たちも安心したように頷く。
――その言葉を聞いて、わたしは一歩、踏み出そうとした。
ずっと、待ち望んでいたはずなのに。
ずっと、願っていたはずなのに。
その一歩が、なかなか踏み出せない。
頭の奥で、過去の記憶が蘇る。
……あのときも、そうだった。
子狐だったわたしは、怖くて、近づけなくて、でも――
ふとしたときに、あの人の隣にいた。
気づいたら、そうしていた。
たったひとつの勇気。
それが、わたしの始まりだった。
怖くても、震えていても、あのときの自分は、前に出た。
ただ、願う気持ちだけで。
踏み出した後は呆気なかった。
あの人の優しさは不安をも掻き消し、そっと包み込んだ。
――だから、わたしも。
震える手を胸に当てる。
ほんの少しだけ、深く息を吸い込んで。
わたしは、彼の前へと歩き出した。
視線が集まる。
でも、もう逃げない。
仮面の奥の瞳で、彼をまっすぐに見つめながら――
「……シンヤさん、わたしを……指名してくれませんか?」
店内が、一瞬、静まり返った。
"わたしを……指名してくれませんか?"
その言葉が、空気を止めた。
「え……ミヨン?」
「うそ……あのミヨンちゃんが……?」
店員たちの声が、ざわつきを含んで漏れる。
ミヨンは、恥ずかしがり屋で、いつも裏方。
掃除や受付の補助をしていても、接客に立つことはなかった。
それが、いきなり――自分から前に出て、指名を願うなんて。
「逆指名かよぉ! なんだそりゃ、ルール違反だろ! がははっ!」
モグが大げさに肩をすくめて、笑うように言う。
その隣でティルが眉をひそめて、「これは……文化的に、非常に興味深い」と何かに感動している様子だった。
「いやいやいや、これはずるいって~。こんなの見せられたら他の子に悪いわ!」
「指名されるための努力」が基本のこの世界で、「自分からお願いする」なんて展開は滅多にない。
だからこそ、周囲はざわついていた。
だが――
その中心で、シンヤは、ただ静かに立ち尽くしていた。
驚いていた。もちろんだ。
いつものお店では、異種族の娘たちは皆、甘く迫ってくる。
わかりやすい好意。媚びるような視線。くすぐるような囁き。
だが、ミヨンのそれは――違った。
控えめで。
でも、真っ直ぐで。
ただ、願うように。
震える声で、それでもしっかりと届いた言葉だった。
それに、シンヤは目を細めた。
優しく、どこか懐かしむような微笑みを浮かべる。
「……女の子からの誘いを、断れるほど俺は鈍くないよ」
そう言って、静かに頷いた。
その瞬間、ミヨンの耳が、ふわりと揺れる。
尻尾も、心なしか少しふくらんだ。
そして、仮面の奥の目が、嬉しそうに、こくりと頷いた。
嬉しかった。
怖かった。
でも、会いたかった。
伝えたいことが、たくさんある。
(いまのわたしは、ちゃんと話せるよ――)
あなたに出会って、変わった。
あのとき何も言えなかったわたしが、いま、こうして声にできた。
(伝えたい想いが、いっぱいあるんだよ)
けれど、言葉にはまだできない。
それでも、この時間があれば、少しずつ伝えられる気がした。
シンヤの前に立ったこの一歩が――
わたしの願いの、始まり。




