モフ子
お店に来てから、しばらく経つ。
人の姿になっても、「本当になれた」とは、まだ思えていない。
だから、わたしは仮面をつけている。
誰かに顔を見られるのが、怖かった。ただ、それだけ。
それでも、お店の人たちは受け入れてくれた。
「ミヨンちゃん」って呼んでくれて、優しかった。
お面の奥で、耳がぴくりと動く。
――また、匂いがした。あの人の、匂い。
甘くて、懐かしくて、心の奥がくすぐったくなる。
毎日、濃かったり薄かったりしながら、その匂いはお店のあちこちを漂っている。
動き回ってるんだなぁって、わかる。どこに行ったのか、何をしたのか、匂いの重なりで何となく察せられるようになった。
わたしの中では、もう確信している。
あの人は――シンヤ。
あのとき、わたしを助けてくれた人。
「異種族娘ならなぁ」って、ふっと笑った、あの声。
姿も、匂いも、優しさも、全部……あのまま。
噂で聞いた。
「シンヤ」って名の男が、異種族娘の店の記事を書いてるって。
彼の記事が出ると、店はすぐに繁盛するって。
色んな店に顔を出してる、ちょっと変な人だけど、憎めないんだって。
――だからわたしは、信じてる。
ここに来た理由も、あの人があの頃のままの優しさを持ってるってことも、全部。
きっと、あの人はシンヤ。絶対にそう。
お店の人たちは、そんなわたしを「ミヨンちゃん」って呼んでくれる。
ほかにも「モフ子」なんてあだ名もある。
尻尾がすぐ動くから、感情がばれやすいって笑われるけど……嫌じゃなかった。
見た目のせいか、「少女っぽいけど大人びてるね」って言われたことがある。
そうなのかもしれない。
毛並みは昔と変わらず、淡いピンク。
柔らかくて、くるんと丸まる尻尾。
耳はふわふわで、触られるとすぐに熱くなる。
でも、それを気にして仮面をつけているわけじゃない。
……本当は。
顔を見せて、もし違ったらって思うのが、怖いだけ。
だから、今日もお面をつけて店の裏で働いている。
でも、心の中ではずっと――
ずっと、会いたいと思ってる。
シンヤ、わたしはここにいるよ。
ずっと、あのときのまま、あなたのそばにいたいって思ってる。
いつか、仮面を外して――名前を呼んでほしい。そのときのために、まだ顔は見せられない。
今日も、わたしは裏方。
皿を洗って、食材を並べて、タオルをたたむ。
地味だけど、静かで落ち着く仕事。
目立たないところにいるのが、ちょうどいい。
お面をつけていれば、余計なことを聞かれずにすむし、顔の表情も隠せる。
でも最近――少しだけ、様子が違う。
「ねえねえ、あの子、誰? あのピンクの……ほら、モフモフの子」
「仮面つけてるのに、すっごい可愛いよね。珍しい毛色だし」
「ひょっとして、裏からたまに出てくる子じゃない?」
ホールの方から、そんな声が耳に届く。
くすぐったくなるような、誇らしいような、不思議な気持ち。
「ミヨンちゃん、今日はちょっとだけ表に出てみない? 注文の品を届けるだけでもさ」
同僚の店員さんが声をかけてくれた。
わたしは、すこしだけ戸惑って――それでも、頷いた。
仮面の下、頬がほんのり熱い。
でも、心臓はもっと熱い。
はじめて、お客様の前に出るなんて。
どんな顔をしたらいいのか、わからない。
お膳を抱えて、ふわりと店内に出たとき――
視線を感じた。
「わ、あの子、ほんとにいた……」
「ふわふわ……ピンクの毛並みって、本当にあるんだな」
「可愛い……でも、仮面……あれが逆にいいのかも……」
小さくざわめく声。
好奇の視線。
でも、なぜかイヤじゃなかった。
店員さんたちが、困ったように笑う。
「ダメですよ、あんまり見つめたら。うちのモフ子ちゃん、恥ずかしがり屋なんですから」
「まだ表に出るの、早いくらいなんですから」
くすくすと、店内に笑いが広がる。
でもそのとき――
「ここってさ、例の“シンヤ”が来るかもしれないって噂あるよね?」
その名前に、わたしの耳がぴんと立つ。
心臓が、一瞬止まって、次の瞬間、ドクンと跳ねた。
「最近この辺の店、彼の記事出てるらしいよ。で、どうもこの店も調べてるって噂でさ」
「え、本当に? じゃあ、来るのかな……今日?」
――シンヤ。
思わず、お盆を強く握る。
名前を、耳で拾っただけで、こんなにも胸が鳴るなんて。
店員さんがにこっと笑う。
「ついに来てくれるのかな~! よーし、張り切っちゃうぞ~」
なんて、冗談めかして言うけれど、わたしは笑えない。
本当に来るの?
ここに? わたしの、働く場所に?
匂いが、今日の朝からずっと濃かった気がしてた。
やけに長く残っている、どこかで足を止めていたのかも
でも、それは……まさか、まさか……
――来てくれるの?
足元がふわふわする。
仮面の下、視線が定まらない、目が潤んだ。
頭ではまだ信じきれていないのに、心だけが先に走り出している。
だって、ずっと、願ってきたから。
毎日、この匂いに包まれながら、
「気づいてほしい」と願ってきたから。
ついに、その人が――この扉を開けるかもしれない。
わたしの尻尾が、無意識にふるふると揺れた。
店員さんに、すぐにバレて、笑われた。
でもいい。もう、止まらない。止められない。
胸の奥が、ふるえてる。
やっと……会えるかもしれない。