本気の演技
部屋のドアを開けると、潮の香りとほんのり甘い香水のような匂いが鼻をくすぐった。
壁紙は淡い水色、貝殻の形をしたランプが揺れている。ぬいぐるみのクッションがベッドの上に並び、どこか子どもの部屋のような可愛らしさがある。
「おかえりなさい。……一日、大変だったわね!」
ベッドの端に腰かけた彼女が、すこしだけすねたような声でそう言った。
海色のショートヘアが艶やかに揺れている。瞳も深い青で、真っ直ぐな視線がこちらを射抜いてきた。
膨らませた頬をぷいとそらしながら、彼女は口を開く。
「今日もお仕事、おつかれさま。……ねぇ、サヤに隠れて、他の女の子と話してたりしてないよね?」
「いやいや……」
シンヤは苦笑しながら首をすくめた。
「それを言われたら、仕事なんだから話さないわけにはいかないだろ。ギルドの受付とか、依頼の確認とか……色々と仲間と共有しないとさ」
「だーめっ!」
サヤは勢いよく立ち上がり、ずんずんとシンヤに詰め寄る。
「わたしとしか、話しちゃイケないんだから」
その目がじっとシンヤを見つめてくる。
「わたしの声だけ、耳に入れて。ほかの子の声なんて、全部シャットアウト。……むしろ、目も閉じてていいよ。わたしだけ見ててよ……♡」
そう言うサヤの頬は、むくれたようにまぁるく膨らんでいた。
その仕草の幼さと真剣さに、シンヤはまた小さく笑った。
「……嫉妬深い彼女で困ったもんだ」
そう囁いて、シンヤはそっと彼女を抱き寄せた。
身長差があっても、サヤは臆せずシンヤの胸に顔をうずめ、ぴたりと密着する。
「ふふっ……それ、今の、演技っぽくなかった。……ねえ、ちょっと動かないでよ」
彼女がくん、とシンヤの首元に鼻を寄せる。くすぐったいほど近い距離で、匂いをかいでくる。
「ん……うん、大丈夫。他の女の匂い、しない……ちゃんと、サヤのものだって匂いがする」
耳元でささやかれ、くすぐったいような、くすぐったくないような。
シンヤはサヤの肩を撫でながら、心のどこかで思っていた。
(……ああ、こいつ。なんか、ちょっと……リアに似てるな)
サヤはシンヤの隣にちょこんと腰を下ろすと、迷いなく彼の腕に抱きついた。
しっとりとした感触が、上腕から伝わってくる。
柔らかく、温かく、湿り気を帯びた谷間がぴったりと密着し、サヤの体温がくっきりと伝わってくる。
「ふふ……その顔、すっごくわかりやすい」
上目遣いで覗き込むサヤの表情は、ちょっとだけ意地悪だった。
「サヤがいいんだね。やっぱり……♡」
甘ったるく囁きながら、さらにぎゅうっと腕にしがみつく。
シンヤが言葉を探している間に、サヤの手がひらりと宙を舞った。
彼女はシンヤの肩のあたりを摘まむようにして、何かをつまみあげる仕草をする。
「……これ、なに?」
そう言ってサヤが摘まんだ指先を見せてくる。
もちろん、そこには何もない。ただの空気だ。
「髪の毛……だよね? でも……色が違う。サヤの髪と、違う……」
空気に浮かべた幻の髪。
だが、サヤの表情は真剣だった。ふいに声のトーンが下がり、頬のふくらみは怒りの膨張へと変わる。
「どういうこと? 他の子、部屋に入れたの?」
「いやいや、ちょっと待て、それは……」
シンヤはあわてて手を振る。
「それは……あれだ、ギルドの受付のリアが、ほら、髪切ったって言ってたろ? たぶんそれが……いや、でも待てよ、それも変か……!」
必死の言い訳は、どこかで自壊していった。
サヤは腕を放し、わなわなと震えていた。肩が、声もなく怒りを揺らしていた。
「リア、ねぇ……? 髪の話、わざわざ覚えてるんだ? ふーん……」
「いや、それは仕事の……!」
「仕事のことなら、サヤのことだけ考えてればよかったじゃない……!」
声が鋭くなる。
「そういうところ、ダメなんだよ。何が“サヤのことだけ見てる”よ。見てたの、リアって子じゃん……!」
「それはお前が言ったんだろ……っつーか、なんだよ、どうればいいんだこれ!」
「最初から本気でやってるんだよこっちは!」
「……じゃあ、お前はどうなんだよ。俺が他の娘と話してるとき、あの顔……あれはどういうつもりだ?」
吐き捨てた後、シンヤが一歩詰め寄る。フグ娘はわずかに後ずさるが、視線は逸らさない。
「言えよ。ちゃんと、言葉にしろ。お前が何を考えてたのか」
「べ、別に……そんなの……うるさい! あんたなんか、来なきゃよかったのにっ!」
ああ、やばい、これは――
二人の間に走る火花は、もはや引き返せない地点を越えていた。
シンヤは乱れた息を吐きながら立ち上がり、ベッド際へとサヤを追い詰める。
サヤも引かない。強気な目でにらみ返してくる。
「お前なあ……!」
「なによ……!」
言い合いのまま、勢いに任せてシンヤはサヤの両肩をつかみ、そのままベッドへと押し倒した。
「っ……!」
「それ、本心か?」
ぎし、とベッドが軋む音。
目の前には、見下ろしたサヤの顔。
怒りと、困惑と、どこか期待にも似た微かな熱が混じった視線。
二人の間にはもう、言葉など要らないと思えるほどの空気が満ちていた。
シンヤは押し倒したまま、しばし無言だった。
目の前にいるのは、頬をわずかに紅潮させながらも、睨み返してくる青髪のフグ娘――サヤ。
彼女の視線には怒りと戸惑い、そして、ほんの少しの好奇心が滲んでいた。
(……これは、やりすぎか? いや、違う)
何かが、胸の奥で音を立てた。
いや、頭ではない。本能だった。
「いつもこれだよね。力任せでサヤのこと言いならすんだよね……♡ 抵抗できないサヤはわからされちゃんだ……♡」
挑発するように唇を尖らせながら、サヤは見上げてきた。
あくまで演技。いや、そう思っていた――はずなのに。
「結局、サヤは好きにされるだけなんだ……でしょ?」
その言葉に、シンヤの目が細くなる。
ゆっくりと、片膝をサヤの両ももの間に滑り込ませる。
ぬるりとした感触が伝わる。フグ娘の肌は、水気を帯びていて柔らかく、それでいて確かな弾力があった。
「っ……ちょっと、え? なに?」
サヤの戸惑いが混じった声。
シンヤの顔が近づいてくる。真剣そのもの。
もう“演技”とは思えない、獣のような目をしていた。
「悪いのは……サヤのほうだぞ」
口元が、ぐにゅりとタコのように歪む。
なんとも間抜けな顔のはずなのに、距離が近すぎて笑えない。
さらに顔が近づく。吐息がかかるほどに――
「ちょ、え? お客さん……マジっ? えっ……ま、待っ……」
サヤの表情が一変する。
頬が、膨らんだ。
ぷくぅぅぅぅ……
「ダメーーーーーッ!!!!」
バシュッッッ!!!
サヤの口から、水鉄砲のような勢いで海水が噴き出された。
それは見事な放物線を描いて、至近距離のシンヤの顔面を直撃する。
「ぶほぉッ!?!? しょっぱっ、目ぇしみるっ!!」
シンヤは仰け反り、見事な勢いでベッドから転げ落ちた。
床をゴロンと転がりながら、びしょ濡れの顔をぬぐう。
髪はぺたんこ、服も水浸し。
せっかく整えた前髪も、今や魚市場の店員のように無様だった。
「……っ、ぷ、くくっ……あははっ!」
サヤはベッドの上で、頬を赤らめたまま唇を押さえて笑いをこらえていた。
「も、もう……なに、本気で来るなんて聞いてないし……ふふっ……おっかし…」
甘い夢の余韻は、いっそ塩辛く、現実を強く引き戻す味がした――




