矛盾の愛
三人が辿り着いたその店は、まるで深海の底に佇む廃宮のようだった。
頭上には透明な膜のような水の羽衣がふわり、ふわりと揺れながら光を受けてきらめき、まるで水中にいるかのような錯覚を与える。
入り口には貝殻とサンゴで飾られたアーチがかかり、薄い潮の香りと共に、どこか甘い、媚薬のような香気が漂っていた。
「……相変わらず、すげえ雰囲気だな」
シンヤがため息まじりに呟くと、すぐ傍を通り過ぎていった客がふらつきながら出てきた。
顔の片頬は赤く腫れ、髪はしっとり濡れて、服の背中には何かの吸盤の痕が無数に浮かんでいる。
だが――
「……よかった……俺、愛されてた……」
幸せそうに目を細めながら、どこか夢遊病者のようにふらふらと夜の街へと消えていった。
「……今、頬が腫れてなかった?」
「いや、全身が濡れてた。てか、背中に吸盤みたいな……」
「俺は『愛されてた』って言葉が妙に刺さったな」
シンヤが顔をしかめると、入り口脇の“今月の予定”と題された黒板に目を向ける。チョークでびっしりと書き込まれた文字は、どこか正気を疑わせる内容だった。
【不貞妻の更生】愛は痛みと共に――制裁 or 許しプラン
【浮気恋人の三者面談】現実の彼女を連れてきてのリアル三角関係を体験!
【嫉妬妻の逆襲】あなたは誰のもの?強制“家庭再建”コース
【婚約者 vs 妹】どちらの愛が重い?絶叫の選択ルートあり
「……」
「……」
「……ちょっと待て、誰がこんなの考えたんだ?」
三人がそろって顔を引きつらせる。
シンヤがぽつりと呟く。
「女好きと愚称される俺でも……ちょっと引くわ、これは」
「まさかこの国に……僕たちより狂ってるヤツがいるとはね……」
「愛って……深いんだな……」
モグが涙を拭う仕草。
だが、それでも、というように三人は互いに目を見合わせる。
「いこうか」
「うん、今日は……夢を見る日だ」
「ここは……夢のような現実、現実のような夢だからな」
三者三様にうなずき合うと、覚悟を決めて一歩、また一歩と店内へと足を踏み入れた。
潮騒が遠くで鳴った気がした。
薄闇の中、扉がふわりと開くと、そこはまるで水中を模した夢の空間だった。
柔らかく揺らめく青と緑の光が天井から差し込み、薄い水膜のようなレースの布が、天蓋のように店内をゆらゆらと漂っている。潮の音が微かに響き、心地よい浮遊感が全身を包んだ。
その中をすうっと滑るように現れたのは、薄桃色の清楚なレース服を身にまとったフグ娘たち。
見た目はほとんど人間と変わらない。ただ、その頬だけはどこか柔らかくふくらみ、もちっとした弾力が見えそうなほどに愛嬌たっぷりで、まるで感情が浮かんでいるかのようだった。
「もう、遅いよぉ~♡」
「ずっと待ってたんだからっ♡」
「あなた……今日は甘えていいのよ♡」
「お兄ちゃんっ、会いたかったよぉ~!」
次々と現れるフグ娘たちが、それぞれ“彼女”、“妹”、“妻”など、役割ごとの愛称で三人を出迎える。
甘く蕩けるような声、潤んだ瞳、そしてほんのり頬を膨らませるような“嫉妬”の演技が交じった感情の洪水に、さすがの三人も立ち尽くした。
「……」
「……なんだこの圧」
ティルがごくりと唾を飲み込み、モグはタオルの準備を始め、シンヤはどこか遠くを見ていた。
そんな三人に、するりと一歩、受付に立つフグ娘が近づいてくる。
他の娘よりもやや大人びた印象を持ち、視線にはどこか射抜くような強さがある。だが、微かに膨らむその頬に、仄かな照れと、揺れ動く感情がにじんでいた。
「――本日は“自由プラン”となっております」
そう言って、小さくお辞儀をした。
「お好きな、いえ……あなたにとって“最愛”の女性を、どうぞお選びください」
言葉の端に、確かに宿る――本気。演技とも本気とも取れぬ、その“矛盾の愛”に、三人は一瞬だけ息を呑んだ。
ティルは小声で呟く。
「これは……」
「夢だな」
「いや、現実だ……」
シンヤが続ける。
まるで誘われるように、一歩、また一歩とフグ娘たちに近づく三人。
「おかえりなさい、お兄ちゃん♡」と微笑む“妹”。
「お風呂……もう沸いてるわよ♡」と迎える“新妻”。
「今日は……どこにも行かないでね♡」と縋る“恋人”。
三人は思わず同時に口にした。
「――ただいま」
そのまま、それぞれの最愛の“彼女”と手を取り合い、異なる部屋へとゆっくりと消えていった。
海の音が、ふわりと彼らの背を押していた。




