生の執着
香煙は細く、静かに天へ昇っていた。
息を吸い込むたび、身体の熱が少しずつ奪われ、境界線が曖昧になる。目を開けているのか閉じているのかも分からなくなっていく。
ティルの手のひらが、白灰色の敷布に触れている。冷たいはずなのに、痛みはなかった。指先から輪郭が失われていくような、そんな感覚――
「……あぁ……もう、僕はこのまま……うぅ……っ」
ティルは微かに呻くような声を漏らし、うずくまるように体を抱えた。意識が沈むその深部で、何かが引きちぎれる音がした気がした。
すると、そっと寄り添う気配とともに、ネネの声が優しく耳をくすぐった。
「ねえ、なにが……君を苦しめてるの? なにが、そんなに辛いの?」
その声は問いかけであり、祈りのようでもあった。ティルの瞳が震える。しばらく沈黙したまま、唇だけがわずかに動いた。
「……僕は……外の世界を知りたかった。村は閉鎖的で娯楽も少なく、同じ日々を送るだけ。それが僕は嫌だった。
ただそれだけで、エルフの村を出たんだ」
ぽつり、ぽつりと、言葉が紡がれていく。
「なにが怖いの?」
「この国に来て、いろんな種族と出会って……人間も、獣人も、リザードマンも……みんな違って、面白くて、優しくて。仲間ができて……本当に楽しかったよ」
目元に浮かぶ雫が、頬を伝って落ちた。
「でも……僕は……エルフだから。僕の方がずっと長く生きる。シンヤも、モグも……他のみんなも、僕より先にいなくなってしまう……」
言葉が詰まり、喉が震えた。
「何が悲しいの?」
「大切な人たちが、少しずつ僕の心から……思い出から……零れ落ちていくのが怖いんだ。悲しいんだ……そんなの、耐えられない……!」
ティルは膝を抱え、顔を埋めた。
「……何が寂しいの?」
「いっそ村にいたほうが幸せだったのかもしれない……外に出なければ、誰とも深く関わらずにすんだのに……。
だったら、もう……ここで、このまま……幸せが失われる前に、終わってしまいたいんだ……」
その瞬間、ネネは何も言わずにティルをそっと抱きしめた。
冷たいはずのその腕が、ゆっくりと温もりを帯びていくように思えた。
「……その感覚、ちゃんと届いてるんだね」
ネネの声は、深く優しい。
「君の気持ちは痛いほど、私はわかるんだよ。私たちゾンビは死に拒まれた存在。ずっと寂しさから抜け出せない呪いそのもの。
……そう思ってた。だけど、おしろいで人のぬくもりを思い出したの。このぬくもりは君の生きていた証。
死を感じるってことは、生きているってこと。その痛みも、涙も、心が生きてる証なんだよ」
ティルはその腕の中で、小さく震えていた。ネネは耳元で囁く。
「あなたの中で大切なものはなに? 今、この死の中で見えた“失いたくない”って気持ち、それがあなたの生きる意味なんじゃないかな」
「……守りたい……」
ティルの喉から、微かな声が漏れた。
「そう。今の気持ちを、これからのあなたに託して……あなたにしかできないことがあるの。長寿のあなたにしか、できない生き方があるんだよ」
ネネはそっと微笑んだ。まるで、死者が生者に向ける祝福のように。
「目に映る大切な人たちの笑顔を、あなたの時間で包んであげて。そっと、包んであげて。その役目は、尊くて、素晴らしいものだと思うよ」
ティルは、ぎゅっと目を閉じた。
堪えきれず、涙が頬を伝い、香煙に紛れて空へ消えていく。
その涙には、死の深みを越えた先に見えた、確かな意味が込められていた。
ティルは涙をぬぐいながら、そっと顔を上げた。ネネのぬくもりがまだ体に残っている。
死の淵で感じた孤独と、それでも生きたいと思ったあの一瞬の想い。――きっと、もう忘れない。
ふと隣を見ると、シンヤがまだ横たわっていた。瞼は半開きで、どこか虚ろな目をしている。
(……シンヤは、何を見てるんだろう)
ティルがそう思った瞬間――
「……俺は……」
低く、地の底から這い上がるような声が、静けさを破った。
「俺は……この世界に……」
場の空気が一瞬緊張する。
「……まだ行ってない店が……あるんだ……ッッ!!」
ガバッと起き上がったシンヤの瞳が、妙に澄み切っていた。全身に汗をかきながら、遠くを見つめるその顔には、なぜか一種の神々しさすら漂っている。
「リザード娘の香浴処も、ミノ娘の湯あみ処も、ゴブ娘の耳かき茶屋も……! 行きたいところは山ほどある! 全然、全っ然足りてないッ!!」
突然の熱弁に場が凍る。
ユリカがぽかんと口を開けたまま、しばし固まっていたが、やがて小さくため息をつき、赤子でもあやすようにシンヤの肩をぽんぽんと叩いた。
「はいはい、よかったね。世界はまだ広いもんね~、お兄さん偉かったね~」
「ユリカ!? 俺は今、生の本質を悟ったんだぞ!? こんなとこで死ねるかぁああっ!!」
ぶんぶんと腕を振り回すシンヤに、ユリカは微笑を保ったまま力技で押し倒す。
「はいはい、深呼吸ね。ひとまず寝てようね~、偉い偉い」
「ちょ、やめ、そんな目で見るな! マジなんだって! 俺の愛は真剣勝負なんだってば!!」
ふたりのやり取りを見ていたネネは、くすっと笑って首を傾げた。
「……なにあれ? 生き返ったと思ったら、頭まで吹き飛んでない?」
ティルは肩を揺らして笑った。
「うん……なんか、シンヤの“女好き”って、死の精すら引き返すのかも……」
ネネも頷いた。
「……ある意味、最強かもね。生への執着が物理的すぎる」
ティルはもう一度シンヤを見て、少しだけ真顔になった。
「でも……なんだろう。ああやって騒いでるの、馬鹿みたいだけど……少し、羨ましいな。あんな風に、生きたいって叫べるのって」
シンヤは、相変わらずユリカにあやされながら、まだぶつぶつと「メデューサ系がまだ……」とか「次はスライム娘の泡風呂……」とか呟いていた。
その姿は滑稽で、どこか悲しくて、でも、なぜかとても強く見えた。




