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アルマの赤い薔薇

作者: 網笠せい

 私はときどき透明になる。

 誰にも見えない、けれども確かに存在しているものとして、澄んだ空気のなかに溶け込んで透明な煙のようにたゆたっている。


◆◆◆


 アルマからの手紙は呪いなんだか祝福なんだか、よくわからないものだった。

 その手紙はぐうぜん温室に紛れこんだやかましい小鳥のように、僕の絵の長年のファンであること、作品への感想、そしてほんのり苦い人生の残り香と、支えられたことへの感謝がつづられていた。

 絵描きなどしていると、この手の話はよく耳にする。日常の苦さを溶かして感情を震わせ、ときに己を鼓舞して次の一歩を踏み出す原動力を生むのが、人に寄り添う芸術だろう。

 アルマの言葉の一つ一つに「なにもわからないくせに」と冷笑する自分と、好奇心を刺激されて笑っている自分がいる。まるで幼い女の子がお気に入りのぬいぐるみ相手に話をするようなものだ。新しいおもちゃを見つければ、きっとすぐに忘れてしまうに違いない。

 決して期待などするものかと鼻を鳴らして長い手紙の最後の便箋にたどり着いたところで、僕は手を止めた。便箋にはこれまでとは違う筆跡で、こう書かれていた。


 ――アルマはいなくなってしまいました。突然行方がわからなくなってしまった。この手紙は、アルマがあなたに送ろうとしていた手紙のようです。あなたなら、行方を知っているのではありませんか。もしもアルマ・ベネディクトゥスという女性から手紙が届いたら、私に教えてほしいのです。写真を同封します。どうか私の娘を探す手伝いをしてください。


 僕は便箋から目を離し、窓の向こうの枯れた木々をながめた。そうして、こいつは厄介だな、と眉をしかめた。

 アルマから手紙が届いたとして、教えてやる義理などない。しかし持ち前の好奇心がうずいて、僕は図書館に足を向けた。

 墓標のように死者の名前のならんだ官報をさかのぼり、アルマ・ベネディクトゥスという名を検索した。そうして名前が見つからないことに安堵した。僕の絵を好んでくれる人は、どうやらまだこの世にいるらしい。

 代わりに見つけたのは、いくつかの名簿だった。アルマは子供時代、児童劇団に所属していたらしい。地方ローカルのテレビ番組のアーカイブがあった。満面の笑みで飛んだり跳ねたりする子供たちの中で、静かに微笑を浮かべる彼女を見つけた。そういう種類の役なのかと何本かの映像を見たが、白雪姫の七人の小人を演じたときも、オズの魔法使いのライオンの仲間を演じたときも、あまり変わりばえしなかったから、きっと彼女の性質なのだろう。

 舞台に客を呼び込む際にじっと一点を見つめて手招きをする。誰かに視線を定めている様子を見て、僕は「ああこれは厄介な女の子だ」と苦笑いした。その手招きに誘われるように、僕は児童劇団を訪ねた。


◆◆◆


 アルマ・ベネディクトゥス? ああ、懐かしい。今から十何年前でしょう。覚えていますよ。

 え? 失踪? そう……。当時から何を考えているのか、よくわからないところのある子でしたから。

 子供らしくないというか、誰にも心を開かないで、じっと観察している感じ。見られている方は、落ち着きませんね。

 真面目だけれどほとんど話さない子だったし、ここでの友達もほとんどいませんでしたよ。

 あの子のお母さんは社交的で、よく話したけれど。

 受験の時期にレッスンを休んでしまってごめんなさい、勉強で疲れているみたいでって言っていましたね。

 でも受験勉強しながらレッスンを続けて、大きな役をもらう子もいますから。


 ……あの子は、本当はお芝居をやりたくなかったのかもしれないって思っていました。親御さんにやらされていたのかもしれないって。

 でもそういう子はみんな短期間で辞めていくし、なによりお客さんや舞台を作る仲間に失礼でしょう。

 叱ったことがあるけれど、あの子は何も言わなかった。やっぱり何を考えているのかわからない子でした。


 ……アルマのことで覚えていることですか? そうですね……。

『オズの魔法使い』のときに、ライオンのぬいぐるみにハンカチをかけていました。

 その上から手をとんとんって、ぬいぐるみを寝かしつけていたことがあって。

 普段子供らしくない子だったから、意外に幼いところもあるんだなって思ったのを覚えています。


◆◆◆


 ウィンドチャイムの音は、お星様みたいにきらきらしていてきれい。だからこれが鳴っている間は夜なの。

 こわがりのライオンさんにはお布団をかけてあげる。

 ハンカチだから小さいけれど、これならお化けが来ても隠れられるでしょう。

 だからおやすみなさい。よい夢を。


◆◆◆


『月夜のライオン』(水彩画)


◆◆◆


 アルマからの手紙が画商経由で僕の元に届いたのは、児童劇団を訪ねた数日後だった。

 新たに描いた水彩画についてどこか懐かしい景色に出会ったような気がすると書いてあって、便箋を前に微笑んだ。

 彼女の母親に、アルマからの手紙が来たことは知らせなかった。今どこにいるかは書かれていなかったし、なによりも手紙に書かれた故郷についての話は、今もまだ生々しい傷口のように思えたからだ。

 何通か彼女の手紙を読んでいるうちに、思い立ってアルマの通っていた小学校を訪ねた。


◆◆◆


 アルマ・ベネディクトゥス? ああ、嘘つきのあの子。覚えていますよ。

 本と美術が好きだった。冬に巣ごもりする動物の絵を描く課題を出したら、アリの巣の絵を描いたことがあったわ。きっと『アリとキリギリス』を思い出したのね。小さなアリが、巣の中で協力して冬を越そうとしているの。

 作文や詩は賞をとって文集に載ったはずだから、きっと今でも見られますよ。探すのにお時間を頂戴してもいいかしら。


 ……お待たせしました。これは八歳のときに書いた詩ですね。

 テニスコートでボールが一つ取り残されて雨に濡れているなんて、歳の割に大人びた詩でしょう。最初は親御さんが書いたのじゃないかって疑いましたよ。でも違いました。普段の学校生活を見ていればわかります。

 彼女は早熟な子でした。歳上の子が読む本を好む子でしたし、中学生の問題もすらすら解いた。わからない問題があると彼女に聞きに行く児童は多かったですよ。

 でも心を開くのに、かなり時間のかかるタイプでした。笑わないんです。大人には感情を見せようとしなかった。きっと友達と笑っているときの彼女が本当のアルマなのだろうけれど、教師にしてみれば、とてもやりにくい子でした。真面目で成績もいいから、注意するようなこともありませんでしたし。


 ああそうそう、あの子がついた嘘の話。七歳のとき。

 アルマは体育の授業が大嫌いでね。寒い冬の日に、上着を着て授業を受けていいかって聞かれたの。彼女のお母様がそうしなさいって言ったらしくって。ほっぺたが真っ赤だったし、鼻水も出ていて具合が悪そうだったから見学させたのだけれど、その夜、親御さんから連絡をいただいたんですよ。娘がずるをして授業を休んでしまったって。

 翌朝、彼女から手紙をもらったわ。嘘をついてごめんなさいって。彼女がそんなことをするとは思わなかった。

 首が腫れて痛いから湿布が欲しいって言ったこともありました。どうしたのって聞いたら、お父さんに首を絞められたって。親が七歳の女の子の首を、腫れあがるまで絞めるものかしら。アルマがよっぽど悪いことをしたのか、はしゃいでどこかにぶつけたのに違いないわ。

 あの年頃の子には、よくあることです。大人の気をひきたいのね。うんと背伸びをするのも、かたくなに感情を見せようとしないのも、きっと構ってほしいからよ。親御さんは大きな会社にお勤めでしたし、とても印象のいい人たちでしたから。


 ……それで、アルマは一体どんな事件を起こしたんですか? 彼女が昔、どんな子供だったか報道するんでしょう?

 週刊誌に載せるときは、匿名にしてくださいね。校長なんてしていると、すぐ誰のことだかわかってしまうから。

 え? アルマと一番仲の良かった子は誰かって? 今大学病院で働いていますよ。


◆◆◆


 アルマのことを聞きたい? 何のために? 興信所か何かですか。

 ああ。何度かあなたの名前を聞いたことがあります。そんな人がなぜ?

 あなたに手紙? あの子から? ……アルマはあなたのことを信用したんですね。

 校長から私の話を聞いた? 今度会ったら脳の検査をおすすめしておきます。MRIで輪切りにしますよ。

 アルマのこと、おばさんからの依頼で探しているんですか?

 いやです。アルマを探さないで。もうあの子をそっとしておいてあげて。

 あの子の喉の骨は歪んでいるんです。もう何年も前だけれど、珍しい症例だから病院に記録が残っている。

 やっと穏やかに暮らせるようになったあの子を苦しめるようなことはしたくない。


◆◆◆


 真冬の朝の空気は冷たくって、肌にぴりぴりと刺さるトゲみたい。

 早く。早く。もっと早く走らなくちゃ。

 元気だから大丈夫だって先生に言い出せなくて体育を見学してしまった私は、嘘つきだ。

 パンツ一枚で外に放り出されて、公園を五周するまでは帰れない。

 お父さんの命令は絶対に守らなきゃいけない。途中で犬の散歩をしている人や車の運転をしてる人が見てる。

 怖い。怖い。怖くてたまらない。

 お父さんは機嫌が悪いとすぐに私の首をしめる。床に寝そべりながらテレビを見た。名前に「さん」や「くん」や「ちゃん」をつけなかった。生のニンジンが苦手で嫌な顔をした。「大体このくらい」って意味で「コイン1枚くらい」と言ったら「たったのコイン1枚」って受け取られた。きっと理由はなんでもいい。

 歯ぎしりをして真っ赤な顔を歪めて、首に手をかける。お母さんは「顔は目立つから、やるなら体にしなさい」と横で笑っている。

 私がうまく話をできれば違うのかもしれない。でも話せない。どうせ聞いてもらえない。一度怒らせたら、何を言ったってムダだ。

 痛い。苦しい。ねじったバスタオルを首にかけて、部屋中をひきずりまわされる。


「首が痛いって、いったいなにをしたの? ……お父さんが? そう……あなたが悪いことをしたんじゃないの?」


 ああ、やっぱり私はうまく話ができない。本当のことを話してもムダだ。全部嘘にされてしまう。

 学校の先生も、おまわりさんも、親戚のおばさんも、誰も助けてくれない。


◆◆◆


『いつわりに潰されたアリ』(油彩画)


◆◆◆


 アルマからの手紙が届くのに、少し時間がかかるようになった。

 頻繁に来ていた手紙があまり届かなくなったとき、アルマのことが心配になった。アルマからの恋文を待っている自分に気が付いたとき、僕はアルマの白い手を思い出した。本当になんて厄介な女だろう。

 画商を訪ねた帰りに、花の一本でも飾ろうと思ったのは気まぐれだった。駅前の花屋で白い薔薇を選んだ。

 電車が甲高い音を立てて通り過ぎていくのをふとながめていると、車窓にアルマを見つけた。写真と、幼いころの映像アーカイブでしか見たことのない女。よく知っているような、知らないような、ふしぎな女。

 ゆっくりと加速していく電車の中で空をながめている女が、僕に気付くことなく通り過ぎていく。


◆◆◆


 アルマ・ベネディクトゥス? 彼女は元気にしていますか。結婚したって聞いたけれど。

 私とは同じ学校でした。隣のクラスです。私は文系コース、彼女は外国語コース。

 でも彼女、英語はあまり得意じゃなくてね。外国語コースなんて英語の授業ばかりなのに笑っちゃうでしょう。他の言語もあるにはあったけれど、親の意向だそうです。彼女自身は、海外の絵本を原文で読んでみたかったって言ってたな。翻訳家のさじ加減で変わってしまう原文の雰囲気を味わいたかったらしい。本が好きな子だったから。

 でもあの子は外国語には向いていなかった。理系コースの先生に「外国語コースだと理系の授業が選択できないのに、どうして外国語コースに進んだんだ」って嘆かれるくらい、生物が得意だった。聞いてみたら、小さいころに古生物を研究する学者になりたくて、生物だけは勉強していたんだって笑っていました。普段はただ真面目そうな子なんだけれど、親しくなると万華鏡みたいに表情がころころ変わってね、好奇心が旺盛で、子供のように目がきらきらと輝く。私はそんな彼女が好きだった。絵のモデルになってもらいたかった。彼女を描きたかった。

 ……付き合っていたわけじゃないです。私が一方的に彼女に心を寄せていた。

 英語の授業でラブレターを書く課題があってね。先生に頼むと、こっそり意中の人に渡してくれる。

 私は彼女に書きました。でも彼女からの返事は芳しいものじゃなかった。

 彼女も私のことが好きだって共通の友人から聞いていたんだけれど、ふしぎなひとだった。

 一度だけ手を重ねたことがある。手の大きさを比べるなんて口実でね。あのときに手を握っていたら、違っただろうかなんて思うことはあります。でもきっとうまくいかなかっただろうな。

 ……あるとき、彼女が料理をしたらしくて。小さなアジをたくさん揚げたそうです。三角コーナーにくびった魚の頭がぎっしり詰まっているのを見て、生命は美しいと思ったらしい。私にはまったくわからない感性だけれど、膨大な食物連鎖と、生かされている自分を感じたんだとか。

 魔女みたいなひとだった。今でもたまに思い出すことがある。

 でも彼女と付き合いたいとは思いません。彼女の人生にはどうにもならないことが多すぎる。実の親に「愛を知らないけだもの」なんて言われて首を絞められるなんて、ひどい話でしょう。バイトをしてはいけない。その癖に生活費はろくに出さない。彼女に弁当を作っていこうとしたこともあるけれど、断られました。材料費を支払えないから、受け取ることはできないって。でもそれじゃ意味がない。私は彼女に、合同展に出した絵を見て欲しかった。ういたお金で、合同展のチケットを買って欲しかったんです。

 彼女の傍にいると、自分がひどく無力で何もできないってことを思い知らされる。私は彼女に恋をしたけれど、交際はしなかった。なにより彼女が望まなかった。捕まえようとしても、捕まえられたと思っても、手ですくった水のように通り抜けていくひとです。愛されることに対する恐怖が拭いきれない。彼女の心は恐怖で埋め尽くされている。

 私にできることは何もなかった。これから先も、何もありません。

 でも遠くから、彼女が幸せでいてくれたらいいと祈っています。


◆◆◆


 僕はふうんと唇をとがらせて、その男の話を聞いた。僕と同じように絵を描く男だった。

 男の話はアルマから聞いたことがあった。アルマも彼のことを好きだったと知っているから、今でも好きなのだろうと疑っているから、余計にそう思うのかもしれない。

 僕にあいつを重ねて身をゆだねればいい。目さえつぶってさえいれば、わかりやしない。

 そうして嫉妬に気付いて、息を呑んだ。


◆◆◆


 彼は通学の電車の中で、よく私の向かいの席に座って本を読んでいた。同じ作家の本を読んでいるのに気付いて思わず笑みを浮かべた。彼の手の中の長編小説は、五巻の次が二巻といったように巻数がバラバラだった。

 憎からず想ってくれているのは理解していた。

 けれども、他人はみんな敵だ。泣いていると弱っていると判断されて追い討ちをかけられる。だから人の前で泣いてはいけない。泣いていたことも悟られてはいけない。泣くのは誰にも攻撃されない、安心できる場所……ベッドの中のような場所を見つけてからだ。

 それなのに、彼は泣きはらした私の目に気付いてしまった。

 私を救おうとして、深淵に苦悩してしまった不幸な人。

 私が傍にいる限り、その苦悩からは逃れられない。

 愛なんて、自分勝手に押し付ける執着でしかない。


◆◆◆


『渦と恋文』(油彩画)


◆◆◆


 アルマからの手紙がぱたりと来なくなって、僕は窓辺から郵便ポストをながめるのをやめた。

 アルマは僕に恋文を送らなくなった。近頃アルマのことばかり考える。アルマが笑ってくれるところを想像する。

 アルマの足跡をたどって、アルマの欠片をかき集めるように、電車に乗っていたアルマの横顔を想像して木炭で線を描く。

 アルマは展覧会に僕の絵が飾られるときは来てくれた。商談をしたり、展示作業をしたりしているから、ろくに話せたことはないけれど、先日会った初恋の男に勝てたような思いがした。

 アルマについて、僕はたくさんのことを知っているし、きっとアルマのことをわかってやれる。

 アルマの好きな絵、好きな花、好きな本、好きな食べ物、好きな音楽、好きな歴史上の人物、怒ること、悲しむこと、泣くこと。

 アルマで僕の日常や思考が埋め尽くされていく。

 アルマはいったい僕にどんな話をするだろう。

 アルマの見た景色や、感じ取れるものを語ってくれるだろうか。初恋の男だというあの男が見たように、僕にとっては当たり前のことでも目を輝かせて喜んでくれるだろうか。

 アルマに会いたくてたまらなくなった。


◆◆◆


 アルマを探している? ああ、俺の元妻の? 何のために?

 やめた方がいい。あれはウスバカゲロウみたいな女だから。薄馬鹿下郎ってね。まるであいつのためにあるような言葉だ。あいつはね、アリ地獄みたいな女だった。あんたも決して近付かない方がいい。あいつといると、頭がおかしくなる。十五年も一緒にいたのが信じられない。何を考えているのか、まるでわかりやしない。話を聞くだけムダですよ。どうせ聞いたって大したことは言っていないし、わかることもないんだから。被害妄想の塊で、言ったはずのないことを言ったという。言葉の裏の意味を探りすぎる、本当にろくでもない女だった。

 その癖に八方美人で、あちこちで男をひっかけてくる。本人にその気がまるでないのがまた面倒なところでね。

 一途な女ですよ。でも俺は独占欲に駆られた。だから抱いた。愛しているなんて自分が言ったところで何も満たされないから何度も。

 彼女に、俺を愛しているって何度も言わせた。お前が好きな赤ワインとどっちが好きだと聞いたら、きょとんとしていたな。

 ……あんたがそんな顔をする意味がわからない。

 あんたにアルマの何がわかると? 俺はアルマと長く一緒に暮らして、アルマのことを知っている。

 ああそうか、アルマはお前に惚れていたのか。だからアルマは俺の元から離れていったのか。出て行け! 今すぐ俺の前から消えろ!


◆◆◆


 アルマに初めて愛と言わせた男は、あまりにもひどい男だった。

 金に汚いところも、彼女の愛や献身を当たり前だと甘えるところも、彼女のことをまるで何も知らないところも。

 アルマは赤ワインを飲まない。十五年も一緒にいて、アルマの好きなものをろくに知らない男が、彼女を愛しているはずがない。僕の方がよほどアルマを知っている。

 何故アルマはこんな男を愛したのだろう。

 彼女にとって愛という言葉がどれほどの苦痛の上に成り立っているのか、僕は知っている。

 それでもアルマと直接話したことのない僕は、彼女のことをまだ理解したと胸を張れない。他人を完全に理解することなどできないからだ。

 アルマに甘えきって彼女をひどく痛めつけたあの男にだけは「何がわかる」などと言われたくない。


◆◆◆


 こんばんは。診察ですか? ……アルマのこと、まだ探しているんですか。

 アルマの旦那さんだった人に会ったんですね。ろくでもないでしょう。甘やかされて育ったバカ息子だもの。

 ずいぶん肩に力が入っているけれど、どうしたんです? ……なるほど、アルマは赤ワインを飲めない。頭が痛くなるから。そうね。

 あの人、アルマと十五年も一緒に住んでいたのにね。あなたの方が、よっぽどアルマのことを知っている。

 かわいそうなアルマ。愛していたのは、あの子だけじゃないですか。

 旦那さんはどれだけあなたに関心がないのって、アルマに言ったことがあります。見返りが欲しくて愛するわけじゃない、幸せは自分をだますことのできる人間でなくては手に入れることができないって、苦笑いしていた。

 あの子は笑っていたけれど、私は悔しくてたまらなかった。見ていて胸が痛かった。

 だってあの子は不幸に慣れすぎていて、ひどいことをされてもわかっていなかった。最中に首を絞めると、あなたたち男は気持ちがいいんですってね。正気の沙汰じゃない。ましてやあの子の首を絞めるなんて。子供の頃、彼女が親にされたことの再現じゃないですか。

 私だけが本当のアルマを知っていたし、私だけがずっとアルマを友人として愛していたって自負してます。

 私は男なんかと違って、彼女を傷つけたりしない。私からアルマを奪った男が、ずっと憎かった。

 アルマは私の前でだけ泣いた。それは私の誇りです。だってそうでしょう。あの子は安心できる場所でしか泣けやしない。泣いている間に殺されるような場所では、泣く暇なんてありませんから。恐怖で言葉が出てこなくなるような場所では、安心できない。アルマに安心できる場所を作ってあげられたのは私だけ。私だけがアルマに安らぎを与えられた。


 ……アルマは今も、あなたの描いたポストカードを持っているわ。あなたの作品に支えられたことを、とても感謝していた。

 だから教えてあげる。アルマはひと月ほど前、修道院に入りました。あの子は名前を捨てて、もう誰にも傷つけられないところに行った。

 アルマ・ベネディクトゥスという女性は、もう死んでしまったのよ。

 お願いだから、もうアルマを安らかに眠らせてあげて。


◆◆◆


 修道院のあるという島につづく入り江は、大きく弧を描いていた。

 僕は海の向こうにある修道院をながめながら、煙草を吸う。

 水平線に消えていく夕日の中、僕はアルマの幻を見たような気がした。

 波打ち際でスカートのすそをひるがえして笑う彼女に、僕はつぶやいた。


「愛だとか幸せだとか、君が恐れるような言葉はかけないよ。もし君と話すことができたら、君の恐れを拭うことができたかもしれないけれど、もうそれも叶わない。

 だから君を怖がらせない言葉を選んだんだ。なかなか骨の折れる仕事だった。でも君が注いでくれた愛に見合うだけの言葉は選べたはずだ」


 首をかしげる彼女の幻に僕はつづける。


「おやすみ、アルマ」


 ありがとう。ずっと愛しています。あなたが幸せでいてくれることを願っています。

 潮騒を背に寂し気に笑った彼女の声が、そう答えてくれたような気がした。

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