シャノン、婚約者を制圧する。
夜会が始まって間もなくのこと、貴族達の中から突然悲鳴が上がった。
振り返ると私の婚約者であるトーマス様がナイフを手に立っている。その目は血走っていて、どう見てもいつもの彼じゃない。
さっき挨拶を交わした時は普通だったのに、どうして急に!
とにかく何か事情があるなら聞いて落ち着かせないと!
「トーマス様、どうしたのですか……? とりあえず、ナイフから、手を離しましょうか……?」
「やっぱり、君には僕の他に気になる男性がいるんだね……」
……全く心当たりがない。トーマス様はいったい何を言っているのかしら。
疑問をそのまま口に出して尋ねると、彼は感情を爆発させたように大きな身ぶり手ぶりで。
「嘘をつかないでくれ! これまでだって今日だって何人もの男と視線を合わせて親しげに微笑んでいたじゃないか!」
…………、目を合わせて微笑むくらいするわよ、挨拶だもの。え、そんなことで乱心しているの?
「……トーマス様とも、視線を合わせて微笑みながらご挨拶したでしょう」
「僕は婚約者だから当然だよ! 他の男と同じことをやっているのが問題なんだ!」
「待ってください、他所の令嬢方もあなたと視線を合わせて微笑みながら挨拶してきますよね?」
「そう、僕は常に誘惑に耐えているというのに……、君ときたら!」
駄目だわ、私には全然理解できない。トーマス様は私には理解できない理屈で行動に及んでいるということしか理解できない。
周囲の貴族達に目を向けると、私同様、全員が信じられないものでも見るような視線を彼に送っていた。
……まあ、そうよね。
トーマス様とは婚約して一年になるけれど、こんな人だとは思わなかったわ……。
私、シャノンは伯爵家の次女で、侯爵家の次男であるトーマス様と去年婚約に至った。それから一年間、彼とは一緒にお茶をしたり夜会に出席したりしてきたものの、ここまで嫉妬深い人だなんて全く気付かなかった。ナイフまで持ち出して、どうして急に……。
「これは今まで溜り溜まったものが一気に噴出した感じではないでしょうか」
私の隣に立つ三十代半ばの女性がそう呟いた。
彼女は私の家庭教師でヴェネッサ先生という。ここ十年ほど、勉学の他にいざという時の護身術なども教えてくれている。何でも騎士をしていた経験もあるのだとか。
そうだわ、今日はヴェネッサ先生がいるじゃない! いつもは私に同行して夜会に出てもひたすら料理や菓子を食べているだけの人だけど(今日もそうだけど)、一緒にいて今ほど心強いと思ったことはないわ!
「ヴェネッサ先生! トーマス様を何とかしてください!」
「私が手を貸すまでもありませんよ。シャノンお嬢様お一人で充分に対処できます」
「ですがナイフを持っていますよ!」
「武器を携帯した者が相手の場合の護身術もしっかり教えたでしょう」
「それはそうですけど、現実に実践するのは初めてですし……」
「その点を差し引いても、あの程度の暴漢ならお一人で大丈夫です」
暴漢って、一応は私の婚約者なのですが……。
確かに、私に対する教育の多くの時間は体を鍛えることに割かれていた。先生が言うには、貴族たるものいつ命の危険に晒されるか分からないので鍛錬は怠ってはならない、とのこと。
まったくその通りだったと実感しているけれど、今は先生がいるのだから守ってくれてもいいのでは?
私の心の声が聞こえたように、ヴェネッサ先生は小さくため息をつく。
「今日はたまたま私が豪華な食事をしたかったので一緒にいるだけですよ。いない時もあるのですから頼ってはいけません」
この人、夜会に食事に来ているとついに認めたわ。
そうこうしている間にもトーマス様の感情は高まり、危ない方向に走り出していた。
「……もう、こんな日々は耐えられない。……シャノン、僕を愛しているなら共に死んでくれ……!」
愛していないこともありませんでしたがもう完全に冷めました!
こ、殺されるっ!
慌てる私を見てヴェネッサ先生は今度は大きめのため息。
「仕方ありませんね……。はい、対人制圧術4!」
先生がパンと手を打ち鳴らした瞬間、私の心は切り換わった。
まるで屋敷でのいつもの訓練のように静かなものに。それによって、混乱していた頭も回りはじめる。
なんだ、対人制圧術4なら大したことないわ。7や8以降ならともかく。(7は相手が銃を所持している場合で、8以降は相手が複数人の場合)4なんてただ短い刃物を持った単体が相手なだけだもの。
頭が冷静さを取り戻したことで、ナイフを構えて突進してくるトーマス様の動きも、私は落ち着いて見れていた。
……すごくゆっくりだわ。いえ、油断してはいけない。トーマス様からは明確に殺意を感じる。きっとここから本気を出して速度を上げるはずよ。
…………、速度が上がらない。
もしかして、これで本気なの? そんなわけ……、とにかく対処しないと。
一直線に突っこんでくるトーマス様に対して、私は足のステップでさっと横に回避する。彼は私の動きを全く目で追えていなかった。
「き、消えた……?」
やっぱりだわ、全然見えてない。トーマス様は鍛錬が足りないのかしら?
うーん……、何かがおかしい気がする。
そう思いつつも私は、ナイフを握る彼の手を掴んだ。そのままひねり上げると同時に足払いをかける。
彼の体は空中で百八十度ひっくり返った。
ズダンッ!
トーマス様は綺麗に背中から床に落ちていた。
静まり返る部屋の空気。私はゆっくりと周りの貴族達に視線をやった。誰も彼も驚きの眼差しで私を見てくる。
……何かがおかしい。違う、おかしいのは私なんだわ。
傍らに立つヴェネッサ先生の方に振り向いた。
「……貴族は皆、実力を隠していて、誰でも私くらいはできると言いましたよね?」
先生は気まずそうに目を伏せる。
「……あれは嘘です。シャノンお嬢様の覚えが早くて、楽しくてつい……。お嬢様は現在、騎士団も含めて王国で十本の指に入る戦闘力を持っています」
そういうことね。道理で全然やられる気がしなかったはずだわ。先生のおかげで赤子の手をひねるようにトーマス様を制圧できた。
……と、感謝するとでも?