『神殺しを名乗る者』 2 「絶望の島、希望の島」
「これは共和国の終わりだ!」
貴族派のリーダーであるクイントゥス・ファビは、怒りに顔を真っ赤に染め、手にしたオリーブの杖を床に叩きつけた。
その鋭い音がホールに響き渡り、一瞬、場が静まり返る。
六十を超えたファビは、白髪に痩せた体格ながらも、鷹のような鋭い眼光を宿し、年齢を感じさせないほどの精神力を漂わせていた。
身にまとう白いローブは古びているものの、一糸の乱れもなく整えられ、縁を飾る紫の刺繍が、その高貴な血筋を物語っている。
エテリア元老院のホールは、白亜の大理石に囲まれた荘厳な空間だ。
円形に並ぶ石柱には共和国の歴史的戦闘が浮き彫りにされ、中央には低い平台があり、その周囲を取り囲むように、半円形に配置された木製の長椅子が並ぶ。
今、三百人の元老たちは白いトガをまとい、それぞれの陣営ごとに席を占めている。
太陽の光がアーチ型の窓から差し込み、大理石の床に反射して眩く輝く。かすかに松の香が漂い、それは議会開始前に焚かれたものだった。
「マルセラス・ウォーレン!貴様、王にでもなるつもりか?!
怒声がホールを揺るがした。
しかし、マルセラスは微動だにしない。
元老院の長椅子に身を預け、優雅に足を組む。
三十五歳になった今も、彼の顔立ちは二十代後半のように若々しく、まるで時が止まったかのように歳月の痕跡を感じさせない。端正な顔立ちは彫刻のように整い、身にまとう白いローブは上質な生地で仕立てられている。縁を飾る紫のストライプがひときわ目を引き、その紫色の瞳がゆったりとホールを見渡していた。
ファビの怒りを前にしても、彼の表情には微塵の揺らぎすらない。
「落ち着いてください、ファビ殿」
マルセラスは穏やかに微笑んだ。
「私はただ、浮島に兵を派遣する必要があるのではないか、と提案したまでです。……それとも、反対すると?」
「浮島?」
ファビは鼻で笑う。
「ブランノックを手に入れたばかりで、次は浮島か?その次はどこだ?エテリアを貴様一人の帝国にするつもりか!」
「ブランノックはすでに共和国の一部ではないか。将来の浮島も、きっとそうなるさ」
穏やかな口調のまま、それでも言葉の一つ一つが確固たる力を宿している。
「それとも、諸君たちはエテリアがサフランの鉄騎に蹂躙されるのを、何もせずに見過ごすというのか?」
ホール内は突然、鶴の一声も聞こえぬ静寂に包まれた。
数名の元老がひそひそと囁き合うも、誰一人として軽々しく口を開こうとはしない。
だが、ファビは一歩も引かず、手にした杖をマルセラスに向けた。
「サフランは南方にある。その間には広大な中央海が横たわっている。
確かに、やつらは我々の穀物を奪うかもしれん。だが——」
ファビは嘲るように口元を歪め、吐き捨てるように言った。
「貴様はエテリアのど真ん中にいる……貴様こそ百倍……いや、千倍も危険だ!
エテリアの血肉を蝕む、貴様のような蛆虫が!」
「実に面白い」
マルセラスは冷ややかな表情を崩さぬまま、低く問い返した。「ファビ殿は、腐りきった伝統に縋ることで、共和国を救えるとでも?」
「わしは今、まさに貴様のような獣の手から、この共和国を救っているのだ!」
「静かに!」
穏健派のリーダー、セルウィウス・トゥリアは、堪忍袋の緒が切れたように立ち上がった。
四十を過ぎたばかりの彼は、長身で気品があり、黒髪の中にわずかに銀色が混じっている。彼の白いローブは清潔で整然としており、一般の貴族よりも素朴だが、洗練された雰囲気を持っている。
「まさか、ここは野蛮人の集会というわけではありますまい。
声を荒げねば己の正しさを示せぬとお考えか?
元老院の威厳を保つためにも、まずは将軍の話を最後まで聞かれてはどうでしょう」
ファビはマルセラスを鋭く睨みつけ、顔を青ざめさせたものの、最終的には歯を食いしばり、席に戻った。
「礼節に感謝しよう、トゥリア」
マルセラスは微笑み、わずかに頭を下げてから、話を続けた。
「ファビ殿、浮島問題に関するお考えは、どうやら過去の時代に留まっているようですね。
今やこの大陸の状況はすでに一変している。しかし、あなたはその変化を直視せず、なおも伝統の枠に囚われている。実に惜しいことだ。」
彼は元老院の面々を見渡し、さらに続けた。
「諸君、よく考えてほしい。
中央海──確かに、かつては東西南北の四大陸を隔てる天然の障壁だった。だが今、その役割はどうなった?
北から南に至るまで、この海域はすでに争奪の中心となっている──
サフランは中心海の南に陣取り、広大な沿岸地域を確保。我々の航路を脅かす存在となった。
東のザファラは戦略的な港を掌握し、外交を駆使して沿岸部への影響力を拡大。
そして西──未開の地の勢力、エルドウィンドやロレンティス。沿岸部の盗賊団は商船の航行を妨げ、ブランノックから逃げた野蛮人どもは西の島々へと流れ込んでいる」
彼は一度言葉を切り、各元老に鋭い目を向けてから、より重みのある口調で続けた。
「そして──浮島こそが、ファビ殿、我々に残された唯一の道なのです。
もし栄光ある歴史を覚えているのなら、エテリアが退却によって築かれた国ではないことは、あなたも理解しているはずだ。
この浮島こそが、帝国が中心海全体を掌握するための鍵であり、ザファラとサフランの膨張を阻む最前線となる。
それだけでは済まない。浮島は南北および東西航路を繋ぐ要衝でもある。
この島を失えば、エテリアの商人たちは海賊の襲撃から逃れられるのか?
沿岸が、いずれ敵軍の侵略を受けないと、誰が保証できる?」
元老院内では低いざわめきが広がり、伝統を重んじる貴族派の元老たちも、手にした杖をこすりながら揺らぎ始めた。
マルセラスは、依然として静かに、しかし確固たる口調で語った。
「もし我々が先に浮島を制圧しなければ、それは最終的にザファラかサフランの手に渡る。
その瞬間、中心海は敵のものとなり、エテリアは獣のように包囲され、追い詰められる。
海岸線は封鎖され、貿易は断たれる。
その結果、飢饉が迫るのは確実だ。
もし、その時が来れば──
皆様を喰らうのは、恐らく皆様が最も軽蔑している平民たちだ!」
最後に、マルセラスの口元に冷笑が浮かぶ。
次に響いた声は、もはや穏やかさを欠き、鋭く突き刺さるものだった。
「問いは一つだけだ、ファビ殿。
あなたはエテリアを守るのか、それとも敵に差し出すのか?」
「言うのは簡単だな」
ファビの顔色は依然として鉄のように青ざめ、語気を強めて言い返した。
「もし浮島がそんなに簡単に攻め落とせるなら、800年前にはとうに帝国の領土になっていた!
まさか、貴様の取るに足らぬ兵どもが翼でも生やし、浮島へ飛び上がるつもりではあるまいな?」
ここで、多くの元老たちが首を振り始めた。
彼らとて、マルセラスの述べる状況を理解していないわけではない。
だが、浮島を攻略するなど、到底実現し得ぬことだと考えていた。この島は歴史上、常に中心海の中央に浮かび、征服どころか、登ることすら成功した者はいない。
「それは、ファビ殿が軍事に疎いからです」
マルセラスは薄く笑った。
「もし戦争の本質を理解していれば、どんな『不可能』も、有効な戦術の前ではただの紙の虎だ」