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天使と悪魔  作者: 星空暁
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『神殺しを名乗る者——アシャー・シンクレア』 1

「あなたは、アシャー・シンクレア殿でありますか?」

 

 朝の城門近くの軍集結地(カストラ)は、静まり返っている。

 そびえ立つ石壁と重厚(じゅうこう)な鉄門に囲まれ、遠くからは時折、馬蹄(ばてい)の音が微かに響く。

 帝国軍の集結地(しゅうけつち)は、新兵の募集(ぼしゅう)と訓練のために(もう)けられ、城門のすぐそばに位置している。広々とした敷地には石畳が敷かれ、高い木柵(きさく)が周囲を囲んでいる。四隅(よすみ)には、帝国の威光を象徴する柱がそびえ立つ。

 

 もともと、この広場にいたのは、アシャーだけだった。

 彼は柵沿(さくぞ)いに立ち、遥か北方を見つめていた。

 そこに広がるのは、かつて故郷(こきょう)と呼んだ地——ブラノック。


 ブラノックは都市国家(としかっか)でも王国でもなく、ましてや統一された政治体制(せいじたいせい)を持つ地域でもなかった。ただ漠然とした地名にすぎない。

 帝国の人々は、帝国領(ていこくりょう)山脈(さんみゃく)を隔てた北方の広大な大地を、ひとまとめに「ブラノック」と呼び、その内部に存在する無数の部族や村々の違いなど気にも留めなかった。

 エテリア人にとって、それらはただの未開の蛮族の地であり、奴隷の供給源(きょうきゅうげん)にすぎなかった。

 

 八年前、ブラノックは正式に帝国の版図(はんと)へと組み込まれ、「ブラノック属州(ぞくしゅう)」となった。

 それを成し遂げたのは、他でもないマルセラス・ヴォーレン将軍である。

 彼は、大規模な遠征(えんせい)によって分裂したこの地を征服し、瞬く間に帝国の支配下へと組み込んだのだ。エテリア人は、それを誇らしげに「栄光(えいこう)の征服」と呼んだ。

 でも、アシャーにとってそれは——自分がこの帝都へと連れて来られた運命の転換点。

 家も、家族も、すべてを失った原因だった。

 

「そうだが」

 

 アシャーは遠く北方を見つめていた視線を引き戻し、振り返った。

 

 そこに立っているのは、大きな荷物を背負った少年。

 年の頃は十六、七といったところか。白い肌に、栗色(くりいろ)がかった赤毛の巻き毛、そして鮮やかな赤い瞳。着ている服は質素(しっそ)で、長旅の埃にまみれ、ところどころ布地(ぬのじ)が擦り切れている。肩にかけた革のベルトも色褪せ、使い込まれた跡がはっきりと見えた。

 

 ——田舎出身の新兵か。

 アシャーは即座にそう判断した。

 

 八年間、軍の中で生きてきた彼にとって、相手の素性を見抜くことなど造作もない。

 貴族ならば、どこか誇り高く、時に冷淡な態度を見せるものだ。軍の集結地で戸惑うこともなく、何より不用意に他人へ近づいたりはしない。

 一方、この少年の()いているサンダル(soleae)は、粗雑(そざつ)皮革(ひかく)を寄せ集めて作られたもので、明らかに統一感を欠いている。エテリア城では見かけないタイプだが、田舎の農民が作る簡素(かんそ)履物(はきもの)としては、むしろ見慣れたものだ。

 

 さらに、この少年が()()でないことも明らかだった。

 奴隷ならば、常に目を伏せ、人を直視(ちょくし)することを避けるか、あるいは警戒心を剥き出しにして、わずかな刺激にも怯える。

 しかし、少年の瞳にはそうした従属(じゅうぞく)の色はなかった。

 まっすぐとした立ち姿、強い好奇心を湛えた視線——

 それはまさに、どこにでもいる田舎の若者の姿だ。

 

 実のところ、アシャーは先ほどから近づいてくる素早い足音を聞いていた。

 だが、気配を隠そうともしない者に危険はない。だからこそ、彼は黙って相手が口を開くのを待っていた。

 

「隊長!新兵ネロ(Nero)アルス(Alus)、着任いたしました!」

 

 ネロは背筋を伸ばし、ぎこちないながらも一応形になっている敬礼をした。

 アシャーは彼を一瞥(いちべつ)し、淡々と言った。


「早いな」

「はい! 初日の集結ですから、絶対に遅刻なんてしません!」


 ネロは元気よく答えた。

 アシャーはそれ以上何も言わなかった。

 だが、ネロは沈黙(ちんもく)を気にする様子もなく、興味深そうにこちらを見つめる。


「あなたが、僕たちの百人隊長(ケントゥリオ)なんですか?」

 

 どうやら、このネロという少年はかなり物怖(ものお)じしない性格らしい。アシャーが口数少ないと見るや、逆に距離を縮めようとしてくる。

 して、何より珍しかったのは——その視線に、他の者たちのような侮蔑(ぶべつ)がまるでなかったことだ。

 アシャーがブラノック出身であることは、周知の事実だった。

 ブラノックという地名が意味するのは、奴隷か反逆者——そのどちらかという烙印にすぎない。

 彼が兵士と決闘し、マルセラス将軍に赦免(しゃめん)された話は、すでに都中に広まり、居酒屋での酒の(さかな)にすらなっていた。噂は兵役を終えた兵士たちによって帝国の隅々へと広がり、もはや遠い辺境(へんきょう)の村でさえ、彼の名を知る者がいた。


 八年前——アシャーが初めてエテリア城に足を踏み入れたとき、人々は皆、彼を嘲笑(ちょうしょう)の的にした。

 その血統(けっとう)を侮り、露骨な(さげす)みの言葉を浴びせた。

 しかし、ある夜のこと——

 十歳の彼は、酔いどれであふれた酒場で、その刃片を使い、見事な喉切りの技を実演してみせた。その夜を境に、エテリア城内の人たちはその尖った舌を収め、表立って彼を侮辱する者はいなくなった。

 だが、その目の奥に潜む軽蔑と不信は、今もなお消えてはいない。

 

 ここ数年、アシャーは数々の戦功を挙げ、偵察兵から雑兵(ざっぺい)初等歩兵(しょとうほへい)高等歩兵(こうとうほへい)、騎兵へと昇進し、ついに百人隊長の地位に就いた。

 それに伴い、彼に取り入ろうとする者たちが次々と現れ始める。

 平民が百人隊長に昇進することは稀だが、不可能ではない。しかし、「元奴隷」の身分を持つ百人隊長となれば、アシャーが史上初だった。

 さらに重要なのは、彼がマルセラス派閥(はばつ)の一員であり、その手先として見られていること。潮目を読む者たちはこぞって彼に擦り寄り、出方を伺うようになった。当然、アシャーの昇進は貴族たちの激怒(げきど)を買い、「共和国の終わりだ」とまで嘆かれる始末。


 しかし——目の前の少年は、まったく異なる反応を示した。

 彼の目には、疑念も、蔑みもない。あるのは純粋な好奇心だけ。まるで、ただ強者を前にした少年の、無邪気な憧れのように。


 「そうだな」


 アシャーは軽く答えたが、ネロは気にする様子もなく、むしろ興奮気味に身を乗り出した。

 「マルセラス将軍のそばには、よくいるんですか? 彼ってどんな人なんですか?」


 ——どんな人、か。

 アシャーの唇に冷笑が浮かび、視線は刃のように鋭く光る。

 ——あれは、俺の家族を皆殺しにした男だ。

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