『憎悪の種』6「今からは……殺すのが好きだ 」
決闘の場所は広々とした草地に決まった。
兵士たちは巨大な円を描くように取り囲み、まるで鉄の檻のように戦場を閉ざしている。視線は鋭く、獲物を狙う狼の群れのように中央の二人に注がれている。
輪の外では、マルセラスが腕を組み、静かに戦いの行方を見守る。
対するアロスは、帝国軍屈指の戦士。身の丈は二メートルを超え、その巨体はまるで動く鉄塔のようだ。手にした帝国制式の長剣は、わずかに振るっただけで風を切る音が鋭く響く。
一方、アシャーはまだ十歳。小さな体でありながら、その瞳には一切の恐れがなかった。彼に許された武器は、先ほどデックを殺した際に使った壊れた金属片のみ。その刃はすでに摩耗し、切れ味などほとんど残ってない。
その頼りない様子は、一振りで折れてしまいそうだ。
兵士たちの目には、軽蔑と嘲笑がありありと浮かぶ。彼らはすでに、この戦いの結末を決めつけていたんだ
——一撃必殺。少年は一瞬で打ち倒されるに違いない。
「あんなボロボロの破片でアロスに挑むだと?死に急ぐやつだな」
誰かが嘲笑混じりにつぶやくと、それに呼応するように、周囲からクスクスと笑い声がこぼれた。
何人かが、鼻で笑いながら頭を振った。
「このガキが次の瞬間も立ってたら奇跡だぜ」
「はは、まったく笑わせる!」
彼らの目に映るアシャーは、挑戦者ですらない。ただ、踏み潰されるだけの道化。この決闘もはや戦いではなく、退屈しのぎの見世物であるかのように振る舞った。
「見ろよ、アロスが一撃で粉々にしてやるぜ!」
アシャーの幼い体とボロボロの刃を見て、兵士たちの笑い声はますますひどくなった。
しかし、アシャーの表情は微動だにしなかった。
恐れも、迷いも、一切ない。
まるで、目の前の巨人が訓練用の木偶にすぎないかのように。
「——始め!」
マルシウスの号令で決闘が始まった。
予想通り、アロスが剣を振り下ろした。重い一撃が空気を裂き、轟音とともに、大地を砕く勢いでアシャーへと襲いかかる。
兵士たちが歓声を上げる。
だが——
アシャーは疾風のように素早く身を翻し、直感だけで致命的な一撃をを避けた。
攻撃を避けるため、体を地面すれすれまで低く伏せ、一瞬でも首を刈られるほどのギリギリで刃をかわしていく。
肩先をかすめる剣が冷たい「シュー」という音を立てた。
そのたびに、空気が震え、砂埃が舞い散る。
アロスの剣は確かに速い。恐ろしく速い。
アシャーには考える余裕などない。本能のままに動き、ひたすら次の回避の瞬間を探し続けるしかなかった。
周囲の兵士たちはすでに退屈し始め、肩をすくめ、鼻で笑いながら、嘲笑と叫び声を絶え間なく上げる。
「さっさと終わらせろ、アロス!」
「何をもたもたしてる!」
と歓声が飛び交い、少年が一撃で切り裂かれる瞬間を心待ちにしているんだ。
だが、アシャーはその声に耳を貸さない。
冷静な瞳が、アロスの一撃一撃を捉え続ける。
剣筋を読む。軌跡を見極める。
——待つんだ。焦るな。
——隙を見極めるんだ。
アシャーはデック以外の人間を殺したことはない。だが、獲物を追う経験なら豊富だった。ライオンやバイソンといった大型獣も、その圧倒的な力には限界がある。持久戦になれば必ず疲れるものだ。
その瞬間が訪れればいい。
それが狩人の勝機だ。
——その瞬間は必ず来る。耐えろ。
——その瞬間こそ、反撃だ。
アロスの剣はなおも荒々しく振るわれる。だが、重すぎる力は長くは続かない。
徐々に、わずかに、彼の息は荒れ、剣の軌道が鈍り始める。
見逃すはずがなかった。
回避の瞬間、アシャーはわずかに口元を歪め、低く囁く。
「どうした? もう限界か?」
その声には、冷たい挑発の色が滲んでいる。
「膝をついて謝れば——せめて楽に死なせてやるぞ?」
その言葉に、アロスの怒りが爆発した。
顔色は赤く染まり、額には脈打つ血管が浮き出る。剣を握る指が白く強張り、柄がきしむ音を立てた。その目には、制御不能な憤怒の炎が激しく揺らめいている。
「このクソガキ……」
怒声とともに、剣が振り下ろされた。
大気を引き裂く轟音。
大地を揺るがすほどの衝撃が、決闘場全体に響き渡る。
その瞬間——兵士たちの笑いは、完全に消えた。
誰もが息をのんだまま、動けなくなった。
かつてないほどの殺気が、場を凍りつかせる。
「ぶっ潰してやる!」
怒りに支配されたアロスの動きは、もはや戦技ではない。
それは理性を捨てた猛獣の一撃。
全力で振り下ろされた剣が、アシャーを飲み込むように襲いかかる。
大地を裂き、すべてを粉砕する勢いで——!
しかし、剣が振り下ろされる瞬間——少年の姿はもうそこになかった。
シュッ!
耳元を掠める鋼の刃が、冷たい風を巻き起こした。
誰も、その動きを捉えられない。
残像すら残さず、幽霊のように音もなく——刹那のうちに、アロスの側面へと潜り込んでいた。
身長の低さゆえに、アシャーはアロスよりも、狭い戦闘空間で素早く動くことができた。
しかし、それは単なる偶然ではなく、最初から意図された罠だった。
彼は、わかっていたんだ。
アロスの巨体は力を振り絞るほど、その隙を晒す。
だが、子供の体格では喉元に手が届かない。
手にした破片の刃はすでに鈍く、鎧を貫く力もない。
ならば、狙うべきは——
唯一の急所。
喉元だけだ。
それを狙うには、身長差という障害を克服しなければならない。
先ほどの挑発も、全てはこの瞬間のための布石だった。
アロスから理性を奪い、全力で剣を振り下ろさせるため、計算された行動。
怒りに飲まれた獣は、やがて自ら崩れる。
極度の憤怒、無謀な攻撃、動きすぎた巨体はバランスを失い、ついに——
自分と同じ高さまで落ちて!
——今だ!
アシャーはは一瞬の迷いもなく、手にした破片を引き抜く。
そして——
露出した喉元へ、一気に突き刺した!
ズブッ——!
血が、弾けた。
温かい飛沫が肌を打つ。視界が赤に染まる。
それでも、阿シャーは手を緩めなかった。
刃先をさらに押し込み、喉を完全に貫くまで力を込める。
ゴボッ…
アロスの口から、濁った音と血の泡が溢れた。
その表情は凶暴から驚愕へと変わり、口が何かを言おうと動くが、もう声帯はもう機能しない。体は一瞬硬直し、その後、倒れる巨木のように——
ドサッ!
轟音とともに、地面に崩れ落ちる。
乾いた土が舞い上がり、血の匂いが空気を満たした。
アシャーは、一歩も引かない。
地面は赤黒く染まり、兵士はひとしきり痙攣し、やがて動かなくなった。死んだ目が、自分を見つめているのを感じる。
その瞳には、困惑と恐怖が焼き付いたままだ。
死ぬ瞬間まで、理解できなかったようだ。
——自らの結末を。
この展開は全員を驚愕させ、マルシュウスでさえ目を細めた。
先ほどまで威風堂々と立っていたアロスは、今や何の反撃もできず、血を流しながら地面に倒れている。
——信じられない。
その場にいた誰もが、目の前の光景を理解できずにいた。
空気が凍りつく。
震撼が波紋のように広がり、誰かが息を呑み、別の者は声にならない叫びを漏らした。
しかしすぐに、静寂はすぐに破られ、驚嘆と混乱の声が次々と巻き起こる。
ざわめき、どよめき、狼狽、恐怖——あらゆる感情が決闘場を渦巻いた。
「ありえん……!」
「十歳の子供が……? あのアロスを……?」
全員が、今起きたことを必死に理解しようとする——アシャーは猛獣さながらアロスの体を飛び越え、その動きは容赦なく鋭かった。
その刃の鋭さ、動きの苛烈さ——
とても十歳の子供とは思えない!
「こ、これは……あり得ない!」
ある兵士が震える声で叫んだ。
その声には、明確な恐怖が滲み出ている。
顔は血の気が引いて死人のように青ざめ、喉がこわばり、手の指先までもが震えていた。
彼だけではない。他の兵士たちも皆、まるで悪夢を見ているかのような表情で、重苦しい沈黙に包まれていた。
なぜだ?
なぜ、あんな幼い子供が——
これほど冷酷に、迷いなく人を屠れる?
彼らには理解できなかった。
戦場で何度も死を見てきた彼らでさえ、理解の範囲を超えていた。
これは、常識を覆す出来事だ。
いや、もはや世界の理そのものが歪んだかのようだ。
目の前の光景は、「戦いとは何か」「力とは何か」——その概念を根底から揺るがした。
いや、それどころではない。
——これは、恐怖そのものだ。
アシャーの目は冷たく、そこには何の感情も宿していなかった。
たった今、目の前で人が絶命したというのに——いや、自らの手で命を絶ったというのに、彼の表情は微塵も揺るがない。
まるで他人事のようだった。
戦いすら、ただの作業に過ぎないかのように。
静寂の中、すべての視線が彼に突き刺さる。
恐怖、驚愕、理解不能——帝国兵たちのざわめきが広がる。しかし、少年はそれらに耳を貸すことなく、 ただ緑の瞳をマルシュウスへと向けた。
「約束はどうした?」
低く、冷ややかな声だった。
一瞬、マルシュウスは動揺したが、すぐにその不明瞭な感情を振り払った。
先ほど、何かが胸をかすめた。しかし、それが何なのか自分でも分からない。しかし、将軍としてこの場で迷うわけにはいかない。すぐに兵士に命じ、アシャーの足の鎖を外させる。
ガチャリ。
重い鎖が外される音が響いた。それは静寂の中でやけに鮮明だった。
「おめでとう。今日からお前は奴隷ではなくなる」
マルシュウスは宣言した。
「安心しろ。安心しろ。もう、お前の額に刻まれることも、焼き印を押されることもない。
——お前がかつて奴隷だった証拠は、もうどこにも残らない」
そう言いながら、マルシュウスは一歩踏み出す。
そして、冷たい緑の瞳を真正面から見据えた。
「教えてくれ。お前の名前は?」
少年は、無表情のまま答える。
「アシャー・シンクレア。」
マルシュウスの唇が、僅かに弧を描く。
「そうか——なら、お前は最後のシンクレアだ。」
エトリア帝国でも、大陸の他の地域でも、貴族でない平民は通常、部族名を姓にする。村で死んだ者には名前はもうない、生き残った奴隷に、姓など存在しない。
アシャーだけは、その例外だった。
「普段、何か楽しみはあるのか?」
マルシュウスが再び問いかける。
「以前はなかった——」
少年の幽緑の瞳が、わずかに揺らめく。
一瞬、冷徹な光が宿った。それはまるで、無限の深淵から這い上がる悪魔の目。
「今からは……殺すのが好きだ」