『憎悪の種』4「地獄に、落ちろ」
——地獄に、落ちろ。
デックが再び頭を仰け反らせ、高笑いしたその瞬間——
アシャーの身体が、闇を切り裂く閃光のように飛び出した!
まるで悪魔が解き放たれたかのように、鋭く、迅速に。
手に握りしめた金属の破片が、影の中で冷たい輝きを放ち、一直線にデックの咽喉を貫いた。
「ドンッ!」鈍い音が空間に響き渡る。
アシャーの体当たりでデックが床に叩きつけられるや、彼は瞬時に覆いかぶさるように体重を預けた。デックの襟を鷲掴みにし、自身の体勢を錨のように固定する。
迷いのない動作で金属片を廻し、刃先を垂直に向け直す。その目には冷たい光が宿り、全身の重量を刃先へと乗せていく。
「ゲッ——!」
デックの喉から、短く断末魔の音が漏れた。声帯が破壊されたため、正常な発声はすでに不可能だ。白目を剥いた眼球が痙攣し、泡混じりの血を吐きながら、爪がアシャーの前腕に浅い傷跡を残す。
だが、すでに遅い。
金属片は確実に気管を貫通し、噴水のように鮮血が吹き出す。瞬く間に服を赤く染め上げた。
アシャーは、その動きを止めなかった。
氷の湖のように冷たい瞳で、ただ目の前の光景を見つめている。歯を食いしばり、両手で金属片を更に深く押し込む。
その手にはわずかな震えもなく、まるで機械のような正確さで動いていた。
デックの開いた口からは断続的な音が漏れるが、もはや言葉にはならない。血が彼の喉から勢いよく噴き出し、まるで破裂した水道管のように飛び散る。温かい血飛沫がアシャーの頬や腕を濡らし、その鉄臭さが鼻腔を満たした。
デックの体が最後の痙攣を終え、虚空を見つめる瞳に光が消えた。
その瞬間、アシャーは息を吐き出した。
それは疲労でも安堵でもなく、一種の解放感だった。
——様見ろ。
デックは目を見開いたまま、魂を失ったかのように天を仰いだ。
アシャーは荒い息を漏らしながら、血糊で滑る金属片を引き抜き、掌に食い込ませるように握り直した。鼓動が戦鼓のように耳元で響き、胸が激しく上下するのを必死に落ち着けようとする。
目の前を素早く見渡し、脱出のチャンスを探し始める。
周囲の帝国兵たちはまだ驚愕したままで、明らかに先程の刺殺のショックから立ち直っていない。誰も声を発さず、ただ動けずに固まっている。
アシャーは、西側の隙間を見逃さない——守備が手薄だ。
迷うことなく、その隙間を目指して飛び出す。心の中で唯一考えていたのは、突破することだけだった。
だが跳躍と同時に、冷たい鎖帷子が頸部に絡みついた。その冷気は皮膚に焼き付くような感覚を残し、呼吸を奪う。三本の鉄腕が獅子奮迅の勢いで四肢を拘束し、体重ごと床へ叩きつけた。
アシャーは息が詰まり、一瞬視界が白く霞む。金属片を握りしめた手も動かせないほど強く押さえつけられた。
「くっ……!」
さらにもう一人の兵士が背後から飛びかかり、アシャーの首に腕を巻きつけた。荒々しい動きで、まるで鉄の輪のように喉を締め上げる。瞬間、胸が圧迫され、肺が締め付けられ、息が詰まるような苦しさが襲った。
視界が暗転しかけるが、アシャーは奥歯を噛み締め、意識を手放すまいと耐えた。
同時に、周囲の帝国兵たちも一斉に動き出す。
雷鳴のごとく響く足音が四方から迫り、兵士たちが殺到する。そのうちの一人が鞭を振り上げ、容赦なく振り下ろした。アシャーはとっさに身をひねって避けるが、鋭い鞭の先端が空気を裂き、背中をかすめる。
「ッ……!」
肌が裂ける感覚とともに、熱い血が飛び散った。
「動きを止めろ!」
誰かの怒声が響き渡る。
右側の兵士が強くアシャーの腕を掴んだ。その瞬間、鋭い痛みが肘から肩へと突き抜ける。まるで骨が引き裂かれるかのような感覚に、体が反射的に震える。
そしかし、アシャーは声を漏らない。
それでも、抗う隙がみるみる奪われていく。
アシャーは全身の力を振り絞り、激しくもがいた。両足を蹴り上げ、束縛を振りほどこうとする。だが、周囲を取り囲む帝国兵たちは鍛え抜かれた戦士たちであり、その動きには寸分の狂いもない。首に巻きついた腕の力は緩むどころか一層強まり、呼吸はさらに浅くなる。
そもそも、デックが刺殺されたのは、油断と奇襲の要素が重なったからだった。
帝国兵たちは一瞬だけ混乱したが、それも束の間だった。瞬く間に陣形を立て直し、その布陣はまるで鉄壁そのものだ。それは何世代にもわたり磨き上げられた将軍たちの知略の結晶であり、一度完成すれば誰一人として突破することはできない。
この鉄壁こそが、帝国軍がこれまで無敗を誇ってきた所以だった。
次の瞬間、アシャーは背中から地面に叩きつけられた。
泥と血が混ざり合いながら服へと染み込み、その冷たい感触が肌へ広がっていく。それでも、その瞳には猛獣さながらの光が宿っていた。
敵意と闘志は決して消えることなく、その瞳奥で炎となり激しく燃え盛る。
強引に引きずられる中でも唇を噛み締め、その姿には屈服という言葉など微塵も見当たらない。
「クク……このガキ……」
兵士たちは顔を見合わせて苦笑した。こんなにも痩せ細った少年がここまで激しく抵抗するとは、誰も予想していなかった。
その姿はまさしく、逃げ場を失った狼が、最後まで牙を剥くかのようだ。
「この小僧、なかなか骨があるじゃねえか」
一人の兵士が冷笑混じりに呟いた。
「骨がある?ただの死に急ぐ奴隷に過ぎねえよ」
別の兵士が吐き捨てるように言い放つ。
「いい度胸だな、小僧。すぐに十字架に磔にされる苦しみを味わわせてやる!」
兵士が嗜虐的な笑みを浮かべながら鉄剣を振り上げた。その刃先が冷たい光を放ち、アシャーの喉元へと迫る——
「何が起きている?」
その声が響いた瞬間、兵士たちは動きを止め、一斉に硬直した。
声は決して大きくなかったが、その響きには圧倒的な威厳があった。驚愕と恐怖が顔に浮かび、全員が声の主を振り返る。
そこには、マルセラス・ヴォーレン将軍が立っている。
彼の鋭い眼差しは戦場に漂う血臭さえも凍らせるようで、その存在感は場の空気を一瞬で支配した。堂々とした歩みで前へ進むと、兵士たちは反射的に道を開けた。
誰も口を開こうとはしない。否——開けなかった。
彼の存在は、まるで揺るぎなき山そのものだった。
見る者すべてを押し潰すかのような威圧感が漂い、静寂の中で重々しい空気が辺りを支配する。
風さえも、その場で凍りついたように感じられた。。
喉元にはまだ兵士の剣先が迫っている——だが、その剣を振り下ろす者さえも、今や動きを止めている。
アシャーは泥まみれのまま地面に伏していたが、その瞳だけはヴォーレンを鋭く睨みつく。