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天使と悪魔  作者: 星空暁
3/15

『憎悪の種』3「目の前の男を、絶命させることだけに!」

 兵士はアシャーをじっと見つめ、目にかすかな驚きがよぎった。まるで、奴隷ごときが自分を真っ直ぐに見返すなど信じられない、とでも言いたげだった。

 だが、次の瞬間には鼻で笑い、(あざけ)り混じりの声で吐き捨てる。

「へぇ、その目つきはなかなか強気じゃねぇか」

 彼は振り返りざまに仲間たちへ叫んだ。

「ムチを持ってこい!ガキに『歓迎式』をしてやるぜ」


 外からは軽薄(けいはく)な笑い声が続く。

「デック、また始まったかよ。弄びすぎて死なせるなよ、()()は腐った肉なんか喜ばねえぞ」

「心配すんな」

 とデックは口元を歪め、()ばんだ歯を()き出しにして嗤う。

「加減は分かってるさ。せいぜい『旦那様』って泣き叫ぶくらいだ」

 そう言うと、デックは一歩前に踏み出した。


 その時、真昼の陽光(ようこう)がデックという兵士の顔を照らした。(あぶら)ぎった肌が鈍い光を放ち、その周囲には汗と革の匂いが混じり合った悪臭が漂う。肉の塊のような顔が不気味に歪み、影法師(かげぼうし)鉄格子(てつごうし)の壁を這うように伸びた。

 デックは剣を(くさり)に押し当て、わざと動作(どうさ)を遅らせる。荒っぽく金属をこすりつけるたびに、耳をつんざくような不快な音が響き渡った。

 アシャーの鼓膜を鋭く刺激する甲高(かんだか)い音に、周囲の兵士たちは何も気にせず笑い合っている。

 鎖を断ち切りながら、デックは後ろの兵士に話しかけた。


「マジでよ、ここの奴隷はどいつもこいつもつまんねぇな。おい、いつになったらマシな女を捕まえられるんだ?この前の村じゃ、ロクな獲物がいなかったぜ」

 すぐに別の兵士が相槌(あいづち)を打つ。

「贅沢言うなよ、デック。前回の黒髪の娘、なかなか可愛かったじゃねぇか。ただ泣き喚くのが鬱陶しかったけどよ」

「ふん、可愛けりゃいいってもんじゃねぇ。ちょっとくらい抵抗してくれなきゃ、張り合いがねぇだろ」

 デックは唇を歪めて鼻を鳴らした。


「まあいい。今度はこんなガキが手に入ったんだ。男だけど、根性はありそうだ。少しは楽しめるかもしれねぇな」

 そう言うと、デックは手に持った鎖を一気に引っ張った。

 アシャーの体が前のめりに倒れ、床に膝をつく。

 その瞬間、冷たい石の感触が膝頭(ひざがしら)から全身に伝わった。


「ハハハッ!」

 デックは高笑いしながら屈み込み、アシャーの顎を乱暴につかんで顔を上げさせた。指先は無遠慮(ぶえんりょ)に食い込み、痛みがじわりと広がる。

「おいおい、そんなにうつむくなよ。ほら、顔を見せてみろ」

 じっくりとアシャーの顔を眺め、デックは口の端を吊り上げる。

「チッ、思ったよりマシなツラしてるじゃねぇか。もうちょい肉がついてりゃ、いい値で売れたかもしれねぇな」

 周囲から小さな笑い声が漏れる中、アシャーは何も言わず、伏し目がちに視線を落とした。


 影に隠れるようにまぶたを閉じながら、わずかに目を細める。

 ――すばやくデックの体を見極めるように。


 腕の筋肉、腰の重心、そして最後に、露出した喉元へと目を向けた。

 そこには鎧の防御などなく、ただ薄い布が一枚かかっているだけだった。

 喉仏(のどぼとけ)が小さく上下する様子まで見て取れる。


「どうした、怖気づいたか?」

 デックが野太い笑いを響かせる。親指と人差し指でアーシャの顎を(わし)づかみにし、粗末な人形を扱うようにこじ上げた。

「泣きたいなら泣いてもいいぜ?ほら、『旦那様』って叫んでみろよ」


 だが、彼は気付いていない——陰で少年の筋肉が静かに緊張し、指の関節が白く浮かび上がっていることを。

 その右手に、小さな金属片(きんぞくへん)がしっかりと握られている。

 それはもともと狩猟刀(しゅりょうとう)の切っ先だった。

 村が襲撃された際、兵士たちに踏み潰され地面に散らばった破片の一つ。逃亡の最中、混乱に紛れてアシャーはこの一片を拾い、手のひらに隠し持っていた。

 たとえ意識を失った時も、その指は決して緩まなかった。掌は刃先に深く切り込まれ、血糊(ちのり)で固まりながらも、その小さな武器を握っていた。


 次の瞬間、デックは乱暴にアシャーを檻の外へと引きずり出した。切断された鎖が床を引きずられ、ジャラリと耳障りな音を響かせる。

 アシャーの足元がぐらつき、一瞬身体が前のめりになりかける。しかし彼は歯を食いしばり、なんとか踏みとどまった。

 その様子を見て、デックは薄笑いを浮かべながら、アシャーの襟首(えりくび)を掴んでさらに引き寄せた。まるで小動物の首根っこを掴むように。

 二人の顔が至近距離まで近づき、革鎧に染みついた汗と血の臭いが、アシャーの喉元にまとわりつく。


 デックは振り返り、ニヤリと笑って叫んだ。

「はやく鞭を持ってこい!」

 デックの鼻先まで引き寄せられても、アーシャは前髪の影に目を隠したまま俯いていた。視界の隅で、デックの喉仏が規則的に震えている。鎧の隙間から覗く皮膚の下に、青い血管(けっかん)が蠢くのが見える。


 (動脈の直径は0.12寸、表皮の厚さは0.03尺…)無意識に計算が走る。

 眼球が微細に震え、刃物のように焦点を絞る。

 硝子(がらす)のように澄んだ感覚が全身を満たす。鉄錆の匂い、鎖の軋み、(ちり)の舞う軌跡——全てが五感を研ぎ澄ます砥石となった。

 目に映るのは、デックの無防備な首だけ。

 足音が遠くから近づいてくる中、アーシャは足先を床で撫でるように滑らせ、膝関節(ひざかんせつ)の角度を調整する。筋肉の繊維(せんい)が静かに共鳴を始めた。

 視線はデックの喉に釘付けになり、わずかに前傾(ぜんけい)する。


 思考はただ一点に集中していく。

 目の前の男を、絶命させることだけに!


 ——ああ、もうすぐだ。

 ——こいつは、死ぬんだ。

 

 胸の奥に、黒い()()が込み上げるのを感じた。

 怒りも、悲しみも、すでに消え失せている。

 鼓動の加速(かいかん)が快感を増幅する。感情という雑音が消失し、殺意の波動だけが耳朶に響く。

 身体の虚脱感(きょだつかん)も、脳裏(のうり)に残る眩暈(めまい)も、すべてが無意味なものに変わった。

 ただ純粋な、血への渇望へと変わっていく。


 自分にとって、これが初めての()()であっても。


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