『憎悪の種』3「目の前の男を、絶命させることだけに!」
兵士はアシャーをじっと見つめ、目にかすかな驚きがよぎった。まるで、奴隷ごときが自分を真っ直ぐに見返すなど信じられない、とでも言いたげだった。
だが、次の瞬間には鼻で笑い、嘲り混じりの声で吐き捨てる。
「へぇ、その目つきはなかなか強気じゃねぇか」
彼は振り返りざまに仲間たちへ叫んだ。
「ムチを持ってこい!ガキに『歓迎式』をしてやるぜ」
外からは軽薄な笑い声が続く。
「デック、また始まったかよ。弄びすぎて死なせるなよ、将軍は腐った肉なんか喜ばねえぞ」
「心配すんな」
とデックは口元を歪め、黄ばんだ歯を剥き出しにして嗤う。
「加減は分かってるさ。せいぜい『旦那様』って泣き叫ぶくらいだ」
そう言うと、デックは一歩前に踏み出した。
その時、真昼の陽光がデックという兵士の顔を照らした。脂ぎった肌が鈍い光を放ち、その周囲には汗と革の匂いが混じり合った悪臭が漂う。肉の塊のような顔が不気味に歪み、影法師が鉄格子の壁を這うように伸びた。
デックは剣を鎖に押し当て、わざと動作を遅らせる。荒っぽく金属をこすりつけるたびに、耳をつんざくような不快な音が響き渡った。
アシャーの鼓膜を鋭く刺激する甲高い音に、周囲の兵士たちは何も気にせず笑い合っている。
鎖を断ち切りながら、デックは後ろの兵士に話しかけた。
「マジでよ、ここの奴隷はどいつもこいつもつまんねぇな。おい、いつになったらマシな女を捕まえられるんだ?この前の村じゃ、ロクな獲物がいなかったぜ」
すぐに別の兵士が相槌を打つ。
「贅沢言うなよ、デック。前回の黒髪の娘、なかなか可愛かったじゃねぇか。ただ泣き喚くのが鬱陶しかったけどよ」
「ふん、可愛けりゃいいってもんじゃねぇ。ちょっとくらい抵抗してくれなきゃ、張り合いがねぇだろ」
デックは唇を歪めて鼻を鳴らした。
「まあいい。今度はこんなガキが手に入ったんだ。男だけど、根性はありそうだ。少しは楽しめるかもしれねぇな」
そう言うと、デックは手に持った鎖を一気に引っ張った。
アシャーの体が前のめりに倒れ、床に膝をつく。
その瞬間、冷たい石の感触が膝頭から全身に伝わった。
「ハハハッ!」
デックは高笑いしながら屈み込み、アシャーの顎を乱暴につかんで顔を上げさせた。指先は無遠慮に食い込み、痛みがじわりと広がる。
「おいおい、そんなにうつむくなよ。ほら、顔を見せてみろ」
じっくりとアシャーの顔を眺め、デックは口の端を吊り上げる。
「チッ、思ったよりマシなツラしてるじゃねぇか。もうちょい肉がついてりゃ、いい値で売れたかもしれねぇな」
周囲から小さな笑い声が漏れる中、アシャーは何も言わず、伏し目がちに視線を落とした。
影に隠れるようにまぶたを閉じながら、わずかに目を細める。
――すばやくデックの体を見極めるように。
腕の筋肉、腰の重心、そして最後に、露出した喉元へと目を向けた。
そこには鎧の防御などなく、ただ薄い布が一枚かかっているだけだった。
喉仏が小さく上下する様子まで見て取れる。
「どうした、怖気づいたか?」
デックが野太い笑いを響かせる。親指と人差し指でアーシャの顎を鷲づかみにし、粗末な人形を扱うようにこじ上げた。
「泣きたいなら泣いてもいいぜ?ほら、『旦那様』って叫んでみろよ」
だが、彼は気付いていない——陰で少年の筋肉が静かに緊張し、指の関節が白く浮かび上がっていることを。
その右手に、小さな金属片がしっかりと握られている。
それはもともと狩猟刀の切っ先だった。
村が襲撃された際、兵士たちに踏み潰され地面に散らばった破片の一つ。逃亡の最中、混乱に紛れてアシャーはこの一片を拾い、手のひらに隠し持っていた。
たとえ意識を失った時も、その指は決して緩まなかった。掌は刃先に深く切り込まれ、血糊で固まりながらも、その小さな武器を握っていた。
次の瞬間、デックは乱暴にアシャーを檻の外へと引きずり出した。切断された鎖が床を引きずられ、ジャラリと耳障りな音を響かせる。
アシャーの足元がぐらつき、一瞬身体が前のめりになりかける。しかし彼は歯を食いしばり、なんとか踏みとどまった。
その様子を見て、デックは薄笑いを浮かべながら、アシャーの襟首を掴んでさらに引き寄せた。まるで小動物の首根っこを掴むように。
二人の顔が至近距離まで近づき、革鎧に染みついた汗と血の臭いが、アシャーの喉元にまとわりつく。
デックは振り返り、ニヤリと笑って叫んだ。
「はやく鞭を持ってこい!」
デックの鼻先まで引き寄せられても、アーシャは前髪の影に目を隠したまま俯いていた。視界の隅で、デックの喉仏が規則的に震えている。鎧の隙間から覗く皮膚の下に、青い血管が蠢くのが見える。
(動脈の直径は0.12寸、表皮の厚さは0.03尺…)無意識に計算が走る。
眼球が微細に震え、刃物のように焦点を絞る。
硝子のように澄んだ感覚が全身を満たす。鉄錆の匂い、鎖の軋み、塵の舞う軌跡——全てが五感を研ぎ澄ます砥石となった。
目に映るのは、デックの無防備な首だけ。
足音が遠くから近づいてくる中、アーシャは足先を床で撫でるように滑らせ、膝関節の角度を調整する。筋肉の繊維が静かに共鳴を始めた。
視線はデックの喉に釘付けになり、わずかに前傾する。
思考はただ一点に集中していく。
目の前の男を、絶命させることだけに!
——ああ、もうすぐだ。
——こいつは、死ぬんだ。
胸の奥に、黒い愉悦が込み上げるのを感じた。
怒りも、悲しみも、すでに消え失せている。
鼓動の加速が快感を増幅する。感情という雑音が消失し、殺意の波動だけが耳朶に響く。
身体の虚脱感も、脳裏に残る眩暈も、すべてが無意味なものに変わった。
ただ純粋な、血への渇望へと変わっていく。
自分にとって、これが初めての殺人であっても。