『憎悪の種』2「血に飢えた狼の帝国 」
——エテリア。
心の奥で、その名を呪った。
自分のすべてを、無惨に踏みにじった帝国の名を。
彼は小さな頃、大陸の西北端にある村で育った。
今は十歳になったが、記憶がある限り、父親や村の長老たちは南方帝国の脅威についてしばしば話していた。
彼らは、帝国の軍隊は冷酷で血に飢え、まるで狼や虎のようだと言った。山脈を越えれば、村はすぐに壊滅するだろうと。
しかし、安穏とした村人たちにとって、それは単なる気楽な会話の一部で、決して実際に起こることのない嵐のようなものだった。
エテリアの北に広がる山脈は、天然の屏障のようにそびえ立ち、帝国の鉄蹄を遮っていた。
村人たちは、この山脈が自分たちを守る最大の盾だと信じて疑わなかった。
近年、帝国軍が山脈を越え、村々を焼き討ちにし、住民を奴隷として売り飛ばすという話が伝わってきても、彼らはただ肩をすくめる。
「それは別の村の話だ、ここはまだ山脈から遠いから」
と、まったく気に留めなかった。
南方の脅威は、彼らにとっては遠い幻のような存在。
篝火の周りで子供を脅かす怪物のよう。
だが、その遥か彼方の幻影が、予想もしない速さで現実となった。
目を閉じると、朝の記憶が鮮やかに蘇る。
木のテーブルに並んだ焼きたてのパンと、山羊の乳の香り。
母は微笑みながら優しく自分の肩を叩き、「今日は川へ行って魚を捕まえよう」と言ってた。
しかし、その穏やかな日常は、遠くから立ち上る黒煙と断続的な断末魔の叫び声によって、一瞬にして打ち砕かれた。
父の姿が突然、戸口に現れる。歩みは慌ただしく、顔は青ざめ、額には冷や汗がにじんでいた。
「帝国軍だ!」
と、父は息を切らしながら叫び、その瞳には言葉にできぬ恐怖が宿っていた。
「早く隠れろ!」
アシャーはほとんど本能のままに戸外へ飛び出す。
村は、既に地獄と化していた。
朝靄の中で炎が舞い、人々の影が歪んで踊る。
エテリアの軍旗が風になびく下で、鎧を纏った帝国軍がまるで飢えた猛獣のように獲物を追い詰めていく。
村人たちは必死に抵抗した。狩猟用の短刀、鍛冶屋の金槌、農具を武器に変えて——だが、それは訓練された軍隊の刃の前では、藁束を振り回すようなものでしかなかった。
血しぶきが視界を染める。
父の狩猟刀が兵士の鎖骨に食い込んだ刹那、別の槍穂が父の胸郭を切り裂く。骨が軋む鈍い音。アシャーの喉から迸った叫びが、母の手に遮られた。
「逃げるのよ!」
母は慌てて彼の手を掴み、必死に逃げ出そうと試みる。しかし、帝国兵たちは瞬く間に二人を囲み、兵士の一人が長剣を振り上げ——
その刃は、容赦なく母の背中を貫いた。
それでも母は最後の力を振り絞り、アシャーを押しのけた。
アシャーは転がり、ただただ目の前で母の身体が傾き、血が泥と草原を染め上げる様を、無力に見つめる。
鉄臭い血の匂いが、鼻腔を焼く。
兵士の哄笑が耳朶に突き刺さる。
その瞬間、アシャーの心の奥で何かが千切れた。
指先が土に食い込み、涙の代わりに、憎悪が瞳孔を染め上げる。
母の犠牲は、何一つ希望を生み出さなかった。
兵士の一人が素早く駆け寄り、盾でアシャーの頭を強打した。暗転する視界の最後に焼き付いたのは、血まみれの軍靴で母の顔を踏みつける兵士の嗤いだった。
目覚めた時、そこは見知らぬ鉄格子の檻の中だった。
冷たい鉄柵だけが、アシャー・シンクレアの新しい世界の全てだった。
揺れるエテリアの軍旗が、憎しみという名の楔を心臓に打ち込む。
「……うっ、うぅ……」
ベスは再びひっそりと泣き始めた。
口を強く押さえられているため、かすかな、そしてか細い呻き声しか出せない。その音は、まるで命尽きようとしている小鹿の断末魔のようで、無力で可哀想だ。
——泣いて結局、野獣の餌食になる運命なんだろうな。
アシャーには、涙を流す気なんて微塵もなかった。
恐怖すら、一片も感じなかった。
代わりに、全身を支配したのは、深い憎悪だ。
まるで世界そのものが、凍てつくほどに冷たく感じられた。その冷気が彼を包み込み、全ての温もりを奪い去った。
拳を握り締める。爪が掌に食い込み、血が音もなく滲み出す。
だが痛みなど感じなかった。
まるで肉体が苦痛から完全に切り離されたかのように。
気を失っていた間に鉄鎖で擦り剥かれた手首から、血が滴り落ちる。冷たい地面に血の軌跡を描き、周りの泥濘と混ざり合っていった。
その瞬間、鉄の檻の外から耳障りな笑い声が響いた。
一人の奴隷、痩せこけた男が乱暴に引きずり出され、数人の兵士が鞭を振るい、面白がるように嬲っていた。
「ぎゃああっ!」
鞭が肉を裂くたび、胸を引き裂くような悲鳴が響き渡る。
アシャーは、地面で身をよじるその可哀想な村人を見つめていた。
ぼろ布と化した衣服の下から、血膿が泥と混じり合い、奇怪な模様を描く。地面を掻く指先は骨が露わになり、それでもなお、崩れた唇から漏れるのは「助けて」の形だけ。
村人は、立ち上がろうと必死に足掻くが、痙攣を繰り返しては何度も倒れ込む。
その瞳には、純然たる絶望が宿っていた。
その時、ひとりの兵士が鉄檻の前に歩み寄る。深紅の軍服をまとい、胸には煌めく分節式の胸当て、頭には赤い鬃をあしらった鋼の兜を被っている。
そいつは檻の中を見下ろし、歪んだ黄ばんだ歯を剥き出しにして嗤った。
「ゴミ共め……」
冷笑を浮かべながら言う。
「お前らも下に来て試してみるか?」
檻の中にいる数人は、まるで悪夢を見たかのように隅へ隅へと這いずり、恐怖に目を血走らせる。
だが、アシャーはゆっくりと顔を上げ、氷のような眼差しであの兵士を見据えた。
唇の端がわずかに歪み、地獄の底から響くような低声で囁く。
「いいだろう」