『浮島へ』 1 「自分はそんな人類を、心底から憎んでいる」
「昨日のあの赤毛の女、力が凄くてびっくりしたよ、テーブルをひっくり返しそうになったぜ!」
カストは二日酔いで顔がほんのり赤くなり、酒の匂いを漂わせながら言った。
「でも、あの女の叫びはロバの鳴き声よりもうるさかったな」
カストは昨日、ネロと話していたあの大男だ。
今では隊の中で「オオカミ」というあだ名がつけられ、体格が大きいからそう呼ばれているらしい。鎧はボロボロだが、腕の筋肉は盛り上がり、農作業をしていたことがよくわかる。
彼の話にすぐに笑い声が上がり、一人の痩せた兵士が相槌を打った。
「お前の小銭で、赤毛の女なんか見つけるわけねぇだろ? もしかして、その筋肉に目を付けたんじゃねぇか? 薪割りでも頼んでこい!」
カストは大笑いし、太い手でその男の背中を重く叩く。叩かれた男は、よろけて一歩踏み外した。
「何言ってんだ、これが男の魅力ってもんだろ! お前みたいな奴は、せいぜいボロボロの雌鳥でも釣れ!」
朝の空気の中で、汚れた冗談がやけに耳障りに響く。
ネロは少し離れた場所に立ち、思わず肩をすくめた。肩がまだ痛むようで、昨晩カストに叩かれた部分には青紫の痕が残っている。
これがアシャーの大隊――
ほとんどが遠方の地方から来た田舎者で、鎧は粗末に継ぎ接ぎされている。その傷みはひどく、多くの兵士の靴底には足の指が見えそうだ。彼らは疲れ切った表情を浮かべ、だらしなく立って、カストのように、昨夜の酒臭さを引きずりながら、大声で昨晩の馬鹿げた出来事を話している。
一方、エヴァンデ直属の部隊をすでに整然と列に並べている。
兵士たちの鎧は朝の光を受けて眩しく輝き、ヘルムの羽飾りは微風に揺れながらも真っ直ぐ立っている。それに対して、アシャーの大隊はまるで寄せ集めのようで、鎧は傷み、槍先は錆びついている者も多い
アシャーの冷たい視線が、隊列を一巡した。
その冷徹な目に見つめられた瞬間、カストは胸が締めつけられるような感覚に襲われ、思わず咳払いをして姿勢を正した。
――何だ、これは。
カストはすでに25歳の大人で、子供のころから畑で喧嘩をしてきた。自分は決して誰にも怯むことはないと自負している。
それでも――
目の前の大隊長は、聞くところによるとまだ18歳だ。
なのに、その目はまるで人の心を突き刺すような鋭さを持っている。
「本当に汚らわしい下賤の連中だ。」
エヴァンデは白馬に乗り、隊列の前に立ちながら、カストたちを一瞥した。その琥珀の瞳には、明らかな嫌悪が煌めいている。
隣に乗っている騎兵は、昨日赤いローブを拾い上げ、顔に傷を負った男だ。彼はわずかに目を伏せながら言った。
「あんな平民たちは、安物の女を争うことくらいしかできないです」
上流貴族の世界では、正式な結婚も不倫もほとんどが同じ社交圏内で行われる。平民は男女を問わず「汚らわしい下賤の人々」と見なされ、その品行や身体は汚れていると考えられている。階級を超えた接触は、家族の名誉や血統を汚す行為とされ、どんなに魅力的であろうとも、上流階級の貴族たちは自らの地位を守るため、平民との関わりを避ける。
エヴァンデは茶色の髪と金色の瞳を持ち、整った顔立ちで貴族の社交界において数々の色恋沙汰を呼び寄せてきた。彼のような貴族の男性は、決して女に困ることはなく、娼館には足を運ばない。
再び集結の号令が響き渡り、出発の時が訪れた。
アシャーは視線を戻し、低く命じる。
「前進!」
城門前に集まった市民たちは拍手と歓声を上げた。子どもたちは小さな旗を振り、婦人たちは通り沿いに花びらを撒きながら「マルセラス将軍」の名を叫んだ。
――たとえ、その有名な将軍がその場にいなくても。
エヴァンデは最前方で馬を駆り、隊伍を先導して進んだ。その顔には鉛色の陰が漂い、市民たちの叫び声が非常に不快そうだった。それに対して、アシャーの大隊の兵士たちは明るい笑顔を浮かべ、楽しげに市民の子供たちに手を振っていた。
祝砲と共に城門が轟音を立てて開かれる。
市民たちの歓声の中、エテリア第15軍団は城門を越え、進軍を始めた。
隊列が南へ向かうにつれて、広がる平原や田野の景色は次第に消え、代わりに、遠くにそびえる山脈と深い森が静かに視界に広がっていった。
鉄の蹄や馬車の轟音が響く中、重荷を負った骡の隊列が行き交っていた。鉄鍋やテント、乾燥した食料袋、さらには数えきれない武器の補給品が運ばれていく。後方の補給長は隊列の間を歩き、物資の運搬と隊列の整備を担当していた。
時折、数名の補助兵が長槍を手に警戒心を高め、周囲を見回して敵の襲撃がないか確認する。隊列の最後には、数人の奴隷が矢筒の箱を運ぶように命じられ、時折空を飛ぶ鳩がその上を横切った。
昼前、太陽が真上に高く昇り、空気は暑苦しい熱風に包まれ始める。
ネロは茶色い戦馬を引き、アシャーに向かって歩を進めた。元々偵察を担当していた騎兵が負傷し、任務を続けられなくなったため、ネロが急遽その役目を引き継いだ。
額からはじわりと薄い汗がにじみ出ていたが、ネロは暑さに一切文句を言うことなく、耐え続けていた。軍中で流れている噂によると、今回の浮島任務は非常に過酷だが、功績を挙げる絶好のチャンスでもあるという。
もし彼が十分に勇敢に振る舞えば、マルセラス将軍に謁見できるかもしれない!
「隊長、エテリア城には長く住んでいたんですか?」
ネロの声には強い好奇心が滲み、目にはきらきらとした輝きが宿っている。
彼は初めて帝国の首都に来たばかりで、この街のすべてが新鮮で魅力的に感じていた。
「隊のみんなから聞いたんだけど、エテリア城には三大名所があるらしいよ——酒場、賭場、そして娼館。あそこに行けば、どんな悩みも忘れて、今まで味わったことのないような快楽を感じられるって!」
アシャーは、馬を進めながら何も答えなかった。
しかし、ネロはその無反応を気にすることなく、一人で話し続けた。
「カストが昨晩行った場所、確か『アイリス』という娼館らしいんだ。酒場通りの裏にあるんだけど、隊長、その場所を知ってますか?」
ネロは興味津々で尋ねた。
アシャーは少年を一瞥し、冷たく反問した。「お前、行きたいのか?」
ネロは頷いた。
「父親が言ってたんだ、これを越えれば真の男だって。エテリアの女の子たちは田舎の子よりずっときれいだし、俺、まだ女を味わったことがないんだ」
ここまで話すと、ネロは頭を垂れた。「でも…お金が足りないんだ。」
少年はため息をついてから、再び口を開いた。
「アイリスの女たちは安くない。少なくとも数枚の銅貨が必要そうだ。
そんな金があれば、むしろ短剣一本を買いたいと思うけどな」
少し間を置いてから、彼はアシャーを再び見つめた。まるで無愛想な隊長から、少しでも経験を得たいと望んでいるかのようだ。
「隊長、あそこに行ったことがありますか?本当に面白いんですか?」
アシャーは黙ったままで、翠の瞳は微動だにせず、無表情だった。
ネロがもう答えを得られないと思ったその時、突然、低い声が響いてきた。
「同じだ」
――なんだって?
ネロはその意味が分からず、しばらくぼんやりと立ち尽くしている。
しかし、隊長はそれ以上何も言わず、冷徹な目線を前方に向けたままだった。
その『アイリス』という場所、アシャーは確かに行ったことがあった。
あの時、マルセラスの任務を遂行していて、密書をある鉱石商人に渡さなければならなかった。
そして、最終的にその太った商人をあの場所で見つけた。
その場所では、女性たちが華やかな衣装を身にまとい、胸元を大胆に露わにしたドレスで笑顔を浮かべ、入口で客を迎えていた。彼は、夜営に帰る兵士たちがこうした場所について語り合うのを何度も耳にしたことがあった。あいつらは、女たちがどのように己の下で甘い喘ぎ声を上げるか、興奮した口調で話し合っていた。
だが、その場所に足を踏み入れたとき、彼が見たのは、ただの肉体の寄り集まりしかなかった。
女たちは表面上、陶酔した表情を作り続けているが、その瞳の奥には深い空虚が宿っていた。
――その魂はすでに死んでいる。
残されたのは、機械的に働く肉体のみだった。
その鉱石商人の薄暗い部屋の中で、アシャーは、その下に押しつぶされた女性の目を見た。
彼女の瞳には、一切の生気がなかった。
すべての感情を放棄したような目だった。
人間が言う「楽園」と呼ばれるその場所は、アシャーの目には骨だらけの荒れ果てた戦場と何ら変わりがないように映った。
――どこに行っても、結局は同じだ。
強者は弱者を喰らい、その骨で玉座を築く。 いわゆる「愉悦」や「快楽」の裏には、必ず他者の絶望と泣き声がついて回る。
貴族と平民、主人と奴隷、男と女……
人間が存在する限り、こうした残酷な争いは終わることなく繰り返される。
自分はそんな人類を、心底から憎んでいる。