私はここが突っ込みたい❗
読んで戴けたら嬉しいです。
今回は前々から思っていた宗教の、これどう見てもおかしいだろ、と思う処を突っ込んで行きたいな、って思います。
まずは神社。
神のやしろと書くのだから、とても神聖な場所。
の筈なのに、私の住んでいる街に一つしかない小さな山にある神社の林には丑三つ時参りの藁人形が木に打ち付けてあります。
神聖な場所でしょ❔❗
なんでそんな負のパワーが発信できるの❔
てか神聖な場所で、なんでそんな邪悪な事しようと思うの❔
そうゆう負のパワーが発せるイメージが、なんで持たれちゃうの❔
ちょっと前に観たYouTubeの動画に神社が心霊スポットになってる処が在ったんですよね。
神聖な場所には邪なものは近付けないものなんじゃないんですか❔
つか邪なものを良いものに変えるとか、そうゆう力があるものなんじゃないですか❔
次にお稲荷さんや動物を崇めた神社。
動物でしょ。
自分が生きて行くのに精一杯の動物に人間なんてどうでもいいのでは❔
動物が縁もゆかりもない人間を守るって、もはや発想がファンタジー。
ヒエラルキーの頂点に居る人間が、何が哀しくて動物に帰命しなければならないのでしょう❔
だいいち動物に帰命したら生命そのものが動物的になるのではないでしょうか。
これを言うのには根拠があります。
余談ですが、日蓮正宗の総本山富士大石寺へ行くとよく聞いたのが憑き物の話。
蛇や狐、犬などに憑かれていてご本人知らないで富士大石寺に行くとその正体が現れて、蛇に憑かれている人はにょろにょろと蛇のようにそこいら辺を這い回り、狐に憑かれた人は目がつり上がって握った手でおいでおいですると云う現象が起きます。
本人は自分がおかしな事をしているのに気付いてないんですよね。
先祖がそうした動物を拝んでいる場合、憑き物は生命力の弱い優しい性格をした子孫に憑くらしいです。
因みに富士大石寺で動物の正体が出ると、憑き物は切れてなんでも無くなります。
だから動物を拝むのは危険なんですよ。
神だから宗教だからと言って何にでも手を合わせとけばいいと思うのは、とても危険な考え方なんです。
次は弘法大師(空海)と達磨大師。
弘法大師は言わずと知れた真言宗の開祖。
達磨大師は、禅宗の初祖。
二人ともただの人間ですね。
決して仏として生まれた訳でも無く、仏の予言で難を受けた訳でも無い。
仏教を志して釈迦の教えに辿り着かず、仏差し置いてなんで悟り開いちゃうかな。
私、これって究極の思い上がり野郎だと思う訳ですよ。
釈迦が仏として出現している事は知っていた筈なんですよ。
迷いと煩悩にまみれた人間がどんな過酷な修行したところで仏にはなれません。
ただの人間が仏の説いた法のように人間の生命に刻まれた業を切り、運命を変えて倖せへと導く事ができるのでしょうかね。
その辺で、仏舐めてんのかお前は、って感じです。
仏を差し置いて、なんの為に開宗しなければならなかったんでしょうね。
その辺りでもう煩悩にまみれている気がします。
次はキリスト教ですが、突っ込み処満載で、もう何処から突っ込んでいいのやら。笑
私から見るとキリスト教は非現実過ぎてまるで架空のファンタジーです。
まず、とにかく天地創造した神の影薄っ❗❗
皆さん知っていますか、キリスト教の神の名前はヤハウェって言うんですよ。
あんまり影薄いから、私最近まで知りませんでしたよ。笑
そして祭壇に飾られてるのはヤハウェじゃ無く十字架に磔にされたキリスト、ヤハウェここでも影が薄い。
キリストは誕生から磔にされるまで行動が明らかにされているのに対して、ヤハウェは何処から来て何処に行ったのか全く知られていない。
神が天地創造する前は、その神は何処に居たのだろうと思いませんか❔
一切の空間も環境も存在していないなら、神も存在していない事になるのではないでしょうか。
聖書の記述から天地創造の時期を算出すると西暦の紀元前3,761年、今から五千八百年前になるそうですよ。
因みに地球は既に四十六億年前に誕生し、一万年前には人類が農耕を始めていたそうな。
後、キリストが全人類の原罪を背負って十字架にかけられたのなら、あらゆる人々の罪は消滅している筈。
なのに今この時代になっても未だ人々の苦しみは無くなっていませんね。
終末に総ての死者が復活(ゾンビですか❔)して「最後の審判」(ターミネーター❗)を受けて永遠の倖福が与えられると言われていますが、私は一回死んでからなんて嫌なので、現世で倖せになりたいです。
読んで戴き有り難うございます。
どれくらいの人が叩きに来てくれるなかあ。
楽しみです。