蛇とバナナ
「バタフライエフェクト。蝶の羽ばたきのような、ほんの少しの出来事が未来に大きく変わること」
散りそうな声。
蒼銀の声。
「今君が僕とこうして毎回会ってくれていることは僕に毎回そのバタフライエフェクト以上の影響を与えていると思わないかい?」
病室のベットに横たわる彼は青い蝶の書かれた小説本を目の前に、三本足の丸椅子に座って横につく俺にそう言った。
俺は黙して、否定も肯定もしなかった。
胸の内には失意が渦巻いていた。
彼の青白く不健康を象徴する肌は年々と白さを増していく。彼の繋がれている点滴も外れたところは久しく見ていない。
こうやって面会に来ても俺は彼を励ますどころか、逆に無力な俺を非力な彼に励まされてすらいた。本末転倒極まれり、弁明の余地もないが、それでも俺は俺と彼のために毎日このサナトリウムまで引きづられるほかなかった。
「沈黙は肯定と受け取るよ。君は何かしたいこと、いいたいことがあるときほど黙りがちで僕としてはその内面を当てるのがとても楽しかったな」
病人は静かに笑って俺の伏目がちな頭を撫でようと手を伸ばした。
ギリギリ届かない彼の細腕に代わって、頭をもたげるように差し出す。
力ない手がぎこちなく俺の髪に触れた。
「最近こんなことを考えるんだ。もし、聖書にでてくる知恵の実がリンゴじゃなくて、バナナだったらどうだったのだろうか、ってね」
「くだらないと笑うかも……いや、君は笑わないで傾聴してくれるね。昼は君が来てくれるから楽しいが、夜にはこの病院は海のように沈む。寝るまでの間はそういうことをしたたかに妄想するほかないんだよ」
聖書にでてくる知恵の実は厳密には諸説あってリンゴではないらしいが、病床から出たことのない病人にとってはリンゴだったんだろう。
よくお見舞いに送られてきていたリンゴ。
もし、バナナだったら、か。
そんなこと考えもしなかった。ずっと彼のことばかりを、心配ばかりでそんな馬鹿げたことを考える暇すらなかった。
ふと、顔を上げて病人の方を見る。
その真剣さは常に一本の針金、或いは煌々と燃ゆる聖火のようであった。
そんな意志のある病人のことを一片でも嘲笑するものは例え自分でも許せなかった。無意識ならばなおのこと。
あぁ、馬鹿げたこと、などとはこの病人を前にしては考えることすら罪悪を呼ぶものだ。
改めて俺は自分の深慮の足りなさに落ち度を感じた。
「そうだね、まずバナナとリンゴじゃ、形状も味も色も生産地も違う。だから多くの影響を及ぼしただろうと思う。もしかしたらニュートンが万有引力を見つける原因がリンゴじゃなくてバナナになったかもしれないでしょ?」
それはあまり関係ない気がする。
本人も、くすりと微笑んでいた。
もし、バナナが知恵の実だったらアフリカ大陸の国々は今の先進国と同じくらいのテクノロジーを手に入れていたのだろうか。本当に知恵が入るわけじゃないにしろ、プラシーボ効果くらいはあったかもしれない。アフリカに聖地ができたり、南半球が世界の基準に成ったりしたのだろうか。
いや、そもそも。
知恵の実を食べる前はアダムもイブも知恵がなかった。ならばバナナを剥いて食べるなどできないのではないだろうか。そしたら必然的に知恵の実なんて食べなかったのかもしれない。
永遠に楽園で神とともに幸せを享受できたかもしれない。
そうだったのなら、眼前にいるこの病人がこのようにやせ細りながら死んでいく病にかかることも、なかったのかもしれない。
馬鹿げたことが、真剣ごとに俺の中でも変わっていく。誰かに幼稚、稚拙ここに目新しく、と言われようともどうせこの世界はここサナトリウムの一室のみ、俺と彼との静謐な円の中にしかあるまい。
そこに比較はない。性差はない。
ある意味で最も競争のない楽園である。
喧々諤々な社会から孤立した俺にとってはこの想像が更に彼との世界を繋げる鍵だろう。
だから、俺は彼について考える。
彼の考えることも考える。
ついぞ一つに纏まるために。
「色々と思案している顔だね。君はもともと想像力豊かな方だから、君の意見を聞きたいな。今じゃないよ? 今日帰ってからまた次に来た時にどういう世界ができるのか、どういう可能性があるのか、君の想い描く物語として聞きたい」
蛇のように鋭い視線。
その眼にゾクリとする。決して殺意でもなければ、敵意でもない。ただそれは帰れという合図。
円を仕切るのは彼だ、ここは彼が神として扱われる場所。結局俺がここに入園できているわけでは無い。その招待なくして俺に信仰の扉は開かれない。
合図の裏には危険信号だ。けれども、俺に彼はその病態の進行を見せたくないかのように突き放す。病人の病人らしいところを俺に知られたくない。
例え俺に打ち明けたとしても俺がただ困惑し、慌てふためいて、潮にさらわれる蟹のようにひっくり返るだけだと彼は知っているのだろう。
俺は彼の手を握った。
俺は孤独を癒やそうと愛した。
「また、会いに来るから」
「……約束だよ」
彼は呪いの言葉を吐くようにそう言った。
約束だ。
だが、彼は次に会うよりも先に死んだ。
あの直後に容態が悪化し、そのまま帰らぬ人となったらしい。
訃報を聞いたのは彼に言われて書いた「物語」の始まりを彼に精査してもらおうとサナトリウムへ足を運んだ時であった。
「残念ですが、先日そこの病床の方は緊急手術中にお亡くなりになられて……遺品も既にご遺族の方が持って帰られてしまいました」
頭の中にあった未来が一気に瓦解した気がした。
だが、それでも、なんとなく予想はしていたのかもしれない。
看護師から吐き出された訃報は淡白に感じられた。もっと喉奥に突き刺さり、拷問に近い痛みを覚えるものだと思ったが、聞いた程度では何も実感しなかった。
実感はなくとも、勘の鈍い脳に比べて、身体の表面は脂汗がブワッと出ていた。
「あ……」
病床を目の前にする。
欠けた空間。
そこにあるはずの姿がないだけで、人はとてつもない恐怖と絶望をこうも叩き込まれるのか。
脊髄に連なる骨々が螺旋に回転しながら抜け落ちるように、ベッドの縁に脱力して座り込むしかなかった。
窓から昼の青。
「君に見せたかった物語が日の目を見ても、君の眼に見られないのなら、どこにも届かない」
斜めに掛けたカバンの中から原稿の束を持ち上げる。
立ち上がり、窓を開くと人知れず鼻腔を蝕んでいた薬品の匂いが過ぎ去っていく。
死臭なき死の静寂が鳥のさえずりによって掻き消されてく。
病苦との戦跡も入り込んできた新鮮な空気によって浄化される。
さぁ、後はその価値ない紙の羽を風に乗せて散らすだけだ。
妖精はそうやって耳うつ。
俺は涙を流して、少し前に出て彼の顔を上空に見えるまだらの雲の中に想起した。
「それは僕のものだ。例え作者とて僕の物語を窓から投げ捨てるなんて許さないよ」
懐かしき幻想が現実を悪戯に告げる妖精を喰らって、耳の中に這いずってくる。
眼を舐ってくる。
振り返れば、死の楔が投錨されたように寝そべり、胸の上で手を死人のように組んだ彼がいた。
五体満足、点滴の針に貫かれていない蜘蛛の巣ですら支えられそうなほど軽そうな彼。
或いはいるように見えたのか。
「君との約束を守るために、死んでも死にきれなかった。とでも言おうかな」
「嘘だ……君は、もう」
ガラス細工にハンマーを振りかざすような言葉が寸出るところで閉ざされる。
微睡みの雲、気の迷いの須臾、明滅する星座、それらに匹敵する朧気を自分の言葉で手折るなどできるわけがなかった。
塩気に染みる心が熱く濡れる。
サナトリウムから過ぎ去ったはずの病魔の匂いが甘く立ち込めたよう。
彼の顔は昨日見た時と同じように穏やかであった。
「嘘かもしれない、一時の君の狂気かもしれない。けれど、どのみち僕は君を心から思ってることに変わらない。それは君の世界でも、僕の世界でも」
祈り手を崩して彼はいつの間にか僕の書いた『物語』をその手に宿していた。
幻想に献花するべき有りえざる鏡面奥世界。
「僕の世界の終焉には君しかいなかった。けれど、君の世界の通過地点に僕は要る。さぁ、小説家今日はどんな話を聞かせてくれるの?」
蛇のような眼が俺を見据える。
その眼は俺の罪悪感に漬け込むように、溶けた水のように心の奥に染みてくる。
手にした原稿がひらりひらりと舞う。この物語は本当の意味で献上されたのだろうか、それともこの幻想すら自ずから満足しようとする自慰に耽るがごとき死者への冒涜なのか。
あぁ、寝そべる彼の髪に指を繰れば、その透き通るような指通りに魅了される。
彼の一瞥すら向けないその集中した眼に恋い焦がれる。
俺は小説家。
彼は患者。
その関係性は死してなお、現実を侵食してまで崩れない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
もし誰かが死ぬ現実が、幻想だとして、それを誰が咎めるだろうか。
人の死が嘘ならば、それを忌む人こそ居れども、弾劾する資格を持つものはなし。
あぁ、そして、もし誰かが死ぬ幻想を描く者いるならば、それを咎めることができるものは唯一、そのものを愛するものだろう。
サナトリウムの一室。
未だ死んでいなかった病人が彼に語り聞かせる。
「――という物語だ。つまり、だ。僕はやはり病人としてこの病院で殉教するが、君は小説家となり、僕の満足に足る小説を書き続ける。けれども、その僕は君の失った正気を埋め立てる心の闇が生み出した幻覚なんだよ」
嬉々として語る彼は本物だ。
死んでない生きてる人間が病床に乗って、物語をつらつらと口ずさむ。
「それは面白そうだ。君のすぐに話を考え付く能力は喜劇作家のようで素晴らしく思うよ。けれど君が死んでしまうのはどういう意味合いがあるのか」
白衣に身を包んだ男――精神科医はいつものようにバインダーの上に挟んだルーズリーフに彼の物語る物語を代筆して綴る。
病人に見えている世界は『病人』と『彼』との『サナトリウムの一室』だけだ。それ以外の現実はテクスチャが入れ替えられている。『彼』のテクスチャが貼られた医者を、医者として認識することはない。
彼がもしもの話を好むように、精神世界は上辺を幻想で裏打たれてしまっている。
「僕はどうせ、結核で死んでしまうからね。そこで君との約束を守れずに病人である僕が死に、幻覚となることで、僕は完全に君の世界で生きられる。理想の人の中で死に、生き続けられるのはなんて幸福だろうか!」
笑いながら死を確信する姿は幾度と精神錯乱を見てきた医者の眼からも独特で無機質な神経をしているように見えた。悪戯な暴論ではあるが、病人には最早生も、死も、実在も、消滅も、境界のない都合の良い理論へと変形してしまっている。
点滴が付けられて痛々しくは見えるが、それは決して彼の言う結核を治すためではなく、ただの栄養剤だ。それでも彼の世界ではそれは『結核に効くカンフル剤』として彩られている。
最早その役割は経口摂取を極力拒む患者を活かすための生命線であり、患者を自由に行動させないための縛り縄ですらあった。
「君が勝ち取る幸福がないのは僕としては……俺としては寂しくてたまらないよ」
「そう言わないで、愛すべきカストロ。僕は君の中で永遠に妖精のように棲んでいたいんだ」
「君は妖精には成れないんだ、星座にも雲にも。だから、もう人に縋るのはやめて一人で立ち上がらないといけないよ。君の両足は長いこと在りもしない病魔に侵されたフリをして、止まっていたけど、もうしばらくしたら火を点けてでも走り出さないといけないさ。走りださないと、いい加減君の物語も本当の意味で始まらない」
医者は病人の頭を撫でながら、本当に心配そうな声音でそう言った。
彼の夢は覚めることはない。
胡蝶の夢を彷徨うがごとき病人にとってはどちらが現実で、どちらが幻かは察するにあまりない。
夢に生きる人間を現実で生かすのは何とも難しい。
「聞こえないよ……僕は誰かのために希望を遺したい。誰かの傷になりたい……あぁ、けれど、眠くて仕方ないのもある……今日はもうお開きにしよう。夜の帳は降りずとも、天蓋から幕は下りる」
微睡み始めたのは医者の指摘が精神に作用したせいか、その言葉だけを残すとパタリと電池が切れたブリキの人形のように稼働を停止した。
生きようとしない意思を無視して、動き続ける心肺が活動を安定させるだけで医者を安心させる。 寝顔は天使のようでも、言動は死者のよう。
さぁ、この蛇が『リンゴ』と『バナナ』をすり替えるイフから覚めるのは何時になることか。
外のきらめきを受けて、蝶の鱗粉が降りかかったように、点々と光り輝く患者を診て医者は嘆息した。
「羽を奪われ、手足を捥がれた蛇の見る夢。愛されることがないように愛そうか、君の想像力に終焉あれ」
幻夢は未だ……
現実は未だ……